新時代のキャリアデザインは3KX3F

カテゴリー : デザイン思考

画像に含まれている可能性があるもの:空、靴、飛行機、屋外

<岐阜城から長良川を遠望>

名古屋大学医学部附属病院キャリア開発支援センターにおよびいただき、アウトリーチ&講演に行ってきた。

「働き方革命」とかいろいろ議論があるが、①基業、②奇業、③起業、④福業、⑤副業、⑥複業が軸になるという話をさせていただいた。医療関係者の新しいキャリアデザインは3Kかけることの3Fとなる。

3K
①基業  専門性の基本をシッカリこなす仕事
②奇業 奇妙奇天烈なモノコトを仕事化する
③起業 自分で業を起こしてしまう起業
3F
④福業 まわりの人たちを幸福にする仕事
⑤副業 メインの仕事いがいに自分ならではのサブ仕事
⑥複業 複数の仕事をこなすスーパーフリーランス自由人

さて、時間を作って、長年の課題であった金華山の岐阜城に登る。20年くらい前だろうか、長良川のほとりのコンベンションホールで開かれた第1回日本看護サミットでパネルをやったことがあった。

その時に金華山を見上げて、あそこに登ってみたいと思ったのが最後で、結局仕事などに追われて、登る機会を逸していたのだ。

なんのことはない。働き方革命をああだこうだ言う前に、もしかしたら遊び方革命が必要なのかもしれない。

ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)たらんとするためには、仕事のなかに遊びの要素を織り込み、遊びのなかにも仕事の要素を含ませ、仕事を遊びを無境界化させるのである。

「エロティック・キャピタル」と「女子のチカラ」

カテゴリー : No book, no life.

 

職業がら女性とよくお会いする。いや、むしろ会わなければ仕事が進まないので、好むと好まざるを問わず会わなければいけないのだ。

授業、講演、セミナー、ワークショップ、各種プロジェクト・・・・。

10代の看護学生さんから、20~30代の主任さんや大学院生さん、40代の師長さん、50代以上の看護部長や病院の副院長さん。看護学系の大学教授ともなると、60歳以上の女性が圧倒的に多い。

このように日常的に50歳くらいの年齢レンジを回遊するように交流しながら、そこはなとなくも、つくづくと気がついていることがある。

それは、年齢というファクターを越えて、あるいは底通して、デキル女性は、強いし、その強さの源泉、そして強さのエクスプレッションつまり表現として「キレイ」なのだ。そして、近年、その傾向に拍車がかかっているように思えてならないのだ。

べつに化粧がうまいとか、持って生まれた造形が綺麗だのという表層的、断片的なことではない。そうではなく、多くのデキル女性においては、キレイがその人の奥底の動機、能力資質、そして目に見える行動といったレイヤーにまで一気通貫して強く息づいているのだ。

簡単にいえば、彼女たちは、キレイをチカラとして持っているし、キレイでいるチカラを持っているのだ。

では、キレイなチカラとはいったいなにか?

その問いに対して真正面からこたえた面白い説がある。

キャサリン・ハキムCatherine Hakim)という英国の社会学研究者によると、キレイなチカラとは、抽象化して言えばエロティック・キャピタル(erotic capital)となる。

彼女は、経済学者ゲリー・ベッカーが概念化したヒューマン・キャピタル(human capital)やジョン・デューイ、ロバートパットナムといった社会学者たちが彫琢してきたソーシャル・キャピタル(social capital)といった概念のむこうを張って、「美しさ、セックスアピール、着こなしのセンス、人を惹きつける魅力」などからなる「資本」をエロティック・キャピタル(erotic capital)と名づけている。

このエロティック・キャピタルなるものが、さまざまな社会や職場でのコミュニケーションを通してチカラを大きく左右するというのである。この本の副題には、ぎょうぎょうしくもエロティック・キャピタルが「ボードルーム(役員室)とベッドルームでの魅力の源泉」とまで書いてある。

ははあ。

ハキム女子もとい、女史は、①美しさ、②性的魅力、③社会的地位や役割の魅力、④活発さと元気・エネルギー、⑤表象的プレゼンテーション、⑥セクシュアリティの6つを挙げているのだが・・・。

 

エロティック・キャピタルにまで昇華されうるキレイとはいったいなんなのか?キレイを取り巻く日本のシーンはもうちょっとネジレているのではないか?そしてそればもっと複雑なのではないか?

この「女子のチカラ」という本は、そんな疑問の一端に答えてくれる。

とくに2章までが以上のような文脈に照らし合わせるとけっこう面白い。(ただし、そのような文脈をもたなければ単なる軽薄浅薄なサブカル系女子評論書物なのかも?)

