朝夕のジョギングの件

カテゴリー : ランニング

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長距離サイクリングやヒルクライムに対応する体力を強化(うーむ、体力温存、あるいは衰退防止かも)のため、梅雨の季節になる前に朝夕はジョギングをするようにしている。

主目的はライフワークの自転車ツーリングによる「人生の可動域」を拡げるためだ。日頃から心肺機能を鍛錬していると、走りに出てからの「粘り」、特に1500m以上の峠道や、午後3時過ぎ走行距離120kmを越えたあたりからあと30km走る時に「粘り」が出るのだ。

この粘る力はけっこう大事かつ有効だ。だからジョギングは馬鹿にできない。いや、日頃からせっせと道を踏んで足腰と「粘り」のイメージを潜在意識の中に溜め込んでおくと効くのだ。

さて、ジョギングと掛け合わせると、効果が各段に増す合わせ技がある。それは断食だ。断食とジョギング組み合わるとかなり効いてくるのだ。ジョギングを終えてシャワーをばーと浴びて、執筆にはいると仕事がはかどること、はかどること。

おそらくは①有酸素運動で脳内を循環する血液が増えてアタマにもいい影響を及ぼす。②細胞内のミトコンドリアの量が増える。③炭水化物→糖→エネルギーというルート以外に、脂肪→ケトン体→エネルギーというルートが活発になる。

ミトコンドリアを増やすには、「空腹」が重要だ。飽食しすぎると、ミトコンドリアは、栄養が体に行き渡っているため、怠け始める。ミトコンドリアが怠け始めると、体に入ってくる糖や脂肪はエネルギーに変換され難くなってしまう。つまり肥満になるのだ。ミトコンドリアは、エネルギーが不足している時や、もっとエネルギーの需要が必要な時に増殖するという性質を持っている。

断食を行なっているときに緩い有酸素運動をすることによって「ケトン体」を主要エネルギー源とする体内環境が重なり、ケトン体が持つ「抗炎症作用」が相乗的に効き始め、身体の中で発生している炎症を抑制することにもなる。

つまり、適度に「空腹」な時に、緩めのジョギングなど有酸素運動をすると、それが刺激となって体は、せっせとエネルギーを作らなければと認識してミトコンドリアを増やし、エネルギーを作ろうとするし、細胞レベルの炎症(万病のもと)を抑制することにもなるということ。

これはミトコンドリア研究の知見としても多数のエビデンスをもって認められていることだ。それやこれやで、ジョギングは「人生の可動域」を拡げるための実践的な準備運動なのだと思う。

健康増進あるいは美容皮膚科医とのダイアローグ

カテゴリー : No book, no life.

昨夜は美容皮膚科医の田中優子女史と健康をメインテーマとして貴重な座談。美容皮膚科医と意見を効果するのは初めての経験なので、とってもためになった。アイディアの異種混交はイノベーションの契機だ。

さて自分が専門とする医療・健康管理学は主として医療や健康に関する社会システムを観察や考察の対象にする。「私」は、これらの社会システムから距離を置いて観察、分析、評価する。この「私」が健康であればこそできることだ。したがって、「私」は健全に健康でなければならないのだ。

ゆえに、「私」に対するケア≒健康増進(ヘルス・プロモーション)は一人のプロフェショナルとしても、サイクリストとしても極めて重要なことなのだ。

健康増進は一過性のイベントなどでは決してなく、長期に渡って地道に行う習慣のようなものだ。で、今まで健康増進のために習慣化してきたものは:

 
①サイクリング(10代の終わりから現在まで)
②ビタミン類特にc大量摂取(25才以降現在まで)
③瞑想(25才以降40代まではかなり、今はほどほど)
④ファスティング(50代から)
⑤ランニング(50代から)
 
 これら以外の習慣+としては、できるだけ多くの方々と社交や絆づくりの場を持つ。講演など人前で知見を披露する機会を持つ。興味を持つ分野の本を大量に読んで仕事のアウトプットに活かす。ストレスをためない。軽快・陽気な気分をキープする。多様でポジティブ、マインドフルな感情の到来を楽しむ。たまにはドンチャン騒ぎをする。逸脱や越境行為も楽しむ。
 
 大体実年齢よりも最低でも10歳くらいは若く見られる自分なのだが、プロフェッショナルな美容皮膚科医から見ても実年齢マイナス15才くらいに見えるというのは、いやはやといった感じだ。したがって、上記①~⑤の効果はある程度検証されたと思いたいものだ。
 
ただし、正確に言えば「①~⑤プラスアルファの習慣の長期継続→現在の自分が若く見える」という因果関係が完全に立証されたわけではない。健康に関する現象はとても複雑適応的なので、単純明快なリニアな因果関係というものはありえないのだ。
 
