新時代のキャリアデザインは3KX3F

カテゴリー : デザイン思考

画像に含まれている可能性があるもの:空、靴、飛行機、屋外

<岐阜城から長良川を遠望>

名古屋大学医学部附属病院キャリア開発支援センターにおよびいただき、アウトリーチ&講演に行ってきた。

「働き方革命」とかいろいろ議論があるが、①基業、②奇業、③起業、④福業、⑤副業、⑥複業が軸になるという話をさせていただいた。医療関係者の新しいキャリアデザインは3Kかけることの3Fとなる。

3K
①基業  専門性の基本をシッカリこなす仕事
②奇業 奇妙奇天烈なモノコトを仕事化する
③起業 自分で業を起こしてしまう起業
3F
④福業 まわりの人たちを幸福にする仕事
⑤副業 メインの仕事いがいに自分ならではのサブ仕事
⑥複業 複数の仕事をこなすスーパーフリーランス自由人

さて、時間を作って、長年の課題であった金華山の岐阜城に登る。20年くらい前だろうか、長良川のほとりのコンベンションホールで開かれた第1回日本看護サミットでパネルをやったことがあった。

その時に金華山を見上げて、あそこに登ってみたいと思ったのが最後で、結局仕事などに追われて、登る機会を逸していたのだ。

なんのことはない。働き方革命をああだこうだ言う前に、もしかしたら遊び方革命が必要なのかもしれない。

ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)たらんとするためには、仕事のなかに遊びの要素を織り込み、遊びのなかにも仕事の要素を含ませ、仕事を遊びを無境界化させるのである。

新著「医療看護イノベーション」表紙の件

カテゴリー : モノ書き

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 新しい著書を汗水垂らしながらやっと出版することができた。この本のなかで最も気に入っているのが表紙の右下の不思議なイラスト。

とある不思議な出会いとご縁がきっかけとなり、この不思議なイラストが新著の表紙を飾ることになった。

その話をちょっと書き残しておこう。

2年前の夏、サイクリスト松下は北海道の然別湖畔でキャンプしていた。千歳、富良野、美瑛を自転車で巡り、層雲峡で自転車を野営場において大雪山を徒歩で駆けまわり、また自転車にまたがって、三国峠、幌鹿峠というけっこうデカい峠を登って下って、やっとの思いで辿り着いたのが然別湖北岸キャンプ場。

馬鹿のひとつ覚えのようにチャリで走りながらも、実は、チャリで無心に走っている時には、思いがけないアイディアが美しい風景のなかから風に乗って突如やってくるのだ。

身体活動にエネルギーを集中させ、言語活動を認知の底に沈め、言語が尽き果てた文脈に「それ」はやってくる。モノカキのアイディアは、言語が尽き果てた身体知の次元からやってくるとは、不思議といえば不思議か。

言葉の境位を越境し、そこに横たわる豊饒な身体知の次元を遊泳することによって、「それ」に遭遇することができるのだ。

「それ」つまり、拙著の構想を練り上げたのは、研究室や書斎の中ではなく、この自転車ツーリングの最中だった。自転車ツーリングは究極のアイディア・ジェネレータなのだ。

画像に含まれている可能性があるもの:山、空、屋外、水

疲れ切って泥のように寝て、起きた、その翌朝、霧が流れる静かな湖面を眺めていると、静謐な湖面を一艘のカヌーが朝霧のなかを静かに進んでいる。その神秘的なカヌーイストは湖岸に上がってくると、実に気さくで親切な人だった。

