第8講:一神教における愛と平和と皆殺し

カテゴリー : イノベーション

 多くのキリスト教の牧師や神父はパウロの「ローマ人への手紙」や創世記の有名な部分を熱心に解説する。しかし、彼らがあまり積極的に言及したがらないテ キストがある。それは旧約聖書の「ヨシュア記」である。ヨシュア記は、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記から成る「モーセ五書」に次ぐくらい 重要なテキストとされる。

 ヨシュア記とはイスラエル民族によるカナンの地の征服物語である。モーセの後継者ヨシュアが、イスラエル民族を指導して、ヨルダン川を渡りエリコの戦い を遂行、先住民を皆殺しにして約束の地カナンを征服し、シケムで神と再契約するまでの記述である。マックス・ヴェーバーは、「モーセ五書と士師記とを連結 させるためにBC400年頃までにヨシュア記は編集された」として、ヨシュア記を含めて「モーセ六書」にすべしとの考えを示している。

 さて、ヨシュア記は日本人には理解しがたい部分が多い。もし、キリスト教の入信希望者を前に牧師や神父がヨシュア記の解説を始めたとすれば、びっくり仰 天して入信を諦める人々が続出するのは必定だ。ヨシュア記は大量殺害、皆殺し、ジェノサイド(特定の人種・民族・国家・宗教などの構成員に対する抹消行 為)のオンパレードで、愛と平和の対極にある物語だからだ。

 しかし、この物語を読み解くコツは、皆殺しを愛と平和の「対極」ととらえるのではなく、それらは分かち難く「表裏一体」を成していると腑に落とし込むこ とである。これは一神教を信奉する人や国の、ある側面を理解することにつながり、一神教の国の企業とビジネスをするときのインテリジェンスの機微を得るこ とにもなる。

 

残忍、無慈悲な大量殺害は神の栄光を増す

 ヨシュア記のテキストをひも解けば、すさまじいまでの大量殺害に満ちあふれている。一部だけを読んでみよう。

 「七度目に、祭司が角笛を吹き鳴らすと、ヨシュアは民に命じた。ときの声をあげよ。主はあなたたちにこの町をあたえられた。町とそのなかにあるものはこ とごとく滅ぼしつくして主にささげよ。(中略)金、銀、銅器、鉄器はすべて主に捧げる聖なるものであるから、主の宝物蔵に収めよ。角笛が鳴り渡ると、民は ときの声をあげた。民が角笛を聞いて、一斉にときの声をあげると、城壁が崩れ落ち、民はそれぞれ、その場から町に突入し、この町を占領した。彼らは、男も 女も、若者も老人も、また牛、羊、ろばに至るまで町にあるものはことごとく剣にかけて滅ぼしつくした」(ヨシュア記6:16~21)

 「主はヨシュアに言われた。『おそれてはならない。おののいてはならない。全軍隊を引き連れてアイに攻め上りなさい。アイの王も民も周辺の土地もあなた の手に渡す』(中略)その日の敵の死者は男女合わせて一万二千人、アイの全住民であった。ヨシュアはアイの住民をことごとく滅ぼし尽くすまで、投げ槍を差 し伸べた手を引っ込めなかった」(ヨシュア記:81~26)

 「ヨシュアは命じた。『洞穴の入り口を開け、あの五人の王たちを洞穴からわたしたちの前に引き出せ』。彼らはそのとおりにし、エルサレム、ヘブロン、ヤ ルムト、ラキシュ、エグロンの五人の王を洞穴から引き出した。五人の王がヨシュアの前に引き出されると、ヨシュアはイスラエルのすべての人々を呼び寄せ、 彼らと共に戦った兵士の指揮官たちに、『ここに来て彼らの首を踏みつけよ』と命じた。彼らは来て、王たちの首を踏みつけた。ヨシュアは言った。『恐れては ならない。おののいてはならない。強く雄々しくあれ。あなたたちが戦う敵に対して、主はこのようになさるのである』。ヨシュアはその後、彼らを打ち殺し、 五本の木にかけ、夕方までさらしておいた」(ヨシュア記10:22~26)

 

「殺すなかれ」はユダヤ・キリスト教の内輪だけ?

