世界のソトとウチ

カテゴリー : No book, no life.

上のマップで言うと、伝統的な経営学やマネジメント論は、左側のアプローチが中心。一般性、因果律、効率、根拠、論理といったものが重視される。サイエンスの体裁をとろうとするほど、経営学やマネジメント論は、むろん、このアプローチが中心になってくる。

でも、ちょっと食い足りない。

そこで、外界(outer world)から内界(inner world)へと拡張してみる。

どうやら、世界の潮流を眺めていると、人と組織の行動に関係するリーダーシップ論やケアサービス論は、内界(inner world)へ向かっているようだ。そこでは、左側ではほとんど語られなかった、精神、特殊性、共時性、意味、物語、情念が織りなす特殊な世界が本質的に重要になってくる。

いろいろな分野のリーダーは、それぞれ個別の意味世界に棲息しているので、右側の特殊な世界とは切り離せない。緩和ケアをはじめとする看護サービスなどのhuman serviceでも、ヒトの内面、内界にたいする精神的ケア、支援、エンパワーメントが含まれる。

なので、ネタを明かすと、人的資源管理論、組織行動論、アントレプレナーシップ論、ヒューマンサービス論などでは、越境を促すために下の2冊をグループワークや副読本として使っている。

            ***

シンクロニシティは意味のある偶然とでもいってよいだろう。通常の因果律では因果関係が見いだせない事象における関係性を説明する考え方なので、シンクロニシティは「共時性」ともユング派の研究者によって訳されている。この分野の著作では、デイヴィッド・ピート『シンクロニシティ』が秀逸だ。

複数の出来事が原因→結果というようなシーケンシャルな因果関係を飛び越えて、意味的関連を惹起して同時に起きることである。だからシンクロニシティを「共起性」といってもあながち誤訳ではないだろう。しかし、こと学問の作法でシンクロニシティを実証的、客観的に説明することは難しい。

なぜなら、出来事、偶然、非・超因果、意味、同時、共起、主観を内包するシンクロニシティには、必然的にランダムネス(雑然性)やタービュランス(乱流性)やストレンジネス(奇妙性)やコンプレクシティ(複雑性)がつきもので、このようなことがらは実はサイエンスの枠組みでまだきちんと説明がなされていないからだ。

果たして運は能力なのか、能力が及ぶ範囲の外にあるまったくの別物なのか?

運は能力の一部門であるという考え方がある。そのひとつの発現としてセレンディピティ(serendipity)という言葉は「偶然幸運に出会う能力」を意味する。

シンクロニシティ(synchronicity)も共時、共起、偶然に積極的にかかわる自覚的能力を予兆するものである。

偶然幸運に出会う能力は、能動的に環境にはたらきかける操作の範疇ではなく、環境から自分への働きかけ、メッセージ、予感を感じ取る受動的な領域に属する。

とすると、セレンディピティはシンクロニシティを用意周到に活用する自覚的readinessとでもいうような意識の力を含意する。

この本は、シンクロニシティをリーダーシップの重要な要素として、自伝的な文脈で前向きに議論している。リーダーシップという視点からシンクロニシティを真っ正面から議論した論者はなく、そこにこの本の新鮮味がある。

伝統的=本流的な理論、モデルを説明した「行動科学の展開」に対するアンチテーゼのような本。シンクロニシティは、実は現在サイエンスの鬼門のような位相にある。因果関係でなかなか説明できない現象だからだ。

入門から応用へ 行動科学の展開―人的資源の活用

カテゴリー : No book, no life.

以前アマゾンに書いておいた書評をコピペ。

<以下貼り付け>

この本のスタンスは人的資源の管理ではなく活用。日本では”One Minute Manager”などで有名だが、この本ははるかに学術的でかつ網羅的。

ブランチャード先生はコーネル大学で熱弁をふるっていた。留学しているときは、リーディング・アサインメントとして英語バージョンをわずか1週間で読まされ悶絶したことも懐かしい思い出だ。こうして日本語で読めるのは幸せだと思う。

人的資源は行動を通して成果が生み出されるわけなので、表題のように「人的資源の活用」となっている。

最新の日本語版は、さらに充実。マズロー、マグレガー、アージリス、マクレランド、シャインなど、基本セオリーやモデルをキチンと説明。全体を通読することによって、行動科学の資源からHuman Resources Managementを俯瞰できるようになっている。

最後の方のSituational Leadership(SL理論)の増補版にはさすがに力が入っている。本書の核心部分であり、SL理論が拡張されて他の理論との融合が図られているのは、今だに、この理論が実務の世界で根強い支持を得ている証だと思われる。

ここまでを筆者らに求めるのは酷かもしれないが、行動科学に隣接する認知科学や脳科学の側面からHRMに対する洞察があれば、なお増補版としての価値が増しただろう。その意味で★がひとつ欠ける。ただし、人的資源管理論の入門書、副読本としては完成度が高いのには変わりはない。

<以上貼り付け>

 

根本問題(root problem)とメンタルモデル(mental model)

カテゴリー : システム思考

 (ウルグアイのムヒカ大統領のスピーチ)
 
人間社会と地球社会が抱えているのモンダイはフクザツだ。いや、複雑すぎる!
 
だから複雑な問題を解決する手法も、いきおい複雑になってくる。
 
問題ってなんだ?
 
そして、さらに奥底の問題はなに?
 
