第4講:古代日本の知恵袋、渡来氏族「秦氏」の摩訶不思議

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 前回に続き、厩戸皇子(聖徳太子)の時代までさかのぼって、歴史をひもときつつ、そこから様々なインテリジェンス活動、すなわち、「個人、企業、国家の 方針、意思決定、将来に影響を及ぼす多様なデータ、情報、知識を収集、分析、管理し、活用する」活動を読みとってみたい。

 厩戸皇子の知恵袋的存在として、秦河勝(はたのかわかつ)をとりあげる。秦氏一族の動きには古代のインテリジェンス活動が凝縮されているからだ。秦氏は ユーラシア大陸のかなり奥まった地域の出身で、朝鮮半島を経由してやってきた渡来系氏族である。秦氏は6世紀頃から断続的に朝鮮半島を経由して日本列島の 倭国へ渡来してきた。鉱山技術、鍛冶技術、養蚕、機織、酒造などの最先端テクノロジーを倭国に伝播させた氏族だ。

 秦河勝は、その際立った技術経営力、人材機動力、財力、国際的知識を駆使し、厩戸皇子のブレーンとして大活躍した。厩戸皇子は、当時の微妙な外交、地政 学的ニュアンスを熟知していた秦河勝から、儒教、仏教のみならず中東系諸宗教、律令制といった当時の知のワールド・スタンダードのみならず、国際政治、通 商、パワーポリティクスの機微を徹底的に学んだのである。

 

秦氏と八幡神社の関係

 秦氏は、九州北部の宇佐八幡神社がある地域を拠点にして、山城(現在の京都)さらには全国に広がっていった。秦氏に関する史料は全国に散らばっている が、特に、九州北部の宇佐地域や、山城地方に多くの史料が残されている。例えば山城地方にある太秦(うずまさ)がその名のとおり秦氏の一大拠点だった。

 八幡神社といえば、稲荷とならんで日本でもっとも馴染みの深い神社の一つだ。はちまんさま、やはたさまを祀る八幡社、八幡宮、若宮神社などを含めると、 全国津々浦々、街中、田舎を含めてその数は全国で1万4800社(神社庁公表)となる。読者の皆様も近所を見渡せば、どこか近くに八幡様が鎮座しているの ではないだろうか。その八幡神社は、もともとは秦氏のカミさまを祀る神社である。そのカミさまがどこから来たのか、なにものなのか、についてミステリーが ある。

 秦氏は新羅を経て渡来したとされる。これについては、いくつか根拠がある。秦氏が多く住んでいたとされる地域から発掘された瓦は新羅系のものが圧倒的に 多い。また秦氏の氏寺、「広隆寺」にある国宝第一号の「弥勒菩薩半迦思惟像」は、朝鮮半島の新羅地区で出土した弥勒菩薩半迦思惟像に酷似している。しかも 広隆寺の仏像の材料である赤松は、新羅領域の赤松であることが判明している。

 

秦一族は古代の技術経営スーパーエリート

 秦氏が得意とした鍛冶とは、木、火、土、水、金を制御するテクノロジーであり、古代日本にとっては奇跡にも近いワザだった。ちなみに、木、火、土、水、 金(もっかどすいきん)の五行をもって宇宙の構成要素とする。土着人から見れば、鍛冶とは自然をあやつり、そこから光り輝く銅や鉄を生み出す神秘の所業で もあった。

 九州北部・近畿の銅山とその麓に展開された銅を生産する場のマネジメントは、秦氏および関連の一族によってなされたものと考えられる。火と日を知るもの をヒジリ(聖)という。火を制御する鳥が鍛冶シャーマンのシンボルであり、秦氏の場合、神の鳥のシンボルは「鷹」だった。

 秦氏は、鍛冶の技術をよく営み、金属器をよく鋳造したので、必然的にシャーマン的色彩を帯びている。古代において技術者は祭祀者でもあった。つまり、も のづくりとは、自然に働きかけ、そこから神秘に満ちたモノやコトを生み出す神聖な所作であった。ものづくりの原風景が秦氏界隈には沢山ある。