・若くて美しい女優やモデルが美人としてもてはやされ、女性たちを美のお手本としてするのではなく、むしろ、そこから逸脱する要素を持っている人物が若い女性を含めたお手本となっている。(p89)

・美の魔女たちは、まさに美によって、眩惑し、闘い、変容する。我々は、自己努力によるトランスフォーメーションによって欠如を埋めようとする魔法に惹きつけられる。(p90)

ここで岡崎京子の「ヘルタースケルター」の主人公りりこのセリフが効いてくる。

・「そうよ わたしはわたしがつくったのよ あたしが選んで あたしがあたしになったのよ」(p92)

・素敵すぎる奥さんやきれいすぎるお母さんは、良妻賢母規範を軽やかに飛び越えて向こうの世界へ行ってしまう。(p98)

さて、エロティック・キャピタルは資本である以上、不断の投資によって活性化される。ところが積極的にケアしなければ加齢とともに減磨耗するという性格を持つ。

「キレイ」とは①減磨耗に抵抗するアーティフイシャルなインベストメント(人工的な投資)なものであると同時に、②美しさの常識や同調圧力が予定している規範や文脈から逸脱、越境、転換することによって強化される感覚なのだ。

たとえば、

・オネエ美人

・大人女子

・実年齢から想起される印象とハッとするような隔絶があるいわゆる「美魔女」

・トランスセクシュアリティ系の人々。。。

既存のキレイ文脈から逸脱、越境、転換したズレのノリシロが美しさ、キレイを生むのだ。キレイという価値は文脈依存的だ。その文脈を異質なものと結びつける、その境地においてキレイなことこそが、新しいキレイを生むのだ。

この新しいキレイをトランスレーショナル・エロティシズム(超文脈的、逸脱、越境のエロさ)と命名して(笑)、このようなキレイを体現している人々を探し、出会ったりすることは密やか愉しみでもある。。

たしかに、仕事ができる女性は、標準的なパフォーマンスに甘んじるアベレージ・パフォーマのレベルを超越している。彼女たちは、その超越したズレの部分を巧みに「キレイ」として表象するし、周囲はそのように諒解もする、と理解すれば合点がゆく。

女性観察は愉しくもあり、また奥深いものだ。

 

ケアの本質:生きることの意味 ミルトン・メイヤロフ

カテゴリー : No book, no life.

 

ケアってなんだろ?ケアの原点は?生きるってどういうこと?

こんな疑問や反省がときおり首をもたげるたびに、ページを繰ってきた、この本。

年末年始の喧騒や乱痴気騒ぎも過ぎ去り、雪が降り積もるような日にはシンミリとこんなこともつらつらと考えるべし、かと。

この本、もしかして書斎を離れるかもしれないので、線を引き込んだ部分をちょっと書き写しておく。

 

              ***

・「ケアすることは、自分のいろいろな欲求を満たすために他人を単に利用するのとは正反対のことである」(p11)

・「他の人をケアすることをとおして、他の人々の役にたつことによって、その人は自身の生の真の意味をいているのである」(p19)

・「学ぶとは、知識や技術を単に増やすことではなく、根本的に新しい経験や考えを全人格的にうけとめてゆくことをとおして、その人格が再創造されることなのである」(p29)

・「ケアする教師は、学生が自分自身の方法を見つけ、自分の目標を追求してゆくものものと信頼しなければならない。この場合、教師は、学生を助け、励まし、適切な刺激にあふれた経験をさせ、こうした信頼の絆をゆるぎないものにするのである」(p53)

・「相手が成長してゆうくこと、自分のケアする能力。これら二つを信頼することは、未知の世界に私が分け入ってゆくにあたって大切なものを与えてくれる。それは勇気だ」(p65)

・「作家は自分の構想をケアすることにおいて成長する。教師は学生をケアすることによって成長する。親は子供をケアすることによって成長する。」(p69)

うーん、深い。

・「他者が成長してゆくために『私』を必要とするというだけではなく、『私』も自分自身であるためには、ケアの対象たるべき他者を必要としているのである」(p69)

メイヤロフは『私』と相手の共創的関係性について、直裁に、かつ一遍の散文詩のように味わい深く書いている。

・「私が相手をケアするということは、その人が『私』をケアすることの活性化をたすけるのである。同様に、『私』に対する相手のケアが、その相手のために行うこちらのケアの活性化に役立っているし、相手のためにケアする『私』を『強く』するのである」(p85)

・「『私』と離れたなにか、あるいは誰かに役立つことによってはじめて、『私』は自己充足ができるのである。もし『私』が自分以外のだれか、あるいはなにものかをケアできないのであれば、自己へのケアもできないのである」(p106)

・「ケアは、『私』がこの世界で『場の中にいる』ことを可能とするのである」(p115)

・「自己の生の意味を十全に生きるためには、生きることが絶えず未完成であるという特徴を持つこをを、『私』はわきまえておくべきだろう」(150)

・「ケアこそが人間のあり方のなかで最も核心的なものである。『私』はケアをとおして、またケアされることをとおして、自分がいる世界をよく理解できるようになる」(p157)

・「『私』が自己の生の意味を生きるといえるのも、『自分の生を生きる』ことができるといえるのも、『私』がある対象に依存していればこそなのである」(p163)

 

               ***

ケアを原理的にとらえていすぎ、とか、マッチョなケア論だとかいろいろ識者から批判はあるだろう。だが、サービス科学という視点から見た場合、ケアの共創性をこれほど多面的に、かつ統合的に著述して、ある種の人生論にまで昇華し得た本を知らない。

難解な学術用語は出てこない。ひたすらメイヤロフは分かり易い日常語でケアを語るのだ。その意味で、著者メイヤロフは、読者をケアしているし、また読者もまたメイヤロフによって紡ぎだされた文章をケアするように読めるのだ。

案外こんなところに、この本が読み継がれている理由があるのかも。

とかく現代の看護技術論は文字通り、技術に走り勝ちだが、このような人文的な「ケアの本質」論はそれらを補って余りあるのではないか?