 殺してはいけないという戒律はユダヤ教徒の内側にのみ有効で、異教の民には適用されない。神が殺せと命ずれば、それは絶対的な命令である。人間の判断が 入り込む余地は微塵もない。もし、人が倫理や感情を持ちだして神の命令にそむけば瀆神(とくしん)となってしまう。したがって、命令=契約を素直に、忠実 に実行するのが正しい信仰の姿なのである。命令=契約に対して一切の疑義をさしはさむことはできない。

 かつてソドムの件(前講を 参照)では、神を値切ったアブラハムであったが、「ひとり子イサクを焼いて犠牲(いけにえ)にささげよ」という神の命令には忠実に従った。実際のひとり子 殺しは結局実行されなかったものの、内面の信仰としては忠実に実行された。ここにおいてイサクの犠牲という贖罪(しょくざい)は行為と内面の信仰という二 つのパートによって構成されるのだ。後に出現したキリスト教は、イサクの犠牲のアイデアから、「行為でなく内面の信仰が優越する」というアイデアを導出し た。さらに後世に及んでは、内面の信仰は「信仰の自由」へと拡大され、近代デモクラシーにつながっていく。

 こうして救世主の受難、贖罪死というキリスト教の根本的な教義が確立していった。キリストの贖罪死によって絶対的無制限の愛(アガペ)が表出、発動されて人類の原罪は許された、とするアイデアの契機は旧約聖書に由来する。

 ここで注目すべきは預言者第二イザヤである。第二イザヤが活躍した時代は、バビロン捕囚末期にバビロニアがキュロスII世率いるアケメネス朝ペルシャによって倒された時代だ。捕囚されたユダヤ人達も、同王からの解放令を受け取った時期にあたる。

 第二イザヤが「自らをなげうち、死んで罪人のひとりに数えられた」(第二イザヤ書2:53:12)という物語は預言者の代理贖罪的な死の記述である。信仰の立場から、この記述は、後のイエス・キリスト出現の預言が含意されているとして重要視されている。

 比較宗教学の立場から、「苦難というものを、このように、この世界の救済に役立つべき手段として、熱烈に栄光化した」のが第二イザヤであるとマックス・ヴェーバーは喝破する。

 犠牲(いけにえ)の対象が動物から人間へ、他人から自分の子へ、自分の子から預言者へ、そして預言者から神の子へと、キリスト教が生成される過程も含め、極限的に展開してゆく。この物語の展開は弁証法的ではあるが、強迫的な神経症を伴うストレスの表出でもある。

 「他人の罪のために罪なき犠牲として自由意思によって死につく『神の僕(しもべ)』」(マックス・ヴェーバー)というイノベーティブなアイデアは、贖罪 思想とメシア(救世主)思想とを融合させていき、新宗教であるキリスト教の突出した構成要素となっていくのである。そしてユダヤ教ではユダヤ民族を単位と する集団救済が眼目だったものの、キリスト教では個人救済となっていき、普遍性を獲得する契機をつかんでいく。

 しかし、無制限大量殺害の精神は、旧約聖書を参照しなければならなかったキリスト教にも継承されることとなった。「僕」とはいったい誰なのか、という素朴ながらも根本的な疑問を置いたままで。

 

「皆殺し」と「愛と平和」を表裏一体のものにした

 大航海時代の歴史に接すると、「なぜ善良なキリスト教徒が残忍の限りをつくして原住民の大虐殺にいそしんだのか」と誰しもが疑問に思う。だが、神の命令 だから虐殺するのである。それ以上でもそれ以下でもない。「あなたの敵を愛」(マタイによる福音書5:44)する人が敵を殺しても、神の命令なので矛盾し ないのだ。「隣人にかぎりなき奉仕をする人」が大虐殺に手を染めても、両方とも神の命令である以上、矛盾しない。