 秦氏は日本に養蚕、機織の技術をもたらした一族でもある。ハタは機に通じている。蚕を飼い、その蚕がつくる繭から生糸を紡ぎだし、あでやかな絹織物に仕 立て上げる。艶やかに絹で織られた着物を着る人々は羨望の目で眺められたことであろう。ちなみにサンスクリットでハタは「絹の布」をさす。

 秦氏のハタは畑作にも通じている。秦氏によって、養蚕に加え、先進的な開墾技術、畑作技術、土木技術が導入された。平安京遷都の際に、山瀬の国あたりに 領地を持っていた秦氏は、新都計画、建設にあたり、桓武天皇の政権に莫大な貢献をしている。都市計画、古代のシビル・エンジニアリングに通暁し、財力豊富 な秦氏がいなければ平安京もありえなかった。周知の通り、平安京は長安を模してデザインされた。その都市計画のグランドデザインにおいても、秦氏は決定的 に重要な役割を果たしている。

 秦氏のハタは旗にも通じている。古来、多数の「秦氏」が住む場所には、一族の目印として旗(秦)を立てる習慣があった。日本人は現在でも旗を掲げたり、振ったりするのが大好きだ。八幡さまには今でもよく旗が立っている。

 秦氏一族は蘇我氏や物部氏のように政治権力を掌握する意図は無かったようだ。あくまでも、時の勢力に反抗することなく、むしろ柔軟に対応しリアリストと して生きるという姿勢をとった。圧倒的な技術、技術経営力を保持する集団は、権力から重宝されるのが世の常だ。さらに秦氏は、時の勢力に柔軟に対応するた めに高度なインテリジェンスを駆使したと思われる。

 

秦氏周辺の奇説珍説

 秦氏の周りには神秘の香があり、その周辺には奇説や珍説が生まれている。その一つが、秦氏はユダヤ人景教徒であったというものだ。

 景教とは、原始キリスト教の流れをくむ東方キリスト教のひとつである。その研究者で早稲田大学名誉教授、東京文理科大学学長を歴任した歴史民俗学者・言 語学者の佐伯好郎博士(1871-1965)は、「秦氏は『資治通鑑』(11世紀の中国の史書)に出てくる弓月王国の末裔であり、その秦氏が古代日本に初 期のキリスト教をもたらした」と主張した。

 佐伯は私見として、うづまさ(太秦)、すなわち秦氏の拠点について次のように述べる。

 

 「うづ」は“Ishu”即ち“Jesus”又、「まさ」は“Messiah”の転訛語に外ならぬものである。それは、アラマイク語及びセミチック語の“イエス・メシア”Jesus the messiah の転訛語に外ならぬ。

 ユダヤ教のラビ(教師)、マーヴィン・トケイヤー氏(1936-)も、「秦氏ユダヤ人景教徒」説を支持している。トケイヤー氏は、以下をその根拠としてあげている。

・モリヤ山でのアブラハムによるイサク奉献に酷似した祭「御頭祭(おんとうさい)」が信州の諏訪大社に古来伝わっている
・イスラエルの契約の箱と神輿の類似性
・イスラエルの祭司の服装と神社の神主の服装の類似性
・古代イスラエルの風習と神主のお祓いの仕草の類似性
・イスラエルの幕屋の構造と神社の構造の類似性

 これらの根拠をあげたトケイヤー氏は、秦氏はユダヤ系であり、日本人の先祖の一部はシルクロードを経て渡来したイスラエルの「失われた十支族」の末裔だ、と論じている。

 イスラエル国防軍のヨセフ・アイデルバーグ陸軍少佐はさらに珍奇なことを説く。秦一族がもともと住んでいた「弓月国」のあった場所は、中央アジアの天山 山脈の麓であり、その付近は「ヤマトゥ」という名前である。ヤマト、すなわち倭であり大和という名称は、秦一族が故郷を偲んで命名させた、というのであ る。

 この説は、日本人の先祖はユダヤ人であり、旧約聖書に登場する「失われた十支族」の末裔だなどとする「日ユ同祖説」を根拠付けることに情熱を傾ける人々からも支持されている。