だから、健康人生は検証がきわめて難しい実験の様相を呈するのだ・・・。
 
さてさて、スキンケア(直接肌になにかを塗ったりすること)は今までやったことがない。この点については、「男たるもの、女々しい化粧なんぞに凝っていかがなものか、という古い価値観の影響か。毎年夏には北海道自転車ツーリング真っ黒に日焼けしているので、蓄積された皮膚へのダメージは相当なものであるはずだ。このあたりは改善テーマだ。
 
随所に面白い記述を発見。例えば:
 
・腸で免疫細胞の8割が作られている。・・・腸はいわば人体最大の免疫機関。(p70)
 
・セロトニンの90%は腸内細菌が産出している(p71)
 
・ボディは魂の入れもの(p80)
 
・高濃度ビタミンC点滴・・・透明感のある美白肌や肝班改善。免疫力アップによりガン予防やガンの代替療法として注目されている(p89)
 
なるほど!といった感じだ。
 
 

ドキュメント断食道場

カテゴリー : No book, no life.

 

昭和62年(1987年)の発刊なので、絶版して久しい本だ。近年の断食本は、健康、病気予防、デトックス、減量、ダイエットといった点を中心にかかれることが主流。27年まえに書かれたこの本は、最近はほとんどお目にかからない、修行や修養といった視点がずいぶんと盛り込まれている。

六因四縁。

p193「六因というのは、①先祖、②両親、③自己の前世、④⑤⑥は現世のおける自分の身・口・意の3つです。身・口・意の三業。四縁というのは、①神、仏、先祖との霊縁、②人との縁、③食物との縁、④環境との縁。」

 このうち、現世に生きている自分の努力や創意工夫のみでは六因の3つ、つまり、①先祖、②両親、③自己の前世は変えることができない。しかし、身・口・意の三業は、三密の修行を積むことによって変えることができる。四縁の、①神、仏、先祖との霊縁。これは、縁の結び方と心がけで変えることができる。②人との縁、だれと会ってどんな話をするのか。ビジネスアライアンスをどうするのか、誰を師と仰ぐのか、誰を友人とするのか、などなど。これも賢慮して変えることができる。③食物との縁、たとえば、健康によくない砂糖、白米、薬依存を抑えて、あるいはやめて、玄米や自然な穀物、そして有機野菜などを食べる。そして、きちんと断食を定期的に行えば、いかようにも、食物との縁を変えて、自分自身を変えてゆくことが出来るだろう。④環境との縁。自動車に乗ることを減らして自転車に乗る。走る、歩く。仕事をするときに、環境のことを考えて、なるべく環境に悪い影響を及ぼさないように工夫する。畑や田圃で農薬や化学肥料を使わない。有機物だけで栽培する。

こう考えてみれば、決定的に重要な10の因縁のうち、なんとか生きているうちによい方向に変えることができるものは、7つもある。

p206「今いきているこの時が人生の一大事と思い、この一瞬に一大事の因縁があると思える人こそ強い人生を送ってゆけるのです」

p213「自分という一個の命は、現世だけの命ではなく、はるかなる昔から生き続けてきた命であり、肉体は滅びても、命は無限の未来に生きてゆく。現世の命はその悠久の歴史のなかの、ほんの短い一時期であり、だからこそ、今生きているということの重大さがひしひしと分かってくる。今生きているこの瞬間を大切にする。これが三世の人生観なのだ。」

p233「やはり60歳までに、少なくとも2~3回くらい断食をして健康な身体を保っておかないといけない。すると老いが楽しみになってくる。」

p248「昔から日本には大切な五つの行事があります。正月七日間、春の彼岸、お盆、秋の彼岸、祥月命日ーこの五回は、ご先祖様が帰って来られる・・・そしてわれらも彼岸に入る。自分の肉体も、心も、霊魂も深くパラミータに入る。しかも断食をもって彼岸に入る。最高のパーラミータです」

 

成田山参篭断食 

カテゴリー : 断食健康法

 


  この2年間の懸案のひとつが成田山参篭断食。やっと状況が整い3泊4日のまとまった時間を作ることができたので実行に移すことができた。

今執筆中のdissertation paperを推敲したり、仏教関係の調べものをするには、もってこいの環境だ。このところ関心を持ってきたテーマのひとつとして、仏教におけるsystems thinkingやtranslational thinkingだ。非常に幅広い仏教のなかでも、際立ってsystematicかつsystemicな体系を誇るのは密教、とくに真言密教だろう。

この断食道場は、パソコンやスマホなどの電子機器の持ち込みは禁止なのでネット環境から心身を離脱させることになる。したがって情報や知識へのアクセスは紙ベースの媒体に限定される。さいわい成田山には仏教研究所が付設されており、膨大な蔵書と静かな閲覧室があるので、ゆっくり読書するにはもってこいだ。