 異教徒に接した航海者や宣教師は、確認のため、ローマ教皇あてに「異教徒は人間か否か」との問い合わせを頻繁に送った。その回答は、「人間ではないの で、殺すも奴隷にするも自由である」ということが中心だった。よって神の命令の確証を得たキリスト教徒が現地を征服すると、原住民をいともたやすく滅ぼし てしまう。その後、アフリカから連れてきた奴隷をその土地に輸送して強制労働をさせ、利潤を上げることが一般的となった。

 罪人として滅ぼされた、おびただしい数の異教徒は、拡張された犠牲の「僕」として予定されていたのであろうか。

 ちなみに、このような個々のケースが集約されて近代国際法の萌芽となった。伝統的な国際法は、非キリスト教諸国に対しては非常に過酷で、植民地政策を正 当化する法的効力を持っていた。特に「先占の原則」(早期発見国が領有権を有するとする原理)のため、「未開国」は自動的に「無主の地」とされ、発見国が 植民地を自由に設定できることになっていた。

 「そうは言っても、人殺しを熱心にすすめるのは宗教らしくない」と日本人なら思うだろうが、その考え自体が一神教のなんたるかを理解していないことの証 左である。教義(ドグマ)は絶対なのである。ドグマの影響外の人々の視点から「ドグマにかられて狂信に走っている」と見えても、狂信している本人にしてみ れば、教義に忠実に従っているにすぎない。

 特定のドグマを濃密に共有する集団において、その外部に対する皆殺しは、その集団内の愛と平和の維持を担保する。その意味で、「皆殺し」は愛と平和の「対極」ではない。「皆殺し」は、愛と平和と「表裏一体」なのである。

キリスト教に習合されたミトラ教

 教義(ドグマ)が絶対性を帯びるためには正統性が不可欠である。初期キリスト教は、正統性を主張することにもずいぶんと腐心している。キリスト教の発生母体として古代ユダヤ教をとらえることは一般的となっているが、実はキリスト教の母体は古代ユダヤ教のみではない。

 キリスト教の一つの発生母体でもあり、競合相手でもあった宗教にミトラ教がある。フランスの宗教史家、思想家ジョゼフ・エルネスト・ルナンは、「もしキ リスト教が何らかの致命的疾患によってその成長が止まっていたならば、世界はミトラ教化していたであろう」とさえ言っているくらいだ。

 ローマに現れた時期はキリスト教もミトラ教もほぼ同時期だった。だが、313年にコンスタンティヌス1世(306 – 337)がキリスト教を公認した時点(ミラノ勅令)で、ミトラ教は国教から除外された。しかしその後、方向は一定しなかった。ギリシア哲学に傾倒し、教養 ある賢帝だったユリアヌス帝(355 – 361)は、キリスト教ではなくミトラ教に帰依し、ミトラ教の復興に尽力した。その後グラティアヌス帝が382年に出した勅令でミトラ教を含むすべての密 儀宗教は全面的に禁止された。この時期にキリスト教がミトラ教から摂取したものは数多い。

 一例を挙げよう。キリスト教で最も重要な日、12月25日は、上記のコンスタンティヌス1世が「イエスの誕生した日である」と宣言したことに由来する。 しかし、その前に在位したオーレリアン帝は、同日を「ミトラの誕生日」であると公式に認めていた。しかるに、キリスト教勢力が正統性を確立してゆく過程 で、ミトラ教は非正統的なカルト、あるいは反キリスト教的なものとして追いやられていった。

 教義(ドグマ)は絶対的なものだが、教義を確立するまでには、機微なインテリジェンスが駆使されたのである。皆殺しのインテリジェンスもあれば、「皆殺 し」と「愛と平和」を表裏一体化させるインテリジェンスもある。ユダヤ・キリスト教を奉じる個人や国と接するとき、一神教の世界に出かけてゆくとき、ある いはこれらの圏域の企業とビジネスをするときは、気持ちのどこかに以上の議論が示唆するものをとどめておくとよいだろう。

