根本問題(root problem)とメンタルモデル(mental model)

 (ウルグアイのムヒカ大統領のスピーチ)
 
人間社会と地球社会が抱えているのモンダイはフクザツだ。いや、複雑すぎる!
 
だから複雑な問題を解決する手法も、いきおい複雑になってくる。
 
問題ってなんだ?
 
そして、さらに奥底の問題はなに?
 
さらにその根っ子のところに横たわっている問題って、いったいなに?
 
そんなこと、わかりませんよ!
 
でも、ちょっと発想を変えてみる。
 
考えること、つまり思考には階層性があるんですね。問題を解決していこうっていう思考にも階層性があります。
 
絵にすると、こうなります。
 
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            デキゴト=問題
 
        ~~~~~~~~~~~~ (←海面の波)
         
              様  式
             
           システミックな構造
 
       メンタル(インターナル)モデル
 
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身の周りのデキゴトは問題だらけだ。竹島・尖閣の領土問題、総選挙、オスプレー、国債の利率、為替の振れ幅、地球温暖化、環境破壊、欧州金融危機、イスラエルとイランの紛争・・・・。デキゴトに埋め込まれたモンダイは、バラバラで断片的。
 
 
ああ、毎日、毎日、厄介で分かりにくいニュースばかりで、頭痛がしますよ・・・。残暑といか酷暑もキビシイし。
 
だからコラムニストや評論書いているアタシは、それらに解説を加えて「様式」化するんです。
 
デキゴトの底に脈打っている脈動や、普段は見えずらい仕組みなんかを洗い出してゆく作業です。うまく様式化すると、それを読んだ読者は、「ナルホド!」と叫んで(?)デキゴトをより深く見抜く洞察力が得ることができます。
 
もっと言えば、デキゴトと様式が、フクザツな要因としてどのように絡み合って影響し合っているのか、については、ニュースやちょっとした解説ではあまり言及されません。
 
さて、古典とよばれるような大作は、システミックな、つまり、全体論的で、体系的で、歴史とともに変化したり進化したりする性質、コミュニケーションやコントロールといった点を盛り込んで、とことん問題を描写します。
 
 
経済学では、カールマルクスの「資本論」、ケインズの「雇用・利子および貨幣の一般理論」、シュンペンターの「資本主義・社会主義・民主主義」、などなど。特定の学問領域で50年以上読み継がれている本ってのは、システミック構造をエレガントに描き出していますね。
 
で、さらに、それよりも深いところによこたわっているものが、メンタル(インターナル)モデル。結論から言うと、これ、「議論できないままである」(Chris Argyris)なんです。
 
「人は見たいものを見てしまう」(カエサル)、その根っ子の問題、根本問題(root problem)と言ってもいいかもしれません。
 
              ***
 
 さて、以上のようなsystems thinkingの一端を下敷きにして、リオデジャネイロで開かれた国際会議「リオ+20」でのウルグアイのムヒカ大統領のスピーチに耳を傾けると、味わい深い示唆を得ることができるのではないでしょうか。
 
世界のroot problemを鋭く、でも、エレガントにえぐり出しているのではないでしょうか。
 
 
<以下、貼り付け>
 
**** ムヒカ大統領のリオ会議スピーチの翻訳> *** 

会場にお越しの政府や代表のみなさま、ありがとうございます。

ここに招待いただいたブラジルとディルマ・ルセフ大統領に感謝いたします。私の前に、ここに立って演説した快きプレゼンテーターのみなさまにも感謝いたします。国を代表する者同士、人類が必要であろう国同士の決議を議決しなければならない素直な志をここで表現しているのだと思います。

しかし、頭の中にある厳しい疑問を声に出させてください。午後からずっと話され…ていたことは持続可能な発展と世界の貧困をなくすことでした。私たちの本音は何なのでしょうか?現在の裕福な国々の発展と消費モデルを真似することでしょうか?

質問をさせてください:ドイツ人が一世帯で持つ車と同じ数の車をインド人が持てばこの惑星はどうなるのでしょうか。

息するための酸素がどれくらい残るのでしょうか。同じ質問を別の言い方ですると、西洋の富裕社会が持つ同じ傲慢な消費を世界の70億~80億人の人ができるほどの原料がこの地球にあるのでしょうか?可能ですか?それとも別の議論をしなければならないのでしょうか?

