「欧米」という特殊な日本語

カテゴリー : 英語、語学

main47

とある医療系国際会議での出来事。

国際会議といっても英語が話せない日本人もなぜかかなり出ていて、彼らの日本語を英語に翻訳する通訳がいる。日本で開催される「国際会議」独特の風景だ。

そこで、とある名誉教授先生が「欧米は」を連発し、日本が遅れていることを、これでもかこれでもかと指摘するのだ。

すると、カナダから参加した教授が言った。

「アメリカと欧州はまったく異なるので、その『欧米』という奇妙な言い方は正しい呼び方ではない!」

もっともなことだ。

アメリカとまったく異なる政治体制、社会思想の系譜に建つ多民族国家カナダにしてみれば、欧州の知的系譜をマジメに継承しながら、アメリカの社会制度、経済制度をよしとしない知識人はゴマンといる。

ただでさえ、アメリカとはまったく異なるお国柄のカナダにしてみれば、「欧米」というよういに多様性をいっさい無視して、均一化して議論するやりかたは、あまりにも乱暴だ。いや乱暴を越えて非知性的なのだ。

たしかに日本にいると、世界を「欧米」、「アジア」、「アフリカ」のように単純きわまりなく輪切りにして議論することがあまりに多い。

英語圏では、「欧米」つまり、European America, American Europe, Europe and the USなんて表現は、とんと聞かない。こんな意味不明な特殊用語が流通しているのは日本だけだ。

その、あたりまえすぎる感覚がまったくない土着系日本人の発言は、なるほど、奇妙きわまりないのだ。

日本にのみ流通する特殊用語辞典をだれか作らないか?売れるだろう。

稀覯本ブリタニカ百科事典11版とナレッジマネジメント

カテゴリー : No book, no life.

無限に広がる知の世界をぎゅっと編集して、知識愛好者の広大無辺な知的渇望に素直に応えようとする試みがある。その代表格が「百科事典」だ。百科事典といえば、ブリタニカ百科事典(Encyclopædia Britannica)が有名だ。

もともとは1768年から英国はエディンバラで100分冊を週刊で発行したのが始まりである。当時勃興しつつあったブルジョワジー階級のなかでも知的欲求が強かった人々に熱狂的に支持されたそうだ。成功のあまり、分冊を再編集して、1771年に3巻にまとめたものが、初版となったそうだ。

ちょっと前に、畏友の蔵書に囲まれながら、ひたすら本をテーマにした雑談をしてきた。マンションの1世帯分ほぼすべてが東西古今の古典、辞典類の書庫のようになっているので、すでにその御仁は、愛書家の範疇をゆうに超えている。

そのディープな時間をすごした時に、邂逅したのが写真のEncyclopædia Britannica Eleventh Edition(ブリタニカ百科事典第11版)。

これぞ、知る人ぞ知る、という修飾にふさしい。Encyclopædia Britannica Eleventh Edition(ブリタニカ百科事典第11版)は、世界中の百科事典マニアから畏敬と羨望の念を集めている。

「ブリタニカ百科事典第11版の魔法」なるコアかつマニアックな論評でもここぞとばかりに記されているように、革張りの装丁、芳醇なインクと紙の香り、その包括的な記載内容、簡明ながらもどことなく重厚感ただようフォント、コンテンツの充実度、どれをとっても抜群の完成度と圧倒的な支持を得ているのである。

稀覯本、古書、語学に深遠な造詣を保持し、今尚あくなき知識の充足に禁断の快楽を見出してやまない畏友は、まるで宝物を見せるように、それを開陳してくれた。僕は手を洗って、畏まって、その11版のページをそろりそろりと繰った次第。

電子出版がいろいろ取りざたされている昨今、紙というメディアの限界がよく指摘される。でも、長きの時代に渡って愛されるコンテンツは、コンテンツが乗っているメディアの品格、風格、歴史を感じさせる体裁、香り、手触り・・・・そういったアナログな肌合いといったものと絶妙なバランスをとっている。

ナレッジマネジメントというと、メディアと切り離された知識そのものに話題が行きがちだが、ナレッジが乗っかる、あるいは埋め込まれ、引き出される媒介としてのメディア、そしてメディアが活用される「場」との組み合わせで考える必要がある・・・ということはいうまでもないだろう。

そのような電子書籍のためのメディアデバイスが開発されたら、それこそ、イノベーションとして称えようか。

 

