アダム・スミス「道徳感情論」、あるいは「共感・共創」の古典

やっと2013年になって、はじめてこなれた日本語訳のバージョンが講談社学術文庫から出てきた。訳者は、「ヴェブレン研究」、「有閑階級の論理」で著名な高哲男。

「道徳感情論」は、英語ではとっくにThe Theory of Moral Sentiments 6th edition. 1790としてテキストが公開されている。

奇特な人は両者を比べながら読んでみるのもいいだろう。

 アダムスミスといえば、言わずもがなの「国富論」。その精緻な重商主義批判の中で、「経済人」なる人間像がモデルとして規定あるいはプランされ、リカード、そしてマルクスにまで継承された労働価値説、搾取理論とともに、古典派経済学の金字塔。

アダム・スミスの読者は、彼が活躍した英国や西洋よりも、日本のほうが多いといわれている。(「世界の名著アダム・スミス」、大河内一男)

 アダムスミスは、世界にその名を知らしめた大著「国富論」より、断然「道徳感情論」のほうに著者としての深い思い入れがあったことは、ほとんど知られていない。

その決定的な証拠が上のスミスの墓碑だ。死を前にしてアダムスミス自らが刻印するように依頼した墓誌には、上の実物写真のように、「道徳感情論」(上)と「国富論」(下)の著者、アダムスミスと刻まれている。死の床についてからも、「道徳感情論」の新しい版の出版に向け、原稿に手を入れていたという。

これまでの「道徳感情論」、もっとも昔は、ピントはずれながらも「道徳情操論」なんて訳本が主流だったのだが、訓古学的な左翼人士による翻訳だったせいもあり、やたらゴツゴツした鋭角的な「左翼用語」が多用され、読みにくいのなんの。大手をふってマルクスを読めなかった左翼弾圧の時代に、マルクスの源流にあたる書籍として隠れて読まれてきたという時代的な背景がそこにはある。

なぜ、2014年の今日、「道徳感情論」なのか?

たぶん、「共感」ではないだろうか?

マーケティング、サービス・サイエンス、デザイン、ソーシャル・イノベーション、地域イノベーション、経営(学)、システム思考。こういった世界で、価値共創(value co-creation)や共感(sympathy)が熱く語られる昨今だ。

こんな時代状況を予見してか、この本は、なんと、本論劈頭から共感=sympathyをまな板の上に乗せ見事な叙述をこれでもか、これでもかというくらい続ける。

スミスによれば、あがないきれない「激情」の放流にも流されやすい個人ではあるが、そうした「共感」する力を持つことによって社会は社会としての「まとまり」を保持できる。

「みえざる手」が、まったく機能しない単なる虚構に換骨奪胎され、自己の利益を貪欲に追求する市場競争のなかで仮説された経済人の限界。

国家までをも凌駕する貪欲金融資本主義の暴走。

市場によって包摂されることなく排除されてしまう個人。

だれもが感じている、この絶望、矛盾・・・。

だから、スミスの墓碑に彫られているように、「国富論>道徳感情論」ではなく、逆の、「道徳感情論>国富論」。

たぶん、神学者(かなり理神論に寄っていた)、哲学者としてのアイデンティティを大切にしたスミスは、天国で、「道徳感情論」の日本語新訳版を横目で見ながらニヤリとしているのかも知れない。

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました