医療管理学(Health Care Management)

カテゴリー : 医療サービスイノベーション

Cornell University Best Graduate HCM Program

<コーネル大学>

このところ、大学院で医療管理学(Health Care Management)を学びたいという何人かの奇特な人に遭遇。いろいろ進路相談などに乗っている。事情やニーズは個別に異なるのだが、アドバイスとなると共通点も多いのでちょっとまとめておく。

看護管理や病院管理、そして経営学、社会学、政策分析学、公衆衛生・・・・こういったバックグラウンドを持つ人が経営や政策の方向でキャリアを積みたい場合はフィットする。

今や国内で医療管理学(医療経営学、医療政策管理学、健康管理学など呼称はさまざま)を研究したり、教えたりする大学院はわずかずつながらも増えつつある。英語はさっぱりダメ、日本国内に限定してドメスティックにキャリアデザインしたい人、グローバル体験回避組、とりあえずの意識高い系(?)にとって受け皿になっている。

英語がある程度できて、日本にとどまらずグローバルなキャリアを追求したい人、輸入学問に飽き足らずsocial scienceの本流で医療管理学を学びたい人にとって、英語圏のプログラムは魅力的だろう。このようなまとめサイトもある。Top 25 Graduate Healthcare Management Degrees in 2015

母校のコーネル大学のheath managementプログラムもTop6ということでなかなか健闘している。

日本国内の閉じた学問ではなく、もっと普遍性のある視野で医療管理学を勉強したい、Global Healthという視点で学びたい、かなり英語ができるっていう人、留学できるだけの資金の算段のある人にとっては英語圏の大学院プログラムがオススメだ。

日本人の日本人による日本人のためのという、ドメスティックで内に閉じた和製学問では、普遍性や国際比較、学問的言説バトルからは隔絶していて、普遍性も「ふ」の字もない。グローバルな場で鍛錬したい向きには、やはり英語圏の大学院を薦めたいものだ。

また新自由主義や市場経済政策のもとで私有材化しつつある、「市場化」された医療サービスの矛盾や健康格差を本場で見極め、批判的な視点さらに先鋭化させたい人達にとっても案外、これらのプログラムは反面教師という意味合いでよいのかもしれない。

アクティブ・ラーニングと留学

カテゴリー : サービス思考

文際交流協会
東京工科大学の看護学科の先生から頼まれて受け持った「社会経済学」の授業。全15回(土曜日!)なんとか終わってホッとしている。

そのクラスでは5-6人(全クラスの1割くらいか)が海外留学の経験があるということだった。オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、アメリカなど英語圏が中心だ。

階層化が進んだ現代日本のミドルクラス以上の家庭では、留学はある意味遠足のようなお気軽なものだ。昔のように意を決して人生の一大勝負事のように勇ましく雄飛するようなシロモノではない。とくに学位取得を前提にしない語学留学や短期留学はカジュアルでコモディティー的なものになっている。

さて、松下の授業はどんな科目でもアクティブ・ラーニング・メソッドを用いるので、授業中はチャット、ディスカッション、グループワーク、プレゼンテーション、創成型のアジェンダ(課題)レポートなどで、ワイワイ、ガヤガヤ、ワサワサしたものだ。課題を見つけて、ソリューションを自分たちで考え、みんなの前で発表し、対話、批判、質問、回答(弁明)をとおしてさらに認識をシャープにしてゆこうというものだ。

もっともこの手法は、アメリカの大学院へ留学しているときに学生目線で学んだものだ。それまでは日本の学部にいたので、一方通行のつまらない授業に辟易としていたのだ。そんなこともあり、大学で教えるようになってからは、ほとんどの授業でアクティブ・ラーニングをやるようにしている。