シュタインバイス大学のアウトリーチ活動と英語

カテゴリー : イノベーション

Steinbeis UniversityのMaster of Business and Engineeringの学生とファカルティ・メンバーが来日したおり、講義を2コマしました。テーマは、Innovation and Marketing: A Cross-cultural Comparisonというテーマです。

シュタインバイス大学は、ミッションにknowledge and technology transfer partnerと謳っているように、ドイツにおける産学連携スキームのプラットフォーム的役割を果たしています。

さて、今回の研修プログラムは、シュタインバイス大学と東京農工大学の学生、社会人が一同に会して約1週間、多摩地域のベンチャーやスタートアップスのフォアフロントでインタビュー、ディスカッションし、戦略提案をまとめるという企画です。プログラムそのものがアウトリーチ活動であり、かつ、アクション・リサーチのコンセプトでデザインされていて、どの学生もとても熱心に参加していました。

ドイツの学生は、質問、コメントなど、大変積極的でうるさいです。それに比べ日本人学生は静かです。

クラスの中で生産的な質問をする、コメントを加える、異なった見方を提供するというのは、知的生産のため重要なことです。このようなことがらは、dialogueに価値が置かれている西洋社会においては自明なことです。

ドイツの哲学者Hegel(1770-1831)は、dialogueを定立(thesis)-反定立(antithesis)-綜合(synthesis)の連続体としてとらえ、ここに弁証法理論が打ち建てられました。日本語では、はしょって正・反・合と簡単にいいます。

ドイツ人学生と接していると、弁証法理論が、そこはかとなくコミュニケーションの土台を支えているように思えてなりません。

ところが、日本では、dialogueそのものが重視されていません。極東の島国の言霊文化は、阿吽の呼吸、以心伝心、同調圧力、同質性志向が中心であり、そもそも、弁証法的な対話文化が希薄です。

そして、異質なことを言う、異なった意見を開陳する、ということが非同調的とみなされます。同調圧力が、日本人が居合わせる場、そして場を支配する空気(ニューマ)にははたらきます。でもそのモードは、異文化間コミュケーションの場ではまったく通用しません。だまっていること=知的な貢献をしていない=無価値なのです。

つまり、一般に日本人学生には、英語運用能力が低いという問題のみならず、根っ子のところには、言語をコミュニケーションの道具として使う「構え」=internal modelの問題があります。

異質なものごとを異種混交させて新しいものごとを創り上げてゆくというのはシュンペーターを引くまでもなく、イノベーションの契機となりえます。異臭混交に対して腰が引けている、というのは、それだけで、貴重な機会を失っているのかもしれません。

日本の高等教育機関も、このところ、「グローバル人材」の育成に熱心になってきました。わざわざお金と時間をかけて留学しなくても、このような機会に参加して、英語を使って、読む、書く、話をする、というトレーニングはできます。やはり、このような異文化間コミュニケーションの場に身を置いてみる、といことは価値あることです。

ぜひとも英語のみならず、対話型のコミュニケーションの構えを学んでほしいと思います。

英語の「で」と「を」

カテゴリー : 留学けもの道


英語との接し方については、連載コラムの「英語で世界をシノぐ方法(覇権言語英語とのつきあいかた)」で考えてみた。

海外留学の経験は、たしかに価値あることだが、最近は一点ほど難点があるように思えてならない。それは、「英語を学ぶ」を早々に卒業して「英語で学ぶ」モードに突入せざるを得ないことだ。

私のような言語学や英文学といった文系ではない社会科学系学徒の留学というのは、「英語を学ぶ」のではなく、「英語で学ぶ」ことを旨とする。「を」と「で」の違いは、わずかヒラガナ一文字だが、言語への接し方において根本的に異なってくる。

「英語を学ぶ」とは、文字通り、英語の言語学的な特徴、つまり、文法、語彙、統語法、各種表現方法、レトリックなどなど規範的な枠組みを精緻に学ぶことだ。書くことを中心にして、リスニング、スピーキングなどに派生してゆく。

留学での英語との接し方は「英語で学ぶ」ということになる。つまり、莫大な分量の資料を読みこなし、短時間で英語でレポート・論文を作成し、クラスディスカッションに積極的に参加するということは、いってみれば、英語をコミュニケーションの道具として使うということで、純粋に「英語を学ぶ」ということとは異なる。