 

 (寛朝大僧正)

食べることをすべて絶ち、護摩供養、読経、読書、論文チェック、ノートづくり、散歩、参拝、ボーッと思索する、以外はなにもせず。

断食はいわゆる飢餓状態に自分を置くわけだから、これは生命にとっての一大事、一大危機だ。その一大危機状況を意図的に作り出し、そのプロセスのなかで、なにかを感じたり、内省したり、異質な刺激を得てゆこうというのは、実は飽食の現代にあって逆説的な贅沢なのかもしれない。

さて、成田山新勝寺は平安時代中期に起きた平将門の乱の際、939年(天慶2年)朱雀天皇の密勅により寛朝大僧正を東国へ遣わしたことに起源を持つ。なので、平将門が生まれたとされる佐倉市の将門町(まさかどまち)の住人は今でも成田山への参拝を拒んでいるくらいだ。

全国、断食を行う施設は多い。しかし成田山参篭断食の特色は:

①真言宗智山派成田山の総本山が運営する由緒正しい密教修行道場であること。祐天上人、二宮尊徳、倉田百三、歴代の市川團十郎らもここで断食修行を行っている。

②広大な境内には各種宗教施設、庭園、美術館、修行道場、瞑想・断食・写経プログラムなどの充実したインフラストラクチャーが整っている。

③それにも拘わらず、2泊3日で5000円(3泊目以降は一日につきプラス1000円)という値段は、不謹慎な比較だが、北海道のライダーハウスとまではいかないものの、正式な断食施設のなかでも最も安い部類だ。

④断食に期待する成果は人それぞれに異なるし、かなり主観的なものだ。それでいいと思う。また断食から引き出す価値をかりに、

価値=成果/コスト

と、とらえてみれば価値はかなり大きなものになると思われる。

⑤その経験価値を修行者といっしょに創ってゆく「場」が断食道場。経験価値をシェアする場が断食道場。だからたまたまのご縁でいっしょになった同室の方々のことも大切に。

⑥健康法、デトックス、ダイエットとしての断食という文脈はここには一切ない。しかし、参加者の多くは減量、体質改善、健康増進を主目的としているようだ。かつては心身鍛錬が断食の主目的だったが、今は断食がケアシフトしているのだ。この断食道場は、そういったスタンスではなく、修行としての「参篭断食」を前面に打ち出しているのが、またいい。

 (金剛界曼荼羅)

 所感など。

・いい経験だった。今までまる二日間の断食はやったことがあったが、3泊4日連続で断食というのは初めてだ。

・二日目の午後はちょっとだるくなった。たぶん新皮質の脳血流が減っているためだろう、分析的な作業はしんどくなる。英語のペーパーを推敲するのがうっとうしくなり、密教関係の一般書、専門書などを集中して読んだ。

・アタマの使い方が変わってくる。断食中は、新皮質系の前頭野あたりででものごとを論理的、直線的に考えるというよりは、もっと奥まった旧皮質や古皮質や辺縁系でものごとをじわ~っと丸く包み込んでゆく感じだ。

・とはいえ、早朝の護摩供養や午後3時間からの読経を除けば、時間はたっぷりありかつゆっくり流れる。なので、必然的にぼーーーっとする時間が増えるのだ。ネットもなし、スマホもなし、食べ物もなし、水以外の飲料もなし・・・・。ないないづくしというのは、結局、自分の内面や身の回りのリアルな環境に意識の方向性が向く。

・ぼーーーーっつとすることは贅沢なことだ。いいことだ。

・日常生活であくせくしている自分がなにか遠い世界の別人に見えてくる。

・20メートルくらい先には出店などがあり、そこから鰻の蒲焼の旨そうな臭いが流れてくる。これはこれでなかなかオツなものだ。

(不動明王)

・同室の修行者の皆さん、けっこう暇をもてやましているので、断食の話、たわいもない世間話などけっこう楽しいものだ。

・境内でぼーーとしていると、不思議なものでやたら外国人のツーリストから話掛けられる。タイ、トルコ、インド、アメリカなど。インドから観光にやってきた親子は、日本にきてインドの神様(十二神将などは仏教に習合されて仏を守護する眷属的な位置になっている。かたや現在インドのヒンドウー教ではお釈迦様は多くの神々のひとつという位置づけだ)を見るとはビックリ仰天だと眼を丸くしていた。