 仮にこれらが真実であるのならば、フランシスコ・ザビエルよりもさらに遡ることおよそ1000年以上も前に原始キリスト教徒、ユダヤ教徒が日本にやって 来たことになる。この教徒は、ユダヤ教に近い原始キリスト教を信じ、しかもユダヤ人であった可能性が高いという。つまり、ヨーロッパに伝播して独自の発展 を遂げたローマ・カソリックやプロテスタントというヨーロッパ型の白人キリスト教とは異質のものである。

 ゴルゴタにて磔にされたキリストはキリストの弟・イスキリであって、本物のキリストは密かに日本に渡り天寿を全うして亡くなったという伝説が青森県三戸 郡新郷村戸来に伝えられている。2004年(平成16年)6月6日のキリスト祭においてイスラエル在日大使館一等書記官が「キリストの墓」を訪れ、イスラ エルストーンを寄贈している。イスラエル国家はこの伝説を肯定しているのである。

 ただし、こうした「日ユ同祖説」には影の部分があるということに注意を要する。「日ユ同祖説」に固執、執着して、荒唐無稽な論理を無理に日本に押しつけて利益を得ようとする勢力にも注意を要する。

 秦氏をとりまく謎は、文献史実や状況証拠に頼る従来の歴史学、民族学では解けない。日本史において第一級の史料には間違いないが、古事記、日本書紀とて政治的な意図、思惑で書かれており、書いた側の意図により操作的記述はあって当たり前と見なければいけないからだ。

 どうしても謎を追究しようとするなら、ユダヤ人の方、弓月国あたりに昔から住んでいるネイティブの方、宇佐地域や太秦あるいはゆかりの神社関係者で古く から秦氏の家系にいる方、にお願いして身体細胞の一部を採取させてもらい、DNA配列上の特徴を洗い出してみるという手がある。統計学的に有意な類似性が 確認されたら、これら仮説の検証の有力な一助になるだろう。「日ユ同祖説」を説く方々に取り組んでもらいたいところだ。

 余談だが、ユダヤ人に声をひそめてこの手の話をすると、相手は身を乗り出してくること請け合いである。イスラエルやアメリカ在住のユダヤ系の人々とうま くビジネスをしようとする向きは、飯でもいっしょに食べながら薀蓄すれば面白いだろう。ユダヤ系以外の人々にはもちろん、こんな話はしないほうがよい。

 いずれにせよ、日本は表面上、仏教、神道の国ではあるが、ご先祖様、土産神、八百万の神々、儒教、道教、神仙、ゾロアスター教、マニ教、ユーラシア大陸の反対側の古代宗教などが習合混合して多元的、多神教的古層を、深い部分に温存してきている。

 秦、旗、羽田、畑、畠、波多家、幡家、端、波多、葉多、傍、波田、和田、和多、阿多、八田、飛騨、飛弾などの苗字を持つ家系は、秦氏の末裔である可能性がある。読者のまわりにも、これらの姓を持つ方々がおられるかもしれない。

 

引用:諜報謀略講座 ~経営に活かすインテリジェンス~ – 第4講:古代日本の知恵袋、渡来氏族「秦氏」の摩訶不思議:ITpro

第3講:厩戸皇子と遣隋使を巡るインテリジェンス

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 インテリジェンスとは、「個人、企業、国家の方針、意思決定、将来に影響を及ぼす多様なデータ、情報、知識を収集、分析、管理し、活用すること、ならび にそれらの素養、行動様式、知恵を総合したもの」である。競合相手の情報や事情を意図的に探り、評価し、知識に変えていく「諜報」、諜報にいそしむ相手側 から身を守る「防諜」、諜報と防諜を組み合わせて情報や知識を意図的に操作し、企図する成果を実現する「諜略」は、すべてインテリジェンスに含まれる。

 諜報謀略は、人間が言語を持った時から始まった。ただし、歴史を変えるような大掛かりな諜報諜略となると、仕掛けたほうも、引っかかったほうも、その事 実を認めないから、史実や記録として残らない。したがって、大掛かりな諜報諜略が歴史として記録されることはよほどのことがない限りない。むしろ諜報諜略 の成果としての権力交代あるいは権力の正当性が、歴史の編纂者の手によって書かれ、操作される。