さらにその根っ子のところに横たわっている問題って、いったいなに?
 
そんなこと、わかりませんよ!
 
でも、ちょっと発想を変えてみる。
 
考えること、つまり思考には階層性があるんですね。問題を解決していこうっていう思考にも階層性があります。
 
絵にすると、こうなります。
 
=====================================
 
                
            デキゴト=問題
 
        ~~~~~~~~~~~~ (←海面の波)
         
              様  式
             
           システミックな構造
 
       メンタル(インターナル)モデル
 
=====================================
                   
 
身の周りのデキゴトは問題だらけだ。竹島・尖閣の領土問題、総選挙、オスプレー、国債の利率、為替の振れ幅、地球温暖化、環境破壊、欧州金融危機、イスラエルとイランの紛争・・・・。デキゴトに埋め込まれたモンダイは、バラバラで断片的。
 
 
ああ、毎日、毎日、厄介で分かりにくいニュースばかりで、頭痛がしますよ・・・。残暑といか酷暑もキビシイし。
 
だからコラムニストや評論書いているアタシは、それらに解説を加えて「様式」化するんです。
 
デキゴトの底に脈打っている脈動や、普段は見えずらい仕組みなんかを洗い出してゆく作業です。うまく様式化すると、それを読んだ読者は、「ナルホド!」と叫んで(?)デキゴトをより深く見抜く洞察力が得ることができます。
 
もっと言えば、デキゴトと様式が、フクザツな要因としてどのように絡み合って影響し合っているのか、については、ニュースやちょっとした解説ではあまり言及されません。
 
さて、古典とよばれるような大作は、システミックな、つまり、全体論的で、体系的で、歴史とともに変化したり進化したりする性質、コミュニケーションやコントロールといった点を盛り込んで、とことん問題を描写します。
 
 
経済学では、カールマルクスの「資本論」、ケインズの「雇用・利子および貨幣の一般理論」、シュンペンターの「資本主義・社会主義・民主主義」、などなど。特定の学問領域で50年以上読み継がれている本ってのは、システミック構造をエレガントに描き出していますね。
 
で、さらに、それよりも深いところによこたわっているものが、メンタル(インターナル)モデル。結論から言うと、これ、「議論できないままである」(Chris Argyris)なんです。
 
「人は見たいものを見てしまう」(カエサル)、その根っ子の問題、根本問題(root problem)と言ってもいいかもしれません。
 
              ***
 
 さて、以上のようなsystems thinkingの一端を下敷きにして、リオデジャネイロで開かれた国際会議「リオ+20」でのウルグアイのムヒカ大統領のスピーチに耳を傾けると、味わい深い示唆を得ることができるのではないでしょうか。
 
世界のroot problemを鋭く、でも、エレガントにえぐり出しているのではないでしょうか。
 
 
<以下、貼り付け>
 
**** ムヒカ大統領のリオ会議スピーチの翻訳> *** 

会場にお越しの政府や代表のみなさま、ありがとうございます。

ここに招待いただいたブラジルとディルマ・ルセフ大統領に感謝いたします。私の前に、ここに立って演説した快きプレゼンテーターのみなさまにも感謝いたします。国を代表する者同士、人類が必要であろう国同士の決議を議決しなければならない素直な志をここで表現しているのだと思います。

しかし、頭の中にある厳しい疑問を声に出させてください。午後からずっと話され…ていたことは持続可能な発展と世界の貧困をなくすことでした。私たちの本音は何なのでしょうか?現在の裕福な国々の発展と消費モデルを真似することでしょうか?

質問をさせてください:ドイツ人が一世帯で持つ車と同じ数の車をインド人が持てばこの惑星はどうなるのでしょうか。

息するための酸素がどれくらい残るのでしょうか。同じ質問を別の言い方ですると、西洋の富裕社会が持つ同じ傲慢な消費を世界の70億~80億人の人ができるほどの原料がこの地球にあるのでしょうか?可能ですか?それとも別の議論をしなければならないのでしょうか?

なぜ私たちはこのような社会を作ってしまったのですか?

マーケットエコノミーの子供、資本主義の子供たち、即ち私たちが間違いなくこの無限の消費と発展を求める社会を作って来たのです。マーケット経済がマーケット社会を造り、このグローバリゼーションが世界のあちこちまで原料を探し求める社会にしたのではないでしょうか。

私たちがグローバリゼーションをコントロールしていますか?あるいはグローバリゼーションが私たちをコントロールしているのではないでしょうか?

このような残酷な競争で成り立つ消費主義社会で「みんなの世界を良くしていこう」というような共存共栄な議論はできるのでしょうか?どこまでが仲間でどこからがライバルなのですか?

