居心地の良い多様性、米国の学生寮

カテゴリー : No book, no life.

20代のころ、専門分野でとんがり、ディグリーを取るためにアメリカに留学に行った。でも、隠微で鉛のように重い日本というシステムの圧力・圧迫から逃れて放浪(脱システム)することも動機だったように思える。専門を突き詰め、日本から逃避して、知的に放浪する・・・。知的放浪を正当化するためには、東海岸のアイビーリーグに属する大学は都合がよかったのだ。

大学のキャンパスの中にはフラタニティー・ハウスという友愛団体の寮がたくさんある。「面白い日本人がやってきた」ということで、大学キャンパスの西南方向にゆるやかに伸びる傾斜地に立つKappa Alpha Societyのロッジのメンバーとなった。居心地がよかったので、そこに2年間も居ついてしまったのだ。

居心地がよかった理由はなんだろう。

日本人の集団は、だれもが同じように考え、表現し、行動する。またそうするような同調圧力に合わせる規範といったものが、隠微に働く。日本というシステムの内側にのみいると、この摺りこまれた習性にはなかなか気づかない。その一部になりきってしまうからだ。

さて、その友愛団体の寮は、政治主義的には、民主党、共和党、リベラル、さらに尖ったリバタリアン(これが多数派というのも面白い)とばらけていて、人種的には、ワスプ、ユダヤ人、ヒスパニック、黒人、黄色人種とこれまた多様。選考も、政治、経済、数学、物理学、産業労働、心理学、工学、生物学、農学、人間生態、リベラルアーツ・・・、というようにこれまた多様なのだ。

性的嗜好も80パーセントはストレートだったが、20パーセントはゲイ、バイ。

この中間団体はフリーメイソン系のロッジでもあり、よくふらっと放浪者や学問愛好者がおとづれては会議に参加するために数日泊まってまたどこかへ消えてゆく。

皆はそれぞれ異なっていてあたり前。だからお互いの違いを尊重しながらバカ騒ぎやランチキ騒ぎを繰り返しつつ勉学にも励み、ラディカルにプラグマティックに共同生活を織りなしてゆく。

日本にない多様性が実に居心地よかったのだ。

今でも日本人だけの集団や会議に、言い知れぬ違和感を覚えるのは、こういう多様性のなかで、青春のひと時にを謳歌したことによるものだろう。

 

生涯、初オーロラ

カテゴリー : アメリカ

秋口にちょっと時間ができたので、アラスカに行ってきた。

と言っても、自転車ではなく、移動手段として飛行機とアラスカ鉄道とバスを乗り継ぐ旅。

人力移動ではなく、交通手段による移動。なんという贅沢。

毎年訪れているカナダや北海道。でも、もっと北にはアラスカがある。

北への憧れ。

北への衝動。

もっと、もっと北へ。

そう、アラスカへ。

そんな北へのアラスカ夢遊病に罹患して何年経ったのだろう。

アラスカの夜の空は、そんな夢遊病者をやさしく迎えてくれた。

なんと北緯65度では、北斗七星が下側に見え、北斗七星に覆いかぶさるようにしてオーロラが乱舞するのだ。

アメリカでAirbnbを初めて使ってみた

カテゴリー : アメリカ

 

Image result for ithaca commons

<徒歩5分でイサカの街の中心部へ>

Airbndがshared economyなんていう文脈でよく語られるようになって久しい。貧乏サイクリストの眼から見れば、夏の北海道自転車ツーリングではキャンプ場かライダーハウス、贅沢してユースホステルなので、Airbnbの価格帯よりも遥かに安価なレンジで旅をしている。だからAirbnbはあまりというかまったく気持ちに引っかかってこなかったのだ。

でも、アメリカ出張でコトは大きく転回。

母校のコーネル大学で開催された国際学会に参加するために、コーネル大学ホテルスクールが威信をかけて建設、運営しているStartler Hotelが満室に近く予約できなかったのだ。

しかも一泊30,000円以上もして、高いのなんの。

Image result for ithaca commons fall

<大学のなかに湖や滝がある>

「ここで寝よう」→「ここ寝る大学」→「コーネル大学」てなジョークを連発する友人の後押しもあったのだが、「ここ寝る大学」のストーリーはやめ、近隣のホテルをサーチするも、いいホテルが見つからない。

ここで発想を転換しAirbndに登録して探してみる。

おお、びっくり。あるわ、あるわ!

コーネル大学がある町はIthacaという小さな町なのだが近隣を含めると50の民泊施設が目白押し。さすが富裕層が住む高台のほうは、1泊50、000円なんていうヴィラのような高級住宅もある。downtownのほうで、リーズナブルなところがあったので、そこに予約をいれて即OK。

で、実際行ってみて泊まってみた感想。

・イサカのダウンタウンの一軒家をシェアする形で5つの部屋をシャアするいわゆるシャアハウスのような作り。一泊7000円はコーネル大学のホテルに比べれば格安。大学までは歩いて20分、カフェやレストランがあるイサカ・コモンズまで5分なのでロケーションはいい。

・長期滞在者コーネルの学生ばかり。なんとなく、以前住んでいたフラタニティー・ハウスのノリでみんな面白く、リビングルームで雑談。街の様子や近くのカフェなどの情報を得ることができ楽しい。

・ホテルにただ泊まるだけに比べて、交流があって楽しい。うまく利用すれば物語性が生まれる。ある種の経験をコクリエートするサービスだと思えば納得がいく。

・近隣の従来型ホテルから見れば非常に大きな脅威となっている。実際、ホテルスクールでも既存のホテルとAirbnbの競業状況はよく議論になっているそうだ。

・ホテルオーナーやマネージャから見れば、Airbnbは町中にゲリラの敵が出没している風景なので、たまったものではない。

・でも、使われてない施設をツーリストがシャアし、多様なニーズに合わせた形でアコモデーションを選択するというのは資源の有効活用、多様な需要の掘り起こしという点から見ればご納得である。これもサービス・イノベーションである。

・ただし、わりとオモシロイのはairbnbを利用して小銭をかせぐツーリズム版マイクロビジネスやAirbnbと潜在ホストを結ぶ代理店のようなビジネスか。小資本で参入がたやすいがでかいキャピタルゲインを狙うのはちょっとむつかしそうだが。

 

ホスピタリティXヘルスケアXデザイン思考融合の新たな地平線

カテゴリー : アメリカ

 
久しぶりにアメリカの東海岸に旅してきた。母校のコーネル大学で開かれたSymposium Hospitality, Healthcare, Design 2016に参加するためだ。
 
ああ、コーネルはいいなあ。return to my alma mater。豊饒な知に対するリスペクトと知的世界への探求心がキャンパス中に横溢している。尊厳、威厳、自由、探求、エンゲイジメント・・・そういったものが混然一体と、しかも統一さをもって顕現している。
 
Cornell Hospitality Health and Design Symposium 2016
 
この分野の研究成果:

”Systems’ Boundary and Fusion between Hospitality and Healthcare”

を一本発表して、あとはひたすら今書きつつある本の取材や社交。

共通の知人や旧知の友人との出会などのオンパレード。しかも、皆がこのシンポのテーマではいろいろな成果や社会的なアウトプットがある人たちばかりなので、めっぽうオモシロイのだ。

研究成果の発表もさることながら、今回の国際会議は今書きつつある本のネタ仕込みや取材といった点からも非常に重要なのだ。メモしてみる。
                                       
               ***
 
キュアからケアへシフトしてくると、サービスのありかたも、ホスピタリティが全面に出てくるようになる。
 
キュア文化というのは、治療すれば直ることが前提。キュアの価値とは、治って元通りに動ける、食べることができる、生活できる、働けるということだ。だから投薬、注射、手術などの介入行為が正当化される。
 
また、治療して治ることが前提ゆえに、苦痛、不快感、いごごちの悪さ、不便、不都合は、がまんすべきものである。
 
高齢者の慢性疾患や合併症に対する介入はもはやキュアだけでは有効ではない。なぜなら、多くの高齢者の慢性疾患や合併症は完治させること、直すことはできない。
 
むしろ、人生の最終局面を支えることが目的になる。キュアではとかく後方に「がまんすべきもの」として押しやられてきた、 苦痛、不快感、不満、不安、いごごちの悪さ、不便、といったものをケアすることが重要になってくるのである。
 
ここにおいて格差が影を落とす。富裕層は、 苦痛、不快感、不満、不安、いごごちの悪さ、不便を解消するためにあらゆる手段、そして財力を投入することになる。
 
そのため、 苦痛、不快感、不満、不安、いごごちの悪さ、不便を解消するための営利動機に根差したイノベーションが盛んに巻き起こることとなる。
 
しかし、富裕層もいれば貧困層もいる。貧困層は富裕層に比べて苦痛、不快感、不満、不安、いごごちの悪さ、不便を解消する機会にはさほど恵まれない。超高齢化と財源枯渇によって、このような把握しづらい価値に対する公共サービスは後手後手になる。公共サービスによって実現されない空白を埋めるNPO、NGO、社会起業家による、非営利的な動機による、ホスピタリティ・サービスイノベーションに対する期待が大きくなる分野である。
 
以上を要するに、高齢者化現象とともにケアシフトが進むにつれ、 苦痛、不快感、不満、不安、いごごちの悪さ、不便を解消するためのサービス分野のイノベーションが亢進してゆく。
 
富裕層に対しては、利潤動機に基づいた ホスピタリティ・イノベーションが影響力を持ち、中間層、貧困層に対しては、 非営利的な動機による、ホスピタリティ・サービスイノベーションが影響を及ぼすことになろう。
 

反抗そして知的放浪としての留学

カテゴリー : アメリカ

Cornell-University             (コーネル大学)

留学の「効用」とはなにか?

確固たる専門を持ちたい・・・。英語を研鑽したい・・・。異文化間コミュニケーション能力を伸ばしたい・・・。まっとうなビジネススキルを身につけたい・・・。泊をつけたい・・・。高い報酬を得たい。

だいたいこんなものか。しかし、これらは表層的な、あるいは処世術的なうわべの理由にすぎないのではないだろうか。

20代の自分の場合、とてもじゃないけど、このまま日本のねちっとした同質性や同調圧力に囲まれて、平平凡凡な青年でいつづけることへの鬱勃かつ歴然とした反抗だったのだ。

そこには日本の大学システムへの反抗もあった。だいたい日本で教えられている社会科学(とくに経済、経営管理系)ほとんどが輸入学問をモトにした言説で構成されたもの、つまり、ウソっぽいのだ。

だからやや過激な表現を使うとなると、「日本の和製インチキ大学院」(日本人の、日本人による、日本人のためのという、ドメスティックで内に閉じた和製学問の自己撞着の場所)へ行くことは、実は、知的な敗退以外のなにものでもないのだ。この点では、東大も、早稲田も、慶応もまったく同じだ。(・・・と当時のぼくは確信していた)

社会科学(social science)の本場は間違いなくアメリカである。そして数ある米国の大学のなかでも、学ぶべき大学はアイビーリーグなどトップ層の数校しかないのである。それ以外はダメだ。

日本の大学に対する反抗。そしてあからさまな全否定。

日本の大学に棲息したり、日本の大学にいくばくかの権威を見出したい人達から見れば、エキセントリックで危険な思想だろう。

「ナマイキにもほどがある。なにを、このアメリカかぶれのエリート主義者め」こんな声が聞こえてくる。

かってに言ってろ。(・・・と当時のぼくはそのような声を無視し否定していた)

これほどさように、留学とは、野心に溢れ、コワイものもあまり知らず、一貫性を求め、危うい自己効力感を求める若者にとっては、ほとんど自転車ツーリングの放浪のようなものだったのだ。

反抗としての放浪。

ただし、たんなる放浪ではなく知的放浪である。

リスクを冒して、山に分け入り、谷や峠を越え、ピークをつき、テントで寝る。

自分でゴール=問題を設定し、自分でカラダを張って自分の行くべき道を見つけてゆく。

それでいいのではないか。

放浪したいヤツが自分のリスクで放浪する。そして、自分だけの一流を目指す。

やりたくないヤツは、やらない。

ほんとうにせっぱつまらずに、なんとなく留学するヤツの中には、英語など外国語スキルも伸びないし、異文化間コミュ力だってしょぼい人はゴマンといる。専門性もなし。チャラい語学学校通いだけ。ディグリーもとらずに、現地にもなじまずに。

・ちょこっと留学して帰ってこれば、「グローバル人材」ですか(笑)

・大学を国際化して「グローバル人材」=海外の大学で学ぶ日本人留学生を増やせば、長期的に日本の国力があがるんですか(笑)

・多少英語をしゃべれるようになって、それなりの体裁のいいコンピテンシーのセットをパッケージすれば「グローバル人材」なんですか(笑)

・・・バカ言うのも、ほどほどにせいよ!!!

「グローバル人材」なんていう日本だけに流通している特殊用語の周りに渦巻く言説は、どうも嘘くさい。

知的放浪としての留学は、特異な反抗に突き動かされる少数のマイノリティ=奇人変人であってこそ、効用があるのだ。

留学とは、反抗そして知的放浪なのである。

 

爆弾と「アメリカの行動原理」

カテゴリー : No book, no life.