 本連載を進めるにあたって、歴史をひもときつつ、そこにおけるインテリジェンス活動を読み解いてみたい。過去から学ぶのは、インテリジェンス研究の作法 である。例えば、中国の兵法書「孫子」はインテリジェンスにかかわる知恵の集積であり、現在にいたるまで各国語に翻訳され、インテリジェンスや軍事の講義 で必ず引用されている。現に筆者が留学していたコーネル大学の軍事学講座において、受講者は孫子を熱心に読み解いていた。

 

「しのび」を駆使した厩戸皇子

 日本におけるインテリジェンスの起源を探るために、聖徳太子の時代にまでさかのぼってみたい。聖徳太子は「十七条の憲法」や「冠位十二階」を制定した古 代日本の偉人として伝えられている。日本書紀によれば馬小屋で出産した皇子であるから、厩戸皇子(うまやどのみこ)という名が付けられた。聖徳太子という 尊称は後年与えられたものなので、ここでは、一般的に使われる厩戸皇子という呼称を使わせていただく。

 人間が二人以上集まれば、そこに利害関係が生じ、権力の錯綜も生じる。とりわけ中央集権国家の形成にあたっては、権力の集中を伴うゆえに、必然的に権力 闘争が発生する。権力闘争を巡って情報の不均衡が生じ、諜報諜略が生まれる。畿内に豪族が発生し、中央集権国家の基礎が出来上がりつつあった厩戸皇子の時 代、豪族達が敵情を探って優位に立とうとする発想を持つのは必然であった。

 そう考えると、厩戸皇子の親戚であった当時の実力者、蘇我馬子も諜者を使っていたことはまず間違いない。ここで当時の朝鮮半島と倭国との政治状況をざっと振り返ってみる。

 そもそも蘇我馬子の先祖は朝鮮半島の百済の官僚だった。高句麗が百済に侵攻して百済が崩壊したのち、木満致(もくまんち)という百済の高級官僚が亡命し て倭国にやってきた。その木満致は名を改め、蘇我氏の基礎をつくった蘇我満智(そがのまち)となったとする説がある。このような出自の蘇我氏は、渡来人集 団を倭国の王家に仕えさせ、倭国と元百済勢力との連携を強めたがっていた。

 蘇我氏に対抗する勢力の代表が、大伴(おおとも)氏や物部(もののべ)氏であった。大伴氏はアメノオシヒを祖先とし、大王家の宮廷の兵をひきいていた。 アメノオシヒとは、倭国の土俗的神話で大王家の祖先のニニギノミコトとともに天から降りてきたとされている。一方、物部氏は大王家とは別に、ニギハヤヒを 祖先とする一族とされる。物部氏は古い土着氏族で、大王家が大和(やまと)地方に入る以前から、大和の有力氏族を支配していた。大伴氏が失脚したあとは、 蘇我氏と物部氏が対立するようになる。

 渡来系の蘇我氏は崇仏派で、土着系の物部氏は排仏派であった。蘇我氏は、当時のユニバーサルな価値観、すなわち仏教による統一国家建設を目論んだ。これ に対し、物部氏は、ローカルな土着的神話価値観による連合国家建設を考えた。両氏の対立は先鋭化し、収拾がつかない状態に陥った。厩戸皇子はこのような混 乱のなか、登場した。

 厩戸皇子は「志能便(しのび)」と呼ばれる専門職能集団を使い、朝廷内外の情報を得ていたとされる。厩戸皇子が志能便として起用したのが大伴細人(おお ともの ほそひと)である。その当時は忍者という言葉は無かったが、この大伴細人が確認できる範囲で日本最古の忍者、すなわち諜報を専門に実施した人物で あると言ってよい。後に、忍びを「細作(さいさく)」と呼ぶことがあったが、これは大伴細人の名前に呼応する。