このようなことを言うのはこのイベントの重要性を批判するためのものではありません。その逆です。我々の前に立つ巨大な危機問題は環境危機ではありません、政治的な危機問題なのです。

現代に至っては、人類が作ったこの大きな勢力をコントロールしきれていません。逆に、人類がこの消費社会にコントロールされているのです。私たちは発展するために生まれてきているわけではありません。幸せになるために
地球にやってきたのです。人生は短いし、すぐ目の前を過ぎてしまいます。命よりも高価なものは存在しません。

ハイパー消費が世界を壊しているのにも関わらず、高価な商品やライフスタイルのために人生を放り出しているのです。消費が社会のモーターの世界では私たちは消費をひたすら早く多くしなくてはなりません。消費が止まれば経済が麻痺し、経済が麻痺すれば不況のお化けがみんなの前に現れるのです。

このハイパー消費を続けるためには商品の寿命を縮め、できるだけ多く売らなければなりません。ということは、10万時間持つ電球を作れるのに、1000時間しか持たない電球しか売っては行けない社会にいるのです!そんな長く持つ電球はマーケットに良くないので作ってはいけないのです。人がもっと働くため、もっと売るために「使い捨ての社会」を続けなければならないのです。悪循環の中にいるのにお気づきでしょうか。これはまぎれも無く政治問題ですし、この問題を別の解決の道に私たち首脳は世界を導かなければなりません。

石器時代に戻れとは言っていません。マーケットをまたコントロールしなければならないと言っているのです。私の謙虚な考え方では、これは政治問題です。

昔の賢明な方々、エピクレオ、セネカやアイマラ民族までこんなことを言っています。

「貧乏なひととは、少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」

これはこの議論にとって文化的なキーポイントだと思います。

国の代表者としてリオ会議の決議や会合をそういう気持ちで参加しています。私のスピーチの中には耳が痛くなるような言葉がけっこうあると思いますが、みなさんには水源危機と環境危機が問題源でないことを分かってほしいのです。

根本的な問題は私たちが実行した社会モデルなのです。そして、改めて見直さなければならないのは私たちの生活スタイルだということ。

私は環境資源に恵まれている小さな国の代表です。私の国には300万人ほどの国民しかいません。でも、1300万頭の世界でもっとも美味しい牛が私の国にはあります。ヤギも800万から1000万頭ほどいます。私の国は食べ物の輸出国です。こんな小さい国なのに領土の90%が資源豊富なのです。

働き者の我が国民は一生懸命8時間働きます。今日は6時間働く人が増えています。しかし6時間労働の人は、その後もう一つの仕事をします。なぜか?バイク、車、などのリポ払いやローンを支払わないといけないのです。毎月2
倍働き、ローンを払って行ったら、いつの間にか私のような老人になっているのです。私と同じく、幸福な人生が目の前を一瞬で過ぎてしまいます。

そして自分にこんな質問を投げかけます:これが人類の運命なのか?私の言っていることはとてもシンプルなもので
すよ:発展は幸福の対抗にあっては行けないのです。発展というものは人類の本当の幸福を目指さなければならないのです。愛、人間関係、子供へのケア、友達を持つこと、必要最低限のものを持つこと。

幸福が私たちのもっとも大切な「もの」だからなのです。環境のために戦うのであれば、幸福が人類の一番大事な原料だということを忘れてはいけません。

<以上、貼り付け>

 

Tech X Entrepreneurial X Community X Design

カテゴリー : イノベーション

コーネル大学は卒業生コミュニティとのコミュニケーションに力を入れていて、定期的にAlumni向けの大部な雑誌を送ってきます。上は、そのなかのひとつでLinkというHuman Ecology学部のAlumni向けの雑誌です。

特に卒業生のactivityをしている記事が面白いです。大学の成果には、学術論文、知的世界への貢献、教育研究活動などいろいろがるが、世界にちらばって活躍しているvisualな卒業生という存在を抜きにはできません。

当たり前ですね。

で、けっこう驚いたのが、卒後5~20年でいろいろ活躍している人達の仕事の中身の特集。これがまた面白い。

オーガニックフードの熱狂的陶酔者として、だれにでもできるオーガニックフードのレシピを開発して、何冊かの著書を書き、参加型コミュニティを創って多地域にスケールアウトさせているAllison Fishman ’94。

医科歯科志望学生のための医学部、歯学部のinside report(現役の学生がレポートしてそれを編集するスタイル)を一冊の本にしてベストセラーにして、ロースクール向けの同様の本を書いて二つの山を当て、今はオンライン出版のstartupを経営しているBruce Stuart ’86。

環境保護運動で反州政府活動のコミュニティを地道に20年以上つづけ、とうとうメリーランド州の法律改定にまでこぎつけた研究者のGablielle Tayac ’89の物語などなど。

見えてくるのは:

 

   エッジが効いた専門性 

     X 

    起業家的チャレンジ 

          X 

    コミュニティ創発 

          X 

 クリエイティビティの発露としてのデザイン

    X

   (自分情報の発信)

    X

    (ギリギリ世の中に受け入れられるエゴの境界設定)

      

(健全な承認欲求と自己抑制)

 

….で周りの世界にengageしてゆくというキャリア開発の方向性。

どこぞの大企業や官公庁に入って苦節20-30年、やっと役員になりました、社長になりました、局長になりました、大臣になりました、パチパチと拍手ご喝采的なキャリアの人は、リスペクトもされないし、憧れの対象ともなりません。

おきまりの大企業、官公庁、国際機関で働くってことは、もはや(というか30年以上も前から)inでもtrendyでもないのです。そうではなく、edgeが効いた専門性を活かして、entrepreneurとして「自分というパッケージ」を編集して世の中にエンゲージしていく、そしてフラックス(flux)、つまり、とめどもなく流動的な状況の中でも流されずに、フラックスのなかで文脈をつくり楽しめる人。

そういう物語りを描きたい人に大学に来てほしいし、卒後、そうなるのがいいですよ、、というメッセージなんですね。

この雑誌のオンライン版もあります。

 

稀覯本ブリタニカ百科事典11版とナレッジマネジメント

カテゴリー : No book, no life.