 

 

世界のソトとウチ

カテゴリー : No book, no life.

上のマップで言うと、伝統的な経営学やマネジメント論は、左側のアプローチが中心。一般性、因果律、効率、根拠、論理といったものが重視される。サイエンスの体裁をとろうとするほど、経営学やマネジメント論は、むろん、このアプローチが中心になってくる。

でも、ちょっと食い足りない。

そこで、外界(outer world)から内界(inner world)へと拡張してみる。

どうやら、世界の潮流を眺めていると、人と組織の行動に関係するリーダーシップ論やケアサービス論は、内界(inner world)へ向かっているようだ。そこでは、左側ではほとんど語られなかった、精神、特殊性、共時性、意味、物語、情念が織りなす特殊な世界が本質的に重要になってくる。

いろいろな分野のリーダーは、それぞれ個別の意味世界に棲息しているので、右側の特殊な世界とは切り離せない。緩和ケアをはじめとする看護サービスなどのhuman serviceでも、ヒトの内面、内界にたいする精神的ケア、支援、エンパワーメントが含まれる。

なので、ネタを明かすと、人的資源管理論、組織行動論、アントレプレナーシップ論、ヒューマンサービス論などでは、越境を促すために下の2冊をグループワークや副読本として使っている。

            ***

シンクロニシティは意味のある偶然とでもいってよいだろう。通常の因果律では因果関係が見いだせない事象における関係性を説明する考え方なので、シンクロニシティは「共時性」ともユング派の研究者によって訳されている。この分野の著作では、デイヴィッド・ピート『シンクロニシティ』が秀逸だ。

複数の出来事が原因→結果というようなシーケンシャルな因果関係を飛び越えて、意味的関連を惹起して同時に起きることである。だからシンクロニシティを「共起性」といってもあながち誤訳ではないだろう。しかし、こと学問の作法でシンクロニシティを実証的、客観的に説明することは難しい。

なぜなら、出来事、偶然、非・超因果、意味、同時、共起、主観を内包するシンクロニシティには、必然的にランダムネス(雑然性)やタービュランス(乱流性)やストレンジネス(奇妙性)やコンプレクシティ(複雑性)がつきもので、このようなことがらは実はサイエンスの枠組みでまだきちんと説明がなされていないからだ。

果たして運は能力なのか、能力が及ぶ範囲の外にあるまったくの別物なのか?

運は能力の一部門であるという考え方がある。そのひとつの発現としてセレンディピティ(serendipity)という言葉は「偶然幸運に出会う能力」を意味する。

シンクロニシティ(synchronicity)も共時、共起、偶然に積極的にかかわる自覚的能力を予兆するものである。

偶然幸運に出会う能力は、能動的に環境にはたらきかける操作の範疇ではなく、環境から自分への働きかけ、メッセージ、予感を感じ取る受動的な領域に属する。

とすると、セレンディピティはシンクロニシティを用意周到に活用する自覚的readinessとでもいうような意識の力を含意する。

この本は、シンクロニシティをリーダーシップの重要な要素として、自伝的な文脈で前向きに議論している。リーダーシップという視点からシンクロニシティを真っ正面から議論した論者はなく、そこにこの本の新鮮味がある。

伝統的=本流的な理論、モデルを説明した「行動科学の展開」に対するアンチテーゼのような本。シンクロニシティは、実は現在サイエンスの鬼門のような位相にある。因果関係でなかなか説明できない現象だからだ。

入門から応用へ 行動科学の展開―人的資源の活用

カテゴリー : No book, no life.

以前アマゾンに書いておいた書評をコピペ。

<以下貼り付け>

この本のスタンスは人的資源の管理ではなく活用。日本では”One Minute Manager”などで有名だが、この本ははるかに学術的でかつ網羅的。

ブランチャード先生はコーネル大学で熱弁をふるっていた。留学しているときは、リーディング・アサインメントとして英語バージョンをわずか1週間で読まされ悶絶したことも懐かしい思い出だ。こうして日本語で読めるのは幸せだと思う。

人的資源は行動を通して成果が生み出されるわけなので、表題のように「人的資源の活用」となっている。

最新の日本語版は、さらに充実。マズロー、マグレガー、アージリス、マクレランド、シャインなど、基本セオリーやモデルをキチンと説明。全体を通読することによって、行動科学の資源からHuman Resources Managementを俯瞰できるようになっている。