ちょっと前にムスリムの友人雑談していたら、はやりというか、なんというか、昨今の世相の話になった。その友人は、アメリカで大学を出て、オーストラリアでマスターをとって、日本人の奥さんと仲良くやっている。

さて、たしかにアメリカは自由の国だ。財産の相続、選挙、国政、タウン、カウンティ、州、そして連邦政府の運営に至るまで、自由の追求、あるいは自由を阻害するものの排斥には病的に熱心なところがある。そうすることによって、やっと自由を得て、保障することができるのだ。

でも社会の99%の人々は、社会の多数派、社会のマジョリティーとして自由を享受することができていないと憤慨している。史上最高値を更新しているダウ平均株価の熱狂をしりめに、あのウオール街占拠運動は、未だにちゃんと続いている。こんなことは、日本のメディアはまったく報道していないのだが。。

99%のなかでも、とくにイスラムの人々の「居心地」が急速に悪化している。ボストン・マラソンでの爆破事件を端緒にして、ますますその傾向が強くなっている。

99パーエントからも疎外される圧倒的少数者。その中の、怒れる人たち、阻害される人たち、体制に根本的な不満を持つ人たちは、たとえアメリカという国で成長し大人になっても、まったくもって、「立つ瀬」がない。自分の存在理由、自分の意見がまったく通らない社会で、「立つ瀬」を失った者に残されたものは「絶望」しかないのだろうか?

静かに覚醒している内向的な絶望が、攻撃の手段を持った時、内部からも外部からも制御の効かない不条理の暴力へと姿を変える。その不条理な暴力を、ヒステリックに排斥し、また懲らしめるという不条理の連鎖・・・。

でもな・・・、友人は言った。

友人:「そんなことで、アタマに来ていたらやってらんねー。だからオレはちゃんと勉強してアメリカの大学も出たし、オーストラリアの大学でマスターもとった。たえず、自覚的な少数者として社会に折り合いをつけていかなきゃ、ますます白い目で見られるわけさ」

私:「そりゃ、オマエはアタマもいいし、ビジネススキルもある。容量よく折り合いをつけていると思うよ」

友人:「いいか、ヒロ。おまえら日本人だって、アメリカでは悪辣なことを企む少数者として理不尽なレッテルをベタリと貼られていたんだせ。だからアメリカは、憲法を破ってまで日系人を強制収容所にぶち込んだし、ヒロシマ、ナガサキでアトミック・ボムを爆発させて『人道上の罪』を堂々とやってのけたんだぜ。オマエにはボストン・マラソン爆破事件容疑者の若造の気持ち、わかって欲しいんだよ」

私:「そこまで言うか!」

なるほど、彼に言わせれば、ボム=爆弾が、こういう文脈でつながってくるのだ。不意に仕掛けられる攻撃で平和がぶち壊される、そういう時のアメリカこそ、その行動原理の本質が現れるのだ。

・・・・健康であること、幸せをわかちあうランニングイベントで多数の人々を殺傷させた容疑者の動機とやらを、いずれ世界の注目を浴びるであろう裁判の過程で、とくと知りたいと思う。と同時に、今回の一件には、はからずもアメリカという国の行動原理の一端が、またも、顕現しつつあるように思えてしかたがないのだ。

そこで、この本を手にとって再読した次第。。著者の橋爪大三郎先生はこう書いている。

「しかし、最近のテロや国内の犯罪を見てみると、少数者の絶望をうまく回収するメカニズムが、もしかしたらアメリカには欠けているのかな、とも思われます」(p109)

もしかしたらではなく、そのメカニズは圧倒的に欠けていると思う。

 

第18講:日本的経営あるいはジェームズ・アベグレン博士との対話

カテゴリー : アメリカ

 日本的経営が揺らいでいる。半世紀にもわたり日本的経営について観察、助言、論評してきたジェームズ・アベグレン氏との邂逅(かいこう)を下敷きにして、日本的経営にかかわる問題を考えてみたい。日本的経営を支えてきた人事制度とその運用に焦点を絞り込む。

 

 異邦人の観察眼は、しばしば当地で生まれ育った人間では気がつかないような本質を射抜くことがある。特に社会的現象については、社会に暗黙裡に飲み込ま れずに、相対化して分析することができるからだ。その意味で日本の経営事象を「日本的経営」としていち早く分析・記述して、世界へ伝達したジェームズ・ア ベグレン博士の功績は大きい。

 ウィキペディアによると、『ジェームズ・アベグレン(James C. Abegglen、1926年 – 2007年5月2日)は、アメリカの経営学者、経済学者。日本企業の経営手法を「日本的経営」として分析し、戦後の日本の企業の発展の源泉が、「終身雇 用」「年功序列」「企業内組合」にあることをつきとめた。また、「終身雇用」という言葉の生みの親として知られる』と紹介されている。

 だが実は、アベグレンは自ら進んで「終身雇用」(Life-time employment)という用語を用いていたわけではなく、「終身の関係」(Life-time commitment)という用語を使っていたことはあまり知られていない。終身において雇用が誰にでも適用される(つまり誰も失業しない)という「終身 雇用」の制度は存在し得ないが、通俗説として一人歩きしてしまったのだ。

 アベグレンの「終身の関係」(Life-time commitment)というとらえ方は、複雑な社会的現象を説明するための概念であり、社会科学で用いられる理念型(イディアルタイプ)のようなものだ。

 また上記では「アメリカの経営学者」としているが、博士は1997年に日本国籍を取得しているので、正確には「アメリカ生まれでその後日本人となった経営学者」とでも書くべきだろう。なぜ、細部にこだわるのかといえば、生前の博士と筆者は交流があったからだ。

 アベグレンの日本企業研究は、日本的経営の究極的特徴を労使関係、あるいは人的資源管理にあると見立てた経営学者の占部都美(うらべ くによし)によっても注目され、その後の日本人による日本人のための「日本的経営」研究とその実践に先鞭をつけることになった。アベグレンなかりせば、世 界的文脈での「日本的経営」は無きにも等しかったのである。

 

日本的経営は欧米の経営に収斂するのか

 日本的経営論には2つの大きく異なった立場がある。収斂(しゅうれん)説と非収斂説である。収斂説に立てば、工業化と都市化が進むことによって日本社会 も欧米的な社会のパターンに収斂していき、日本的経営はその特殊性を次第に失って欧米的な経営管理制度に変化していくとする。その一方で非収斂説は、工業 化によって同じ近代的な生産技術が導入されても、それは必ずしもその国の伝統的な社会や文化を変革するものではなく、その国の社会や文化に適合した独自の 経営管理制度を生み出すものであり、それらが有効に働くとする立場である(占部 1978)。

 アベグレンは非収斂説の立場で一貫している。「いかなる社会においても、経営組織が効果的であるためには、(その社会の根底にある価値基準や人間関係の パターンと)整合しなければならないということは自明の理である」として、以来、2004年に出版した「新・日本の経営」の中でもこの立場は一貫してブレ がない。

 「社会の根底にある価値基準や人間関係のパターン」については、この連載でも歴史や宗教について書き連ねてきたように、明らかに欧米と日本の間には相違がある。その違いを腹に落とさなければ、日本的経営の奥底を諜知することはできないだろう。

 第15講:どうした?勤勉の倫理と日本的資本主義の精神までの連載でも描写したように、日本社会の根底にある価値基準は、神と人間が循環する多神、多層、多元的なメンタリティーとして、雑多な宗教が折り重なるように習合してできた、特殊な心象基盤の上に作られていった。

 そこでは、「みんな一緒にがんばる」「みんなで分けあう」「世間さまに恥ずかしくないようにする」といった人間関係のパターンとともに、「お天道様が見 ている」「働くことは当たり前」「ご先祖さまのおかげ」「神様、仏様を畏れ敬う」「足るを知る」といった価値基準が暗黙的に共有されてきた。人格的一神教 の影響が微弱だった日本では、人間の上に神はいないし、人間の下に奴隷もいない。ましてや神と人間との契約もない。どこまでも人間が中心にいる人間関係の パターンなのだ。

 日本的経営のあり方は、このような日本社会の根底にある価値基準や人間関係のパターンに多くを負っている。と同時に、それらの価値基準や人間関係のパターンを維持する社会的な装置が日本的経営をいただく日本企業でもある。

 アベグレンの言説を借りれば、日本企業と従業員の関係は、このような価値基準や人間関係パターンを包含する「社会契約」を基礎として出来上がっている。 そして、これが日本的経営の骨格をも作り上げた。ゆえに日本企業は、特定の成果を生み出すことを至上目的とする機能体ではない。自らの存続を目的とし、組 織構成員の価値基準や人間関係パターンを維持するための共同体、という性格が色濃い。

 アベグレンも指摘するように、欧米、特にアングロサクソン系の研究者や経営実務家は世界各国の制度が「収斂」すると論じることが多い。日本では「収斂」というと各国の制度が中間領域のどこかに近づくようなイメージで語られることが多いが、これはナイーブな認識だ。

 そうではなく「収斂」というのは、正しく適切とされる「英米型の制度に近づくこと」を意味する。よって「各国の違いは解消されなければならず、日本の雇 用制度と経営手法が英米型に変化する、あるいは変化させられて近づくことによって解消されてゆくはずだ、そうあるべきだ」というのが「収斂論」である。い わゆる「グローバライゼーション」も「収斂論」の系譜に立った見方である。経営収斂説が欧米において支配的なことの背景には、絶対的な唯一神の教義を頂く 世俗世界の経営という現象さえも収斂させていこうという、ある種の脅迫的な観念を見過ごすわけにはいかないだろう。

 余談だが、現実の世界には頑迷強固な価値判断としての「収斂論」も存在する。新会社法、改正独禁法、郵政民営化法などの「改革」を「要望」した『年次改革要望書』も、その根底には操作主義的な「収斂論」が息づいていることを知るべきである。

 

共同体としての「カイシャ」

 さて価値基準や人間関係のパターンは、人事制度とその運用によって顕著に現われる。すなわち、とかく抽象論に終始しやすい日本的経営論を現場目線で議論をするためには、人事制度の変化を見る必要がある。

 「終身の関係」を労使で共有する人事制度は、あくまで正規従業員が中心である。正規雇用者数は、1997年をピークに減少している。そのため、雇用者全 体に占める非正規雇用者(パート、アルバイト、契約社員、派遣社員など、期間を定めた短期契約で雇われる職員)の比率は1995年以降高まり、非正規化の 急激な進展という結果をもたらした。非正規雇用者数は1995年に1000万人を超え、2006年には1707万人となり、「役員を除く雇用者」の中で 33%を占めている。

 私見によると、戦後の日本企業の人事制度は下の図のようにおおむね20年サイクルで大きな変化を遂げてきている。筆者はこれを「人事制度20年周期変化説」と呼んでいる。

人事制度20年周期変化説
図●人事制度20年周期変化説

 

 日本的経営を支えてきた日本的人事制度は過去に、年功主義、職能主義、成果主義(meritocracy)と変遷してきている。この変化を追跡することによって日本的経営の変化をとらえることができる。

 ちなみに2010年代には4つの「?」マークを入れてある。「?」はいったいどうなるのか、という疑問を留めながら続きを読んでいただきたい。

 

生活保障:1950年代からの20年

 この時代、米国のモノづくり技術を積極的に導入して、第二次世界大戦の敗戦の焦土から日本は復興しつつあった。新産業が勃興して企業は組織的な拡大にま い進した。機能体の衣をまといつつ国民の生活を保障する共同体として企業が登場したのだ。この時代の人事理念は「生活保障」に尽きた。

 役職が最も目に見えるステータスだった。拡大基調にある組織では、係長、課長、部長、役員というようにタテ方向に上がっていける機会は多く、単純な職階制度がとられた。「社員は仲間。善き仲間に厳密な評価は不要」と考えられ、暗黙的な人柄、人格、年功評価が中心だった。

 賃金も年功給がベースとなり、その上に役職給が乗るという構造が中心だった。ベースアップは、賃金表の書き換えと定期昇給によるものだった。イケイケドンドンの時代、人事制度は単純なものだった。

 「一社懸命」に働けば、役職も得ることができる。そして会社は社員という仲間の輪を拡大し、囲い込んでいった。独身寮、世帯寮にはじまり、厚生年金、失業保険など企業が負担する福利厚生や社会保障の提供が普及した。

 一方、農村共同体が崩壊し、企業に雇用される都市住民が急増していった。こうして企業は、機能体でありながらも代替的な共同体(Gemeinde)とし て発展していったのである。そこでは、善き仲間の一員でいること、その仲間から仲間とみなされることが、なにより重要なことだった。いわゆる同調圧力がう まく機能したのだ。

 この時代の人事制度の分析・記述は、日本の組織を相対化して観察することができる外国人の視点が中心だった。その代表格がアベグレンである。こうして 「終身の関係」(Life-time commitment)、年功賃金(Seniority-based wages)、定期雇用(Periodic hiring)、企業内訓練(In-company training)、企業内組合(Enterprise union)などの理念型が立てられた。

 

年功能力主義:1970年代からの20年

 1970年代からの20年間は、オイルショックなどを契機として拡大基調に陰りもあったが、この時代を通してモノづくり企業は躍進した。1980年以降 は、雇用者に占める非正規雇用者の比率が上昇を続けている。このような時代に正規雇用向けに登場してきたのが、「職能資格制度」である。

 職能資格制度は日本ならではのユニークな制度だ。職能資格制度とは、従業員の職務遂行能力(略して「職能」)の程度に応じて会社や会社グループの閉じた空間にのみ有効な「資格」を付与する制度である。

 1970年代を中心にして企業社会に流行し、一部上場企業のうち9割くらいが、この制度を運用しているといわれる。「年功的な人事を見直し、能力基準の 人材登用を可能にする」「役職にとらわれることなく、人の能力を基準にして処遇する」「人を重視する人本主義の具体的な制度への反映」などという言説が流 行ったものだ。

 一言でいえば、過去の主流すなわち職階・年功主義に対するアンチテーゼとして登場し、普及してきたのが職能資格制度だ。しかし運用を経て、年功運用的色彩が織り込まれ、年功資格制度になってしまった。その背景をまとめると、次のようになる。

 