無限に広がる知の世界をぎゅっと編集して、知識愛好者の広大無辺な知的渇望に素直に応えようとする試みがある。その代表格が「百科事典」だ。百科事典といえば、ブリタニカ百科事典(Encyclopædia Britannica)が有名だ。

もともとは1768年から英国はエディンバラで100分冊を週刊で発行したのが始まりである。当時勃興しつつあったブルジョワジー階級のなかでも知的欲求が強かった人々に熱狂的に支持されたそうだ。成功のあまり、分冊を再編集して、1771年に3巻にまとめたものが、初版となったそうだ。

ちょっと前に、畏友の蔵書に囲まれながら、ひたすら本をテーマにした雑談をしてきた。マンションの1世帯分ほぼすべてが東西古今の古典、辞典類の書庫のようになっているので、すでにその御仁は、愛書家の範疇をゆうに超えている。

そのディープな時間をすごした時に、邂逅したのが写真のEncyclopædia Britannica Eleventh Edition(ブリタニカ百科事典第11版)。

これぞ、知る人ぞ知る、という修飾にふさしい。Encyclopædia Britannica Eleventh Edition(ブリタニカ百科事典第11版)は、世界中の百科事典マニアから畏敬と羨望の念を集めている。

「ブリタニカ百科事典第11版の魔法」なるコアかつマニアックな論評でもここぞとばかりに記されているように、革張りの装丁、芳醇なインクと紙の香り、その包括的な記載内容、簡明ながらもどことなく重厚感ただようフォント、コンテンツの充実度、どれをとっても抜群の完成度と圧倒的な支持を得ているのである。

稀覯本、古書、語学に深遠な造詣を保持し、今尚あくなき知識の充足に禁断の快楽を見出してやまない畏友は、まるで宝物を見せるように、それを開陳してくれた。僕は手を洗って、畏まって、その11版のページをそろりそろりと繰った次第。

電子出版がいろいろ取りざたされている昨今、紙というメディアの限界がよく指摘される。でも、長きの時代に渡って愛されるコンテンツは、コンテンツが乗っているメディアの品格、風格、歴史を感じさせる体裁、香り、手触り・・・・そういったアナログな肌合いといったものと絶妙なバランスをとっている。

ナレッジマネジメントというと、メディアと切り離された知識そのものに話題が行きがちだが、ナレッジが乗っかる、あるいは埋め込まれ、引き出される媒介としてのメディア、そしてメディアが活用される「場」との組み合わせで考える必要がある・・・ということはいうまでもないだろう。

そのような電子書籍のためのメディアデバイスが開発されたら、それこそ、イノベーションとして称えようか。

 

ボルタ君、「ものこと」つくり、町おこし

カテゴリー : ものつくり

ボルトならぬボルタ君というそうだ。室蘭へ行った友人からのお土産。ボルトを加工していろいろな造形を試みる。たとえば上の写真は「自転車に乗るボルタ」。

サイクリストの僕にとっては、大変うれしいプレゼントなり。

このボルタくん、実は、室蘭市民、道民、いや全国からも熱いまなざしが注がれ、大注目を浴びてきている。2005年12月 に試験販売を開始、2006年4月に20種類500個限定で第1弾の本格販売開始、 それ以降、ほぼ毎月1日に5種類のボルタを発売してきているという。最近のボルタのバリュエーションはこちら

2007年9月には100種類のボルタくんが完成したそうだ。

さて、ボルタくんを考案したのは、室蘭工業大学に通っていた二十代男性だそうだ。当初、その男性は、遊び心半分くらいで「アイアンフェスタの体験溶接」で製作したことにはじまり、そのサイズを3分の1ほどに小さくしたのが今のボルタシリーズ。

ボルタプロジェクトの面白いところは、ボランタリーなバリューチェン。「ものつくり」にこだわり過ぎて失敗することが多いなかで、ボルトの取り組みはいささか趣が異なる。

学生や商店主、市内公務員、製鉄所職員、ウェブデザイナーといった様々な立場の市民が、企画担当、開発担当(大学)、製作担当、マーケティング担当、PR担当、販売担当というふうに加わっている。「モノ」だけではなく、いろいろな「コト」が人を引き寄せ、バリューチェンを創っているところが面白い。

今ではNPO法人テツプロ(つのまちぷろじぇくとボルタ工房)がバリューチェンのマネジメントを行っていて、ボランタリーかつオープンな価値連鎖を目指しているようだ。プロダクトは単純素朴ながら、オープンイノベーションの一つの姿を見る思いがしなくもない。

思いは、室蘭を元気にする、いろいろな人に親しんでもらえる町おこしだそうだ。それやこれやで、2006年7月にはボルタ工房を設置。また、製作が追いつかずにパート・アルバイトも募集したという。

武骨で無異質でお堅いイメージのあるスチールプロダクトが、ちょっとした工夫で、みんなの参画を得て、なんともいえない愛らしいものに生まれ変わるという意外さとあいまってボルタ人気は急上昇。