・成田山公園の庭がとてつもなく美しいものに感じるようになる。眼(視覚)のみならず、耳(聴覚)、鼻(嗅覚)、舌(味覚)、身(触覚)、意(意識)が鋭敏、敏感になってくる。木立を通り抜け、池を渡る風にも甘い臭いがある。その風に乗って様々は動物の声が聞こえてくる。断食中はもちろん味覚を用いることはないのだが、自分の唾液の味がおいしく感じるのはちょっと変態になった気分でもある。要するに五識が鋭敏になるだ。と同時に、うつくしい自然に対してココロの底から畏敬の念や感謝が湧き上がってくる。

・脳の辺縁系や深い部位でものごとを感知するようになる。かなり断食と瞑想は親和的。ローマカトリック、回教でも断食を宗教的な修行として位置づけているのはうなずける。

・成田山全体がパワースポットのようなものだが、やはり、奥の院の気の凝集性は格別。

・Translateは唯識哲学の理論的系譜を継承する密教用語では「転識得智」。眼(視覚)、耳(聴覚)、鼻(嗅覚)、舌(味覚)、身(触覚)、意(意識)の五識を「成所作智」に転換してゆく。これらの前五識をまとめるこころのはたらきを含める六識を転じて「妙観察智」を得る。さらには自我に対するとらわれや自我意識といった七識を転じて「平等正智」を得る。さらに第八識の阿頼耶識を転じて「大円鏡智」を得てゆく。さらに、第九アンマラ識をトランスレートして「法界体性智」としてゆく。

・今アメリカ西海岸あたりではやりつつあるMindfulnessってのは、実は、転識得智のプロセスとしてとらえれば分かり易いだろう。意識もデザインの対象としてとらえれば、自分というprojectの中心に位置する自分の意識に対してアプローチしてゆくことは自己イノベーションやイノベーションデザインの視点から見てもとても大事なことだろう。

・転識得智は信仰というよりは、認識論、現象論の世界だ。ゆえに唯識哲学の根幹でもある。でも真言密教では身口意の三密修行のシステミックな実践方法論を内包している。

・三密とは、身密→身体活動、→言語活動、意密→精神活動ということでようは人間の活動システム(human activity systems)の根幹だ。煩悩にはまるとこれらはレベルアップしない。でも、ちょっと工夫するとかなりレベルアップできる。ちょっとをすごくに変えるのが密教の修行。

・その一方、はやり表象や象徴を通した信仰という側面も強い。金剛界曼荼羅の配置を見ると:

「成所作智」・・・・・・・不空成就如来(北)

「妙観察智」・・・・・・・無量寿如来(西)

「平等正智」・・・・・・・宝生如来(南)

「大円鏡智」・・・・・・・阿しゅく如来(東)

「法界体性智」・・・・・大日如来(中心)

というようになっている。仏教芸術として表象、象徴として表現(荘厳)している。京都の東福寺の光明院を先月訪れた。徹底的な表現主義である密教は、徹底的な非表現主義の禅とは対蹠的だ。

・一般にSystem=( entity, relation )と表現されるが、仏教とくに真言密教ではentityの実在性はないと観るだけではない。つまりモノ性や意思決定主体のヒトの存在を空と観て一切を空みなす空観や、現象するものすべてを仮のものと突き放す仮観でもなく、両方が備わってみる中観、さらには三諦円融観に進んでゆく。

・三密を「絶対的な存在」と合一させてゆくというのが成仏(ブッダ=仏に成るということ)。「絶対的な存在」が法身大日如来ならば仏教の密教だが、「絶対的な存在」をGodにしてしまうと、いわゆる西洋社会では受け容れがたいGodに対する冒涜行為とみなされる。後者の視点に立てば護摩供養などというものは「悪魔のミサ」のようなものだ。

・宇宙の一切が関係性(縁)によって創発され、つねに変化している。大日如来さえも、その本性には空性があるという。systems thinkingの論点で、真言密教の世界認識を書いてみたら面白いだろう。一神教の世界観と異なって多元的なエコロジカルな世界観だとおもうのだが、さて。

Cover of book "The Systems View of life" by Fritjof Capra

・仏教研究者のジョアン・メイシーは縁起をdependent co-arising(相互依存的連係生起)ととらえている。Value co-creationは縁起によって相互依存的連係生起的に創発すると押さえればシックリくる。よし、これだ。

・水はとほうもなく貴重なものだ。これさえ飲んでいれば人間はしばらくは命をつなぐことができるのだ。ひたすらありがたい。動物は水がなければ生存できないって、アタリマエのことが体の芯から理解できた。

・最後にいただいたお粥(三分がゆ程度のごく薄いもの)は美味しかった。その美味しさに素直に感動した。断食明けの初めて食事がbreakfastだ。fastingつまり断食することをbreakする、つまり破る・止めるのが、朝の食事だ。胃に染み渡った感じ。焼き味噌の味が強烈に濃く感じた。食べものはありがたい。家に帰っても出される食べ物はすべて感謝の気持ちをもって、ありがたくいただかなければいけないのだ。