最後の方のSituational Leadership(SL理論)の増補版にはさすがに力が入っている。本書の核心部分であり、SL理論が拡張されて他の理論との融合が図られているのは、今だに、この理論が実務の世界で根強い支持を得ている証だと思われる。

ここまでを筆者らに求めるのは酷かもしれないが、行動科学に隣接する認知科学や脳科学の側面からHRMに対する洞察があれば、なお増補版としての価値が増しただろう。その意味で★がひとつ欠ける。ただし、人的資源管理論の入門書、副読本としては完成度が高いのには変わりはない。

<以上貼り付け>

 

根本問題(root problem)とメンタルモデル(mental model)

カテゴリー : システム思考

 (ウルグアイのムヒカ大統領のスピーチ)
 
人間社会と地球社会が抱えているのモンダイはフクザツだ。いや、複雑すぎる!
 
だから複雑な問題を解決する手法も、いきおい複雑になってくる。
 
問題ってなんだ?
 
そして、さらに奥底の問題はなに?
 
さらにその根っ子のところに横たわっている問題って、いったいなに?
 
そんなこと、わかりませんよ!
 
でも、ちょっと発想を変えてみる。
 
考えること、つまり思考には階層性があるんですね。問題を解決していこうっていう思考にも階層性があります。
 
絵にすると、こうなります。
 
=====================================
 
                
            デキゴト=問題
 
        ~~~~~~~~~~~~ (←海面の波)
         
              様  式
             
           システミックな構造
 
       メンタル(インターナル)モデル
 
=====================================
                   
 
身の周りのデキゴトは問題だらけだ。竹島・尖閣の領土問題、総選挙、オスプレー、国債の利率、為替の振れ幅、地球温暖化、環境破壊、欧州金融危機、イスラエルとイランの紛争・・・・。デキゴトに埋め込まれたモンダイは、バラバラで断片的。
 
 
ああ、毎日、毎日、厄介で分かりにくいニュースばかりで、頭痛がしますよ・・・。残暑といか酷暑もキビシイし。
 
だからコラムニストや評論書いているアタシは、それらに解説を加えて「様式」化するんです。
 
デキゴトの底に脈打っている脈動や、普段は見えずらい仕組みなんかを洗い出してゆく作業です。うまく様式化すると、それを読んだ読者は、「ナルホド!」と叫んで(?)デキゴトをより深く見抜く洞察力が得ることができます。
 
もっと言えば、デキゴトと様式が、フクザツな要因としてどのように絡み合って影響し合っているのか、については、ニュースやちょっとした解説ではあまり言及されません。
 
さて、古典とよばれるような大作は、システミックな、つまり、全体論的で、体系的で、歴史とともに変化したり進化したりする性質、コミュニケーションやコントロールといった点を盛り込んで、とことん問題を描写します。
 
 
経済学では、カールマルクスの「資本論」、ケインズの「雇用・利子および貨幣の一般理論」、シュンペンターの「資本主義・社会主義・民主主義」、などなど。特定の学問領域で50年以上読み継がれている本ってのは、システミック構造をエレガントに描き出していますね。
 
で、さらに、それよりも深いところによこたわっているものが、メンタル(インターナル)モデル。結論から言うと、これ、「議論できないままである」(Chris Argyris)なんです。
 
「人は見たいものを見てしまう」(カエサル)、その根っ子の問題、根本問題(root problem)と言ってもいいかもしれません。
 
              ***
 
 さて、以上のようなsystems thinkingの一端を下敷きにして、リオデジャネイロで開かれた国際会議「リオ+20」でのウルグアイのムヒカ大統領のスピーチに耳を傾けると、味わい深い示唆を得ることができるのではないでしょうか。
 
世界のroot problemを鋭く、でも、エレガントにえぐり出しているのではないでしょうか。
 
 
<以下、貼り付け>
 
**** ムヒカ大統領のリオ会議スピーチの翻訳> *** 

会場にお越しの政府や代表のみなさま、ありがとうございます。

ここに招待いただいたブラジルとディルマ・ルセフ大統領に感謝いたします。私の前に、ここに立って演説した快きプレゼンテーターのみなさまにも感謝いたします。国を代表する者同士、人類が必要であろう国同士の決議を議決しなければならない素直な志をここで表現しているのだと思います。

しかし、頭の中にある厳しい疑問を声に出させてください。午後からずっと話され…ていたことは持続可能な発展と世界の貧困をなくすことでした。私たちの本音は何なのでしょうか?現在の裕福な国々の発展と消費モデルを真似することでしょうか?

質問をさせてください:ドイツ人が一世帯で持つ車と同じ数の車をインド人が持てばこの惑星はどうなるのでしょうか。

息するための酸素がどれくらい残るのでしょうか。同じ質問を別の言い方ですると、西洋の富裕社会が持つ同じ傲慢な消費を世界の70億~80億人の人ができるほどの原料がこの地球にあるのでしょうか?可能ですか?それとも別の議論をしなければならないのでしょうか?

なぜ私たちはこのような社会を作ってしまったのですか?