医療サービス:新しい5S-KAIZEN-TQMの展望

カテゴリー : イノベーション

5S(整理・整頓・清掃・清潔・躾)というと、ブリヂストン(当時はブリヂストンタイヤという社名でした)の新入社員研修で工場にカンズメになって教えられた思い出があります。そこでは、現場の精神だ、改善だ、などと教えられ、あまりいい思い出はありません。実際、勤務時間が終わったあとで「5S-改善運動」が行われていたので、人一倍批判精神旺盛な私は、テイのいい労働強化、生産性向上への誘導策、集団的洗脳だな、と勘繰って、この運動を見ていました。

もともと終身雇用や年功序列は好きではなく(念のため個人的嗜好の問題です、労働経済学的にはその効用を認めています)製造業のなんたるかを経験してみたいという不純な(?)動機で、この企業に勤務しはじめたので、早々にそこでの仕事を切り上げ、数年後にコーネル大学大学院へ留学しました。

それは86年のことでした。GEMBA KAIZENで著名な今井正明氏がコーネル大学ビジネススクールに特別講義のために訪れ、その講義の後の立食パーティで5S-改善についてじっくり意見交換したことがありました。(資料1:最近の今井氏のインタビュー、資料2:出版物リスト

Masaaki Imai is the founder of our company Kaizen Institute and author of two classics on lean management, Kaizen: The Key to Japan’s Competitive Success and Gemba Kaizen: A Commonsense, Low-cost Approach to Management he is working on his third book which addresses the leader’s role in making operational excellence sustainable. He travels the world doing gemba walks and speaking about kaizen.

当時は、日本企業が日の出の勢いで米国市場を席巻しており、日本脅威論までまことしやかに議論されていました。また米国政府のなかに、日本企業研究のためのタスクフォースが創られ、日本企業の分析が本格的にはじまっていました。

一介の大学院生という身分でしたが、「日本の製造業の批判的勤務経験がある」という珍奇な理由で、コーネル大学ビジネススクールで「日本的経営」についてのレクチャーを1コマやらせてもたっらことがあります。その中で、私が強調したことは:

・たしかにKAIZENは、継続的な品質向上には有効な手法だ!

・しかし、それは年功序列や終身雇用とパッケージになった手法なので、雇用状況が異なる米国には適用できない!

・KAIZENは品質進化の方向を固定するという反作用があるので、抜本的なinnovationとは異なるものだ。むしろ、現場改善にさほど熱心でなく、新規事業創出やアントレプレナーシップの基盤がある米国企業のほうが、innovation志向ではないのか?

・GEMBA KAIZENはoperation-wiseには有効だが、戦略(Corporate strategy)には統合されがたい!

・むしろ、日本企業は、KAIZEN-TQMをパッケージ化した現場よりの「戦略」のため、固定的技術軌道に陥る可能性がある!

という話をしてずいぶんと物議をかもしだしたものです。

さて、時はめぐって2010年代。日本の医療サービスの現場はおろか、アフリカ、アジアなどでも5S-KAIZENが燎原の火のように普及しつつあります。私自身も、なぜか医療機関に対して、5S-KAIZENを指導する立場になってしましました。あんな毛嫌い(?)していた5S-KAIZENなのに、人生不思議なものです・・・。

そんななかで、少々、若気の至りを自己反省をしながら、最近マジメに考えたことをまとめてみます。

                     ***

日本産業を下支えしてきた5S(整理・整頓・清掃・清潔・躾)、改善、TQM(総合的品質管理)が、日本の医療サービスのみならず、アジア、アフリカにまでも浸透しつある。筆者は、日本、スリランカ、コンゴ民主共和国の医療現場を訪れて、5S-KAIZEN-TQM活動に関する調査を行った。本稿では、そうして得られたこの運動が持つ普遍的な有効性に関する知見を共有したい。

 ①真の参加(participation)

この運動には受動から能動へ、心のベクトルを変える作用がある。特に、整理・整頓・清掃はだれにでも出来て、成果を体感することができる。従来のアフリカの健康・医療サービスの現場では、言われてもやらない、現場の物品を盗むことなどが多発していた。また日本でも、「やらされ感」が蔓延して能動的に現場を改善できない職場が多いが、この運動は、どのような状況でも、関係者の「参加」を引き出すことができる。

 ②内発的報酬系の刺激(intrinsic reward)

旧植民地そして今でもアフリカ諸国で幅を利かせるマネジメント手法は欧米系のものである。また日本においても、脱年功序列の掛け声のもと「成果主義賃金」が導入されて久しい。そこでは個人や組織の実現すべき成果を事前に予定し、実現された際には個人や組織に対してインセンティブを与えようとする。外発的報酬が過度に操作的に運用されると、充実感、達成感、やりがいなど内側から湧き上がる内発的報酬が枯渇する。この運動は、関係者の内発的報酬系を刺激する。

 ③アクション・リサーチのループ(action research loop)

問題だらけの個人、職場、地域にはたらきかけ、その結果を五感で受けとめ、さらに改善を加えてゆくというポジティブなサイクルの中に心身を置くと、心身は気持ちよくなり楽しくなる。システム科学の知見でも、このようなアプローチは、ソフトシステム思考のアクション・リサーチ手法として注目を浴びつつある。

 ④動学的メンタル・モデル(dynamic mental model)

経営は、人、モノ、金、情報、空間、時間の編集作業だが、この運動は、経営諸資源の相互関係に埋め込まれている「意味」を紡ぎだし、気づかせる働きがある。その気づきが、小集団、業務改善グループ、インフォーマルグループなどの小組織から、公式的な大組織へと展開される自己組織的運動のなかで、行動様式(ethos)としてメンタル・モデル化される。他者、自己の成功体験が物語として累積的、動学的にメンタルモデルを強化することになる。