このところ、「英語で学ぶ」をやりすぎて、「英語を学ぶ」が疎かになってきたことを自覚気味。だから、まずは「英語を学ぶ」ことのスタイルを点検してやろうと思いついた。英語の学び方のベンチマークだ。そんな思いで書店を徘徊していたら一冊の書が目にとまった。

それが、「英語達人列伝」だったというわけ。新渡戸稲造、岡倉天心、斉藤秀三郎、鈴木大拙、幣原喜重郎、野口英世、斉藤博、岩崎民平、西脇順三郎、白洲次郎など、かつての英語達人の努力の奇跡が時代考証とともに、簡潔にレビューされている。英語という言語の運用能力が希有な知的資産であった時代の先人たちの英語を学んだ奇跡が丹念に描写されている。

第19講:WikiLeaksの超弩級・破壊的衝撃

カテゴリー : アントレプレナーシップ

 WikiLeaksは“情報・知識戦争の9.11”とも、“超破壊的兵器”とも呼ばれている。外交戦略はおろか、 公共のあり方や企業戦略、情報システムにも、かつてないほど甚大な影響を与えている。破壊的な情報・知識サービスイノベーションをもたらしている異形のメ ディア、WikiLeaksに焦点を当ててみよう。

 

 尖閣諸島沖の中国船による海上保安庁船舶への衝突事件は、YouTubeによって一気に機密・秘匿情報が暴露され、日本中が蜂の巣をつついたような騒動になった。そして昨今は、WikiLeaksが次々と世界のトップレベルの機密・秘匿情報を暴露することを支援することによって、米国政府などが火消しに大わらわとなっている。

 WikiLeaksのホームページによると、「WikiLeaksはNPO(非営利組織)で、重要なニュースと情報を公衆に届けること」で 「WikiLeaksのジャーナリスト(電子ドロップボックス)に情報をリークする革新的で安全、匿名手法を提供している」という。なお、重要なニュース と情報は、以下の領域のものとしている。

戦争、殺人、拷問、拘留
政府、商業取引、企業の透明性
言論の自由、報道の自由への抑圧
外交、スパイ、(カウンター)インテリジェンス
生態系、寄稿、自然、科学
腐敗、ファイナンス、税、交易
検閲テクノロジーとインターネット・フィルタリング
カルトと宗教組織
虐待、暴力、違反行為

 まずは、WikiLeaksがもたらしている現象を振り返ってみよう。それらは大まかに言って5つにまとめることができる。

(1)秘匿情報・機密情報の非対称性の崩壊
 「しろしめす」という大和言葉をご存じだろうか。これは為政者にとって、どのような情報、知識を開示して公衆に知らせるのか、知らせないのかが、統治活 動の本質であるということを示している。通常、為政者や企業経営者は、国民やステークホルダーに対して、自分たちの都合がいいように情報・知識を取捨選 択、加工、編集して流すものだ。つまり、統治する側とされる側との間には、常に情報や知識の非対称性があることになる。WikiLeaksは、この非対称 性をぶち壊している。

(2)秘匿情報・機密情報のオープンソース化
 ソフトウエアの世界にオープンソースがあるように、WikiLeaksによってもたらされている現象は、アプリケーション層にある情報・知識の「オープ ン化」という側面がある。ソースコードを秘匿、占有することで利益を囲い込み、独占的便益を享受しようとするプロプライエタリ勢力へのアンチテーゼがオー プンソース化だとするならば、WikiLeaksの方向性は、秘匿情報・機密情報のオープンソース化とも言える。

(3)WikiLeaksは根本的な情報・知識秩序破壊者
 為政者や経営者は、ガバナンスを盤石なものとするために、莫大なコストをかけて情報の非対称性を構築する。すなわち守秘義務の徹底、秘匿情報へのアクセ ス制限はもちろんのこと、情報通信システム、セキュリティシステム、暗号化システムなどに莫大なコストをかけるのが世の常だ。WikiLeaksは、それ らの投資を一気に外部から無きものにしてしまう。

(4)暗号などの情報秘匿技術が無力化
 暗号化技術と解読技術はイタチごっこのようなものだ。しかし、内部の暴露者、通報者を得ることによって、このイタチごっこのようなゲームは無力化されて しまう。膨大なコストをかけてこれらの技術を確立しても、組織内部で隠密行動をとる暴露者、通報者一人の存在によって、それらは無力化されてしまう。