 厩戸皇子が大伴細人以外にも、服部氏族などの忍者を使っていた可能性は高い。そして服部氏族の末裔が伊賀忍者の源流に、大伴細人が甲賀忍者の源流に、そ れぞれなったという説がある。諜者や忍者の仕事はスパイ活動そのものである。スパイの重要性は古くから知られており、先に紹介した「孫子」は、丸ごと一章 を当てて解説している。すなわち孫子は古代における諜報諜略のテキストブックであった。

 この錯綜した権力抗争は紆余曲折の末、決着を見た。厩戸皇子は蘇我氏につき、蘇我氏と共闘して物部氏を滅ぼした。こうして倭国は、当時のユニバーサルな価値観である仏教を基礎にして統一国家づくりに歩みだすこととなった。

 権力抗争の中で政敵の動向を把握することは、自分や一族の地位、権力、財産を守ることに直結した。飛鳥時代の日本は、貴族ではなく豪族によって政治が取 り仕切られていた。豪族達は流血を伴う権力闘争を繰り返し、有力豪族である蘇我氏の親戚であった厩戸皇子でさえも寝首をかかれる可能性があった。

 

インテリジェンス活動としての遣隋使

 厩戸皇子の時代のインテリジェンス活動として、遣隋使を取り上げよう。遣隋使は5回以上派遣されているが、日本書紀には第1回目の記述がなく、なぜか第 2回目からの記述になっている。遣隋使は国家使節であると同時に、当事の覇権国家である隋の情勢を探り、日本としてうまく立ち回るポジションを得る公的な インテリジェンス活動ととらえることができる。

 595年(推古三年)、高句麗の仏僧、恵慈が日本にやってきた。恵慈は厩戸皇子の師であると通説では言われるが、この人物は外交エージェントでもあっ た。当時、高句麗は朝鮮半島で新羅と主導権争いをしており、隋とも対立を深め、厳しい立場に置かれていた。高句麗は中国から見ると同じ「冊封国」に列せら れていた日本と関係を深め、冊封国家同士の貿易関係を密にしようと考えていた。

 「冊封(さくほう)」とは、中華思想に基づく言葉であり、中国王朝の皇帝が周辺諸国の君主と名目的な君臣関係を結ぶこと意味する。中華思想では、野蛮な 国々が中国皇帝の徳を慕い、礼を受け入れれば、「華」に近づけるとされる。中国から見て「夷狄」と呼ばれた周辺国は、冊封を受けることによって華の一員と なり、その数が多いことは皇帝の徳が高い証になった。

 中華思想とは、中国が世界秩序の中心であり、その文化と思想が世界で最も高度で洗練されたものであり、漢民族以外の異民族はすべて野蛮な化外(けがい) の民とみなす思想である。もっと露骨に華夷思想ともいう。中華思想に基づく異民族への蔑称は、東夷(とうい)、西戎(せいじゅう)、北狄(ほくてき)、南 蛮(なんばん)があり、日本は東夷、つまり東の果ての野蛮な人々がたむろするところ、くらいにしか思われていなかった。ちなみに、中華思想は連綿と今日の 中華人民共和国まで継承されており、中国の歴史思想を支える背骨になっている。背骨は外からは見えないが、背骨がなければ人間の体は成立しない。

 一方、冊封国側から見れば、冊封体制に組み込まれることにより、中国からの軍事的圧力を回避できるし、中国の権威を背景に、国内と周辺に対して有利な地位を築けることになる。周辺とどう付き合っていくかが、冊封国家にとって重大な戦略であった。

厩戸皇子が隋に送った諜略レター

 厩戸皇子が遣隋使の小野妹子に持たせた、隋の煬帝あての手紙はインテリジェンスの観点から示唆に富む。有名な「日出処天子至書日没処天子無恙…」(日出 処の天子、書を日が没する処の天子に致す。つつがなきや…)で始まる手紙である。これを読んだ隋の煬帝は激怒した。この無礼者め、と。

 激怒の原因は二つだろう。まず、日本を「日の出る国」、隋を「日が落ちる国」と表現したことである。東方の野蛮な弱小国に、隋帝国は「落ちめ」の国と書 かれ、煬帝のプライドが傷つけられたことは想像に難くない。もう一つは中国皇帝にしか使用されていなかった「天子」という用語を、「日出処の天子」として 日本が使ったことである。中華思想の体現者、煬帝から見れば言語道断の言葉づかいであった。