  • 社内職能資格には標準滞留年数がある。能力が急進すれば職能資格も急上昇するはずだが、社内職能資格は急上昇しない。逆に能力が劣化しても、職能資格が落ちることはまずない。
  • 人事評価は、職務遂行能力に対して公正になされることが期待されたが、職場では明確な優劣をつけることがはばかられる。評価における中心化傾向(評価結果が評価スケールの中間付近に集中してしまう傾向)が顕著となった。
  • 職能資格の付与は年功的になる。そして職能資格にリンクしている職能給は、結果として年功給になっていった。

 こうして役職によるモチベーションはかなわなくとも、職能資格の付与とモチベーション維持策が行われるようになったのだ。長期安定雇用を前提にした共同体の仲間感覚の維持は、まだまだこの時代の大きなテーマだった。

 この時代には職能資格制度の理論家として楠田丘や弥富拓海、弥富賢之などの活躍をみる。また経営学の領域で日本的人事が研究対象とされるようになった。 以上の第1期(1950年代~)、第2期(1970年代~)を通して、日本的に特殊な制度が普及したこともあり、日本的経営の「非収斂説」が幅を利かせ た。

 

成果主義:1990年代からの20年

 1990年代からのグローバライゼーションが昂進した時代、それまでの共同体としての企業組織に「成果主義」すなわち機能体の原理が持ち込まれるようになった。その背後にあるのは新古典派経済学であり、それらによって理論武装した市場主義だった。

 企業を成り立たせるシステムとして人事制度は反応性が鈍く、変化するのは遅い。しかしながら、この時代は収斂圧力が強く顕れ、多くの企業が人事制度の改 革に着手している。外需依存型のグローバル企業はおおむね海外人事を成果主義に対応させ、その流れを日本に持ち込み、本丸の人事制度を「成果主義」的に変 更するような手法をとった。

 この時代には、バブル期(1986~1991年)に抱え込んだ「設備、債務、雇用」という3つの過剰を解消するリストラが一般的になった。先に述べたよ うに、正規雇用者数は1997年をピークに減少している。雇用者全体に占める非正規雇用者の比率は1995年以降さらに高まり、非正規化の急激な進展とい う結果をもたらした。

 非正規雇用者数は1995年に1000万人を超え、2006年には1707万人となり、「役員を除く雇用者」の中で33%を占めている。ちなみに女性の 場合は53%である。これらの非正規雇用者は多くの場合、外縁から日本的経営を支えながらも、日本的経営がもたらす直接的なメリットからは疎外されるとい うアンビバレントな位置にいる。

 グローバル経済とのインタフェースが大きな企業ほど、必然的に成果主義の要素を人事制度にも取り込むことになっていった。第1期、第2期は共同体の原理 が中心だったが、この時代の中心概念は機能体の原理だったためである。こうして、日本的経営は異質な非日本的要素と初めて向き合い、対峙することになった のだ。

 そもそも成果を計量的に測定するためには、「職務(Job)」の内容が確定している必要がある。だが、共同体でありつづけた日本の組織に、職務という概 念はなかった。はじめに人ありきで、仕事は人のまわりに融通無碍に形成される。職務は、非属人的・先験的に日本の組織には存在し得ない。

 だから、仲間を思いやりながら人間中心に仕事を進める人々にとって、欧米企業のように「職務記述書(Job Description)」を書くということは、実は異文化経験だったのだ。余談だが、こんな話がある。

 「日本人もアメリカ人も、失業以外のことで仕事の不安を感じることがある。日本人は職務記述書を書くときに、アメリカ人は職務記述書がないときに」。

 

機能体への体質転換剤としての成果主義

 米国では、機能組織としての企業経営、人事制度運営の蓄積がある。よって1980年代以降、米国発のHuman Resources Management(HRM)系のコンサルティング会社が日本でもクライアントを持ち始める。職務分析(Job Analysis)、職務評価(Job Evaluation)、目標管理(Management by Objectives)、成果主義賃金(Pay for Performance)といった手法が本格的に和風にアレンジされ、日本の大企業を中心として移植された。当初は在日欧米企業を中心として、そして前述 したような経緯で日経連(日本経済団体連合会)の所属企業までもが顧客リストに載り始めたのである。

 日本企業が軽視してきた「職務」という機能体の価値観を組織に移植し、もって、職務等級、成果評価、成果立脚型賃金をシステムとして日本企業に埋め込む作業は、要するに、共同体に機能体原理を持ち込む試みである。

 アベグレンはさほど厳しく糾弾しなかったが、共同体には良い面と共に弊害をもたらす面があることも事実だ。共同体の内と外に別々の規範を当てはめる二重 規範(ダブルスタンダード)は、度重なる不祥事やそれらのもみ消し事件の温床となった。なまぬるい仲間主義が馴れ合いを呼び、ホワイトカラーの生産性が低 い一因とも指弾された。また、共同体体質では過去の慣習や因習を否定する自己改革ができないとの批判も根強かった。

 よって、「大胆な戦略実行力が共同体的企業組織にはないのではないか」とトップが判断する企業は、こぞって成果主義という異質を注入したのだ。

 

成果主義の蹉跌

 日経ビジネス(2009年5月11日号)の特集「成果主義の逆襲」には、成果主義に関する次のようなアンケート結果が掲載されていた。

 

  • 「勤務先が成果主義型の制度を取っている」と答えた944人を対象に、勤務先の成果主義の成否を聞いたところ、「失敗だった」とする回答は68.5%に達し、「成功だった」という回答(31.0%)を大きく上回った。
  • 「成果主義に基づく自身の評価に満足しているかどうか」については、「不満である」が43.3%、「満足している」が16.2%。
  • 「職場に何らかの弊害が発生したかどうか」については、「発生した」が65.7%に達した。
  • 「失敗の要因は制度と運用のどちらにあると思いますか」という問いには、「制度そのものより運用上の問題が大きい」とする回答が66.0%、「制度そのものの問題が大きい」は32.5%だった。

 このようなネガティブな反応の本質は、共同体原理が発する「機能体原理への拒絶反応」から生まれている。異質に対する共同体の免疫反応がことさら強かったのは自明の理である。

 成果主義は、株主利益を合理的に追求する圧力を経営者にかけつつ、企業価値を上げることには貢献したのかもしれない。だが会社共同体の内部に向かって は、価値基準や人間関係のパターンの希釈化、希薄化を招き、外部に向かっては、人件費の変動費化の名のもとに非正規雇用者を大量に生みだしたのだ。

 

人本主義という普遍的非収斂説

 しかしながら1990年代の日本的経営論では、大胆な言説の展開がみられた。バブル崩壊までの短期間ながらも経済的に空前の繁栄をみた背景には、日本が相対的に非階層化され、民主化された企業社会を創り出したとする「人本主義」という言説である(伊丹 1993)。

 アベグレンの著書の熱心な読者であった経営学者の伊丹敬之は、資本主義に対照させて「人本主義」という独自の用語を用いて、日本企業の平均的な特徴を三 つのキーワードで説明する。それは、企業の概念で言えば「従業員主権」、組織内分配の概念という点では「分散シェアリング(分配)」、市場取引の概念では 「組織的市場」だ(伊丹 2009)。

 日本経済がバブルの崩壊で低迷してきたこの時代は、アメリカ経済が逆に好調だった。アメリカ型のカネの論理を中心とするヨコモジ経営手法が圧倒的な脚光を浴びていた時代に、伊丹は大胆不敵にも資本主義と対置するかたちで「人本主義」を主張したのだ。

 伊丹は、資本主義は「カネを経済活動のもっとも重要な資源と考え、その資源(カネ)の提供者のネットワークをどのように作るかを中心原理として企業シス テムが作られるもの」とする。それに対置される「人本主義」は、「ヒトが経済活動のもっとも重要な資源であることを強調し、その資源の提供者たちのネット ワーク、つまり人材を提供し、取引をしている人々のネットワークを安定的につくり、それを維持・発展させることこそ大切、と考える原理」であるという(伊 丹 2009)。

 明らかに非収斂説に立っているが、「日本の特殊性を示す言葉」では語らずに、「人本主義」の経済合理性には普遍性があるとした。すなわち、人本主義=普遍的非収斂説の登場である。

 

日本的経営の次は、共同体原理の発展的復活

 企業と従業員によるギブ&テイクの「場」としての職務(Job)を確定し、目標管理でさらに精緻化し、目標の達成度に見合った職務給を支給する、という 成果主義の方向性は、共同体原理と鋭く対立し、被雇用者側に不満をもたらした。第1期、第2期の郷愁と決別できていない正規社員、管理職、役員にとって、 この不満は深く、暗く、そして大きなものだ。

 アベグレンは、筆者との対話でも非収斂説を明快に展開し、アメリカ的な機能体原理を過剰に移植することや、グローバリズムという名のアメリカ中心収斂説 に警鐘を鳴らし続けた。「日本社会の根底にある価値基準や人間関係のパターンを大事にしないと、コミュニティとしての日本企業は崩壊するぞ」と。

 さらに、アベグレンはこう言うのだ。真に業績のいい日本企業は、一見前時代的で、古く、日本的な価値観を組織の奥底に温め、共有し、次世代に継承してきているのだと。

 資本主義のあり方が大きく問われている昨今だ。その中でも日本資本主義の行き方が問われている。日本的経営なくして日本企業はない。また、日本企業なく して日本資本主義もない。日本的資本主義の明日を占うためには、日本企業、なかんずく日本の企業社会の根底にある価値基準や人間関係のパターンを映し出 す、人事制度とその運用を注視しなければなるまい。

 日本的経営にとって、2010年代の4つの「?」は大きく重い。技術立国・日本の方向模索期と重なる時代に、日本的経営に次なる発展があるとすれば、グ ローバル化に即妙に対応しながらも、絆、縁、信頼、触れ合い、分かち合い、といった共同体原理の発展的復活にある。機能体・共同体の異種原理混合によるハ イブリッド化の時代を通過しなければ、日本的経営の新たな地平線は見えないだろう。

 

    【参考文献など】

  • ジェームス・アベグレン、占部都美監訳「日本の経営」、ダイヤモンド社、1958
  • ジェームス・アベグレン、山岡洋一訳「新・日本の経営」、日本経済新聞社、2004
  • 占部都美、「日本的経営論批判」、国民経済雑誌138巻4号
  • 平成20年版「労働経済の分析」(労働経済白書)
  • 伊丹 敬之、「人本主義企業―変わる経営変わらぬ原理」、筑摩書房、1993
  • 伊丹 敬之、「日本企業の人本主義システム」、平成21年宮中講書始の儀におけるご進講

 

引用:諜報謀略講座 ~経営に活かすインテリジェンス~ –第18講:日本的経営あるいはジェームズ・アベグレン博士との対話 :ITpro

第17講:若い世代が追い求める、「勤勉」と「幸福」の間にあるもの

カテゴリー : アメリカ

 先月、「Everyone a Changemaker―世界を変える社会イノベーション―」というシンポジウムが開催された。趣旨は題名の通り、各自が“チェンジメーカー”になって、 それぞれのできる範囲で社会を良い方向に変えていこうというものだ。今回はこのシンポジウムを振り返りながら、変質しつつある日本の「勤勉さ」について改 めて考えてみたい。

 

 筆者はこのシンポジウムの開催に関与している。告知後、2日足らずで参加申し込みが殺到し、300人以上の会場が満席になってしまった。正直なところ驚 嘆している。しかも、そのほとんどは20歳代、30歳代の若い世代である。社会イノベーション、社会起業家、社会的企業というテーマは、若い世代を惹きつ けるようだ(ちなみにこのシンポジウムに参加した人々がTwitterで自主的に感想や意見を言い合って共有している。Twitterのハッシュタグは#titchange#socentjpなど)。

 社会起業家とは、「社会の問題を見つけて定義し、新規性の強い事業アイデアを繰り出して持続的に取り組み、その事業を普及させ、社会に大きなインパクト を与えるような変革の担い手」である。そのような担い手によって成される変革のことを「社会イノベーション」という(具体例は後述する)。

 このように書くと、「わざわざ起業と社会起業、企業と社会的企業を区別する必要などないのではないか」という疑問を持つ向きもあるかもしれない。もっともな疑問だ。そのような疑問を抱きながら続きを読んでいただきたい。

 このシンポジウムでは、第一線の社会イノベーション実践者、支援者が一同に会した。そして、社会イノベーションについて非常に幅広く、また深く議論した(このシンポジウムの詳細な報告書がアップされる予定のサイトはこちら)。拙論では、社会イノベーションや社会起業という現象が何を意味するものか、を考えてみたい。

 

勤勉と自殺

 前講の『大丈夫か?日本資本主義の未来(勤勉のゆくえ)』で述べたように、現下の日本では、「勤勉」→「経済成長」→「幸福」という図式が成り立たなくなってきている。このような状況のなか、「経済成長」に代わり、「勤勉」→「○○○○」→「幸福」という図式を埋める何かを模索する動きが徐々に広まりつつある。

 幸福とは何かを古典や哲学を引っ張り出して、薀蓄(うんちく)している場合ではない。そんなことよりも、「幸福」ではない人がとる行動、すなわち自殺件数に注目すれば、少なくとも日本社会が「幸福」から遠いことは自明だ。

 日本の自殺率の高さは、欧米先進国と比較するとダントツ。さらに範囲を広げて比較すると日本は、ベラルーシ、リトアニア、ロシア、カザフスタン、ハンガリーに次いで自殺率は世界第6位だ。

 NPO法人ライフリンクの清水康之代表はこう嘆ずる。「かつて交通戦争で亡くなる人の数が1万人を超えて、『交通戦争』と呼ばれた時代があったが、今や自殺で亡くなる人は年間3万数千人。日本社会は今、『自殺戦争』の渦中にいると言うべきだろう」。

 社会の規範が崩れ、人と人を結ぶ紐帯が消失する現象は、東欧の旧共産主義国で見られたが、社会主義体制の崩壊を見なかった日本でも、これに匹敵するような現象が発生しているのだ。