「いいですね、こんな朝から鏡のような湖面をカヌーで漕ぐなんて。あこがれます」

「よかったら漕ぎませんか?」

「うわぉ! いいんですか!」

ということで然別湖北岸の静謐さをたたえた湖面をカナディアン・カヌーで漕ぐという奇跡の時間を得たのだ。

嬉々として湖面を漕いでいると、カヌーに乗った品のいい美しい女性が声をかけてきた。カヌーを漕ぐ機会を与えてくれたカヌーイスト氏の奥さまだった。

至福のひと時を堪能して陸に上がり、奇跡の湖面の感動と感謝の気持ちをぼくは朴訥ながらもあらん限りの言葉を紡いで夫妻に語った。

その御夫婦とは幸いにもfacebookで繋がった。お子さんを連れた仲睦まじいご夫婦が然別湖の朝まだき、カナディアン・カヌーを静かに漕いでいる。

こんな幸福な風景はない。

自然と家族が調和している。

聞けば奥様は腕利きのイラストレータ。新著の表紙にふさわしいと思い、無理を頼んで、奥様のイラストを拙著の表紙に使わせていただいた。

不思議なご縁を頂いてできた、拙著の不思議な表紙なのだ。不思議にして繊細なイラストの上には「イノベーション」という大きな活字が横たわっている。

看護サービスX情報学Xシステム思考

カテゴリー : イノベーション

Nursing Informatics at Kwantlen Polytechnic University

このところ、医療機関の現場や各地の看護協会での講演活動を通して看護と情報学(インフォーマティクス)、システム思考がますます接近していることを実感している。とくに倉敷中央病院で2日間カンヅメになって看護を含む多職種のチーム医療トレーニングをさらせていただいた時に強く感じた。

そもそも医療チームの中の看護業務は、患者の臨床情報のみならず、家族、社会における役割、死生観など非常に広範な情報(定量・定性ともに)を取り込むことによって成立している。「成立」というのは、以下のような一連のフローがアウトカムに集束して初めて成り立つということだ。とくに、近年アウトカム志向の看護サービスが強調されているが、情報の活用とは、成果にむすびついてナンボの世界だ。

さて、ここで注意したいのが、①データ→(意味づけ)→②情報→(編集・構造化)→③知識→(判断・行動)→④問題解決→(具体的な介入)④成果(臨床的効果、患者満足効果などのアウトカム)、という流れだ。(詳しくは拙著「看護経営学」などに詳しい)

ダントツに仕事ができる人たちは、どのような仕事でもこの流れを個人的に確立している。また、組織としても、この流れが組織学習として確立されることになれば、一段と高いレベルの組織の知恵にもなる。

ところが、看護の現場はさながらデータの洪水だ。バイタルサイン、各種検査データ、医師からの指示データ、患者の容態の時系列変化、じょくそうリスクアセスメント・・・数え上げたら切りがない。さらには、専門看護師や認定看護師になってくると、それぞれの専門分野ごとで扱う情報がガラッと変わってくる。同じ医師や看護師であっても専門領域が異なってくると話が通じない、なんてこともよくあることだ。

笑うに笑えない。データや情報に振り回されてしまい、知識、問題解決、成果といったより価値の高いフェーズにまでつながらないのだ。

そして、現代看護ではエビデンスとしての「記録」や問題解決志向(Problem Oriented)の記録といった情報の編集・構造化も強く問われている。行ったこと、考えたことをツラツラ書き記すだけの牧歌的な所感程度の記録はもはや過去の遺物だ。もっとも近年は、看護行為そして看護行為を記述する言語体系を標準化してゆくという動きも顕著である。

日本でも北米看護協会が提唱したNursing Interventions Classificationの日本語バージョンを導入・唱導する動きもあるくらいだ。すべての介入行為は標準的な言語で表現できるのか、という問いについては批判の俎上にあがることもある。たとえば患者の内面・実存的な苦しみ、そしてそれに対する介入の標準化は到底ムリで、だからこそ、物語り=ナラティブに注目すべし、との批判には一理も二理もあるだろう。

いずれにせよ、生成された知識をいかに判断と行動の、手段として活用できるのか、が問われているのである。つまり、具体的な問題が解決され、システムを介して何がしかのアウトカムが成果としてもたらされる必要があるのだ。