                            ***

自転車仲間とインドネパールを走った折に、訪れたお釈迦様の生地ルンビニ=仏教軌道の原点。そして、その教えが根本二大分裂後、大乗仏教が勃興し、チベットや中国に中伝したり、北伝したり、変質しながら伝播してきた。その精華が大天才・弘法大師空海によって体系的にまとめられ日本に伝えられ、寛朝大僧正によって開山された成田山=今ここの仏教の帰着点。二つの点をやっと結ぶことができてよかった。

次は三つめの点を探す旅だ。

密教修行における断食を現代システム論のひとつの到達点である自己組織化という点でとらえている人はたぶん他にはいないだろう。自己組織化とは、システムが環境変化に適応してみずからの構造を変えるのではなく、環境変化のあるなしにかかわらず、自力でみずからを変えることをいう。環境適応ではなく、内破の力によってみずからを変えることであり、まさに断食は自己組織化の実践だ。しかも、だれにでもできることだ。

断食は複雑適応システム(complex adaptive system)としての人間の自己組織化能力(self-organization potency)を応用した健康法、鍛錬方、修行方だともいえるだろう。

甲田光雄博士はかつて断食の効能を10に分けてつぎのように説明している。これらは、人間の自己組織化能力の発現ととらえることができるだろう。

1.断食は眠っている本来的な力を呼び覚まし、体質を変える
2.断食は快感をもたらす
3.断食はエネルギーの利用の仕方を変える
4.断食は宿便を排出する
5.断食は環境毒素を排出する
6.断食は自己融解を起こす
7.断食は遺伝子を活性化させる
8.断食はスタミナをつける
9.断食は免疫を上げる
10.断食は活性酸素をへらす

いずれにせよ、健康法としての断食をサイクリングとランニングに組み合わせて細々とやっている自分からしてみれば、大変よい「節目」になったと感じた。夏はこのフローをうけて、絞り込んだ身(?)、清浄となった言葉(?)、鋭敏になった意(?)を以って北海道を自転車でシャカシャカ走って三密自転車道(?)を走る計画だ。

断食とサイクリング

カテゴリー : 断食健康法

「食べるために、食べない」

     そして、

「食べないために、食べる」

こうのように書くと、禅問答のように聞こえるが、実は断食健康法の極意だと密かに思っている。

食べるということは、38億年前に生命が誕生してから、進化を経ながら延々と生命の維持と複製のためにゆらぎながら行ってきた、まさに、生命が生命であるための根本的ないとなみだ。

業といってもいいのかも。牛やブタを殺してその肉を「ウマイ」といって食べるんですから・・・。

さて、断食は拒食ではない。意図的に、朝食を抜く、半日断食、丸一日断食、数日や1~2週間程度の本格的断食などが、いわゆる断食だ。食べる、食べない、を意図のコントロール下に置くのである。だから制御を失った拒食とな異なる。

「食べるために、食べない」・・・心底、感謝の念を持って美味しく食べ物、つまり、命を命たらしめる生命の連鎖の、貴重なおこぼれに預かるために、食べることをやめてみる。

「食べないために、食べる」・・・心身に良いものをいただくことによって、断食をキッチリこなせるようにする。

これらのいのちの輪、サイクルを自覚的、意図的に廻すことが、断食であり、食養。

そして、このサイクルを、側面からサポートしてしっかり廻してくれるものが、サイクリングだ。

駄洒落みたいだが、そう考えればいいと思う。

断食は、前にも書いたようにサーチュイン遺伝子のスイッチをオンにして、老化現象に歯止めをかける。サーチュイン遺伝子は、髪の毛、皮膚、各種内臓、骨、血管、赤血球など体のすみずみに遍く存在している。これらが、オンになれば、アンチ・エイジング効果が顕著になる。これらは数多くの医学論文で明らかにされており、また一般的向けのわかりやすい記事としても紹介されている。

参考サイトなど:

老化を防ぐサーチュイン遺伝子 「腹七分目」で活性化促進

長寿遺伝子と呼ばれるサーチュイン遺伝子は腹が減れば活性化
 
自然療法による癌治療 ~ Cancer Therapies by Naturopathy
 (このサイト、かなりチカラがはいっていて体系的にまとめられている。健康増進法としてもヒント満載。)
 
                                                                
断食を取り入れる健康法の妙に面白いところは、理論を実践にうつし、その実践から自分なりのパターンやモデルといった理論フレームを構築・改善してぐるぐると再帰的に回転させることができるということだ。そして創意工夫の余地は無限。つまり、そのエッセンスは、自分の「カラダ」と「いのち」を張ったアクション・ラーニングということだ。
 