 【参考文献】

  • マックス・ヴェーバー、「古代ユダヤ教」

引用:諜報謀略講座 ~経営に活かすインテリジェンス~ – 第8講:一神教における愛と平和と皆殺し:ITpro

第7講:ユダヤの深謀遠慮と旧約聖書

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 「なぜユダヤ人は○○なのか?」――。この問いは、歴史上おびただしい数の言説を生み出してきた。また、ユダヤ・キリスト教の伝統が希薄な日本にも、ユダヤ商法や奇怪な陰謀論の類の本が多数出ていることは不思議である。

 今回は「なぜユダヤ人はインテリジェントなのか?」という問いを立てることにする。ここで言う「インテリジェント」とは、もちろん諜報謀略論としての 「インテリジェンスを持つ人」を指す。インテリジェンスとは、「個人、企業、国家の方針、意思決定、将来に影響を及ぼす多様なデータ、情報、知識を収集、 分析、管理し、活用すること、ならびにそれらの素養、行動様式、知恵を総合したもの」である。

 さて、「なぜユダヤ人はインテリジェントなのか?」という問いに戻ろう。この問いに対して、人間のエートス(行動様式)を歴史の長きにわたって規定する マインドセットとして宗教をとらえれば、目線は、ユダヤ人にとってのユダヤ教、その経典である旧約聖書に向くことになる。そして、これらがユダヤ人のビジ ネスにどう影響しているのか、その点に注目してもらいたい。

 

卓越するユダヤ人

 筆者の周りにはユダヤ人がたくさんいる。ユダヤ人が創設した米国の大学院に通っていたときは、クラスの4分の1くらいがユダヤ系だった。当時住んでいた 「Kappa Alpha Society」という学生友愛組織のロッジの近くに、「Young Israel」というユダヤ人の学生寮があり、その筋の集まりやパーティにちょくちょく顔を出していた。かつて在籍していたコンサルティング・ファームに もユダヤ人が多数働いている。筆者が社長を務めていた会社では、ユダヤ人がたくさんいる米国企業とタフな交渉を行い、業務提携をした。そして技術経営や人 的資源論の一端を専門としている今、この分野の学者や研究者にもユダヤ人は多い。

 ユダヤ人は、おしなべて努力家で優秀な人々だ。世界のユダヤ人口は1300万~1400万人で、そのうち530万人がイスラエルに、それとほぼ同数がアメリカに住んでいる。アメリカの人口はおよそ3億1500万人だから、ユダヤ人の比率は1.7%程度ということになる。

 だが、その人口構成比とは裏腹に、ビジネス界で活躍するユダヤ人は多い。例を挙げてみよう。ラリー・エリソン(オラクルCEO)、マイケル・デル(デル 創業者)、マイケル・アイズナー(元ウォルト・ディズニー会長)、ジョージ・ソロス(投資家)、アラン・グリーンスパン(前米連邦準備制度理事会議長)、 故ピーター・ドラッカー(経営学者)、アンディ・グローブ(インテル創業者)、スティーブン・スピルバーグ(映画監督)、ロナルドとレオナードのローダー 兄弟(化粧品エスティローダーの歴代会長)など、そうそうたる顔ぶれである。

 話を単純化して、母親がユダヤ人である人をユダヤ人とする。するとユダヤ系のノーベル受賞者の数は、全体の18%から25%くらいといわれている。人口に比べて、異常に高い比率だ。

 世界の五大宗教であるキリスト教、イスラム教、ヒンズー教、仏教、儒教のうち、ユダヤ人が直接的にキリスト教を構築し、イスラム教の成立にも間接的に影 響している。今日の西洋文明を築きあげるにあたって、ユダヤ人は一つの“インテリジェンス・エンジン”の役割を果たしてきたといってもいいだろう。