(5)マスコミの相対化
 既存のマスコミは、為政者によって誘導され、都合のいい情報を公衆に向かって効率よく流す役回りに落ち着くことが多い。この傾向を批判する者が「マスゴ ミ」という言葉を多用するのは、ネットの世界では周知の事実だ。WikiLeaksによって共有される情報は、マスコミによって流通される一般向けに編集 された、ありていな情報・知識とは異質なもので、それらの間にはギャップがある。そのギャップにどう付き合うかがメディアサイドにいるジャーナリストに問 われている。

 以上を押さえたうえで、さらにWikiLeaksによって不利益を被る人々と、便益を得ることができる人々を比較してみよう。WikiLeaksによって困る人々を素描すると、以下のようになる。

 

情報操作によって、しろしめす立場の人々

 まず、困る人々の筆頭格は、為政者、大企業経営者、特定の寡頭勢力など、情報操作によってガバナンスを維持していきたい人々だ。不利な情報・知識がWikiLeaksを介して暴露されると、情報操作が無効になってしまう。

 2010年10月22日、イラク戦争に関する米軍機密文書約40万点がWikiLeaks上で次の声明とともに公開された。「民間人が検問で無差別に殺 されたとの報告や、連合軍部隊によるイラク人拘置者への拷問のほか、屋根に反政府勢力と疑わしい人物が1人いるという理由で、米軍兵士が民間施設を丸ごと 爆破した報告がある」。

 これに反応した米国防総省のジェフ・モレル報道官は「WikiLeaksが法律に背いて情報を流出させるように個人に働きかけ、傲慢に機密情報を世界と共有することを遺憾に思う」とコメント。機密情報の漏洩は不法行為であることを繰り返し強調している。

 アメリカ軍、ペンタゴン、CIAなどの諜報機関、ホワイトハウスは、暴露された証拠に基づき、戦争犯罪、国家反逆罪などの嫌疑をかけられるリスクを負うので、WikiLeaksを激烈に叩かざるを得ないという構図がある。

 WikiLeaksによる「機密情報の違法な暴露」の支援によって、米国の外交のみならず国際社会の利益が損なわれたとするクリントン米国務長官は、 「米国は文書流出に責任のある人々を追跡する」と強烈なトーンで非難した。さらにホワイトハウスは、WikiLeaksの活動を「米国政府に対するサイ バー攻撃」として全面戦争を宣言したくらいだ。それほどWikiLeaksの活動は、情報・知識操作によって統治する立場の人々にとっては不都合きわまり ない。そのような勢力は、実際に創始者のジュリアン・アサンジ氏を拘束した。

 

秘匿情報・機密情報を内輪で発信・共有する人々

 次に困るのが、いわゆるインテリジェンス(諜報)活動をしている人々である。秘匿情報・機密情報を内輪でやり取りして生計を立てている人々だ。公電が、 いつなんどき暴露されるか分からないので、今やテキストで記録を残すことに慎重にならざるを得なくなっている。どんな堅牢なシステムで防御しても、内部か ら意図的に漏洩されたのでは、ひとたまりもない。

 かといって、このネット時代において「人づての情報」だけに頼るわけにはいかなくなっている。秘匿情報・機密情報を内輪で発信・共有する人々の間で、疑 心暗鬼は大きくなるばかりだろう。もちろん、リークされることを見越したうえで、操作的な情報をやり取りするのもこの世界の常道でもあるのだが。

 米Googleは2010年1月、中国発の高度なサイバー攻撃を受けたとする調査結果を公表したが、中国政府はこのサイバー攻撃について、当初は全く関 与していないと声明を出していた。しかし、WikiLeaksによって暴露された公電によると、Googleへのハッキング攻撃は「政治局常務委員会のレ ベルで指揮された」。これを受け、ニューヨーク・タイムズ紙はこの情報提供者に取材し、李長春(中国共産党政治局常務委員会の思想・宣伝担当委員)らが中 国におけるGoogleの事業を抑える作戦を監督してきたと報じた。

 