今年は、正月の暴飲暴食の期間が終わってから、意を決して、毎日の半日断食(つまり朝食なし)と1週間に1回の丸一日断食を習慣化することにした。
 
で、自分なりの工夫は以下の4つの組み合わせだ。

(1)アクティブに動き、カラダを使うサイクリングやランニング(カラダを外に向かって使う方向)、(2)読書や論文執筆といった知的作業(不足気味のアタマを用いる知的な方向)、(3)半日断食、まる一日断食(カラダをウチに向かって使う方向)、(4)スピリチュアルあるいはマインドフルに鋭敏な方向にもってゆく(アタマよりもさらに深くて広い方向性)といった4つのエレメント、方向性を組み合わせてやっている。

これらの4つは、バラバラで独立なものではなく、かなり重なっている、あるいは収斂するもののように感じている。

さて、年初から今日まで、毎日が半日断食、そして丸一日断食を18回行ってきた。その結果体重は9kgダウン。ただし、体重が減って一喜一憂するのは本来の断食の姿ではない。体重が減るというのは上っつらの現象で、大切なことは、それが、どのようなエフェクト(効果)に繋がったのかということだ。

以前は、サイクリングで一日140kmくらい走ると、けっこうバテていた。翌日や翌々日は、大腿筋が張って疲労がなかなか解消できなかったものだが、このゴールデンウィークを利用して、一日で200kmを完走することができた。このルートには高い峠や山地があるわけではないので、まあ、さほど褒めたものではけっしてないが、去年の自分と比べると、けっこうなものである。

今回は佐倉→多古→飯岡→犬吠崎でまだ十分な余力があったので、利根川を遡行するルートで復路も走り合計200km走破。週1回の丸一日断食による減量、食養(毎日朝食なし、玄米食、肉少なめ、生野菜をたくさん食べる)、ランニング、サイクリングの組み合わせによりスタミナが増しているのを実感。

①体重減量による負荷低下=仕事量=消費エネルギー=体重X移動距離→体重が減ると同じエネルギーで長距離を走れるようになる。
②持久力の向上=長時間走っても以前のようにバテない。以前は140kmが壁だった。
③瞬発力系運動効率の向上=以前はあまり続けられなかったダンシングで10%登坂できるようになった。
④疲労回復力=140km越えてから10分も休めばリフレッシュして、また元気に走れるようになった。

                  ***

①脂肪→ケトン体(短鎖脂肪酸)→エネルギーという回路ができて、②炭水化物→ブドウ糖→エネルギーというパスを補完するようになってきたのだろう(仮説)。ブドウ糖はがんの最大のエサなので、断食による①のパスつくりは、スタミナ増強とともにがん発生予防にもなるだろう。

体が飢餓状態となって体内のブドウ糖が枯渇した時に、体がブドウ糖に代わる “代替エネルギー源” として作り出す『短鎖脂肪酸』、それが『ケトン体』。エネルギー発生回路としてのケトン体回路が体内に生成してこれば、がん予防になる。また、断食は自己融解を起こし糖尿病や高血圧の予防にもなる。と同時に、サイクリングにもプラスになる。

以前は、自転車で走るときは、炭水化物、糖分、水を大量に摂取していた。でも、玄米おにぎり4個とパン2個くらいで200kmをなんとかこなすことができた、というのは遅ればせながらもちょっとした発見。

もうしばらく自分の体でアクション・ラーニング(人体実験)してみる予定だ(笑)。

江戸時代の知恵者=水野南北という観相家の教え

カテゴリー : 断食健康法

(水野南北の肖像画)

食を断つ断食、食を節する節食。断食や節食は、たしかに健康によいというのは、医学の臨床研究のエビデンスもずいぶんと積みあがってきている。たしかに、やれグルメだ、やれ飽食だと、ひたすら食べるという食欲の追求は、栄養過多を現代人にもたらしている。生活習慣病の一大要因は明らかに「食べすぎ」である。食べることができずに死ぬのではなく、食べ過ぎて死ぬというのは、じつは、人類の歴史、はたまた生命の歴史38億年を振り返っても、生物として、特異きわまりない出来事だ。

心臓病、がん、糖尿病、骨粗鬆症、肥満は飽食病(diseases of affluence)といわれている。食べすぎて病気になったり死ぬとは、ここ50年くらいの日本を含める先進国に蔓延している極めて現代的な「病」だ。幸か不幸か、その50年という歪んだ瞬間に生きている現在人。なので、北欧、アメリカ、英国、ドイツ、フランス、イタリアあたりの健康志向の知的なクラスでは、断食や節食はだんだんと静かなブームになってきている。

日本も例外ではない。ただし、欧米でトレンドになっているから断食や節食に注目しようという追随型の付和雷同には反対だ。なぜなら、日本ならではの和風断食、節食の優れているポイントは4つあり、そこに注目するといろいろなことが見えてくるからだ。