マーケットエコノミーの子供、資本主義の子供たち、即ち私たちが間違いなくこの無限の消費と発展を求める社会を作って来たのです。マーケット経済がマーケット社会を造り、このグローバリゼーションが世界のあちこちまで原料を探し求める社会にしたのではないでしょうか。

私たちがグローバリゼーションをコントロールしていますか?あるいはグローバリゼーションが私たちをコントロールしているのではないでしょうか?

このような残酷な競争で成り立つ消費主義社会で「みんなの世界を良くしていこう」というような共存共栄な議論はできるのでしょうか?どこまでが仲間でどこからがライバルなのですか?

このようなことを言うのはこのイベントの重要性を批判するためのものではありません。その逆です。我々の前に立つ巨大な危機問題は環境危機ではありません、政治的な危機問題なのです。

現代に至っては、人類が作ったこの大きな勢力をコントロールしきれていません。逆に、人類がこの消費社会にコントロールされているのです。私たちは発展するために生まれてきているわけではありません。幸せになるために
地球にやってきたのです。人生は短いし、すぐ目の前を過ぎてしまいます。命よりも高価なものは存在しません。

ハイパー消費が世界を壊しているのにも関わらず、高価な商品やライフスタイルのために人生を放り出しているのです。消費が社会のモーターの世界では私たちは消費をひたすら早く多くしなくてはなりません。消費が止まれば経済が麻痺し、経済が麻痺すれば不況のお化けがみんなの前に現れるのです。

このハイパー消費を続けるためには商品の寿命を縮め、できるだけ多く売らなければなりません。ということは、10万時間持つ電球を作れるのに、1000時間しか持たない電球しか売っては行けない社会にいるのです!そんな長く持つ電球はマーケットに良くないので作ってはいけないのです。人がもっと働くため、もっと売るために「使い捨ての社会」を続けなければならないのです。悪循環の中にいるのにお気づきでしょうか。これはまぎれも無く政治問題ですし、この問題を別の解決の道に私たち首脳は世界を導かなければなりません。

石器時代に戻れとは言っていません。マーケットをまたコントロールしなければならないと言っているのです。私の謙虚な考え方では、これは政治問題です。

昔の賢明な方々、エピクレオ、セネカやアイマラ民族までこんなことを言っています。

「貧乏なひととは、少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」

これはこの議論にとって文化的なキーポイントだと思います。

国の代表者としてリオ会議の決議や会合をそういう気持ちで参加しています。私のスピーチの中には耳が痛くなるような言葉がけっこうあると思いますが、みなさんには水源危機と環境危機が問題源でないことを分かってほしいのです。

根本的な問題は私たちが実行した社会モデルなのです。そして、改めて見直さなければならないのは私たちの生活スタイルだということ。

私は環境資源に恵まれている小さな国の代表です。私の国には300万人ほどの国民しかいません。でも、1300万頭の世界でもっとも美味しい牛が私の国にはあります。ヤギも800万から1000万頭ほどいます。私の国は食べ物の輸出国です。こんな小さい国なのに領土の90%が資源豊富なのです。

働き者の我が国民は一生懸命8時間働きます。今日は6時間働く人が増えています。しかし6時間労働の人は、その後もう一つの仕事をします。なぜか?バイク、車、などのリポ払いやローンを支払わないといけないのです。毎月2
倍働き、ローンを払って行ったら、いつの間にか私のような老人になっているのです。私と同じく、幸福な人生が目の前を一瞬で過ぎてしまいます。

そして自分にこんな質問を投げかけます:これが人類の運命なのか?私の言っていることはとてもシンプルなもので
すよ:発展は幸福の対抗にあっては行けないのです。発展というものは人類の本当の幸福を目指さなければならないのです。愛、人間関係、子供へのケア、友達を持つこと、必要最低限のものを持つこと。

幸福が私たちのもっとも大切な「もの」だからなのです。環境のために戦うのであれば、幸福が人類の一番大事な原料だということを忘れてはいけません。

<以上、貼り付け>

 

シュタインバイス大学のアウトリーチ活動と英語

カテゴリー : イノベーション

Steinbeis UniversityのMaster of Business and Engineeringの学生とファカルティ・メンバーが来日したおり、講義を2コマしました。テーマは、Innovation and Marketing: A Cross-cultural Comparisonというテーマです。

シュタインバイス大学は、ミッションにknowledge and technology transfer partnerと謳っているように、ドイツにおける産学連携スキームのプラットフォーム的役割を果たしています。

さて、今回の研修プログラムは、シュタインバイス大学と東京農工大学の学生、社会人が一同に会して約1週間、多摩地域のベンチャーやスタートアップスのフォアフロントでインタビュー、ディスカッションし、戦略提案をまとめるという企画です。プログラムそのものがアウトリーチ活動であり、かつ、アクション・リサーチのコンセプトでデザインされていて、どの学生もとても熱心に参加していました。

ドイツの学生は、質問、コメントなど、大変積極的でうるさいです。それに比べ日本人学生は静かです。

クラスの中で生産的な質問をする、コメントを加える、異なった見方を提供するというのは、知的生産のため重要なことです。このようなことがらは、dialogueに価値が置かれている西洋社会においては自明なことです。