上記につながり、情報を公衆に向けて流す人々

 WikiLeaksによって困る人々の三番目は、先に述べた2つのグループに連なり、情報を公衆に向けて流す人々、たとえば既存メディアの仕事をする人々だ。

 ただし、事情はそう単純ではない。エスタブリッシュされた欧米マスコミに関与するジャーナリストは、匿名で暴露情報にコメントし、リークされた情報を ニュースソースとして活用している。事実を報道することに使命感を燃やすジャーナリストは、WikiLeaksの情報によって裏を取るだろうが、都合良く 加工・操作された出来合いの情報のみを流すことに慣れているジャーナリストにとっては、困ったことになる。

 

情報操作、世論誘導にフラストレーションを感じる人々

 ここまでは“超破壊的兵器”のWikiLeaksによって被害を受けている人々を見てきたが、その一方で便益を得る、あるいはそう感じる人々もいる。

 たとえば、為政者やその影響下で活動するメディアが自分たちの都合で情報操作をして世論を誘導していることに疑義、不信感、反対意見を持つ人々にとっ て、WikiLeaksは大変貴重な情報源となっている。前述した情報の非対称性のあちら側の人々から見れば、真実に接近する機会をWikiLeaksは 提供していることとなる。

 

ある種の価値観を実現したい人々

 自由を信奉する人々の間には、WikiLeaksを支持する人々が多い。自由の抑圧を嫌い、報道の自由、発言の自由を至上の価値とする人々にとっては、 WikiLeaksに投稿される情報・知識を読み、WikiLeaksをサポートすることが、自らの表現とさえなっている。

 WikiLeaksのサイトによるとWikiLeaksが拠って立つ原理は、「発言の自由、出版の自由の擁護、そして共有化される歴史的記録の改善、新 しい歴史を作るすべての人々の権利を支援すること」ということになっている。世界人権宣言(Universal Declaration of Human Rights)の第19条「すべて人は、意見及び表現の自由に対する権利を有する。この権利は、干渉を受けることなく自己の意見をもつ自由並びにあらゆる 手段により、また、国境を越えると否とにかかわりなく、情報及び思想を求め、受け、及び伝える自由を含む」がことさらに引用され、この条項を含め世界人権 宣言に賛意を示している。

 

より正確な多くのことを知りたいと願う人々

 上記の価値観や信条に特段のこだわりがなくても、人には、より正確な多くのことを知りたいと願う本能のようなものがある。WikiLeaksからの情報 が知る本能を満たしてくれると受け止める人々にとって、WikiLeaksは新しいジャーナリズムのニュー・モデルとなりつつある。

 WikiLeaksのホームページには、「利潤追求を動機としていないので、他のメディアと競合するという伝統的なモデルに従うことなく、他の出版社や メディア組織と協調的に機能することができる」という記載がある。より正確な多くのことを知りたいと願う人々を抱えている既存のメディアと協調することが WikiLeaksの1つの戦略である。

 もちろん、これらの背後には、既存の情報操作手法によって利益を得てきた寡頭勢力に対抗しようとする別の寡頭勢力の存在を想定することもできるだろう。

           ◇       ◇       ◇

 以上、WikiLeaksは誰の利益となり、誰の不利益になるのかという切り口で分析してみた。

 事態は流動的だ。オンライン決済サービスの米PayPal(米eBay傘下)は、「WikiLeaks」が募金のために利用していたアカウントを永久的 に停止すると発表した。米Amazon.comは同社関連のホスティングサービスでWikiLeaksのサーバーを停止した。米国のDNSサービスプロバ イダーEveryDNS.netも、「WikiLeaks.org」をターゲットにしたDDoS攻撃により、ほかの利用者に支障が出るとしてサービスを停 止したと発表した。米司法省はTwitterに対し、裁判所命令により、WikiLeaksの関係者たちのアカウントに関する情報開示を要求した。

 WikiLeaksはこれらの措置に対し、Twitterで「言論の自由がある自由の地で排除された」と声明を出している。また、WikiLeaksは資金繰りに窮しているとの声明を出し、世界中から資金的なサポーターを募っている。

 注意すべきは、2点ある。1つは「しろしめす側」と「しろしめされる側」の先鋭な対立構造があり、その中間にWikiLeaksが自らをポジショニング している点。もう1つは、それらの双方に、こともあろうに普遍的な価値観として「報道の自由」「発言の自由」「知る自由」「公共の利益」が埋め込まれてい る点だ。同型の価値観をいただく者同士による不断の闘争である点が特異なのである。