一神教、契約の民

 さて、キリスト教の祈りの言葉を「天にましますわれらが神よ」と日本では書く。しかし、これは大いなる勘違いである。キリスト教の「God」は、日本の 「神」と単純に置き換えられる存在ではない。大方の日本人は、神社仏閣でお祭りするカミサマと、キリスト教やイスラム教のカミサマを区別できておらず、混 同している。ユダヤ人やユダヤ教、旧約聖書を理解する第一歩として、このあたりの話から始めることにしよう。

 ユダヤ教やキリスト教、イスラム教は、それぞれ「一神教」である。ユダヤ教は「エホバ(ヤーウェ)」、キリスト教は「父なる神」、イスラム教は「アッ ラー」を信じている。このため、「本当の神は誰なのか?」ということで三つの宗教は争っていると考えている日本人は意外に多い。だが、すべて間違いだ。実 は三つの神は同一の存在である。

 多神教の日本神話では、神様と人間は血がつながった親戚の関係にある。日本の神々は太古、日本列島の島々、日本人、農作物などを産んだ。だから、日本人 は神々の末裔である。また、人間が死んでから神になることもある。天満宮に祭られている菅原道真、東照宮に祭られている徳川家康、乃木神社に祭られている 乃木希典など枚挙にいとまがない。だから日本人は神々の元でもある。

 たいていの外国人はこのことを知るとビックリ仰天する。また、日本人としても、このような神と人間が循環する物語の類推で、一神教をとらえてしまうと根本的な大間違いとなってしまうので要注意だ。

 一神教においては、創造主たる神が絶対的な中心であり、神によって創られた人間は、救済されるためには神との「契約」を絶対に守らなければならない。な んといっても、この「契約」の特異な位置づけが一神教を理解するための勘所だ。唯一神への信仰は、ほかの神々をことごとく否定するという形でしかありえな い。この契約を死んでも徹底的に守り抜くことが信仰なのである。

 預言者の人間が神の声を聞いて書きとめたものが旧約聖書、コーラン。ここのところを社会学の橋爪大三郎は、次の図ように「一神教の基本方程式」として図式化する。

図●一神教の基本方程式

コラム画像

出典:橋爪大三郎氏の講義資料より

自然に対する支配が正当化され、経営管理責任を負う

 「神は彼らを祝福して言われた。『生めよ、ふえよ、地に満ちてこれを従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ』。神はまた 言われた、『わたしは全地のおもてにある種をつけるすべての草と、種をつける実を結ぶすべての木とをあなたがたに与えた。これはあなたがたの食物になるで あろう』」(創世記1:28:1)

 ユダヤ教では、神との契約のもと、自然資源の使用権、収奪権がユダヤ人に与えられた。自然にはたらきかけ、自然を加工して支配することが正当化された。 攻撃的で排他的な戦闘神の性格をも合わせ持つ神によって、自然に対する経営管理責任(スチュワードシップ)が宣言されたのだ。ここから自然支配が正当化さ れ、諸資源を利用した生産、製造、流通、商業などのイノベーションが大いに進展した。

 だが、身勝手な自然の収奪や破壊も行われてきた。この点に関しては、キリスト教国内でもたびたび激しい議論を呼んできた。米カリフォルニア大学教授でキ リスト教徒でもあるリン・ホワイト氏は『機械と神』の中で、今日の科学技術の過剰利用による自然・環境破壊の軌道を歴史的・思想的に説き起こし、その起点 にあるのがユダヤ・キリスト教だと述べて一大議論を巻き起こした。

神が相手でも、巧みな交渉で“値切る”

 旧約聖書から、ユダヤ人のインテリジェンスの根本にあると感じる一節を取り上げたい。

 今でも悪や堕落の象徴としてしばしば言及されるソドムとゴモラは、死海のほとりにある悪と快楽と退廃の都だった。そこでは、男色、異常性愛、乱痴気騒ぎ に溺れていたという。その結果、神はこの町にすさまじい怒りの鉄槌を下すのである。だがその前に、神はアブラハムにこう告げる。

「ソドムとゴモラの罪は非常に重いと訴える叫びが実に大きい。私は降って行き、彼らの行跡が果たして私に届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう」(創世記18:20-21)