ドイツの哲学者Hegel(1770-1831)は、dialogueを定立(thesis)-反定立(antithesis)-綜合(synthesis)の連続体としてとらえ、ここに弁証法理論が打ち建てられました。日本語では、はしょって正・反・合と簡単にいいます。

ドイツ人学生と接していると、弁証法理論が、そこはかとなくコミュニケーションの土台を支えているように思えてなりません。

ところが、日本では、dialogueそのものが重視されていません。極東の島国の言霊文化は、阿吽の呼吸、以心伝心、同調圧力、同質性志向が中心であり、そもそも、弁証法的な対話文化が希薄です。

そして、異質なことを言う、異なった意見を開陳する、ということが非同調的とみなされます。同調圧力が、日本人が居合わせる場、そして場を支配する空気(ニューマ)にははたらきます。でもそのモードは、異文化間コミュケーションの場ではまったく通用しません。だまっていること=知的な貢献をしていない=無価値なのです。

つまり、一般に日本人学生には、英語運用能力が低いという問題のみならず、根っ子のところには、言語をコミュニケーションの道具として使う「構え」=internal modelの問題があります。

異質なものごとを異種混交させて新しいものごとを創り上げてゆくというのはシュンペーターを引くまでもなく、イノベーションの契機となりえます。異臭混交に対して腰が引けている、というのは、それだけで、貴重な機会を失っているのかもしれません。

日本の高等教育機関も、このところ、「グローバル人材」の育成に熱心になってきました。わざわざお金と時間をかけて留学しなくても、このような機会に参加して、英語を使って、読む、書く、話をする、というトレーニングはできます。やはり、このような異文化間コミュニケーションの場に身を置いてみる、といことは価値あることです。

ぜひとも英語のみならず、対話型のコミュニケーションの構えを学んでほしいと思います。

日刊工業新聞の連載コラム、「異見卓見」第4話

カテゴリー : アントレプレナーシップ

日刊工業新聞の連載コラム、「異見卓見」第4話を寄稿しました。

『出る杭に起業パワー: 創造的奇人変人のすすめ』です。

第19講:WikiLeaksの超弩級・破壊的衝撃

カテゴリー : アントレプレナーシップ

 WikiLeaksは“情報・知識戦争の9.11”とも、“超破壊的兵器”とも呼ばれている。外交戦略はおろか、 公共のあり方や企業戦略、情報システムにも、かつてないほど甚大な影響を与えている。破壊的な情報・知識サービスイノベーションをもたらしている異形のメ ディア、WikiLeaksに焦点を当ててみよう。

 

 尖閣諸島沖の中国船による海上保安庁船舶への衝突事件は、YouTubeによって一気に機密・秘匿情報が暴露され、日本中が蜂の巣をつついたような騒動になった。そして昨今は、WikiLeaksが次々と世界のトップレベルの機密・秘匿情報を暴露することを支援することによって、米国政府などが火消しに大わらわとなっている。

 WikiLeaksのホームページによると、「WikiLeaksはNPO(非営利組織)で、重要なニュースと情報を公衆に届けること」で 「WikiLeaksのジャーナリスト(電子ドロップボックス)に情報をリークする革新的で安全、匿名手法を提供している」という。なお、重要なニュース と情報は、以下の領域のものとしている。

戦争、殺人、拷問、拘留
政府、商業取引、企業の透明性
言論の自由、報道の自由への抑圧
外交、スパイ、(カウンター)インテリジェンス
生態系、寄稿、自然、科学
腐敗、ファイナンス、税、交易
検閲テクノロジーとインターネット・フィルタリング
カルトと宗教組織
虐待、暴力、違反行為

 まずは、WikiLeaksがもたらしている現象を振り返ってみよう。それらは大まかに言って5つにまとめることができる。

(1)秘匿情報・機密情報の非対称性の崩壊
 「しろしめす」という大和言葉をご存じだろうか。これは為政者にとって、どのような情報、知識を開示して公衆に知らせるのか、知らせないのかが、統治活 動の本質であるということを示している。通常、為政者や企業経営者は、国民やステークホルダーに対して、自分たちの都合がいいように情報・知識を取捨選 択、加工、編集して流すものだ。つまり、統治する側とされる側との間には、常に情報や知識の非対称性があることになる。WikiLeaksは、この非対称 性をぶち壊している。

(2)秘匿情報・機密情報のオープンソース化
 ソフトウエアの世界にオープンソースがあるように、WikiLeaksによってもたらされている現象は、アプリケーション層にある情報・知識の「オープ ン化」という側面がある。ソースコードを秘匿、占有することで利益を囲い込み、独占的便益を享受しようとするプロプライエタリ勢力へのアンチテーゼがオー プンソース化だとするならば、WikiLeaksの方向性は、秘匿情報・機密情報のオープンソース化とも言える。