 この闘争の次の局面は、さらに重篤な情報の公開によってもたらされることになるだろう。それがどんな情報かは知る由もないが、極秘/特別隔離情報 (Top Secret – Sensitive Compartmented Information)が大量に公開されるとしたら、WikiLeaksを巡る議論の輪がさらに広がり、深まるはずだ。さて普遍的な価値観を勝ち取るの はどちら側なのか、目が離せない。

 

引用:諜報謀略講座 ~経営に活かすインテリジェンス~ – 第19講:WikiLeaksの超弩級・破壊的衝撃:ITpro

第14講:英語で世界をシノぐ方法(覇権言語ソフトパワーとのつきあい方)

カテゴリー : アメリカ

  日本人がアジア・アフリカの母語を持つ人々とも英語でコミュニケーションをとるのが当たり前の時代となって久し い。だが、読み書きではひけをとらないものの、話すのが億劫という日本人は相変わらず多い。そこで今回は、英語とどのように付き合ったらいいのかを考えて みよう。

 前回はチャイナ的人間関係の話をしたが、筆者は中国の友人と語らう時は英語を使っている。もっとも、世界中どこの人々とであろうが、コミュニケーションのツールは英語になってきている。

 筆者の中国の友人は、北京にある外資系企業の管理職で、海外からやってくるビジネス・パーソンとも英語でビジネスをやっている。

 その友人がショッキングなことを言う。「世界各国のビジネス・パーソンと英語で意思疎通しているのだけど、ジャパニーズの英会話力が最低だ」と。

 たしかに、英語を母(国)語としない人のための英語力総合テスト(TOEFL)の日本人の成績には目を覆いたくなる。なんと、長年、北朝鮮が最下位で日 本はビリから2番目である。中学、高校、大学というように、多くの日本人は6~10年も学校で英語を勉強している。しかも、街には英会話学校が乱立し、教 育ママは幼児向け英会話レッスンにわが子を通わせることが、もう何年もブームとなっている。獲得できる英語リテラシーを英語習得に投じる投資で割り算すれ ば、日本人の英語ROIは極めて低い水準だろう。

 

なぜ日本人は英語がヘタなのか

 自覚があれば、それなりに“英語ベタ”を逆手にとることもできる。だが、英語ベタな日本人は無自覚なままでいると、国際諜報はおろか、異文化間コミュニケーションの現場でおおいに損をしているし、圧倒的に不利になることが多い。

 そう言うと、次のような反論があるだろう。

「わが日本民族は英語民族による植民地支配を退け、それゆえにかつて敵性語であった英語は浸透していないのだ」

「大東亜戦争敗戦後の米国帝国主義に屈しない最後の砦が日本語という言語聖域(言霊)なのだ」

「言語学的に英語と日本語は極端に隔絶しているので、日本人の英語は上達しないのだ」

「学校での英語教育法が間違っているからいけないのだ」

「そもそも英語なんかできなくても生活できる」

 たしかに英語ができない、英語を使いたくない理由は山ほどあるだろう。しかし、ここで重要なことは、消極的にしか英語にかかわらないことで被っている不利益である。そして、ますます影響力を強めている英語の、背後に存在する構造を理解しておくことが大切である。

 英語圏の国々、特に米国と英国にとって英語は「ソフトパワー」の切り札である。ソフトパワーとは、軍事、経済などの力の行使によらず、その国の有する文 化、主義、価値観、政策などに対する理解や共感を広範に醸成することで、間接的に支配力を増長させてゆく力である。ソフトパワーを持つ英語が世界に浸透す ればするほど、英語コミュニティに有利に作用するのである。

 英語ソフトパワーの効用は、英語コミュニティに参加する人口が増えれば増えるほど増加する。したがって、英語を使えるようになると英語ソフトパワーの恩恵にあずかることができる。いわゆるネットワーク効果が英語圏を拡大させているのだ。

 

英語に接する日本人の5類型

 どんな言語でもそうだが、その言語を深く習得し、あるいは内面化するほどに、その言語が使われている地域や国、そして伝統、文化、社会経済の諸制度に愛着、同一化傾向を示すものだ。

 この傾向を熟知する米国寡頭勢力は、この英語ソフトパワーの利用に長けている。せっせと日本から産学官のエリート留学生を受け入れ、ソフトに親米派を醸成してきている。

 英語、特に米語を学ぶということは、この陰微なソフトパワーの影響下に参入しつつ、英語とその背景にある精神、伝統、発想、制度、行動様式を獲得するということである。このあたりの自覚の仕方には、おおむね5通りあると筆者は考えている。