①近年、食の「欧米化」が進んでいるとはいえ、日本には日本の食生活の伝統がある。②日本には、断食や節食に関する連綿たる伝統、方法論のシステムがある。③日本の断食・節食システムは、食にとどまらす、命のありかた、生き方、運命などをも視野に入れた優れた全体論(holism)志向なものが多い。④仏教、古神道、神仙、仙道、修験道の修行システムにも断食・節食は体系的に取り入れられている。

たとえば、多くを食べずに健康になる、幸せになる、運をよくする方法論を説いた人物が江戸時代中期の日本にいた。その人、水野南北という。命、食、運をシステム的にとらえ、あらかたこんなことを説いた。

<以下引用>

○命のありかたこそが運である。食のありかたこそ命に直結する。ゆえに、食のありかたこそが運を大きく左右する。(明瞭な三段論法)

○人間の生命の根本は食である。たとえどのような良薬をもちいても、食べなければ生命をたもつことはできない。だから人にとって本当の良薬は食である。

食事量の多少によって、人間の貧富や寿命や未来の運命を予知することができる。古人の言葉に「天に禄なき人は生じず、地に根なき草は生えず」ということばがあるが、その身ほどによって天より与えられた一定の食事量がある。みだりにむさぼり食う者は、天の戒律を破る者である。生命の存在するところに必ず食べ物があり、逆にいえば食べ物あるところに必ず生命が発生する。食べ物は生命の源であり、生命は食べ物に随うものである。そして人間の生涯の吉凶は、ことごとく食によって決まるといっても過言ではない。

三度の食事が粗食で少量の者は、悪相・貧相であっても金持ちになり、子孫に財産や名誉をのこすであろう。いつもは粗食だが時々大食するものは大凶である。

いつも身のほどに不相応の美食をしている者は、たとえ人相は吉であっても運勢は凶である。その美食癖をあらためなければ、家を没落させ、出世も成功もおぼつかない。まして貧乏人の美食家は「働けど働けどわが暮し楽にならず」で、一生苦労する。

大いに成功・発展の相があっても、怠け者でずるく、酒肉をたのしみ、自分の本業に精を出さない者には成功・発展はない。

○子供の相が貧相で悪くても、その親が食に慎しみをもつならば、みだりに貧相悪相というべきではない。子供は、その親のなすところによって悪相から善相に一変することがある。子に対して親は本であるから、その本が正しければ子もおのずから正しくなる道理である。もっとも、過去世の因縁を解いてやるのは親の務めであり、親が解けないほどの因縁の場合は、子が成長して自ら解くほかない。


○悪因を解き善因を積むには、陰徳を積むほかはない。世に慈善事業や放生をして陰徳を積んだつもりになっている者があるが、これらはみな人に知られる行為であり、真の「陰徳」とはいえない。

仏法は精神を治めることを本とするゆえに食を慎むのである。なぜなら万事心が乱れることは、みな飲食を本として起るからである。飲食を慎むときは心静かになり不動心を得る。不動心を得れば、その道(仏道)を得ることはたやすい。

千日千夜祈ってもあなたに実がなければ神明はどこにもおられない。また実を持って祈ろうとのぞむなら自分の命を神に献じ奉ることだ。食は自分の命を養うもとである、これを献じ奉るということはすなわち自分の命を献ずるのと同じである。

○万物ことごとく妙法でないものはない、また相でないものもない。また相には有無の二つあって無相はかたがないといってもその全体像ははっきりしている。これを微妙という。すなわち心であって簡単にはいいあらわせない。また有形は形であって、かたちのあるものは法であり、体もそうである。法あるものは滅びて行く。これが法の道であり相法の道である。性ことごとく微妙より来たって、はっきりと法形を生ずる。

<以上引用> 引用サイトはこちら

断食をすると、食べ物や水のありがたさを痛感する。食を断って、はじめて食の有難さに感じ入る。だれにでもできて、やろうと思えばすぐにできる断食・節食は、明日の健康管理(health administration)にとって必須科目だろう。

 

断食とメンタル

カテゴリー : 断食健康法

なにを隠そう、大食いのほうだ。だから、ちょっと自転車やランニングから遠ざかると、すぐに太ってしまう。そこで断食を10年くらいやっていて、健康優良児(中年)の畏友から断食の方法や参考書を教えてもらった。こやつ、30年以上風邪で熱ひとつ出したことのない超人のような男だ。彼にあやかるべく、そして健啖家を返上すべく、「断食」を健康増進(オプティマル・ヘルス)メニューに取り入れて3年目。