 急性アノミーとは、信頼しきっていた者に裏切られることで生ずる致命的打撃を原因とし、これによる心理的パニックが全体社会的規模で現れることにより、 社会における規範が全面的に解体した状態をいう(小室 1991)。いわば、今の日本が直面しているような無規範状態である。

 これについて一点のみコメントする。前講までに述べてきたように、日本人は一神教による絶対的な規範と規準を超越的な位相に持たず、規範・規準らしいも のは人間と人間の間に存在する。人はそれを「人と人との絆」「人間関係」「空気」「他人の目」「世間体」とも呼ぶ。これらの内実が崩れることは、日本の社 会にとって致命傷となる。

 NPO法人ライフリンクが実施した「自殺実態1000人調査」によると、68項目の危機要因に対してパス分析や重回帰分析を駆使した結果、自殺の「危機 複合度」が最も高い要因を「うつ病」、危機連鎖度が最も高い経路を「うつ病→自殺」と特定した。その上で詳細な自殺の危機経路パターンを16通りにモデル 化している。

 たとえば被雇用者ならば、「配置転換→過労+職場の人間関係の悪化→うつ病→自殺」「昇進→過労→仕事の失敗→職場の人間関係の悪化→自殺」。自営業者の場合ならば、「事業不振→生活苦→多重債務→うつ病→自殺」というように。

 共通する経路を抽出してみると、おおよそ「過剰なストレス→仕事でのつまずき・失敗→収入閉塞→人間関係の脆弱化・崩壊→うつ病の罹患→自殺」というようになる。

 私見を述べると、勤勉のメカニズムは自殺のメカニズムに似ている。つまり、勤勉のメカニズムとは、「(1)ストレスにうまく対処して元気で健康→(2) 休まずに働く→(3)収入を得る→(4)家族・地域・会社などでの人間関係を維持する→(5)いきいきと生活を続ける」ことである。

 勤勉のメカニズムが自殺のそれと異なる点は、最後の「いきいきと生活を続ける」が最初の「ストレスにうまく対処して元気で健康」にフィードバックされて、ぐるぐると循環していくことである。

 とすると、勤勉と自殺は表裏一体の主題である。勤勉は首尾一貫感覚(身の回りの世界が首尾一貫していると感じること)の発露であり、自殺は首尾一貫感覚の喪失である。自殺は日本的社会空間に存在する。勤勉もまた然り、日本的社会空間に存在する。

 1998年以降、年間3万人を超えて、衰える勢いのない自殺者の数は、日本人的勤勉の足元の崩落を予兆している。

 

今後急増する「行き場」がない人口

 いずれにせよ、物質的な充足、経済成長、従来型の雇用、世の中にある既存のソリューションのみに答えを見出すのではなく、「勤勉」→「経済成長」→「幸 福」という図式における代替的な媒介項目を求めている人たちが社会イノベーションや社会起業に活路を見出しつつあるのではないだろうか。

 かたや「経済成長」に代わる媒介項目を模索する若者が浮き足立って、社会起業カリスマに表層的に熱狂しているのではないかという、冷めた見方もある。また社会イノベーションという包括的な説明概念だけでは、実際のソリューションにはならないという批判もあるだろう。

 しかし、筆者は社会起業や社会イノベーションの動向は時代の必然であると見立てている。そこにはいくつかの構造的な背景が作用しているのである。

 第1の構造的背景は、人口構造の変化のモメンタム。広井良典が指摘するように、特に戦後、農村から都市へ人口移動が大規模に起こり、都市で働く人のコ ミュニティは「会社」と「核家族」となっていった。こうして、人は生まれてからの15年くらいと、定年退職して死ぬまでの年月を地域に埋め込まれたコミュ ニティで暮らすが、壮年期の働き盛りは会社、役所、団体などで雇用されて過ごすというパターンが出来上がってきた。

 さて、日本全体に占める「子供+老人」の割合は、1990年から2000年を底にして「ほぼきれいなU字カーブ」を描くとされている。戦後、出生率の低 下により「子供+老人」の割合は減り続けていたが、1990年代を境に高齢化の勢いが上回り、「子供+老人」の割合は増勢に転じた。戦後から高度成長期を 経て最近までは、一貫して地域とのかかわりが薄い人々(生産年齢人口)が増え続けた時代であり、それが現在は、逆に地域とのかかわりが強い人々(子供+老 人)が一貫した増加期に入る、その入口の時代なのである(広井 2009)。

 こうして今後増え続ける老人人口と、相対的には減少傾向にありながらも明日の社会を担う子供人口の居場所は、核家族、学校、医療・福祉施設などの既存の 場だけでは対応できなくなりつつある。新しい場やコミュニティづくりが人口構造変化の圧力によって要請されているのである。

 

共同体の包摂と排除

 若者が社会起業や社会イノベーションに関心を示す第2の構造的背景は、壮年期あるいは生産年齢の人々の受け皿となってきた企業体質の変化だ。資本主義の 主要な担い手たる会社は、高度成長期において擬似的な、あるいは代替的な共同体として、広義の社会保障の提供者だった。しかし、1980年代以降、より明 確には1990年代以降、徐々に能力主義や成果主義といった人事戦略を採用するようになり、共同体というよりはむしろ機能体としての性格を強めてきてい る。

 会社は勤勉の製造・維持装置だったが、そこでは勤勉の経路がいつのまにか自殺の経路と並走するようになってしまった。共同体の機能体化のコストは決して小さいものではない。

 皮肉な言い方になってしまうが、本来は機能体でありながらも、日本社会の特殊事情により共同体として位置づけられてきた会社が次第に換骨奪胎され、機能体としての性格を強める中、企業社会を巡る雇用関係と社会的責任(CSR)のあり方が問われている。

 そして共同体としての家庭や地域が薄弱なものとなり、共同体としての会社が機能体化するプロセスの中で、共同体から排除され、どこにも帰属しない、ない しは所属できない人々が増大した。これは、「失業」「低所得」「住宅難」「ニート」「非正規雇用者」「格差社会」「健康格差」「家庭崩壊」「無縁社会」と いった言葉で語られる社会的な問題を引き起こしている。

 これは、共同体のありかが急激に変遷してきた末にたどり着いた、日本のソーシャル・エクスクルージョン(社会的な排除)と言えよう。企業、核家族、地域が包摂の程度と範囲を狭め、その結果、排除されつつある「コミュニティ」なき社会の問題となった。

 

35歳前後をピークとする世代の内面の変化

 第3の背景は、35歳前後をピークとする世代の内面の変化だ。昨年NHKの番組「“35歳”を救え あすの日本 未来からの提言」が実施した、35歳を対象とした1万人へのアンケート結果は意味深長だ。いわゆるロスジェネ世代(就職氷河期世代)にとって、長期安定雇 用制度の利用度・信頼度は低くなっていて、「転職経験がある」は66%、「会社が倒産するかもしれない」が42%、「解雇されるかもしれない」が30%と なっている。

 有名な「マズローの欲求階層説」によると、人間の欲求は、「生理欲求→安全欲求→社会欲求→承認欲求→自己実現欲求」というように、複層的に高まってゆ くという。だとしたら、社会起業を目指す若者たちは、雇用、職業選択、生活にかかわる道筋の不安定さに苛まれつつも、自らの社会欲求、承認欲求、自己実現 欲求をひたすら満たしたいと突き進む群像なのかもしれない。

 個人主義的性向を持ち、新たな価値を創出、獲得することに貪欲で、既成の権威には懐疑的ながらも、自己の権利は主張し、脱物質的でもあり、自然志向的。そんな若者を「ポストモダン的人間」と呼ぶのもよかろう。

 しかし、人格的一神教のような絶対的な規範と規準を超越的な位相に持たず、規範・規準らしいものは人間と人間の間に存在させる日本人は、西欧のように宗 教(キリスト教)を合理化あるいは近代化させた経験はない。その意味で、西欧的価値基準から見れば、日本人はいくらポストモダン的人間を気取っても、実は 精神世界の深淵はプレモダン世界の住人でもある。

 そのようなポストモダン、プレモダンがないまぜとなった文明人の出現は世界史における日本の特異性でもあるが、このアンビバレンスの中に、ある種の危うさ、もろさ、傷つきやすさが伴うことに自覚的になるべきだろう。

 これらのアンビバレンスをことさら自覚するのでもなく隠すのでもなく、以下に羅列するような社会的問題解決の当事者として「新しい勤勉」と「新しい幸 福」を媒介する「何か」を求め、そこにのっぴきならない「生きる意味」さえも求めてやまない人々。35歳前後をピークとして前後に拡がる世代で社会イノ ベーションに活路を見出す人々の内面は、このように複雑である。

 俯瞰すれば、静かだが抗えない人口・企業・産業の構造変化に対する一つの社会的反応が、社会イノベーションであり、社会起業の動きである。社会イノベーションや社会起業を支援するという意志や行動は、以上の意味合いにおいて、複雑さへの対応なのである。

 

新しいコミュニティ、新しいサービス

 社会イノベーションないしは社会起業を取り巻く動向の特徴は、従来の行政、民間企業、伝統的な非営利活動が十分に対応できてこなかった領域の社会問題に 対して、斬新なソリューションを提供していこうとすることだ。ただし、「新しい公」のような既成概念に矮小化してしまうと、コトの本質が見えなくなるので 注意してもらいたい。

 もちろん、そこには単一の解があるわけではなく、保健・医療・福祉、街づくり、環境保全、自然保護、森林保全、過疎対策、農村活性化、教育、能力開発、 セーフティーネット、文化・芸術、地域経済活性化、消費者保護、雇用支援、弱者救済、障害者支援、貧困対策、災害救援、人権擁護、男女共同参画、科学技術 振興、地域安全、国際協力…など、多種多様なテーマが広がっている。

 ここに重要なテーマが潜んでいる。上記の多種多様なテーマ、あるいは社会起業のビジネスモデルが提供するものは、製品・商品というより、断然サービスが中心である。経済エンジンの主題は、「モノ」→「エネルギー」→「情報」→「サービス」と変わってきている。

 日本のGDP(国内総生産)の70%はサービスセクターが生み出しているほど、近年の経済のサービス化は顕著なものだ。その中でも、社会イノベーションは公共財、準・公共財、私財の領域を融合する新しいタイプのサービス創出を狙ったものが多い。

 

システムとスケールアウトが求められる

 社会起業家を支援するアショカ財団の代 表であるビル・ドレイトン氏の話に耳を傾けよう。アショカ財団の研修生(アショカ・フェロー)として選ばれた人々の5年後を追跡調査すると、その97%が プロジェクトを継続しており、88%の人のアイデアが他の組織に伝播している。さらに55%のアショカ・フェローのアクションが、発展途上国を中心とする 国家政策にまで影響を与えている。つまり、社会に対するインパクトが甚大なのだ。

 アショカ・フェローの審査にあたっては、新しいアイデアを持つこと、クリエイティビティがあること、起業家としての能力・資質、問題解決へのコミットメント、アイデアの社会的インパクト、倫理観と信頼を徹底的に調べ上げる。

 ここで注目されるものはシステムとスケールアウトである。地道に地域密着型で行動する「草の根」市民運動も大事だが、卓越した社会起業家は、ソリューション提供のシステム化と多様な地域への展開というスケールアウトを実現している。

 もっとも、この点については「チェンジメーカー~社会起業家が世の中を変える」の著者である渡邊奈々氏も指摘している。社会起業家の定義をあまり拡張す るのではなく、少なくともソリューション提供のシステム化と多様な地域への展開というスケールアウトを実現している起業家にのみ「社会起業家」という言葉 を使っていこうというものである。

 

チェンジメーカーを生み出す土壌

 膨大な人数におよぶ社会起業家を審査、育成してきたアショカ財団の経験によると、社会起業家は10代のうちに何か「違うこと」をしており、その経験がまた別の経験を呼び、結果としてシステミックな変化をもたらす社会起業家に至るという。

 「違うこと」をやることは素晴らしいし、「違うこと」から差異、価値が生じる。周りとはちょっと違うことをやる人のことをチェンジメーカーという。

 「チェンジメーカーになるための一番大きな壁は自覚の壁である」とドレイトン氏は静かに語る。

 他人を変えることは難しくても、自分を変えることは多分それほどには難しくないだろう。その意味で、だれもがチェンジメーカーになれるはずである。そして、卓越した社会イノベーションをもたらす社会起業家は、豊かなチェンジメーカーの裾野があって初めて出現するものだ。

 シンポジウム「Everyone a Changemaker」のキーノート・スピーチで、渡邊奈々氏は「86%の高校生、54%の中学生が自分はダメだと思っている」という現状に警鐘を鳴ら した。ドレイトン氏が言うように、自己肯定感、自己効力感がなければ社会に向ける眼差しは暗く屈折したものになるだろう。「ダメ」から「デキル」へ反転さ せるようなギア・チャンジが求められている。

 チェンジメーカーを生み出す土壌をどのように耕して行ったらいいのか。大きな課題だ。ドレイトン氏は近々、11~20歳の子供を対象に、チェンジメイキ ングを実践させ、持続的な変化を起こすトレーニング・プログラムを行うという。そして、アショカ財団はJPMorgan Chase Foundationから約23万ドルの助成を受けて、日本でも若者向けの社会起業支援に乗り出す。

 

同調圧力、違い、イノベーション

 たしかに第15講の『どうした? 勤勉の倫理と日本的資本主義の精神』 で触れた「みんな一緒にがんばる」「みんなで分けあう」「世間さまに恥ずかしくないように」「みんなの目を気にしながら生きる」ことは日本的勤勉の倫理を 維持する上で看過できないが、「周囲と同じようにしなければならない」という隠微な同調圧力は「違い」を排除する方向にも作用する。