 1番目は、学習の効果が出る前にギブアップしてしまうタイプ。そして日本語という閉じた言語空間、日本という閉じた空間に棲息することを選択する。このような人々を「日本ガラパゴス系」と呼んでいる。

 2番目は、カッコよく話せないが、なんとか聞ける、書けるというタイプ。必要に迫られないと、積極的には英語を用いない人々である。このような人々を「どっちつかず系」という。

 3番目は、その言語に熟達し、その言語の発想様式を取り込んでしまう自分に陶酔するタイプ。このような人々はジェスチャーや表情まで、それ風にするのが心底カッコいいと思っている。留学経験者や外資系企業の日本法人などによくいるタイプだ。「ナルシスト系」という。

 4番目のタイプは、興味の対象が外国語から、その外国語が活用される対象、つまりその文化、制度、その言語で記述される学問へ向かうタイプである。その 対象に傾倒するあまり、へたをするとその言語が使用される海外の大学や大学院まで行ってしまうタイプだ。「思い込み系」という。

 5番目のタイプは少数派。異言語に深く触れることにより、母(国)語に回帰してくるタイプである。この場合、やや過剰な回帰を伴うことが多く、民族の歴史やオリジナリティ、保守思想にまで遡っていくことがある。「伝統リターン系」である。

 

ローカル言語の1つが数百年で“世界語”になった

 いずれにせよ、英語に触れさせ、英語の理解者を増やし、聞いて、読んで、書き、話す、というコミュニケーションを英語で運用してもらうことは、英語圏や英語ネットワークにとって利益となる。

 カエサルがブリテン島に上陸した約2000年前には、英語は存在すらしていなかった。それから紀元500年後あたりから、今の姿とは異なる Englisc(English)が現れた。シェイクスピアがせっせと著作活動にいそしむ頃、500万~700万くらいの人々が英語を用いるようになる。

 その後、英国による植民地支配、産業革命、北米における英語の採用、科学技術の普及などによって、英語は英米のみならず、インド、アジア、アフリカ、南太平洋の島々などの地域にまで広まった。1980年代には7億5000万人に使われるようになった。

 また、マグナカルタ、権利章典、人身保護律、陪審制度、英国コモン・ローを経て独立宣言まで、すべて英語で書かれており、いわゆる権利概念、自由主義、 民主主義理念などは英語の浸透に乗って浸潤してきている。そしてIT、インターネットの出現、普及によって、英語の地位は決定的になりつつある。

 ソフトウエアを記述する言語は基本的に英語のロジックに沿って定められ、世界中のソフトウエア産業で最も使われているのは圧倒的に英語である。普遍的な ニーズを正確に理解して、製品化し、普及させてゆくすべてのフェーズで影響力を持つ言語を押さえれば、圧倒的に有利だろう。そのポジションに英語が納まっ ている。また知的財産権に関連する契約を英語で記述すれば、これまた英語側に有利となる。汎用ソフトウエアとインターネット・サービスの領域で日本発の世 界的なヒットが出ない根源的な理由の1つは、このあたりにある。

 

ますます強固になる英語の地位

 今日、英語を第一言語とする人口は4億人。さらに第2言語とする人口は4億人だ。そして第1、第2言語以外でも英語を使う人口は8億人いる。これらを合わせると約16億人となり、世界中で4人に1人は英語を使っていることになる。

 商談、国際会議、学術会議、国際スポーツイベントなどでは、公用語として英語の地位は高い。さらに、英語を公用語としている国は60以上ある。特にアジア太平洋地域での英語浸透度はすさまじい。もはや英語ができなければ「話にならない」というのが世界情勢なのである。

 そして科学、技術、経営における英語の地位は、他の言語を寄せ付けない。細かなことを除けば近代以降、科学、技術、経営の普及と英語の普及はほぼ同期し ている。これは単なる言葉の表層の問題ではない。これらの領域の専門用語、そして概念は英語で規定され、書かれ、話され、伝達され、共有され、記述される のである。

 だからこれらの領域で勝負しようとすれば、英語ができなければどうしようもない。好むと好まざるとにかかわらず、英語が世界基準、そして世界的価値に着々となりつつあるのだ。

 自分の能力の市場価値を国際的に高めるためには、英語ソフトパワー陣営に与するほうが有利に働く。だからアジア各国のエリート、エリート予備軍たちは英語の習得に余念がないのである。