さて、留学経験者のアクティブ・ラーニング型のセッションでの反応は3つくらいにまとめることができるだろう。

(1)口数が多い。

人前でしゃべることが好き。逆にだまっているとストレスが増す。コミュニケーションをとること自体が楽しいと心の底から思えるようだ。

(2)自分の考えを話す。

バカ話、ヨタ話ではなく、自分の思うところ、考えるものをスピークアウトする。

(3)同調圧力に屈しない。

自分の考えを表明することは「周囲との差異」を際立たせる。日本人は、まわりの「空気」や「空気感」に同調して、カドやエッジを際立たせることをよしとしない。しかし、おしなべて留学経験者は、このような同調圧力モードが低出力なのだ。

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グローバル人材(日本だけで流通している変な用語)を定義しようと思ったら込み入った話になりやすい。べつにグローバルとか言って、大上段に構える必要はないと思う。シンプルに言えば、上記3項目の行動特性が、その入り口だろう。ローカルなリージョンに生きるうえでも、これらの行動特性は活きて来るだろう。

(以前ドイツ人と日本人学生に英語で対話型のレクチャーをやったことがあるが、その時の印象)

教育とはサービスだ。そして、のっぴきならない授業はサービスの現場ということになる。そのサービスをいかに位置づけるのか。教員を中心とする考え方は、教える(Instruct)。そうではなく主人公を学生にすれば、学ぶ(Learn)ことの支援だ。

教員と学生は共に成果を創造するという意味での共創的な関係なのだ。

そのような反転させた目線で、学びをサポートして支援していくのがActive Learningだ。ローカルでもグローバルでも、アクティブなほうが人生楽しいし、たぶん他者のためにもなるだろう。保健・医療・福祉サービスを担う若者の学びの支援は、だから、共創モードのActive Learningを用いることが目的合理的だ。

社会経済学の取っ掛かりを学んだ学生のみんなにはどうかactiveに生きていって欲しいものだ。

 

ユーラシア大陸思索行

カテゴリー : No book, no life.

ここ数ヶ月で、昔インドとネパールを自転車で共に駆け抜けた古い友人たちと2回立て続けに会って、大いに語り合った。一回目は共に走ったメンバーの家で、二回目は、尊敬する先輩が新築した豪華ログハウスでド宴会二連発。二回目は泊りがけという力の入りよう。

その旅の記録を8mmフィルムにとっておいたものをなんと34年ぶりに共通の親友Mがデジタル化してくれて、仲間でその映像を見ながら当時の話をしていると、否が応でも杯は進み話は盛り上がるのだ。

この自転車による冒険の言いだしっぺは、ほかならぬ自分自身だった。

ではどうして、ヒンドスタン平原のデリーからネパールのカトマンズへというルートにしたのか?

実は1冊の書物がその発端だった。色川大吉著「ユーラシア大陸思索行」(1973年刊)である。

高校時代に読んで膝を打った「文明の生態史観」が底流にあったとはいえ、「ユーラシア大陸思索行」のインパクトは少なくなかったのだ。当時の心象を振り返り、なにがしかの近未来へのインプリケーションを得るために読み返してみた。

・風塵よ、これがアジアだ。(p128)

・アメリカを介在させずに、いきなり日本を西洋やアジアと対比させる議論は今の日本には適当でない。(p154)

・戦後20余年、日本はアメリカの亜流文明の中にあった。外から現象的にだけ見る限り、日本がアジアの国だとは到底信じがたい。(p156)

・天皇島への自己嫌悪・・・あの小さな島国、奇妙な天皇島での人間と人間の甘え、人間と自然とのなれなれしい内縁関係、そして、その人と人との間にある感情過多に、自己嫌悪をもよおす。(p202)

・遠く日本中世の吟遊詩人から、近くは江戸時代の漂民や巡礼や世間師などにいたるまでの、放浪の伝統をわが国は持っている。私は国際放浪者のことをその歴史との照応の中で考えている。なぜなら、日本のような島国の均質な一系性社会は、こうした人間群を媒介にしないでは、みずからを相対化する思想方法を獲得するこはできないであろうから。(p208)