 そこに自助努力の原則が強く刷り込まれれば、成功も失敗も自分のせいになってしまい、「とりあえず周囲と同じような方向で頑張る」ということになりかねない。

 経済学者のシュンペーターはイノベーションの源泉を「新結合」に求めたが、結合されるべき「違い」が排除されていたのでは、今の日本でイノベーションが 創発されるべくもなかろう。シンポジウムのパネルディスカッションで司会を務めた渡辺孝東京工業大学特任教授が指摘するように、現在日本の起業活動は OECDで最も低いレベルにある。

 日本の社会は、「周囲と同じような振る舞いをする人々を大切にして、周囲と違ったことをやる人を疎む傾向が強い」と感じるのは筆者だけではないだろう。 周囲と異なること、違うことを尊重しない環境からは異質は発生しない。異質なものが萌芽しなければイノベーションも生まれない。イノベーションの沈滞と 「違い」を排除する暗黙の同調圧力とは無関係ではあるまい。

 さてドレイトン氏は嬉しそうに、メアリー・ゴードン氏が始めた「Roots of Empathy」の話をする。彼女は学校からいじめをなくす活動をしている。アショカ・フェローになってからたった4年で、ゴードン氏のプログラムを採用する学校は2校から2000校に増えた(この活動を日本語で紹介しているサイトはこちら)。

 彼女たちがやっていることは、いたって簡単。教室に赤ちゃんを連れていき、「先生」と大きく書かれたTシャツを赤ちゃんに着せて、その子が何を言おうとしているのかを生徒たちに考えてもらい、話し合ってもらうだけ。

 大学に依頼して実施した追跡調査の結果、この活動により、いじめの件数は激減した。大きなインパクトである。言葉の通じない赤ちゃんとの触れあいを通して、「相手の身になって考える」というアイデアがすべての始まりだったそうだ。

 違いを気にする学生に対してドレイトン氏はこう言う。「まずは学生の方々に伝えたい。誰もやっていないことをやりなさい。そうすれば比較をされないですよ」。

 

「所得階層別の価格設定」という常識破り

 「資本主義を人間化する」。シンポジウムで、このなんとも刺激的な演題でプレゼンテーションしたのはデビッド・グリーン氏。人間のために資本主義を活用するという話だ。

 「人生の時間の使い方は二つ。一つは、生きている間に自分に返ってくること。地位、名誉、お金などです。もう一つは、人類全体の向上、より良い世界に貢献することです。私は後者を選んだだけです」 と自己紹介する。

 グリーン氏は、オーロラボ(Aurolab)社を起業し、インドなど開発途上国で初めて人工水晶体レンズ、手術用縫合糸、医薬品、眼鏡を、貧困層にも届く価格で生産している。オーロラボはこれまでインドのアラヴィンド眼科病院などで、1000万人の途上国の患者に医療サービスを提供してきている。

 68億人の政界人口の底辺をなすボトム・オブ・ピラミッド(最近ではボトムという表現を嫌い、ベース・オブ・ピラミッドと呼ばれる)に対するケアサービスによってQOL(生活の質)は着実に改善されている。

 戦略は大胆かつ前例がないものだ。一番安い価格を無料に設定することで、一気に需要を顕在化させる。

 多くの人は水晶体が曇ることによって失明する。目が見えるようになるためには手術によって水晶体を交換しないといけない。そのための水晶体を途上国の医療機関にオーロラボが破壊的廉価で納入しているのだ。

 グリーン氏が実践してきたことは、技術経営の視点から事後的に見ればオーソドックスな手法だ。

(1)技術移転して、価格設定権を握る。
(2)ヘルスケア・サービスを持続的に提供する。
(3)投資家からファイナンスを受ける。

 ただし、驚愕の価格戦略を推進している。途上国を市場としている彼のビジネスでは、「一物一価」「一サービス一価」を否定して、所得階層のセグメント別 に価格を設定している。貧困層に属する3分の1の顧客に対しては無料、それ以上の層の3分の1に対しては正価の3分の2で販売する。富裕層の顧客(全体の 約3分の1)は、高い価格(正価)を喜んで払ってくれるという。

 ヘルスサービスのアプリケーション・レイヤーは、薬品、医療材料、診断機器などの物質レイヤーと、診療、看護などのヒューマン・サービス・レイヤーの2 層から成り立つ。オーロラボは、物質レイヤーの水晶体などを破壊的廉価で製造、流通させ、途上国のヒューマン・サービス・レイヤーに新規医療技術を学習さ せる。これにより従来は一部の富裕層しかアクセスできなかったヘルスサービスを、途上国の地域に一気に伝搬させるイノベーションである。

 詳細は、講演記録を読んでいただくとして、グリーン氏のビジネスは、技術が持続可能性をドライブすることを如実に立証している。重要なことは、技術をい かに画期的なビジネスモデルの中で活用するかだ。彼らはまず、医療用品の製造に莫大なコストがかからないという前提からスタートし、オーロラボ製品のマー ジン率を低く抑え、サプライチェーンを整備し、コストを削減し、品質管理を徹底し、持続可能なビジネスとして展開しているのだ。

 

ビジネスモデルの骨格にCSRはあるか?

 「社会的企業と一般企業の差は?」との会場からの質問に、グリーン氏はこう答える。

 「私は、最近は自分たちのことを社会的企業とはあまり言わなくなりました。高ボリューム・低マージンモデルのビジネスを市場の中で行っていることが社会に受け入れられているだけなのです」。

 人々が真に求めているものごとを、求めやすい価格で、アクセスしやすい場所で提供するという企業経営のイロハを実践することが、結局は社会的存在になる ということだ。同様に、そのための起業ならば、あえて社会的という形容詞を付ける必要もないということだろう。学説的にも社会イノベーション学派とよばれ る系統では、社会イノベーションの担い手として営利、非営利は特に問うていない。

 フィランソロピー(社会貢献活動)、CSRという概念は、企業のコアコンピタンスやビジネスモデルの骨格に埋め込まれて初めて社会的企業となるのである。コアとなる事業に付帯させて行うCSRが散見されるが、それは決してCSRの本質ではない。

 このような文脈もあり、現在米国では、社会イノベーションや社会起業が、ビジネススクールや専門職大学院、学部レベルはおろか、いろいろな学校や地域に おいて大変な勢いで広まっている。もちろんそこには、昨今のマネー資本主義の暴走に対する複雑な情念も付随しているのだが。

 

「バスレなし」のシュンペーターの予言

 マルクスの労働価値説を真っ向から否定した経済学者バヴェルクを師とするシュンペーターは、マルクスを超えようとする言説を展開した。マルクスをはじめ予言をハズすのが経済学者の常だが、シュンペーターの恐ろしさは、今のところ彼の予言にハズレがないという点にある。

 さて「資本主義はその欠点のゆえに滅びる」と書いたマルクスの逆張りで、シュンペーターは「資本主義はその成功により滅びる」と意味深長なことを書いた。

 シュンペーターは「創造的破壊」というコンセプトを思索の真ん中に据えた。そして、創造的破壊を推進する資本主義のエートス(行動様式)が衰弱し、資本 主義の屋台骨ともいえる私有財産制と自由契約制が形骸化すれば、キャピタリズムは衰退し、やがては終焉を迎えるだろうと予言した。

 創造的破壊とは不断に古いものを破壊し、新しいものを創造して絶えず内部から経済構造を革命化する産業上の突然変異である。

 シュンペーターによれば、資本主義の生命線であるイノベーションの担い手=企業家(起業家)が官僚化された専門家へ移行するにしたがい、資本主義の精神は萎縮し、活力が削がれてゆき、やがて資本主義は減退する。

 ここからが重要だ。あまり知られていないが、企業家(起業家)は主要な活躍の場を産業分野から次第に公共セクター、非営利セクターに移行させてゆくだろうと彼は書いている。シュンペーターもまた社会起業家の活躍を予見し、社会イノベーションを含意しているのである。

 1931年に日本を訪れ、京都にも遊び日本社会も垣間見たシュンペーターだが、今の日本の状況を見通していたのだろうか。若い世代が追い求めているものは、不思議と彼の予言と符合する。

 

 

引用:諜報謀略講座 ~経営に活かすインテリジェンス~ –第17講:若い世代が追い求める、「勤勉」と「幸福」の間にあるもの :ITpro

第14講:英語で世界をシノぐ方法(覇権言語ソフトパワーとのつきあい方)

カテゴリー : アメリカ

  日本人がアジア・アフリカの母語を持つ人々とも英語でコミュニケーションをとるのが当たり前の時代となって久し い。だが、読み書きではひけをとらないものの、話すのが億劫という日本人は相変わらず多い。そこで今回は、英語とどのように付き合ったらいいのかを考えて みよう。

 前回はチャイナ的人間関係の話をしたが、筆者は中国の友人と語らう時は英語を使っている。もっとも、世界中どこの人々とであろうが、コミュニケーションのツールは英語になってきている。

 筆者の中国の友人は、北京にある外資系企業の管理職で、海外からやってくるビジネス・パーソンとも英語でビジネスをやっている。

 その友人がショッキングなことを言う。「世界各国のビジネス・パーソンと英語で意思疎通しているのだけど、ジャパニーズの英会話力が最低だ」と。

 たしかに、英語を母(国)語としない人のための英語力総合テスト(TOEFL)の日本人の成績には目を覆いたくなる。なんと、長年、北朝鮮が最下位で日 本はビリから2番目である。中学、高校、大学というように、多くの日本人は6~10年も学校で英語を勉強している。しかも、街には英会話学校が乱立し、教 育ママは幼児向け英会話レッスンにわが子を通わせることが、もう何年もブームとなっている。獲得できる英語リテラシーを英語習得に投じる投資で割り算すれ ば、日本人の英語ROIは極めて低い水準だろう。

 

なぜ日本人は英語がヘタなのか

 自覚があれば、それなりに“英語ベタ”を逆手にとることもできる。だが、英語ベタな日本人は無自覚なままでいると、国際諜報はおろか、異文化間コミュニケーションの現場でおおいに損をしているし、圧倒的に不利になることが多い。

 そう言うと、次のような反論があるだろう。

「わが日本民族は英語民族による植民地支配を退け、それゆえにかつて敵性語であった英語は浸透していないのだ」

「大東亜戦争敗戦後の米国帝国主義に屈しない最後の砦が日本語という言語聖域(言霊)なのだ」

「言語学的に英語と日本語は極端に隔絶しているので、日本人の英語は上達しないのだ」

「学校での英語教育法が間違っているからいけないのだ」

「そもそも英語なんかできなくても生活できる」

 たしかに英語ができない、英語を使いたくない理由は山ほどあるだろう。しかし、ここで重要なことは、消極的にしか英語にかかわらないことで被っている不利益である。そして、ますます影響力を強めている英語の、背後に存在する構造を理解しておくことが大切である。

 英語圏の国々、特に米国と英国にとって英語は「ソフトパワー」の切り札である。ソフトパワーとは、軍事、経済などの力の行使によらず、その国の有する文 化、主義、価値観、政策などに対する理解や共感を広範に醸成することで、間接的に支配力を増長させてゆく力である。ソフトパワーを持つ英語が世界に浸透す ればするほど、英語コミュニティに有利に作用するのである。

 英語ソフトパワーの効用は、英語コミュニティに参加する人口が増えれば増えるほど増加する。したがって、英語を使えるようになると英語ソフトパワーの恩恵にあずかることができる。いわゆるネットワーク効果が英語圏を拡大させているのだ。

 

英語に接する日本人の5類型

 どんな言語でもそうだが、その言語を深く習得し、あるいは内面化するほどに、その言語が使われている地域や国、そして伝統、文化、社会経済の諸制度に愛着、同一化傾向を示すものだ。

 この傾向を熟知する米国寡頭勢力は、この英語ソフトパワーの利用に長けている。せっせと日本から産学官のエリート留学生を受け入れ、ソフトに親米派を醸成してきている。

 英語、特に米語を学ぶということは、この陰微なソフトパワーの影響下に参入しつつ、英語とその背景にある精神、伝統、発想、制度、行動様式を獲得するということである。このあたりの自覚の仕方には、おおむね5通りあると筆者は考えている。

 1番目は、学習の効果が出る前にギブアップしてしまうタイプ。そして日本語という閉じた言語空間、日本という閉じた空間に棲息することを選択する。このような人々を「日本ガラパゴス系」と呼んでいる。

 2番目は、カッコよく話せないが、なんとか聞ける、書けるというタイプ。必要に迫られないと、積極的には英語を用いない人々である。このような人々を「どっちつかず系」という。

 3番目は、その言語に熟達し、その言語の発想様式を取り込んでしまう自分に陶酔するタイプ。このような人々はジェスチャーや表情まで、それ風にするのが心底カッコいいと思っている。留学経験者や外資系企業の日本法人などによくいるタイプだ。「ナルシスト系」という。

 4番目のタイプは、興味の対象が外国語から、その外国語が活用される対象、つまりその文化、制度、その言語で記述される学問へ向かうタイプである。その 対象に傾倒するあまり、へたをするとその言語が使用される海外の大学や大学院まで行ってしまうタイプだ。「思い込み系」という。

 5番目のタイプは少数派。異言語に深く触れることにより、母(国)語に回帰してくるタイプである。この場合、やや過剰な回帰を伴うことが多く、民族の歴史やオリジナリティ、保守思想にまで遡っていくことがある。「伝統リターン系」である。

 

ローカル言語の1つが数百年で“世界語”になった

 いずれにせよ、英語に触れさせ、英語の理解者を増やし、聞いて、読んで、書き、話す、というコミュニケーションを英語で運用してもらうことは、英語圏や英語ネットワークにとって利益となる。

 カエサルがブリテン島に上陸した約2000年前には、英語は存在すらしていなかった。それから紀元500年後あたりから、今の姿とは異なる Englisc(English)が現れた。シェイクスピアがせっせと著作活動にいそしむ頃、500万~700万くらいの人々が英語を用いるようになる。