 これが事実であるならば、厩戸皇子は、中華思想を深く知りながら、煬帝の逆鱗に触れる書状をわざと出したことになる。「日本は新羅や百済と非常に親密な 関係があったけれども、これからは隋とも対等の関係でいかせてもらいますからよろしく」というジャブを出し、挑発したわけだ。そうそう簡単には中華的序列 にはおさまりませんよ、という外交的な意思表示であった。

 これは、高句麗の利益を考える恵慈の外交的なサシガネでもあった。すなわち、日本が隋に対して対等外交を要求することで、「日の出る国は隋に対して従順 ではない」との認識を隋に与え、高句麗と隋との関係を有利に持っていこうとするものであった。高句麗から見れば、隋からの外圧をかわして、緩い共闘連合を 日本と組むことによって国益を保全することにもなったのである。

 小野妹子も策士だ。激怒した煬帝はそれなりの返事を書いた。しかし、煬帝の返書はどこかへ行ってしまい所在不明となっている。この返書については、日本 に戻ってくる間に小野妹子が紛失してしまったとも、百済で奪い取られたとも、後世いろいろ言われている。怒りを込めた返事なのか、たんに呆れかえって日本 を子ども扱いにした返事なのか、返書が無くなってしまったので真相は分からない。

 隋から日本に帰る途中で返書は消えたとされるが、これはおかしなことである。隋から帰ってくる船には、中国から数十人もの隋の役人、使者、諜者が乗船し ており、小野妹子ら一行を監視していたはずだ。そんな中で重要極まりない手紙を紛失したり、奪い取られるものではなかろう。

 要するに、蘇我氏、厩戸皇子、小野妹子らは、怒った煬帝の手紙を読まなかったことにしたわけだ。ジャブを打っておいて、カウンターパンチはさっとよけ、 「手紙は無くなったので読んでいません」とシラを切ったということになる。小野妹子は手紙の紛失に関して責任らしい責任を取っていない。それどころか、翌 年になると第3回遣隋使として、のうのうと隋に行っている。要するに返書は後世に残すためには、都合が良くない内容だったのであろう。だから無くなったこ とにしたのである。
 
 ということで、「日出処天子至書日没処天子無恙…」にはつじつまが合わない部分が多くあり、この手紙の存在じたいが虚偽であるとの説も根強い。

 さて厩戸皇子は恵慈からコンサルティングを受け、古代の公務員規定ともいうべき「十七条の憲法」と豪族を中心とした身分制度「冠位十二階」を作り、内政 面もさることながらそれらを外交カードとして活用したと伝えられる。国内の統治を確立すると同時に、秩序、制度、法により国家の運営を執り行っている文明 国であるということを隋帝国に知らしめる必要があった、というような解釈がよくなされる。その一方で、「十七条憲法」は偽書であるという主張がある。「十 七条憲法」は厩戸皇子の作ではないと主張した津田左右吉の『日本上代史研究』は有名だ。しかしこの本は発禁処分となっている。

 このような活躍をしたとされる厩戸皇子ではあったが、その末期の死因については自殺説や他殺説がある。実のところは権力闘争、インテリジェンス活動の果てに窮して世を去らざるをえなかった側面が強いのではないだろうか。

 厩戸皇子の没後、厩戸皇子の一族はかつて皇子が加担した蘇我氏の手で滅ぼされている。しかし、その蘇我氏が滅ぼされた後の権力者の政治的意図によって、 亡き厩戸皇子は復権させられ、歴史編纂というインテリジェンス活動のなかで「聖徳太子」として美化、脚色され、物語化されていった。

 厩戸皇子はインテリジェンスを駆使したが、「聖徳太子」はインテリジェンス活動としての歴史編纂の過程で形作られたのである。その意味で非常にミステリアスな人物である。

 

引用:諜報謀略講座 ~経営に活かすインテリジェンス~ – 第3講:厩戸皇子と遣隋使を巡るインテリジェンス:ITpro