・なにはともあれ、日本の若者たちよ、海外(そと)に出よう。そして、無辺の荒野のなかに魂をさらそう。(p286)

このような左翼人士的な主張もあいまって、この本のインドの描写がとても印象的だったのだ。しかし、欧州からインドまでの長距離はとてもじゃないが、数ヶ月で自転車で走破できる距離ではない。

この本には、「グローバル人材」などという昨今流通されている特殊用語はもちろん登場しない。その代わりに、著者が万感の思いを込めて多用する言葉が自己否定的で、土俗の底を自力で移動する「国際放浪者」だ。

Hiroshi  Matsumura's photo.

(Mの編集:ヒンドスタン平原の北限あたりの国境近く、ヒマラヤの前衛がすぐそこ)

よっしゃ、自転車に乗った国際放浪者になろうと20歳をちょっと過ぎた青年は決心してしまった、無謀にも。

そして、色川大吉がもっとも深い共感を感じえて、かつ、欧州からインドまでの地域を日本民衆史、日本思想史とい補助線に引いて俯瞰しえた、その結論の地、インドから走ってみようというアイディアを得たのだ。そして、インド・ネパール自転車ドサまわり隊は全3人のメンバーを得て実行に移された。

その数年後、アメリカに留学に旅立つ自分がいた。留学という名前の国際放浪である。著者色川大吉はプリンストン大学の客員教授を経て、この大自動車旅行に旅立った。自分は、この本を契機にして敢行した自転車旅行のあと、同じアイビーリーグのコーネル大学へと。このあたりの系譜も振り返ってみるとなにか面白い。

一冊の本、しかも、多感な20代の頃に触れる一冊というものは、その後の人生軌道にも大きな影響を与えるものである。1970年代当時の時代の香りが濃厚に行間に漂いながらも、今も脈々と継承されている「国際放浪者」なる系譜を伝える一冊だ。

若者のみならず、バカ者、ヨソ者、タワケ者たらんと念ずるヒト、自分をイノベートしたいと画策するヒトにぜひ一読をおすすめしたい。

 

反抗そして知的放浪としての留学

カテゴリー : アメリカ

Cornell-University             (コーネル大学)

留学の「効用」とはなにか?

確固たる専門を持ちたい・・・。英語を研鑽したい・・・。異文化間コミュニケーション能力を伸ばしたい・・・。まっとうなビジネススキルを身につけたい・・・。泊をつけたい・・・。高い報酬を得たい。

だいたいこんなものか。しかし、これらは表層的な、あるいは処世術的なうわべの理由にすぎないのではないだろうか。

20代の自分の場合、とてもじゃないけど、このまま日本のねちっとした同質性や同調圧力に囲まれて、平平凡凡な青年でいつづけることへの鬱勃かつ歴然とした反抗だったのだ。

そこには日本の大学システムへの反抗もあった。だいたい日本で教えられている社会科学(とくに経済、経営管理系)ほとんどが輸入学問をモトにした言説で構成されたもの、つまり、ウソっぽいのだ。

だからやや過激な表現を使うとなると、「日本の和製インチキ大学院」(日本人の、日本人による、日本人のためのという、ドメスティックで内に閉じた和製学問の自己撞着の場所)へ行くことは、実は、知的な敗退以外のなにものでもないのだ。この点では、東大も、早稲田も、慶応もまったく同じだ。(・・・と当時のぼくは確信していた)

社会科学(social science)の本場は間違いなくアメリカである。そして数ある米国の大学のなかでも、学ぶべき大学はアイビーリーグなどトップ層の数校しかないのである。それ以外はダメだ。

日本の大学に対する反抗。そしてあからさまな全否定。

日本の大学に棲息したり、日本の大学にいくばくかの権威を見出したい人達から見れば、エキセントリックで危険な思想だろう。

「ナマイキにもほどがある。なにを、このアメリカかぶれのエリート主義者め」こんな声が聞こえてくる。

かってに言ってろ。(・・・と当時のぼくはそのような声を無視し否定していた)