 その後、英国による植民地支配、産業革命、北米における英語の採用、科学技術の普及などによって、英語は英米のみならず、インド、アジア、アフリカ、南太平洋の島々などの地域にまで広まった。1980年代には7億5000万人に使われるようになった。

 また、マグナカルタ、権利章典、人身保護律、陪審制度、英国コモン・ローを経て独立宣言まで、すべて英語で書かれており、いわゆる権利概念、自由主義、 民主主義理念などは英語の浸透に乗って浸潤してきている。そしてIT、インターネットの出現、普及によって、英語の地位は決定的になりつつある。

 ソフトウエアを記述する言語は基本的に英語のロジックに沿って定められ、世界中のソフトウエア産業で最も使われているのは圧倒的に英語である。普遍的な ニーズを正確に理解して、製品化し、普及させてゆくすべてのフェーズで影響力を持つ言語を押さえれば、圧倒的に有利だろう。そのポジションに英語が納まっ ている。また知的財産権に関連する契約を英語で記述すれば、これまた英語側に有利となる。汎用ソフトウエアとインターネット・サービスの領域で日本発の世 界的なヒットが出ない根源的な理由の1つは、このあたりにある。

 

ますます強固になる英語の地位

 今日、英語を第一言語とする人口は4億人。さらに第2言語とする人口は4億人だ。そして第1、第2言語以外でも英語を使う人口は8億人いる。これらを合わせると約16億人となり、世界中で4人に1人は英語を使っていることになる。

 商談、国際会議、学術会議、国際スポーツイベントなどでは、公用語として英語の地位は高い。さらに、英語を公用語としている国は60以上ある。特にアジア太平洋地域での英語浸透度はすさまじい。もはや英語ができなければ「話にならない」というのが世界情勢なのである。

 そして科学、技術、経営における英語の地位は、他の言語を寄せ付けない。細かなことを除けば近代以降、科学、技術、経営の普及と英語の普及はほぼ同期し ている。これは単なる言葉の表層の問題ではない。これらの領域の専門用語、そして概念は英語で規定され、書かれ、話され、伝達され、共有され、記述される のである。

 だからこれらの領域で勝負しようとすれば、英語ができなければどうしようもない。好むと好まざるとにかかわらず、英語が世界基準、そして世界的価値に着々となりつつあるのだ。

 自分の能力の市場価値を国際的に高めるためには、英語ソフトパワー陣営に与するほうが有利に働く。だからアジア各国のエリート、エリート予備軍たちは英語の習得に余念がないのである。

 

ネット環境は読み書きが得意な日本人に有利

 筆者の周りの日本人ビジネス・パーソンは「話す」ことに自信はなくても「読み」「書き」に自身のある方は多い。この性質を逆手にとれるのがインターネット環境だ。

 海外とのやり取りで最も使われるメディアはインターネット、特にメールである。メールは日本人の特性に合っている。第1に、話すことを回避できる。この メリットは大きい。第2に、交信記録を残して共有できるので、ロジックを押さえておけば、話の勢いやムードで劣位に立たされることなく議論ができる。第3 に、日本人の正確性へのこだわりである。メールならば文法やスペルチェックにいくらでも時間を使うことができるし、それらをサポートするツールは豊富だ。

 実は筆者もこの手をよく使う。英語のコミュニケーションの多くをメールでカバーすれば、読み、書きの面積を拡げることができる。メールで鍛えておけば、 SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)やTwitter(ツイッター)の英語環境にも十分対応できるようになる。

 筆者の場合、英文契約書の締結といった海外との込み入った交渉事でも、コミュニケーションの7割はメールでのやりとりだ。残りは、電話(テレカンファレンスを含む)が2割、実際に合ってフェイス・ツー・フェイスで詰めるのが1割といったところだろう。

 もちろん、フェイス・ツー・フェイスを疎かにするのではない。読み、書きをネット経由で集中させると、かえって最もリッチなコミュニケーションであるフェイス・ツー・フェイスの価値が高まる。

 ただし、セキュリティの関係で、機密度が高い場合はどうしても対面コミュニケーションに比重がかかるのはいたしかたない。機微に触れるやりとりの王道は対面コミュニケーションである。

 

英語に取り込まれず、英語と付き合う

 このようにネットを上手に利用すれば、「読み」「書き」重視で「話す」を軽視する日本式英語教育でも、案外使えるのだ。ネットでの英語利用を含めて、英語と接してゆく生き方にはおおむね3本の道があるだろう。

 1つめは日本語に徹する生き方。英語に接しない生き方だ。そして日本語に閉じこもるのである。その場合、海外と関係するような仕事には見向きもせず、ひ たすら日本国内でシノいでゆくという生き方である。この方向の人々はすべてに「日本的~」をつけてシノいでゆくことになる。卑屈に英語に接することを断固 拒否するのも立派な態度である。

 2つめは割り切って、英語を道具として活用する生き方。きちんと英語と向きあう道を歩むのである。専門的知識を英語でも理解し運用することを目指す。前 述した日本ガラパゴス系やどっちつかず系を乗り越えていかなければならない。この場合、英語ソフトパワーに身を寄せながら生きてゆくことになる。日本人の 英語の読み、書きのリテラシーは高い。まずはジャパニーズ・イングリッシュを恥じず、堂々と日本的英語で語ろう。

 3つめは、多言語的生き方。これは2つめのシナリオの延長線にある。言語の境界を越境して、時に境界を溶かしつつ、生きてゆく場所を見つけてゆくのであ る。英語に加えて、できればもう1つ使える言語があればいいだろう。英語ソフトパワーの隠微さと機微を十分に自覚しつつ、言語多元的に生きてゆくのであ る。英語に取り込まれず英語を道具として手に馴染ませることが肝要だ。

 覇権国アメリカの地位は微妙に衰退してくるだろうが、英語、米語の比較優位なポジションは当面維持されるだろう。多元的な言語世界と付き合う上で、どのシナリオを選ぶのかは本人の自由。ただし、多言語環境で活躍したい若者には、2つめか3つめのシナリオを勧めたい。

 日本が位置するアジア太平洋地域はおろか、世界における多言語環境の筆頭に位置するのは英語である。「英語に身に寄せることができなければ周りの世界と 絶縁してしまう」くらいの危機感があってもよい。ただし、くどいようだが、健全な間合いをとって、覇権言語である英語ソフトパワーの隠微さと機微を自覚す ることが重要だ。

 

    【参考文献】

  • ロバート・マクラム、ウィリアム・クラン、ロバート・マク二―ル、「英語物語」、1989年

 

引用:諜報謀略講座 ~経営に活かすインテリジェンス~ – 第14講:英語で世界をシノぐ方法(覇権言語ソフトパワーとのつきあい方):ITpro

第13講:中国人と仲良くする方法(チャイナ的人間関係への棲み込み)

カテゴリー : アメリカ

 様々な矛盾を抱える中国だが、今後中国市場は日本企業を含め外資系企業にとって何としても食い込みたい金城湯池だ ろう。中国ビジネス成功の秘訣は「人間関係」だが、日本語でいう「人間関係」と決定的に異なる「チャイナ的人間関係」の機微を知らなければ、チャイナ社会 への食い込みは無理だ。そして食い込むためには「棲み込み」が必要となる。

 昨年、中国の清華大学と大連理工大学を訪れて、学術や財界で活躍する方々と親しく意見を交換する機会を持った。中国人の方々と囲む会食は楽しいものだが、よく話題になるのがビジネスパートナーの作り方、人間関係の構築方法である。

 国と国、企業と企業、大学と大学、すべての関係性の出発点は個人と個人のやりとりから始まる。文化・歴史・商習慣の背景が異なると、もちろん行き違いは多くなる。だからこそ、この行き違いのリスクを軽減させることによるメリットは計りしれない。

 真のビジネスパートナーとは、「第12講:古今東西、CIAの対日工作にまで通底する『孫子』の系譜」で論じたような共同謀議、つまり、共に謀(たばか)りを企てるほど親密かつ戦略的な関係のことをいう。中国企業と競合して謀りを企てたり、知的財産権がらみの偏頭痛を被っている企業ももちろんある。筆者の周りにもまた中国ビジネスで悲惨な目に遭っているケースは多い。

 日本企業側の経営戦略の稚拙さもさることながら、おうおうにして人間関係のハンドリングで過ちを積み重ね、結果としてビジネス面で泣きを見ることが多 い。そこで今回は、前回の講義で紹介した『孫子』の『用間篇』に続き、「チャイナ的人間関係」の機微について考えてみよう。

 

チャイニーズ・ビジネス達人のコンピテンシー分析

 とある大企業に鮫島寛一(仮名)という中国ビジネスについて達人級の黒幕的なプロがいる。この人物は、中国政府、中国共産党、企業、大学に独自の人脈を持ち、この人がいなければ、その会社の中国ビジネスはまったく進まない状況だった。

 その企業は、第二、第三の鮫島氏を育成しようと躍起になっており、その人材開発プログラムづくりの一環として鮫島氏のコンピテンシー(能力特性・行動特 性)を分析してくれと筆者に依頼してきたのだ。そこで、異文化対応型ハイパフォーマ分析(high performer analysis)を行うことになった。

 まずはコンピテンシーについて少々解説しておきたい。

 コンピテンシー研究に関しては、人的資源管理論(human resources management)における蓄積が顕著である。その世界的な学術的潮流の中核に位置しているのは、「Hay McBer」と呼ばれる、人的資源や組織行動のマネジメントに特化したコンサルティング・ファームである。ハーバード大学のマクレランド教授が創設した会 社である。

 ロバート・W・ホワイトは有機体のメタファを組織論に延用することが流行った1950年代に、コンピタンスを「環境と効果的に相互作用する有機体の能 力」と定義した(White 1959)。しかし、マクレランドはコンピテンシーを、「達成動機の研究を基盤にして人的資源に内在する適性である」ととらえたのである。それゆえに、コ ンピテンシー(competency)とコンピタンス(competence)は似た用語ではあるが、術語としては異質なものであり両者は異なる。

 マクレランドの系譜で初期のコンピテンシー研究をリードしたボヤティスによれば、コンピテンシーとは「動機、特性、技能、自己イメージの一種、社会的役 割、知識体系などを含む個人の潜在的特性」である(Boyatis 1982)。その系譜を発展的に継承した中心的研究者でマクレランドの系譜に立つライル・スペンサーによれば、コンピテンシーとは、「ある仕事や場面で、 外部基準に照らして効果的、もしくは優れた業績を結果としてもたらす個人の基礎を成す特性」を指す(Spencer 1993)。

 ライル・スペンサーの本は、「コンピテンシー・マネジメントの展開」として日本語訳されており、人事関係あるいは部下をお持ちの読者ならば必読書として 薦めたい。実は筆者とスペンサーは、同じHay Groupにいたこともあり、ベルギーなどで会っては教えを請うたり、議論したりしてきた間柄だ。

 さて件の鮫島氏には、リーダーシップ、対人関係能力、イニシャティブといったコンピテンシーには人を抜きんでたものが備わっている。しかし、彼に潤沢に 備わっていて、他の中国ビジネス担当者に欠落しているものは、濃密なチャイナの古典と社会に対して、自分を放ち、棲み込むくらい積極的で濃密、かつ極めて 特異な属人的性向である。

 彼は高校生のころから漢文、漢籍(中国の書籍)に親しんでいて、中国の要人と接するたびに仕事のことはさておき、中国古典に関する意見、知見を交換して きたのだ。不明な部分があれば手紙で質問したり、後日、研究して新しい解釈を開陳したり、という具合に。鋭い質問に相手が答えられない時は、その相手は、 大学の先生や読書人(知識階級に属する人々)を紹介する。そうして、鮫島氏のまわりには、自然と人脈が形成されることとなった。

 こうして鮫島氏は、インナーサークルの機微な情報・知識を共有するキーパーソンになっていった。必然的にビジネスも彼のまわりに属人的に形づくられるようになっていったのだ。

認識人、関係、情誼、幇会とともに深まる人間関係

 「そうか、中国の古典を学んで、その知識を中国人に開陳すればいいのか」と思われる向きもあろうが、それはあまりに短絡的だろう。鮫島氏は、中国の古典のみならず、中国の人間関係の法則を熟知しているのだ。

 中国では、宗族と呼ばれる親族集団の内か外かで、まったく人間関係が異なる。宗族とは、共通の祖先を持ち父系の血縁で結ばれていると考える人々によって 組織された集団である。彼らは同じ姓を持ち、祖先祭祀や族譜(一族の家系記録)の編纂などの活動を行う。また、同じ姓の男性と女性とは結婚できないという 同姓不婚の原則がある。

 宗族外にいる日本人としては、中国ビジネスを進展させるためには、インナーサークルの人間関係、つまり「認知人(レンシーレン)→関係(クアンシー)→ 情誼(チーイン)→幇会(パンフェ)」と呼ばれる人間関係の濃密さを絶対的に強めてゆく集団に受容される必要がある。ちなみに認識人とは日本語の「知人」 に近いニュアンスを持つ。「関係」は文字通り、認識人よりも特定の文脈で深い仲、つまり関係を持つ仲。さらに情誼は深い人情と誠意とともに濃密な利害関係 を共有する仲である。「幇会」は、より強固で排他的な仲間関係となる。

 認識人→関係→情誼→幇会に連なる非公式的な人間関係はいわばチャイナ社会の法則(図1)。外延部では契約が権利義務の関係を規定する が、中心に向かうに従って契約ではなく人間関係そのものが権利義務を左右するようになる。チャイナ社会が、いまだ法が支配する法治社会ではなく、人間関係 が支配する人治社会であるといわれる、1つのゆえんがここにあることに注意されたい。