 そこでアブラハムは、「50人の義人がいれば、ソドムを滅ぼさないか」と神に問い、滅ぼさないという神の言質をとった。すると彼は、巧みに神と交渉を始め、滅ぼさない条件となる義人の人数を40人、30人、20人というように値切っていったのである。

 ちなみに「義人」というのは日本人にとってわかりづらい概念だ。神との契約を順守し、敬虔な信仰心に満ちあふれ、神という絶対的な規準を前にして義しい(ただしい)人のことをいう。

 神は絶対的な存在ではあるが、人間が交渉できないほど超絶的な存在ではない。交渉の余地はある。絶対的な神に対して畏怖の念を表明しながらも執拗に交渉するアブラハムには、神をも操るような大胆不敵にして機微なインテリジェンスの香りが漂う。

 神とでさえも交渉するユダヤ人にとってみれば、人間と交渉し自ら期待する成果を得ることくらいは朝飯前だ。たしかに、義人でなくてもユダヤ人のビジネス 交渉は巧みを極める。交渉相手の心のひだ、優位点、劣位点の細部を読みながらも、相手に対して敬意、畏敬の念を演出しつつ、自らの意図を貫徹させようとす る気風を感じるのは筆者だけではあるまい。

 あいまいな落とし所を当初から想定し、まず仲間となってから話を開始し、ハラを割って話し合えばわかり合えるだろうと信じている日本人の“内輪の交渉スタイル”とは対照的だ。

 寄留者としての厳しいサバイバル

 ユダヤ人の特異なまでのたくましさは、民族の歴史からも感じられる。

 ユダヤ人はセム語族の古代ヘブライ語を話す人々の子孫である。約4000年前、ユダヤ人の父祖アブラム(後にアブラハムと呼ばれる)は、シュメール地方 のウルという町からカナンの地に移住した。アブラムの家系はイサク、ヤコブ(イスラエルと改名)と継承され、十二部族の基となった12人の息子が現れ、息 子のうちの一人がユダ。この名にちなんで「ユダヤ人」という名称が用いられるようになった。

 さて、ヘブライ人(ユダヤ人の別称)という呼称はハビル(アピル)の民に由来する。ハビルは土地を所有することが許されず、不安定な身分で、抑圧・差別 されてきた「寄留者(他人の土地を借りて一時的に住む者)」として、前2000年紀のオリエント各地の文書にもしばしば登場している。彼らの来歴はとても 古い。

 聖書に精通する社会学者のマックス・ヴェーバーも「古代ユダヤ教」の中で、「寄留者」(ゲーリーム)としての性格にヘブライ人の本質を見出している。ユダヤ系として自らの出自のあり方をも問うこととなった大著である。

霊魂の否定と現世志向

 その後、寄留者としてエジプトで抑圧、差別された時代に、アメンヘテプ4世(アクエンアテン)が突如始めたアテン神を唯一神とする一神教にも、ヘブライ の人々は複雑で屈折した気持ちで接していたのだろう。ユダヤ人フロイトは、アテン神から一神教の着想を得たモーゼがヘブライ人に一神教のアイデアを伝えた と説いている。しかし、寄留者としての劣等コンプレックスに苛まれるがゆえに、自らを抑圧したエジプト出自のアイデアをすべて受容はしない。こうしたこと も、死後の世界を夢想したエジプト人の霊魂(sprit)を自覚的に捨てた一つの理由ではなかろうか。

 霊魂や死後の霊の存在の否定は、現世志向の合理主義に結びついてゆく。ちなみに、いくつかの日本語訳の旧約聖書では、霊がよく登場するという反論もあろ う。たとえば、「はじめに神は天と地を創造した。地は空漠として、闇が混沌の海の面にあり、神の霊がその水の面に働きかけていた」(創世記1-1,2)な どである。