これほどさように、留学とは、野心に溢れ、コワイものもあまり知らず、一貫性を求め、危うい自己効力感を求める若者にとっては、ほとんど自転車ツーリングの放浪のようなものだったのだ。

反抗としての放浪。

ただし、たんなる放浪ではなく知的放浪である。

リスクを冒して、山に分け入り、谷や峠を越え、ピークをつき、テントで寝る。

自分でゴール=問題を設定し、自分でカラダを張って自分の行くべき道を見つけてゆく。

それでいいのではないか。

放浪したいヤツが自分のリスクで放浪する。そして、自分だけの一流を目指す。

やりたくないヤツは、やらない。

ほんとうにせっぱつまらずに、なんとなく留学するヤツの中には、英語など外国語スキルも伸びないし、異文化間コミュ力だってしょぼい人はゴマンといる。専門性もなし。チャラい語学学校通いだけ。ディグリーもとらずに、現地にもなじまずに。

・ちょこっと留学して帰ってこれば、「グローバル人材」ですか(笑)

・大学を国際化して「グローバル人材」=海外の大学で学ぶ日本人留学生を増やせば、長期的に日本の国力があがるんですか(笑)

・多少英語をしゃべれるようになって、それなりの体裁のいいコンピテンシーのセットをパッケージすれば「グローバル人材」なんですか(笑)

・・・バカ言うのも、ほどほどにせいよ!!!

「グローバル人材」なんていう日本だけに流通している特殊用語の周りに渦巻く言説は、どうも嘘くさい。

知的放浪としての留学は、特異な反抗に突き動かされる少数のマイノリティ=奇人変人であってこそ、効用があるのだ。

留学とは、反抗そして知的放浪なのである。

 

英語の「で」と「を」

カテゴリー : 留学けもの道


英語との接し方については、連載コラムの「英語で世界をシノぐ方法(覇権言語英語とのつきあいかた)」で考えてみた。

海外留学の経験は、たしかに価値あることだが、最近は一点ほど難点があるように思えてならない。それは、「英語を学ぶ」を早々に卒業して「英語で学ぶ」モードに突入せざるを得ないことだ。

私のような言語学や英文学といった文系ではない社会科学系学徒の留学というのは、「英語を学ぶ」のではなく、「英語で学ぶ」ことを旨とする。「を」と「で」の違いは、わずかヒラガナ一文字だが、言語への接し方において根本的に異なってくる。

「英語を学ぶ」とは、文字通り、英語の言語学的な特徴、つまり、文法、語彙、統語法、各種表現方法、レトリックなどなど規範的な枠組みを精緻に学ぶことだ。書くことを中心にして、リスニング、スピーキングなどに派生してゆく。

留学での英語との接し方は「英語で学ぶ」ということになる。つまり、莫大な分量の資料を読みこなし、短時間で英語でレポート・論文を作成し、クラスディスカッションに積極的に参加するということは、いってみれば、英語をコミュニケーションの道具として使うということで、純粋に「英語を学ぶ」ということとは異なる。

このところ、「英語で学ぶ」をやりすぎて、「英語を学ぶ」が疎かになってきたことを自覚気味。だから、まずは「英語を学ぶ」ことのスタイルを点検してやろうと思いついた。英語の学び方のベンチマークだ。そんな思いで書店を徘徊していたら一冊の書が目にとまった。

それが、「英語達人列伝」だったというわけ。新渡戸稲造、岡倉天心、斉藤秀三郎、鈴木大拙、幣原喜重郎、野口英世、斉藤博、岩崎民平、西脇順三郎、白洲次郎など、かつての英語達人の努力の奇跡が時代考証とともに、簡潔にレビューされている。英語という言語の運用能力が希有な知的資産であった時代の先人たちの英語を学んだ奇跡が丹念に描写されている。