 ⑤自己組織化(self organization)を支援

医療サービスには以下の特性がある。すなわち、各種ステークホルダが経験を共有してサービスを創る(共創性)。モノとして後に残らない(瞬時性)。医療チーム、患者がともにかかわってサービスは高度化する(共進性)。あらゆる場でサービスは創発され伝搬する(偏満性)。健康医療サービスを扱う組織は、自己組織的であり、5S-KAIZEN-TQM運動は、この方向性をサポートするものである。

 我が国医療マネジメント、とくに、医療機関マネジメントの今後の展開を模索するにあたり、以上の示唆は新しい方向性を提供するものであると考えられる。

「戦後史の正体」

カテゴリー : No book, no life.

 

3.11から2カ月後の、2011年5月に、連載をしている日経BP社のコラムで「第22講:原発過酷事故、その『失敗の本質』を問う」を寄稿しました。そのコラムでは、政府、原発産業、大学、官僚組織、報道機関、略して、政・産・学・官・報の5セクターがからみあった鵺のような暗黙的勢力(政・ 産・学・官・報共同体)の存在について書きました。

その後、「原発ムラ」に関する様々な評論、言説が盛んに流通するようになりましたが、それらの嚆矢となる論評だったと思います。この拙文は”The Fukushima Nuclear Accident Independent Investigation Commission”を書いた黒川清氏からも参照いただいたので、(たぶん)一定の影響力があったと勝手に思っています。

さて、そのような暗黙的勢力による組織間関係は外交と内政が織りなす世界にも存在してきたことが、この本によって明らかにされています。具体的には、「はじめに」で筆者が主張するように、「戦後の日本外交を動かしてきた最大の原動力は、米国から加えられる圧力と、それに対する『自主』路線と『追随』路線のせめぎ合い、相克だった」という事実関係です。

このような歴史観を個々の事例を丹念に追って実証的に記すことを意図した書物は、私が知る限り希有なものです。もっとも、それは、「アメリカ専門の学者は、たくさんいるはずだ。なのになぜ今まで、「米国からの圧力」をテーマに歴史を書く学者がほとんどいなかったのか。日本の米国学会が、米国に対して、「批判的ないかなる言葉も許されない」状況からスタートしている」(p135)からだと筆者は言います。

このあたりの事情はよくわかります。私の周りには、米国に留学した後、アカデミアで生計を立てている人が多いのですが、アメリカの裏事情を掘り返して批判する人はまずいません。だいたいが、アメリカ様で勉強したことを専門のテコにして世を渡っているので、なかなか批判はできないものなのでしょうね。私はそうではありませんが(笑)。

自主路線の個人や勢力が政権をとっても、米国寡頭勢力と米国の意図をくむ国内勢力によって、様々な工作、権力介入、民意操作によって葬られるパターンが存在するということが実例によって示されています。このような文脈での検察、メディアの役割が克明に描写されています。ネット社会では、さかんに指摘、議論されていることですが、書物として一般の目に触れる媒体で、ここまで突っ込んで書くというのは希有でしょう。

さて、筆者の孫崎享(うける)氏は、外務省入省後、駐ウズベキスタン大使、国際情報局長、駐イラン大使を経て、2009年まで防衛大学教授(公共政策学科長、人文社会学群長)としてキャリアを積んでこられた人物。インテリジェンスの現場経験が長く、また、現場経験を抽象化、理論化するアカデミアにも関与しているので、外野からの評論とは異なります。

自由報道協会の岩上安身氏らと機微を共有する、主流勢力から見れば「タブー」と呼ばれる事実関係に対する手厳しい追求者、告発者です。戦後の外向に焦点を当てた通史については、なかなか良書がないなかで、本書は、「高校生にも読める」くらい簡単明瞭、かつ直截に、その「正体」に切り込んでいます。

政策分析(policy analysis)は、記述的分析が中心で、つとめて解釈学的、意味論的学問です。だから、解釈する人、意味を与える人のスタンスによってどのようにでも記述できてしまいます。また、スタンスにかたよりがある場合は、言説空間にぽっかりと穴が空いたようになってしまい、だれも、その穴を埋めるようなことがなければ、しだいにタブーとなってゆきます。

その幾多のタブーに挑戦しているという意味で実に挑戦的(挑発的とはいいませんが)な書です。

                ***

検察の出自と特別な役割について—「不当に隠された物資を探しだして、GHQの管理下に置くことを目的に設置された『隠匿退蔵物資事件捜査部』が、東京地検特捜部の前身です。(中略)つまり、GHQのために『お宝』をみつけだす特別の捜査機関。それが東京地検特捜部の前身だったのです」(p83)と指摘したうえで、米国との間に問題をかかえていた日本の政治家(首相クラス)が、汚職関連の事件を摘発され、失脚したケースとして、①芦田均、②田中角栄、③竹下昇、④橋本竜太郎、⑤小沢一郎の名前をあげています。(p84)

個々の事例についてはすでにネットでは個別に様々な議論がでていますが、この書物の一大特色は、戦後60年の政治史を丹念にレビューして、『自主』路線の政治家を追い落とす陥穽工作のパターンを分類して体系化していることです。