(3)WikiLeaksは根本的な情報・知識秩序破壊者
 為政者や経営者は、ガバナンスを盤石なものとするために、莫大なコストをかけて情報の非対称性を構築する。すなわち守秘義務の徹底、秘匿情報へのアクセ ス制限はもちろんのこと、情報通信システム、セキュリティシステム、暗号化システムなどに莫大なコストをかけるのが世の常だ。WikiLeaksは、それ らの投資を一気に外部から無きものにしてしまう。

(4)暗号などの情報秘匿技術が無力化
 暗号化技術と解読技術はイタチごっこのようなものだ。しかし、内部の暴露者、通報者を得ることによって、このイタチごっこのようなゲームは無力化されて しまう。膨大なコストをかけてこれらの技術を確立しても、組織内部で隠密行動をとる暴露者、通報者一人の存在によって、それらは無力化されてしまう。

(5)マスコミの相対化
 既存のマスコミは、為政者によって誘導され、都合のいい情報を公衆に向かって効率よく流す役回りに落ち着くことが多い。この傾向を批判する者が「マスゴ ミ」という言葉を多用するのは、ネットの世界では周知の事実だ。WikiLeaksによって共有される情報は、マスコミによって流通される一般向けに編集 された、ありていな情報・知識とは異質なもので、それらの間にはギャップがある。そのギャップにどう付き合うかがメディアサイドにいるジャーナリストに問 われている。

 以上を押さえたうえで、さらにWikiLeaksによって不利益を被る人々と、便益を得ることができる人々を比較してみよう。WikiLeaksによって困る人々を素描すると、以下のようになる。

 

情報操作によって、しろしめす立場の人々

 まず、困る人々の筆頭格は、為政者、大企業経営者、特定の寡頭勢力など、情報操作によってガバナンスを維持していきたい人々だ。不利な情報・知識がWikiLeaksを介して暴露されると、情報操作が無効になってしまう。

 2010年10月22日、イラク戦争に関する米軍機密文書約40万点がWikiLeaks上で次の声明とともに公開された。「民間人が検問で無差別に殺 されたとの報告や、連合軍部隊によるイラク人拘置者への拷問のほか、屋根に反政府勢力と疑わしい人物が1人いるという理由で、米軍兵士が民間施設を丸ごと 爆破した報告がある」。

 これに反応した米国防総省のジェフ・モレル報道官は「WikiLeaksが法律に背いて情報を流出させるように個人に働きかけ、傲慢に機密情報を世界と共有することを遺憾に思う」とコメント。機密情報の漏洩は不法行為であることを繰り返し強調している。

 アメリカ軍、ペンタゴン、CIAなどの諜報機関、ホワイトハウスは、暴露された証拠に基づき、戦争犯罪、国家反逆罪などの嫌疑をかけられるリスクを負うので、WikiLeaksを激烈に叩かざるを得ないという構図がある。

 WikiLeaksによる「機密情報の違法な暴露」の支援によって、米国の外交のみならず国際社会の利益が損なわれたとするクリントン米国務長官は、 「米国は文書流出に責任のある人々を追跡する」と強烈なトーンで非難した。さらにホワイトハウスは、WikiLeaksの活動を「米国政府に対するサイ バー攻撃」として全面戦争を宣言したくらいだ。それほどWikiLeaksの活動は、情報・知識操作によって統治する立場の人々にとっては不都合きわまり ない。そのような勢力は、実際に創始者のジュリアン・アサンジ氏を拘束した。

 

秘匿情報・機密情報を内輪で発信・共有する人々

 次に困るのが、いわゆるインテリジェンス(諜報)活動をしている人々である。秘匿情報・機密情報を内輪でやり取りして生計を立てている人々だ。公電が、 いつなんどき暴露されるか分からないので、今やテキストで記録を残すことに慎重にならざるを得なくなっている。どんな堅牢なシステムで防御しても、内部か ら意図的に漏洩されたのでは、ひとたまりもない。

 かといって、このネット時代において「人づての情報」だけに頼るわけにはいかなくなっている。秘匿情報・機密情報を内輪で発信・共有する人々の間で、疑 心暗鬼は大きくなるばかりだろう。もちろん、リークされることを見越したうえで、操作的な情報をやり取りするのもこの世界の常道でもあるのだが。

 米Googleは2010年1月、中国発の高度なサイバー攻撃を受けたとする調査結果を公表したが、中国政府はこのサイバー攻撃について、当初は全く関 与していないと声明を出していた。しかし、WikiLeaksによって暴露された公電によると、Googleへのハッキング攻撃は「政治局常務委員会のレ ベルで指揮された」。これを受け、ニューヨーク・タイムズ紙はこの情報提供者に取材し、李長春(中国共産党政治局常務委員会の思想・宣伝担当委員)らが中 国におけるGoogleの事業を抑える作戦を監督してきたと報じた。

 

上記につながり、情報を公衆に向けて流す人々

 WikiLeaksによって困る人々の三番目は、先に述べた2つのグループに連なり、情報を公衆に向けて流す人々、たとえば既存メディアの仕事をする人々だ。

 ただし、事情はそう単純ではない。エスタブリッシュされた欧米マスコミに関与するジャーナリストは、匿名で暴露情報にコメントし、リークされた情報を ニュースソースとして活用している。事実を報道することに使命感を燃やすジャーナリストは、WikiLeaksの情報によって裏を取るだろうが、都合良く 加工・操作された出来合いの情報のみを流すことに慣れているジャーナリストにとっては、困ったことになる。