断食(fasting)はもちろん、フィジカル面での効果は大きい。ダイエット、減量、抗老化、長寿遺伝子のオン、内臓脂肪の除去、体内の老廃物の除去など、医学研究でもずいぶんと根拠が積みあがってきている。

あまり報告されていないメンタル面での効果をメモしておきたい。

(1)呼吸が減る
断食をはじめてから1年くらいたった時に気がついたことがある。それは、毎回の断食開始後6時間もすると、呼吸をたくさんしなくてもすむようになることだ。通常、食事をすれば、摂取された食物を消化するために、大量の血液が消化管、内臓に動員され、あわせて大量の酸素が赤血球と結合されるため、体は大量の酸素も使うこととなる。ところが、断食をすると、食物を消化するという体の一大事業が休止するので、酸素の使用量もいきおい急減することとなる。その結果、体感的には普段の7割くらいの呼吸ですむようになる。
 
体にダメージを与えるもののひとつとして活性酸素の存在がある。酸素をやたらに摂取しなければ、活性酸素が体内に発生する確率も格段に減ることとなる。つまり、呼吸が減ることによって、活性酸素の悪影響から逃れることもできるようになり、結果として体にプラスに働くというように考えられる。
 
話がずれたが、メンタル面での稼動域を拡張して変性意識にいたる瞑想修行で得る状態を断食でも得ることができる。もっとも、断食でハラが減っているときは、余計な運動をするよりは黙って静かにしている、つまり瞑想するのがいい。断食中だと数息観の目安、つまり1分間に3-5回の呼吸数まで落とすのは容易になるのだ。
 
やや粗雑な言い方だが、少ない呼吸≒断食≒瞑想といえるのではないだろうか。
 
(2)変性意識の明敏化
断食に慣れてくると、瞑想をしている時のような感覚がじわっとやってくる。断食になれていなかったころは、ひもじい思いばかりがつのることがおおかったのだが、半年くらいすると、まるで瞑想しているときのような感覚を覚えるようになった。これは変性意識の賦活である。
 
いったいなぜ?と思い、いろいろ調べてみた。どうやらこんなことではないのだろうか。
 
①断食している最中とはいえ、体をめぐる血液の量はほぼ一定のはずだ。消化器とそれに付属する器官に循環する血液の量が減る分、脳を循環する血液の量はいくぶん増える。だから意識も明敏になる。
 
追記:前札幌医科大学教授の郷久鉞二医師は、自分自身で断食を試み、脳血流の変化を測定した。その結果、脳血流は断食時には通常の半分、脳の酸素消費量は35パーセント減少と報告している。これにより新皮質の過剰なはたらきが低下し、抑圧されている脳幹や辺縁系へのストレスが開放されるので生命力があがる、との説明を加えている。 出所:ドキュメント断食道場 1987年刊)
 
②断食をすると体内のブドウ糖などの糖分が急に減ってきてエンスト状態になってしまう。そこで、たまらず、生命活動を維持するための司令塔=脳は、それまで蓄えられてきた脂肪をエネルギー源として使うように体中に号令を出す。脂肪がエネルギーに転換されるときは、脂肪はケトン体という物質に分解される。
 
③このケトン体への分解がミソだ。「ケトン体をエネルギー源とした脳は、脳はのひとつであるα波を増やし、脳下垂体からはβエンドルフィンという物質の分泌が触れる」(甲田光雄・奇跡が起こる半日断食)こととなる。α波は脳がリラックスしながらも、意識は明敏に集中しているような時に発生する脳波。また、βエンドルフィンは、脳内の報酬系に多く存在する神経伝達物質で、鎮痛や多幸感、快楽、明瞭、明敏な意識状態をもたらすということが、いろいろな最近の脳科学などの研究によってわかってきている。
 
ケトン体は酸性の物質。健康な人体は弱アルカリ性なので、酸性を人体にとって有害なもと判断し、断食中は酸性の物質を体外に排泄しようとする。このとき、食品添加物、農薬、トランス脂肪酸など人体に有害なものは酸性の性質を持っているため、一緒に排泄される。これが、断食のデトックス効果だ。
 
以上が、ユダヤ教、キリスト教、回教、仏教、修験道などの、顕というようりは、密(エソテリック系=秘儀系)部門で断食が修行の一環として古来尊重されている大枠の理由だろう。唯識仏教のほうの言い方を拝借すれば、断食によって、五識、つまり、眼、耳、鼻、舌、身、そしてそれらの大本の「意」(妙観察智)が鋭敏になってくるのだ。
 
そこから、意識のスペクトルのもっと奥には、魂のおおもとである、マナ識(≒平等性智)、そしてアーラヤ意識(≒大円鏡智)、さらにはカーラナ識が横たわる。
 
このような階梯の最初の一歩がたぶん断食ではないのだろうか。