①占領軍の指示により公職追放する→鳩山一郎、石橋湛山。②検察が起訴し、マスコミが大々的に報道し、政治生命を絶つ→芦田均、田中角栄、小沢一郎。③政権内の重要人物を切ることを求め、結果的に内閣を崩壊させる→片山哲、細川護煕。④米国が支持していないことを強調し、党内の反対勢力の勢いを強める→鳩山由紀夫、福田康夫。⑤選挙で敗北させる→宮沢喜一。⑥大衆を動員し、政権を崩壊させる→岸信介(p370)

そのうえで、「この6つのパターンのいずれにおいても、大手マスコミが連動して、それぞれの首相に反対する強力なキャンペーンを行っています。今回、戦後70年の歴史を振り返ってみて、改めてマスコミが日本の政変に深く関与している」(p370)ことがわかったとしています。

日米安保条約について—「米国の要求する「われわれ(米国)が望だけの軍隊を、望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利を確保すること」を吉田首相は講和条約にも書けず、安保条約にも書けず、行政協定にこっそり書きこもうとした(中略)事実上の密約です」(p150)

領土問題について—「日本ほど、その(国境と領土問題)解決に向けて政府が動けない国はありません。それは米国に意図的にしくまれている面があるからです」(p171)→昨今、話題になっている竹島、尖閣も、この文脈で捉えてみる必要があるでしょう。

日本の新聞の安保運動に対する姿勢の突然の変化について—「朝日の笠信太郎など、各新聞の主筆や論説主幹たちが、マッカーサー駐日大使やCIAの意向を受けて、途中から安保反対者を批判する側にまわった」(p210)

「1969年、外務省のなかには対米自立派がまだ力を持っていました。幹部たちによって、米軍基地をしだいに縮小させてゆく案がつくられてゆきます」(p255)

「米国が政治的に葬った政治家といえば田中角栄首相です。中曽根元首相は、(田中首相は)米国に葬られたと判断しています」(p260)

冷戦終結と米国の変容、CAIミッションの変化について—「CIAは日本の経済力を米国の敵と位置づけ、対日工作を大々的に行うようになります」(p322) この節の論考はさすがに鋭いですね。日米構造会議、対日政策要望書、TPPに対する歴史的分析は正鵠を得ています。

9.11とイラク戦争後の世界について—「日本はイラク戦争に参加しました。でもその理由はなんだったのでしょか。『米国に言われたから』それ以外の理由はないのです」(p338)

小泉政権下の政策とその影響について—「小泉首相のもとで起きたもうひとつの動きは、日本社会と日本の経済システムを米国流に変えることでした」(p347) 「TPPの狙いは日本社会を米国流に改革し、米国企業に日本市場を席巻さえることです。日本企業にとってきわめて危険な要素を持っています」(p360)

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一部のインテリジェンス、政策分析関係者だけではなく、広い範囲の読者に読まれるべき本だと思います。巻末の索引も充実しています。

たかが蕎麦屋と言うなかれ。

カテゴリー : 交友

 

オリンピックのつかのま、facebook繋がりの3人のちっちゃな飲み会があり、六本木の蕎麦屋で飲んできた。その3人というのが、ローカルカレッジは早稲田で、プロフェッショナル・スクールは、それぞれ、London Business School、Kellogg、Cornell。

さて、その蕎麦屋、名前をという。聞くところによると、荻窪の老舗「本むら庵」の息子さんがニューヨークで開店し、当地では番蕎麦のうまい店として長年、セレブリティー達の贔屓になってきたという。

その息子さんというのが、KelloggでMBAをとったプロフェッショナルな方で、日本に帰ってきてから開店したのが、HONNMURA AN。実は今回一緒に飲んで食べた女史も、Kelloggのご出身で、この息子さんとは長年のつきあいだということで、このお店で飲んだのだ。

江戸っ子は蕎麦で酒を飲む。この伝統をうまく経営戦略に応用しているのが、HONMURA ANだ。日本酒というよりはワインリストが充実して、客は、ワインなどとともに蕎麦をいただく。しかも店のつくりは、蕎麦屋とはほどとおり、お洒落なbarの雰囲気である。

伝統的なレンジの蕎麦屋では、ビールX日本酒X蕎麦の組み合わせで、客単価は1500~3000円前後が相場だろう。しかし、この店では、各種アルコール、特にワインリストが充実しており、どうしても、ワインが進んでしまう。結果、客単価は7000円超となる。事実、われわれの飲み会も、勘定を〆ると一人当たり9000円。おっと。

既存のものごとの新しい結合(neue kombination)がイノベーションの契機となるとといたのは、シュンペーター。このお店は、素材としての蕎麦、各種料理、アルコール類は、既存のモノだ。これらのモノはバリュー・チェーンに乗って調達され、料理され、客のテーブルに供される。

ポイントは、既存のモノを新しく結合させる「コト」つまりサービスの戦略。六本木で、面白い会話を、面白い場で楽しみたい、美味しいもの好き、新しいモノゴト好きな洒脱な人々が、ちょっと触れてみたい価値の演出が巧みだ。これが、このお店が醸し出している経験価値(value experience)なんだろうね。

このように、offeringは、モノ(product)とコト(service)の新しい組み合わせであり、そのofferingの「場」をいかにデザインしてゆくのかという経験価値つくりの新しい戦略なのである。ただし、offeringは店から客への一方通行ではなく、客とお店が共に創り上げてゆ価値(value co-creation)なんだろう。