なぜ私たちはこのような社会を作ってしまったのですか?

マーケットエコノミーの子供、資本主義の子供たち、即ち私たちが間違いなくこの無限の消費と発展を求める社会を作って来たのです。マーケット経済がマーケット社会を造り、このグローバリゼーションが世界のあちこちまで原料を探し求める社会にしたのではないでしょうか。

私たちがグローバリゼーションをコントロールしていますか?あるいはグローバリゼーションが私たちをコントロールしているのではないでしょうか?

このような残酷な競争で成り立つ消費主義社会で「みんなの世界を良くしていこう」というような共存共栄な議論はできるのでしょうか?どこまでが仲間でどこからがライバルなのですか?

このようなことを言うのはこのイベントの重要性を批判するためのものではありません。その逆です。我々の前に立つ巨大な危機問題は環境危機ではありません、政治的な危機問題なのです。

現代に至っては、人類が作ったこの大きな勢力をコントロールしきれていません。逆に、人類がこの消費社会にコントロールされているのです。私たちは発展するために生まれてきているわけではありません。幸せになるために
地球にやってきたのです。人生は短いし、すぐ目の前を過ぎてしまいます。命よりも高価なものは存在しません。

ハイパー消費が世界を壊しているのにも関わらず、高価な商品やライフスタイルのために人生を放り出しているのです。消費が社会のモーターの世界では私たちは消費をひたすら早く多くしなくてはなりません。消費が止まれば経済が麻痺し、経済が麻痺すれば不況のお化けがみんなの前に現れるのです。

このハイパー消費を続けるためには商品の寿命を縮め、できるだけ多く売らなければなりません。ということは、10万時間持つ電球を作れるのに、1000時間しか持たない電球しか売っては行けない社会にいるのです!そんな長く持つ電球はマーケットに良くないので作ってはいけないのです。人がもっと働くため、もっと売るために「使い捨ての社会」を続けなければならないのです。悪循環の中にいるのにお気づきでしょうか。これはまぎれも無く政治問題ですし、この問題を別の解決の道に私たち首脳は世界を導かなければなりません。

石器時代に戻れとは言っていません。マーケットをまたコントロールしなければならないと言っているのです。私の謙虚な考え方では、これは政治問題です。

昔の賢明な方々、エピクレオ、セネカやアイマラ民族までこんなことを言っています。

「貧乏なひととは、少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」

これはこの議論にとって文化的なキーポイントだと思います。

国の代表者としてリオ会議の決議や会合をそういう気持ちで参加しています。私のスピーチの中には耳が痛くなるような言葉がけっこうあると思いますが、みなさんには水源危機と環境危機が問題源でないことを分かってほしいのです。

根本的な問題は私たちが実行した社会モデルなのです。そして、改めて見直さなければならないのは私たちの生活スタイルだということ。

私は環境資源に恵まれている小さな国の代表です。私の国には300万人ほどの国民しかいません。でも、1300万頭の世界でもっとも美味しい牛が私の国にはあります。ヤギも800万から1000万頭ほどいます。私の国は食べ物の輸出国です。こんな小さい国なのに領土の90%が資源豊富なのです。

働き者の我が国民は一生懸命8時間働きます。今日は6時間働く人が増えています。しかし6時間労働の人は、その後もう一つの仕事をします。なぜか?バイク、車、などのリポ払いやローンを支払わないといけないのです。毎月2
倍働き、ローンを払って行ったら、いつの間にか私のような老人になっているのです。私と同じく、幸福な人生が目の前を一瞬で過ぎてしまいます。

そして自分にこんな質問を投げかけます:これが人類の運命なのか?私の言っていることはとてもシンプルなもので
すよ:発展は幸福の対抗にあっては行けないのです。発展というものは人類の本当の幸福を目指さなければならないのです。愛、人間関係、子供へのケア、友達を持つこと、必要最低限のものを持つこと。

幸福が私たちのもっとも大切な「もの」だからなのです。環境のために戦うのであれば、幸福が人類の一番大事な原料だということを忘れてはいけません。

<以上、貼り付け>

 

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