 

ネット環境は読み書きが得意な日本人に有利

 筆者の周りの日本人ビジネス・パーソンは「話す」ことに自信はなくても「読み」「書き」に自身のある方は多い。この性質を逆手にとれるのがインターネット環境だ。

 海外とのやり取りで最も使われるメディアはインターネット、特にメールである。メールは日本人の特性に合っている。第1に、話すことを回避できる。この メリットは大きい。第2に、交信記録を残して共有できるので、ロジックを押さえておけば、話の勢いやムードで劣位に立たされることなく議論ができる。第3 に、日本人の正確性へのこだわりである。メールならば文法やスペルチェックにいくらでも時間を使うことができるし、それらをサポートするツールは豊富だ。

 実は筆者もこの手をよく使う。英語のコミュニケーションの多くをメールでカバーすれば、読み、書きの面積を拡げることができる。メールで鍛えておけば、 SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)やTwitter(ツイッター)の英語環境にも十分対応できるようになる。

 筆者の場合、英文契約書の締結といった海外との込み入った交渉事でも、コミュニケーションの7割はメールでのやりとりだ。残りは、電話(テレカンファレンスを含む)が2割、実際に合ってフェイス・ツー・フェイスで詰めるのが1割といったところだろう。

 もちろん、フェイス・ツー・フェイスを疎かにするのではない。読み、書きをネット経由で集中させると、かえって最もリッチなコミュニケーションであるフェイス・ツー・フェイスの価値が高まる。

 ただし、セキュリティの関係で、機密度が高い場合はどうしても対面コミュニケーションに比重がかかるのはいたしかたない。機微に触れるやりとりの王道は対面コミュニケーションである。

 

英語に取り込まれず、英語と付き合う

 このようにネットを上手に利用すれば、「読み」「書き」重視で「話す」を軽視する日本式英語教育でも、案外使えるのだ。ネットでの英語利用を含めて、英語と接してゆく生き方にはおおむね3本の道があるだろう。

 1つめは日本語に徹する生き方。英語に接しない生き方だ。そして日本語に閉じこもるのである。その場合、海外と関係するような仕事には見向きもせず、ひ たすら日本国内でシノいでゆくという生き方である。この方向の人々はすべてに「日本的~」をつけてシノいでゆくことになる。卑屈に英語に接することを断固 拒否するのも立派な態度である。

 2つめは割り切って、英語を道具として活用する生き方。きちんと英語と向きあう道を歩むのである。専門的知識を英語でも理解し運用することを目指す。前 述した日本ガラパゴス系やどっちつかず系を乗り越えていかなければならない。この場合、英語ソフトパワーに身を寄せながら生きてゆくことになる。日本人の 英語の読み、書きのリテラシーは高い。まずはジャパニーズ・イングリッシュを恥じず、堂々と日本的英語で語ろう。

 3つめは、多言語的生き方。これは2つめのシナリオの延長線にある。言語の境界を越境して、時に境界を溶かしつつ、生きてゆく場所を見つけてゆくのであ る。英語に加えて、できればもう1つ使える言語があればいいだろう。英語ソフトパワーの隠微さと機微を十分に自覚しつつ、言語多元的に生きてゆくのであ る。英語に取り込まれず英語を道具として手に馴染ませることが肝要だ。

 覇権国アメリカの地位は微妙に衰退してくるだろうが、英語、米語の比較優位なポジションは当面維持されるだろう。多元的な言語世界と付き合う上で、どのシナリオを選ぶのかは本人の自由。ただし、多言語環境で活躍したい若者には、2つめか3つめのシナリオを勧めたい。

 日本が位置するアジア太平洋地域はおろか、世界における多言語環境の筆頭に位置するのは英語である。「英語に身に寄せることができなければ周りの世界と 絶縁してしまう」くらいの危機感があってもよい。ただし、くどいようだが、健全な間合いをとって、覇権言語である英語ソフトパワーの隠微さと機微を自覚す ることが重要だ。

 

    【参考文献】

  • ロバート・マクラム、ウィリアム・クラン、ロバート・マク二―ル、「英語物語」、1989年

 

引用:諜報謀略講座 ~経営に活かすインテリジェンス~ – 第14講:英語で世界をシノぐ方法(覇権言語ソフトパワーとのつきあい方):ITpro