たかが蕎麦屋と言うなかれ。かくしてイノベーティブな店でイノベーティブな会話に花が咲いたというわけ。研究テーマとしても面白いかもしれない。

シュタインバイス大学のアウトリーチ活動と英語

カテゴリー : イノベーション

Steinbeis UniversityのMaster of Business and Engineeringの学生とファカルティ・メンバーが来日したおり、講義を2コマしました。テーマは、Innovation and Marketing: A Cross-cultural Comparisonというテーマです。

シュタインバイス大学は、ミッションにknowledge and technology transfer partnerと謳っているように、ドイツにおける産学連携スキームのプラットフォーム的役割を果たしています。

さて、今回の研修プログラムは、シュタインバイス大学と東京農工大学の学生、社会人が一同に会して約1週間、多摩地域のベンチャーやスタートアップスのフォアフロントでインタビュー、ディスカッションし、戦略提案をまとめるという企画です。プログラムそのものがアウトリーチ活動であり、かつ、アクション・リサーチのコンセプトでデザインされていて、どの学生もとても熱心に参加していました。

ドイツの学生は、質問、コメントなど、大変積極的でうるさいです。それに比べ日本人学生は静かです。

クラスの中で生産的な質問をする、コメントを加える、異なった見方を提供するというのは、知的生産のため重要なことです。このようなことがらは、dialogueに価値が置かれている西洋社会においては自明なことです。

ドイツの哲学者Hegel(1770-1831)は、dialogueを定立(thesis)-反定立(antithesis)-綜合(synthesis)の連続体としてとらえ、ここに弁証法理論が打ち建てられました。日本語では、はしょって正・反・合と簡単にいいます。

ドイツ人学生と接していると、弁証法理論が、そこはかとなくコミュニケーションの土台を支えているように思えてなりません。

ところが、日本では、dialogueそのものが重視されていません。極東の島国の言霊文化は、阿吽の呼吸、以心伝心、同調圧力、同質性志向が中心であり、そもそも、弁証法的な対話文化が希薄です。

そして、異質なことを言う、異なった意見を開陳する、ということが非同調的とみなされます。同調圧力が、日本人が居合わせる場、そして場を支配する空気(ニューマ)にははたらきます。でもそのモードは、異文化間コミュケーションの場ではまったく通用しません。だまっていること=知的な貢献をしていない=無価値なのです。

つまり、一般に日本人学生には、英語運用能力が低いという問題のみならず、根っ子のところには、言語をコミュニケーションの道具として使う「構え」=internal modelの問題があります。

異質なものごとを異種混交させて新しいものごとを創り上げてゆくというのはシュンペーターを引くまでもなく、イノベーションの契機となりえます。異臭混交に対して腰が引けている、というのは、それだけで、貴重な機会を失っているのかもしれません。

日本の高等教育機関も、このところ、「グローバル人材」の育成に熱心になってきました。わざわざお金と時間をかけて留学しなくても、このような機会に参加して、英語を使って、読む、書く、話をする、というトレーニングはできます。やはり、このような異文化間コミュニケーションの場に身を置いてみる、といことは価値あることです。

ぜひとも英語のみならず、対話型のコミュニケーションの構えを学んでほしいと思います。

英語の「で」と「を」

カテゴリー : 留学けもの道


英語との接し方については、連載コラムの「英語で世界をシノぐ方法(覇権言語英語とのつきあいかた)」で考えてみた。

海外留学の経験は、たしかに価値あることだが、最近は一点ほど難点があるように思えてならない。それは、「英語を学ぶ」を早々に卒業して「英語で学ぶ」モードに突入せざるを得ないことだ。

私のような言語学や英文学といった文系ではない社会科学系学徒の留学というのは、「英語を学ぶ」のではなく、「英語で学ぶ」ことを旨とする。「を」と「で」の違いは、わずかヒラガナ一文字だが、言語への接し方において根本的に異なってくる。

「英語を学ぶ」とは、文字通り、英語の言語学的な特徴、つまり、文法、語彙、統語法、各種表現方法、レトリックなどなど規範的な枠組みを精緻に学ぶことだ。書くことを中心にして、リスニング、スピーキングなどに派生してゆく。

留学での英語との接し方は「英語で学ぶ」ということになる。つまり、莫大な分量の資料を読みこなし、短時間で英語でレポート・論文を作成し、クラスディスカッションに積極的に参加するということは、いってみれば、英語をコミュニケーションの道具として使うということで、純粋に「英語を学ぶ」ということとは異なる。

このところ、「英語で学ぶ」をやりすぎて、「英語を学ぶ」が疎かになってきたことを自覚気味。だから、まずは「英語を学ぶ」ことのスタイルを点検してやろうと思いついた。英語の学び方のベンチマークだ。そんな思いで書店を徘徊していたら一冊の書が目にとまった。

それが、「英語達人列伝」だったというわけ。新渡戸稲造、岡倉天心、斉藤秀三郎、鈴木大拙、幣原喜重郎、野口英世、斉藤博、岩崎民平、西脇順三郎、白洲次郎など、かつての英語達人の努力の奇跡が時代考証とともに、簡潔にレビューされている。英語という言語の運用能力が希有な知的資産であった時代の先人たちの英語を学んだ奇跡が丹念に描写されている。