この霊と訳された部分は神の息吹(ルーアッハ)であり、霊と訳すのはいかがなものか。学術的な信頼度が高いThe Oxford Annotated Bibleでは神からの風(a wind from God)となっている。霊の概念を多用する後世のキリスト教勢力が、その価値観をもとに編纂したとき、作為的にspiritと置き換え、それを後年、日本 語訳者が霊と日本語にしてしまったのだ。

 

寄留者としての結束

 神との契約というアイデアは、ヘブライ人集団が常に劣位となる寄留者として複雑な契約関係に苛まれてきたことに根源を持つ。不安的な身分のもと、現世の 世俗での抑圧されがちなヨコの契約関係に対してわき起こる劣等コンプレックスが、神とのタテの契約の中で民族単位での選民的な権利義務関係という他民族を 超越し突出した尖鋭な形に転換される。

 寄留者として抑圧され差別されながらも、生き延びてゆくためには周辺の民族、部族の動向、攻守同盟、祭祀同盟、利害関係には常に細心の注意を向けるよう になる。そして自分たちに有利なように操作、利用することもよく行われた。この当事者能力の特異な高さは、時を経てシェークスピア作品「ベニスの商人」に 登場するシャイロックのイメージとなり西洋人の間には今なお根強い。

「寄留者(ゲール)を愛しなさい:あなた達がエジプトにおいて寄留者であったからである」(申命記10:19)

 こうして寄留者、被差別民としての出自をあえて粉飾することもなく決して忘れず、同朋に対しては惜しみない援助を要請するのである。

 ところが、アブラハムに遡るヘブライ思想から逸脱したユダヤ人は、ヤーウェとの契約に従順ではなくなった。見かねたヤーウェは、ユダヤ人に警告し、彼ら を再び信仰に立ち返るよう導くため、預言者を遣わした。特にイザヤ、エレミヤ、エゼキエルの3人は偶像崇拝のゆえにユダヤ民族が間もなく受けることとなる ヤーウェからの処罰について警告した。

 実際、西暦前586年に強国、バビロニア帝国がエルサレムに侵攻してその神殿を破壊し、その国民を捕囚として連れ去った。バビロン捕囚だ。信仰が足りず神との契約不履行ゆえに災厄に見舞われたとユダヤ教では説かれる。

 

米国の覇権産業に息づくユダヤのインテリジェンス

 後にモーセの律法やヘブライ思想の根幹は徐々に忘れ去られ、各派固有の解釈や主張の相違により、セクト間の対立、軋轢が増していった。かたやローマ帝国 の圧政下で、ますます民衆は疲弊し、閉塞した状況に置かれるようになった。このような状況のもと、メシアに関する預言ゆえに、ユダヤ人の救済者に対する期 待は大いに高まっていた。このような時にユダヤ人のイエスが登場するのである。

 流浪して土地を持てず、寄留民でいつづけたユダヤ人は、結局のところ土地などの固定資産でなく自分自身のインテリジェンスを資本化する方向で生き残りを 図ってきた。今風にいえば、ヒューマン・キャピタル(人的資本)だ。ちなみに人的資本論に関する洞察を深めたカール・ベッカー教授(ノーベル経済学賞を受 賞)もユダヤ系だ。

 古代世界の常識だった霊魂を否定するという心象は、唯物論的な合理主義にユダヤ人を接続することにもなった。この唯心論と唯物論を役割分担させて合理の 世界に同居させる現世主義的な特異なインテリジェンスは、古代から現代にいたるまでのユダヤの人々の行動様式に通底しているように思われる。

 私見だが、米国IT産業をはじめとする先端的な覇権産業には、以上述べたようなユダヤの心象、気風、インテリジェンスが脈々と継承されている。それらの米国産業と競合、取引をする日本勢は、そこをしっかり理解しておくことが肝要だ。

 

    【参考文献】

  • イザヤ・ベンダサン(山本七平)、「日本人とユダヤ人」
  • マックス・ヴェーバー、「古代ユダヤ教」
  • 木村凌二、「多神教と一神教」

引用:諜報謀略講座 ~経営に活かすインテリジェンス~ – 第7講:ユダヤの深謀遠慮と旧約聖書:ITpro