それゆえに、看護と情報学とシステム思考は親和性が極めて強く、また近未来の看護は情報学やシステム思考なしではまったく成り立たなくなるだろう。

医療の世界では、ウェラブルな生体情報センシングデバイスや臨床ビックデータの活用などというイノベーションが巻き起こりつつある。これらのイノベーションには大いに期待したいのだが、そのようなイノベーションによってもたらされる情報は、また新たな洪水を巻き起こすことになるだろう。

このような動向に対応するためには、それなりに新しい武器あるいはスキルセットが必要だ。それをひとことで言うと、「看護サービスX情報学Xシステム思考」である。

日本ではほとんど知られていないようだが、アメリカではこの方向での看護教育・研究のイノベーションが著しい。その。データ→情報のイノベーションにより効果的に対応して、知識→問題解決→成果という後半の流れの主人公である人間サイドのスキルセットを高めて行くというものだ。

たとえば、

デューク大学看護学部ナーシングインフォーマティクス

バンダービルド大学看護学部ナーシングインフォーマティクス

 ペンシルベニア州立大学看護学部ナーシングインフォーマティスク

 いずれも、「看護サービスX情報学Xシステム思考」を前面に打ち出したカリキュラムで勝負している。

医療サービスの根っこ

カテゴリー : サービス思考

ヲタな内容だが、大切なことなので、医療サービスの価値共創性について、ちょっとメモっておく。

(1)医療サービスマネジメントの根っこに関する経済学的な見方

医療サービスそのものが、市場で取引されるサービス財ではなく、社会的共通資本であると捕らえる。教育、司法、行政などとともに、医療サービスは、社会的共通資本(Social Common Capital)の制度資本である。社会的共通資本の管理、運営は決して、官僚的基準に基づいて行なわれてはならないし、市場的条件によって大きく左右されてもならない。社会的共通資本は、それ自体、あるいはそこから生み出されるサービスが市民の基本的権利の充足にさいして重要な役割を果たすものであって、一人一人の人間にとって、また社会にとっても大切なものだからである。詳細は宇沢先生との議論。 資料1 社会的共通資本としての医療

この見解は、ミルトンフリードマン流の、市場主義マンセーの、ゴリゴリの新自由主義ドグマを徹底的に、かつ合理的に批判するもの。

政府の経済的機能は、さまざまな社会的共通資本の管理、運営がフィデュシァリー(社会的信託)の原則に忠実に行なわれているかどうかを監理し、それらの間の財政的バランスを保つことができるようにするものである。政府の役割は、統治機構としての国家のそれではなく、日本という国に住んで、生活しているすべての人々が、所得の多寡、居住地の如何に関わらず、人間的尊厳を守り、魂の自立を保ち、市民の基本的権利を充分に享受することができるような制度をつくり、維持するものでなければならない。

(2)医療サービスの発生源に対する法律的な見方

患者と医師の実態は、通説の契約的医師患者関係というよりは、むしろ、信認関係(fiduciary relation)である。 日本では、患者と医師の関係は、診療契約説(民法656条の準委任契約)という枠組みで議論されることが多かったが、これは間違い。アメリカでさえも、患者と医師の関係は、信認関係(fiduciary relation)として法的にとらえるのが標準。

(3)医療サービスのサービス性に関するservice science 的な見方

「顧客は、常に価値の共創者である。サービス中心の考え方は、元来、顧客志向であり、関係的である。価値は、受益者によって、常に、一意的かつ現象論的に判断される。(Vargo & Lusch, 2006)(この見方、日本でも最近はよく紹介されるようになってますね)

以上の見方をまとめれば、医療サービスは、社会的共通資本であり、医師、看護師、薬剤師などの専門家、病院経営者へ社会的に依託されたフィデュシァリー(社会的信託)なサービス。医療サービスの価値は、医療提供者が勝手に決めるべき性格のものではなく、提供者、受益者が、ともども参画して、とらえられているという性格のものとなる。信認関係が、医療サービスの共創性を担保しているといえる。