 チャイナ社会の法則

 
図1●チャイナ的人間関係

 

 売官、土地の使用権利の不正移転、貸付金の私的流用、課税を違法に減免してキックバックを得る、密輸、汚職、贈収賄といった腐敗現象が、全国の中国共産 党組織や警察組織にまで蔓延している。これらの腐敗は、幇会が穏密に発達していることと無関係ではない。中国の腐敗分子の特徴は、インフォーマルな利益共 有集団を形成して不正な利益を獲得するシステムを囲いこむことであり、そこには幇会の原理が発動している。
 
 腐敗は共産党が管掌する人事部門、行政の中心である省委員会、宣伝部、民法院、検察院、公安局まで広範囲、かつ深部にまで及び、腐敗を作るのは共産党党 員がほとんどである。だから、中国では、共産党党員を対象に紀律(規律)違反、法律違反ケースの受理、調査、処分を行う専門部局である紀律検査機関を設置 せざるを得なくなっている。

 ちなみに中国企業や行政機関との契約でトラブルを起こす外資系企業が後を絶たないのは周知の事実。チャイナ社会での契約は、認識人→関係→情誼→幇会と いうように、人間関係を深めてゆく入口に建てる“一里塚”みたいなものだ。つまり契約の締結は、本格的な関係構築を始めるスタート・ラインくらいに思って おいた方がいい。そして関係が濃密なものになるに従って、法治主義の要の契約の位置づけは薄くなり、代わって前述した幇会的な人治主義が断然優位となって くる。チャイナ社会における契約の位置づけは、「第7講:ユダヤの深謀遠慮と旧約聖書」で解説したような、西側諸国のユダヤ・キリスト教的「契約」に淵源する資本主義の契約関係とは異質なものだ。

 社会主義市場経済の大きな矛盾は、市場経済によってもたらされる利益を、社会主義を推進する共産党組織内の幾千万もの幇会が不正に搾取し、その腐敗を共産党が摘発するという自家撞着の構造にある。

 その上で「チャイナ的人間関係」に入るためには、認識人、関係、情誼、幇会に関する深い理解とともに、特殊な文脈へ自らをディープに埋め込むことが必要 不可欠だ。鮫島氏は、四書五経(『論語』『詩経』など儒教の書物の中で特に重要とされるもの)をはじめとする漢籍に関する教養がその契機となった。

 今日では、論語などを積極的に学校の授業に取り入れて儒教の再評価が進んでいるものの、中国共産党は、長年、特に文化大革命期には「儒教は革命に対する 反動である」として儒家思想を徹底的に弾圧した。よって、学齢期が文革期と重なっていると、知識人でも四書五経の知識は限られている。

 「ほほう、中国人でも知らない古き良きことを深く知っている鮫島はたいした者だ」と思う隣人が次第に増え、「日本鬼子」(リーベングイズ)と悪口を言う代わりに、四書五経や武経七書について彼と語り合う人々が増えていったのだ。

チャイナ的人間関係は制度変革を超越している

 「幇」には、公式的・公開的な「幇派」と非公式的、秘密主義的な「幇会」とがある。さらに幇派には、血縁(同姓の親戚グループ)、地縁(省、県、郷、 村)、業縁(業種、業界、専門職)がある。幇会には、政治的な利害を共有するもの(洸門、三合会、致公堂など)と非公然的な反社会的勢力(天地会、海陸山 など)がある。
 幇派、幇会のいずれにせよ、「幇」の性質として一度契りを結んで仲間になれば、強固に排他的な仲間関係(自己収束的な集団)を形成していく。幇は中国に 独特な行動様式を形成してきており、幇という集団が消長する歴史が千数百年間も繰り返されてきている。チャイナ社会のシステムを維持する方向で作用してき たのだ。

 湯武討伐、易姓革命、儒学官僚支配、共産党一党独裁のように中国社会の体制を外形的に規定する原理は変遷してきたが、幇は中国社会に内在していて一貫して機能してきたと見立てることができる。つまり、幇はチャイナ社会を形成する内在的な社会システムなのだ。

 

暗黙知の次元と棲み込む力

 さて、ビジネスのリテラシーといえば、だれしもが、戦略、マーケティング、財務会計、人的資源管理、アントレプレナーシップ、統計の活用、オペレーショ ン、リーダーシップといったようなビジネス・スクールのコア・カリキュラムのようなものを思い浮かべるだろう。こうした汎用的で一般的なナレッジに、その 会社独自の文脈が加わって、その人なりのビジネスのリテラシーが形成される、とよく説明されたりする。

 しかし、同じようなカリキュラムで学び同じようなビジネスの文脈に身を置いても、中長期的には仕事の出来、不出来に雲泥の差が生じるのは、何かほかの決定的に重要な要素があるからである。その1つが「対象に棲み込む力」である。

 この「対象に棲み込む力」は図2のような式となる。つまり、いくらカリキュラム的な形式知を頭に詰め込んでも、a=棲み込み係数が低ければ、y軸の実践力は高まってこない。Y=aX+bの直線の周辺に沿うように、スパイラル状に実践力は高まっていく。

 対象に棲み込む力としての実践力

図2●対象に棲み込む力としての実践力

 

 この実践力という特殊な力は、新規プロジェクト立ち上げ、起業、イノベーション創発のような特別の機会に力を発揮する。しかし、この特殊能力は言葉でスンナリと説明できるような代物ではない。とても暗黙的なのだ。

 マイケル・ポランニーは、ゲシュタルト(形態)は認識を求めるときに能動的に経験を編集するプロセスで形づくられ、その形成と統合こそが「暗黙の力」 で、その暗黙の力が進化の動因でさえあると意味深なことを言った。石井淳蔵は、ポランニーの暗黙知を下敷きにして、優れた経営者やマネージャが新しいビジ ネスモデルや新規事業を生み出すメカニズムに迫っている。その際のキーワードが「対象に棲み込む力」である。

 石井によれば、扱っている製品、サービス、顧客、市場データなどは「近位項」に相当する。そして、棲み込んだ結果、そこに生まれる関係性、画期的発明、 新規ビジネスモデルなどが「遠位項」となる。棲み込む対象は実はなんでもよい。近位項とは、部分の性質や特徴で、遠位項とは部分が統合された全体である。 近位項は手がかりでもあり、遠位項は手がかりによって得られる全体的な成果である。

食い込みの前に首尾一貫した「棲み込み」あり

 鮫島氏の場合は遠位項がビジネスにおけるダークないしはグレーゾーンを含むチャイナ的人間関係、大陸における新規ビジネスの創出。鮫島氏は近位項と遠位 項を無意識的に行ったり来たりしながら、社内はおろかグループ企業を含めても他を圧倒する断トツの中国ビジネス実践力を体得していったのだ。

 紹興酒を片手に目を細めて笑いながら中国ビジネスのツボを語る彼は、なんとも言えない清濁併せ呑むような首尾一貫した雰囲気を放っている。彼が持つもの は、人生の当事者として身の回りの世界に首尾一貫した意味のある一体感(sense of coherence)であり、人生を手中にしている感覚だ。首尾一貫感覚とは、自分と身の回りの世界に十全な一体感を持ち自分の存在を有意味なものとして 受けとめる健康的な感覚である。

 中国ビジネスの文脈に食い込む以前に、首尾一貫した棲み込みがあったのである。そしてその棲み込む対象は、チャイナ社会の人間関係。このような暗黙的で ありながらも特殊な実践力を持つ人材は、旧来の学校秀才タイプにはあまり出現しない。なぜなら、カリキュラム的形式知の記憶に長けていても、対象を選び、 そこに棲み込むパワーが欠けていたのでは文脈に応じた断トツの成果を生み出せないからだ。

 

ビジネスの足腰としての棲み込み力、諜報謀略力

 『孫子』の『用間篇』では、敵対する対象に棲み込む力に焦点が置かれるが、アライアンス、パートナーづくりといった対象に対する友好的なかかわり方でも、対象に棲み込む力は重要な役割を発揮するのである。

 グローバル市場で各国のベンチャー企業、大手企業が覇権をかけて激しく競合し、企業同士の合従連衡は盛んになる一方だ。特に今後は中国企業によるM&Aをテコにした事業展開に弾みがつくだろう。

 このような情勢で、ビジネス展開における棲み込み力、諜報謀略能力の有無が企業戦略を大きく左右することとなる。このような特殊な棲み込み力、諜報謀略能力を保持する人的資源を確保することが競争優位に立てるか否かを決するのである。

 「日中友好」のスローガンを叫ぶのではなく、現場で「日中友好」を展開するのは実は生易しいことではない。いかに社会主義市場経済の現場の奥底に蠢く 「チャイナ的人間関係」に接触し、関与していったらよいのか。さらには、どのような機微を織り込んで人間関係を構築していったらよいのか。諜報謀略論から 見るチャイナビジネスへの棲み込み、食い込みは重い課題だ。

 

    【参考文献】

  • Robert White, “Motivation Reconsidered: The Concept of Competence”, Psychological Review 66:297-333
  • Richard Boyatzis, “The Competent Manager: A Model for Effective Performance”, Wiley-Interscience、1982年
  • ライル&シグネ・スペンサー 、「コンピテンシー・マネジメントの展開―導入・構築・活用」、2001年
  • 石井淳蔵、「ビジネスインサイト」、2009年
  • シンガポールのチャイナ社会を分析したレポートして「華人社会について ~華人社会の三角関係~」(PDF)が示唆に富んでいる。

 

引用:諜報謀略講座 ~経営に活かすインテリジェンス~ – 第13講:中国人と仲良くする方法(チャイナ的人間関係への棲み込み) :ITpro

第11講:キリスト教国家アメリカ中枢の黙示録的思考

カテゴリー : アメリカ

 多元・多層・多神的な日本の宗教的心象からは、一神教世界で起こっている社会的現象がなかなか理解できない。もちろん宗教のみがすべての社会現象の説明 関数ではない。だが重要な要因であることに間違いない。そこで今回はアメリカという国の宗教的側面の一端を議論していきたい。

 2005年の「世界主要国価値観」に関する調査によると、「あなたの生活にとって神はどの程度重要か」という問いに対し、「非常に重要」と答えたアメリ カ人は回答者のうち55%、「まったく重要でない」が5%。日本人は「非常に重要」が5.4%、「まったく重要でない」は12%である。

 米世論調査会社ギャロップの調査では45%のアメリカ人は「神が人間を創造したと信じている」と回答している。また35%のアメリカ人は「進化論には根 拠がない」と答えている。また定評のあるハリス調査では、54%のアメリカ人は進化論を信じていないという結果を伝えている。3分の1から半数くらいのア メリカ人が進化論を信じていないという事実に驚く日本人は多い。

 第7講で 扱った「創世記」によると、世界は神によって6日間で創造された。これらの記述を真理として信じることを「クリエーショニズム (creationism)」と呼んでいる。クリエーショニストは、自分たちの真理を否定する「進化論」を敵対視してきたのである。「進化論」を受け入れ ることは「クリエーショニズム」を否定することになり、それは神の実在を否定することにつながるからだ。

 1925年にテネシー州デイトンで行なわれた通称「モンキー裁判」は有名だ。当時のテネシー州には「バトラー法」という法律があって、神による創世を否 定する説、理論を公立学校で教えることは禁止されていた。ところが高校教師のジョン・スクープ氏が進化論を講義した。そのかどで彼は罷免されてしまった。

 彼は自分を罷免した学校側を告発したが、結局、バトラー法に違反したとして有罪判決を受けたのだ。「人間は神が創造したものである。人が猿から進化したと子供に教えるのはとんでもない」ということを審理したのでモンキー裁判と呼ばれた。

 日本ではダーウィンの進化論は常識の一部で、世界は神によって6日間で創造されたとする旧約聖書の物語を真に受ける人は少ないが、アメリカは日本の真逆である。

 2007年の米国国勢調査によると、米国人口に対する宗教人口比率は、プロテスタント51.3%、カソリック23.9%、正教0.6%で合計75.8% を占め、キリスト教は圧倒的な多数派である。そのうちバプティスト、ペンテコステ派などプロテスタント保守派は25%でアメリカ人の4人に1人となる。カ ソリックや正教を加えれば宗教保守はおおむね3人に1人くらいと見積もられる。

 その宗教保守が政治的に特に大きな影響力を行使したのは、2004年のブッシュ大統領再選だった。

 

ファンダメンタリズムはキリスト教ならではの特徴

 聖書に書かれていることを、そのまま真実、真理として信じる人々は一般的にファンダメンタリスト(fundamentalist)と呼ばれる。宗教保守 のなかでも最右翼にあると言われる。原理主義は、ファンダメンタリズムの訳語であり、元来はキリスト教根本主義のみを指す用語である。

 キリスト教ファンダメンタリスト(Christianity Fundamentalist)は神学的には、福音派キリスト教に含まれる。聖書に記述されたことをすべて神の直接的な啓示と受け入れて、聖書の言葉通り に信仰する。ただし、米国内で特別視されているわけではない。キリスト教徒であれば、ファンダメンタリストの心象は多かれ少なかれ共有できるものである。

 キリスト教原理主義者は、聖書の無謬性を信じ、聖書の記述を「御言葉によってのみ」(sola scrptura)、逐語霊感的に直解する。マリアの処女懐妊、キリストの代償的贖罪死、そしてキリストの体の復活、イエス・キリストの再臨を純粋に徹底的に信じる。

 ファンダメンタリズムが成立するための条件は、確定した正典が存在し、かつ外面的行動に関する規範がなく、加えて内面の信仰のみを重視する、ということだ。ここにキリスト教のみにファンダメンタリズムが成立する神学的な理由がある。

 ここで思い出していただきたいのが、第7講の 「一神教、契約の民」の節で説明した「一神教の基本方程式」(下図)。この図式の左側に「法律」とある。ユダヤ教、イスラームなどの一神教では信仰する対 象として啓典と法律(律法、法源)と1セットとなる。ユダヤ教の啓典トーラーは外形的行動に関する命令を含み、行動指針としてのタルムードが整っている。

 

図●一神教の基本方程式

コラム画像

出典:橋爪大三郎氏の講義資料より

 第9講で も確認したように、イスラームでは「クアラーン(コーラン)」をいかに敬謙に読みこんで信仰しても、ただそれだけでイスラームたるわけではない。ハディー ス、イジュマーなどの法源を守らなければならない。よって本来はイスラームには厳密な意味合いでのファンダメンタリズムはありえない。

 確定した正典がない仏教にも原理主義はありえず、また元来経典宗教でもない神道にも原理主義はまったく微塵もありえない。

「原理主義」の通俗的意味あい

 それでもマスコミは、しきりとイスラーム・ファンダメンタリズム(Islam fundamentalism)という呼称を喧伝する。しかし、上記の理由により、この通俗的用法は実は厳密な意味では正しくない。

 イスラーム・ファンダメンタリズムという語法は、キリスト教勢力が敵対するイスラームに対して投げかけた、なにぶんイメージ誘導的な言辞であることに注意されたい。

 よってここでは、通俗的なイスラーム・ファンダメンタリズム(イスラーム原理主義)とは通説に従い「イスラームの原理に従順に従い徹底的にイスラームに忠実であるべきだという主義」としておこう。

 すると、第9講でまとめたように、イスラームでは聖と俗の区別がなく聖が浸透し、西洋で発達した政教分離を受け入れる余地はない。すなわち神聖政治(Theocracy)がイスラームの必然的帰結である。まさにイスラーム革命後のイランの体制である。

 

宗教右派と極端な言説が横行したブッシュ政権

 キリスト教ファンダメンタリストと福音派(エヴァンジェリカルズ)の関係は微妙だ。教義的にはキリスト教ファンダメンタリストは、福音派に内包されるが、その関係は協調的でもあり対立的でもある。両派のサブグループによっても主張の違いがあり、複雑な関係を呈している。

 福音派は回心(コンバージョン)、つまり神に背いてきた自らの罪を認め、聖霊によって霊的に新しく生まれ変わる個人的で強烈な信仰体験を経て、自覚的に キリスト教徒になった「ボーン・アゲイン」の総称である。聖霊によって新しく生まれ、キリストと結びつく霊的な洗礼を受けたことを指しており、聖霊による バプテスマ、聖霊のバプテスマとも言う。

 第43代米大統領のジョージ・ブッシュ氏は、39歳でボーン・アゲインとなり、アルコール依存症から立ち直ったと言われている。そのブッシュ氏は、 9.11テロ後の演説で「十字軍」という表現を使って深刻な非難を買ったのは有名なことだ。ブッシュ氏の演説には「神の思し召し」「善と悪」「神の摂理」 といった表現や聖書からの引用が直接的、間接的なものを含め、極めて高い頻度で使われた。

 ちなみにブッシュ政権下で司法長官だったアッシュクラフト氏は筋金入りのファンダメンタリスト。アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団に属している。祖父 も父も南部出身の牧師。キリスト教ファンダメンタリズムを建学の理念とするボブ・ジョーンズ大学で「独立戦争を戦った人々は、宗教的信念によってそうした のだ」と演説した。彼は同性愛、人口妊娠中絶、ポルノを不道徳であると断罪し、死刑制度を強く擁護した。

 国防次官代理でウサマ・ビンラディンやフセイン大統領の追跡・討伐が任務だったウィリアム・ボイキン中将もまた強烈なファンダメンタリト。軍服のまま宗 教集会に参加することを常とした。「われわれの敵はサタン」「彼らが戦いを仕掛けてくるのは、我々がキリスト教国だからだ」という発言を繰り返した。

 「なぜビンラディンやフセインがわれわれを憎むのか。その答えは1つ。われわれがキリスト教徒だからである」とまで演説したとき、ロサンジェルス・タイムズは「将軍が戦争を宗教言辞で粉飾」と非難した(2003年10月16日号)。

 ボイキン中将は米軍を「神の軍隊」と呼び、ブッシュ氏をして「神が任じた大統領」と演説で語った。そしてボイキン中将は軍の指導部の命令ではなく、「私は神の命令を受けている」とまで言い放った。

終末論的な黙示録的思考

 米国は世界に覇を唱えるべきではなく、謙虚な国家になるべきだ、とソフトな孤立主義者を演じていたブッシュ氏は、あっという間に聖戦意識に燃える十字軍戦士に変貌した。サヴァイバル誌は、このブッシュ氏の変貌を「劇的で180度の転換」と評論したほどだ。

 世界の救世主と自らを見たて、強大な軍事力を行使するアメリカの行動様式はなにもこの時に始まったことではない。「善と悪」「正義と不正義」「光と闇」 「敵と味方」といった二項対立の図式の中で一方的にアメリカを「善」「正義」「光」に見たて反キリストの敵に対峙するといった黙示録的思考は20世紀のア メリカに通底している。

 黙示録的思考とは、主として「ヨハネの黙示録」の記述を間違えのない未来預言と受けとめ、絶対的正義=光=キリストが、絶対的悪=闇=反キリストを殲滅(せんめつ)することが予定されているという二元的、二項対立的な世界観の大前提を置く思考様式のことである。

 20世紀が終わりに近づくにつれて、終末が間もなく到来しそうだという「待望」が保守派キリスト教に広まっていった。敬虔なキリスト教徒にとって、終末は恐怖に満ちた破滅ではなく、祝福すべき救済を意味する。だから待望なのである。

 良識ある人々は、前節で紹介したような政権内の要人達の発言に眉をひそめはしても、あからさまに非難するようなことは控えるようになっていった。そのような人々が非愛国者の烙印を押されかねないほどの異常な雰囲気に飲まれていたのである。

 「原理主義の特質こそ、実に9.11以後のブッシュ政治の中核であり、それは人であろうと、組織、行動、イデオロギーであろうと、一種の政治的現実を、2つの対立項として描き出す」とデイビッド・ドムク氏は論じる。

 この黙示録的思考に支えられた行動様式のスイッチを入れるのが、「だまし打ち」によって自らが不当な攻撃を受けたとする特殊な被害者意識である。米国寡 頭勢力は、この特殊な被害者意識を操作することを深く学習している。この意識はかつて「真珠湾のだまし打ち」という米国内向けプロパガンダ的言辞として操 作された。そして9.11の件でも、この特殊な意識の蠢動は寡頭勢力の操作対象であった。

 第8講で述べたように、旧約聖書のヨシュア記にまでさかのぼることができるこの特殊な深層感情は、愛と平和の維持を担保する攻撃本能の発露でもあることに注意されたい。

 宗教社会学者のマシュー・ロスチャイルド氏は指摘する。「イラク戦争とは、ネオコンに説得された福音派キリスト教徒のブッシュ氏が、ソ連崩壊後の世界で、アメリカを『自由の守護者』として捉えなおし、テロリズムの種を捲く『ならず者国家』討伐に乗り出した戦争である」。

 一般にネオコン(新保守主義)とは、外交政策において自由主義覇権論をとなえ、独裁政権に対して直接の武力介入による転覆などを唱導する急進的な集団である。ネオコン、福音派、キリスト教原理主義が9.11の危機を眼前にして、特異な共時現象を起こしたのである。

戦争の正しさの基準としての正戦論

 戦争は人々を不幸にする。しかるにキリスト教は宗教戦争を引くまでもなく様々な戦乱、様々な争いの主要な当事者の1つになってきた。だからキリスト教 は、戦争が宗教的、道徳的に正しいか否かを審査する基準を議論し、あてはめようとする正戦(just war)論を発達させてきた。

 筆者が在籍していたアメリカの大学でも他大学でも、正戦論はリベラル・アーツとして位置付けられ、軍事大学院や外交を講ずる政策大学院では専門科目の一環として、高校においてさえも初歩の正戦論はカリキュラムの1つとして組み込まれている。

 まず、戦争が正しいものであるか否かは、2つに区分される。

 1つめは、戦争を始めるにあたって7項目に集約される規準を満たしていること。(1)自衛が目的であるという正しい理由がなければならない。(2)正義 の比較優位、つまり相手より自分達に正義が存在するということ。(3)国の最高議決機関による開戦の承認と決定が必要。(4)戦争の目的は平和の復旧とい う正しい意図のもとにあるべき。(5)勝てる見込みのある戦争のみを行う。(6)平和的な交渉を尽くした後の最後の手段でなければならない。(7)戦争に よって得る便益は、戦争によって引き起こされる邪悪さと損害に釣り合ったものでなければならない。

 2つめは戦争中の戦闘行為についての規準で、大きく3つに分かれる。(1)戦闘員と非戦闘員を厳格に区別し、非戦闘員や非戦闘員が居住する地区を攻撃し てはいけない。(2)偶発的な市民の殺傷は軍事的な利益と照らして釣り合わなければならない。(3)不必要、過度な殺戮や破壊を制限するために最低限度の 軍事力を行使しなければならない。

 イラク戦争開戦にあたっては、この正戦論が徹底的に議論された。だが、戦争をリードしたネオコンの関心は、むしろ正戦論に合致するような情報操作による 開戦の正当化であり、正戦論に抵触しないような戦闘行為に関する情報操作、情報統制だったとされる。喧伝されたイラク国内にあるとされた大量破壊兵器はい まだに発見されていない。2004年10月には、アメリカがイラクに派遣した調査団が「イラクに軍事的に意味のある大量破壊兵器は存在しない」との最終報 告を提出した。ブッシュ大統領は退任直前のインタビューで「私の政権の期間中、最も遺憾だったのが、イラクの大量破壊兵器に関する情報活動の失敗だった」 と述べ、CIAなどの諜報活動で入手した大量破壊兵器の情報は誤っていたことを認めた。

 

親イスラエル感情と黙示録的思想

 キリスト教原理主義者だけではなく、穏健な福音派にも共通するものが黙示録的な終末信仰と、それに立脚したイスラエル支持の特異なメンタリティである。 多くの福音派にとって、イスラエル共和国の建国は聖書に予定された「ダビデ王国の復興」であり、イエス・キリストが再臨するためには、イスラエルの存続は 犯すことのできない条件である。

 黙示録的な終末信仰では、世の終わりの前には中東地域で大戦争が起こるとされている。それも神に予定された計画であると。この文脈のなかでは黙示録的思考を共有する人々にとって、イラク戦争はまさに「聖書預言の成就」と映るのである。

 ブッシュ政権の親イスラエル的な政策の背景には、このような親イスラエル的な原理主義者や福音派の強い支持があった。神の摂理とともに存在するイスラエ ルを支援するのは、彼らにとって自明なことであり、福音派の団体、組織、教会などが莫大な献金や寄付をイスラエルに与え、占領地へのユダヤ人入植を熱心に 協力してきたのである。

オバマ政権で抑圧される宗教右派

 2009年3月、オバマ大統領は人の受精卵が分裂する過程で取り出す特殊な細胞「ES細胞」を使った医療研究を助成する大統領令に署名した。「生命倫理の一線を越える」として拒否権を発動したブッシュ前政権との違いを際立たせた。

 4月のプラハでの演説では、広島・長崎への原爆投下を指す「核を使用した唯一の保有国としての道義的責任」に触れ、「核のない、平和で安全な世界を米国が追求していくことを明確に宣言する」とまで述べた。

 また、オバマ大統領は6月にカイロで「私はアメリカと世界中のイスラーム教徒の間の新しい出発を求めてここにやってきた」と演説した。この演説では何度 も「クルアーン」の言葉を引用するなど、イスラーム社会への和解の姿勢を鮮明に打ち出すことにも腐心。「無垢の人を殺戮する者は人類のすべてを殺戮するも のである」という「クルアーン」の言葉を引用して、改めて過激主義者との闘いを継続する決意を表明した。

 「アメリカはイスラーム社会全体と戦争をしているわけではないし、将来においても決して戦争をすることはない。しかし、わが国の安全に重大な脅威を及ぼ す過激主義者とは断固として対決するつもりである」と言い、イスラーム世界とイスラーム過激主義者の間に明確な一線を引いている。イスラーム過激主義者と いう用語のみをオバマ大統領は使っている。

 広島、長崎への原爆投下を「日本人に対する神の懲らしめ」と賛美したのは、米福音派連合のハロルド・オケンガ師や長老派でファンダメンタリストのカー ル・マキンタイヤー師である。イラク戦争を熱烈に支持した伝道師ジェリー・ファウウェルやバット・ロバートソンはレーガン時代には、核戦争を終末予言と結 びつけ核兵器禁止運動、核兵器抑制運動、核兵器廃絶運動を「反キリスト」と決めつけたほどだ。

 いわゆる共和党を支えてきたキリスト教ファンダメンタリスト、福音派を含む宗教右派は、民主党のオバマ大統領の登場で抑圧され、フラストレーションをつのらせている。この集団的フラストレーションというリスク要因が反動に転じて顕在化する時が、厄介である。

 国際機関、国際企業の幹部はおろか、アメリカの動向に関心を抱く向きにとっては、ぜひとも比較宗教の視点からのインテリジェンス・リテラシーを磨くことが今後の重要なテーマとなる。

 

    【参考文献】

  • マーティ・アプルバイ、「原理主義と国家:その組織、経綸、戦闘性を考察する」、1993年
  • 栗林輝夫、「キリスト教帝国アメリカ」、2005年
  • 藤原聖子、「現代アメリカ宗教地図」、2009年

 

引用:諜報謀略講座 ~経営に活かすインテリジェンス~ – 第11講:キリスト教国家アメリカ中枢の黙示録的思考 :ITpro