 

情報操作、世論誘導にフラストレーションを感じる人々

 ここまでは“超破壊的兵器”のWikiLeaksによって被害を受けている人々を見てきたが、その一方で便益を得る、あるいはそう感じる人々もいる。

 たとえば、為政者やその影響下で活動するメディアが自分たちの都合で情報操作をして世論を誘導していることに疑義、不信感、反対意見を持つ人々にとっ て、WikiLeaksは大変貴重な情報源となっている。前述した情報の非対称性のあちら側の人々から見れば、真実に接近する機会をWikiLeaksは 提供していることとなる。

 

ある種の価値観を実現したい人々

 自由を信奉する人々の間には、WikiLeaksを支持する人々が多い。自由の抑圧を嫌い、報道の自由、発言の自由を至上の価値とする人々にとっては、 WikiLeaksに投稿される情報・知識を読み、WikiLeaksをサポートすることが、自らの表現とさえなっている。

 WikiLeaksのサイトによるとWikiLeaksが拠って立つ原理は、「発言の自由、出版の自由の擁護、そして共有化される歴史的記録の改善、新 しい歴史を作るすべての人々の権利を支援すること」ということになっている。世界人権宣言(Universal Declaration of Human Rights)の第19条「すべて人は、意見及び表現の自由に対する権利を有する。この権利は、干渉を受けることなく自己の意見をもつ自由並びにあらゆる 手段により、また、国境を越えると否とにかかわりなく、情報及び思想を求め、受け、及び伝える自由を含む」がことさらに引用され、この条項を含め世界人権 宣言に賛意を示している。

 

より正確な多くのことを知りたいと願う人々

 上記の価値観や信条に特段のこだわりがなくても、人には、より正確な多くのことを知りたいと願う本能のようなものがある。WikiLeaksからの情報 が知る本能を満たしてくれると受け止める人々にとって、WikiLeaksは新しいジャーナリズムのニュー・モデルとなりつつある。

 WikiLeaksのホームページには、「利潤追求を動機としていないので、他のメディアと競合するという伝統的なモデルに従うことなく、他の出版社や メディア組織と協調的に機能することができる」という記載がある。より正確な多くのことを知りたいと願う人々を抱えている既存のメディアと協調することが WikiLeaksの1つの戦略である。

 もちろん、これらの背後には、既存の情報操作手法によって利益を得てきた寡頭勢力に対抗しようとする別の寡頭勢力の存在を想定することもできるだろう。

           ◇       ◇       ◇

 以上、WikiLeaksは誰の利益となり、誰の不利益になるのかという切り口で分析してみた。

 事態は流動的だ。オンライン決済サービスの米PayPal(米eBay傘下)は、「WikiLeaks」が募金のために利用していたアカウントを永久的 に停止すると発表した。米Amazon.comは同社関連のホスティングサービスでWikiLeaksのサーバーを停止した。米国のDNSサービスプロバ イダーEveryDNS.netも、「WikiLeaks.org」をターゲットにしたDDoS攻撃により、ほかの利用者に支障が出るとしてサービスを停 止したと発表した。米司法省はTwitterに対し、裁判所命令により、WikiLeaksの関係者たちのアカウントに関する情報開示を要求した。

 WikiLeaksはこれらの措置に対し、Twitterで「言論の自由がある自由の地で排除された」と声明を出している。また、WikiLeaksは資金繰りに窮しているとの声明を出し、世界中から資金的なサポーターを募っている。

 注意すべきは、2点ある。1つは「しろしめす側」と「しろしめされる側」の先鋭な対立構造があり、その中間にWikiLeaksが自らをポジショニング している点。もう1つは、それらの双方に、こともあろうに普遍的な価値観として「報道の自由」「発言の自由」「知る自由」「公共の利益」が埋め込まれてい る点だ。同型の価値観をいただく者同士による不断の闘争である点が特異なのである。

 この闘争の次の局面は、さらに重篤な情報の公開によってもたらされることになるだろう。それがどんな情報かは知る由もないが、極秘/特別隔離情報 (Top Secret – Sensitive Compartmented Information)が大量に公開されるとしたら、WikiLeaksを巡る議論の輪がさらに広がり、深まるはずだ。さて普遍的な価値観を勝ち取るの はどちら側なのか、目が離せない。

 

引用:諜報謀略講座 ~経営に活かすインテリジェンス~ – 第19講:WikiLeaksの超弩級・破壊的衝撃:ITpro

第18講:日本的経営あるいはジェームズ・アベグレン博士との対話

カテゴリー : アメリカ

 日本的経営が揺らいでいる。半世紀にもわたり日本的経営について観察、助言、論評してきたジェームズ・アベグレン氏との邂逅(かいこう)を下敷きにして、日本的経営にかかわる問題を考えてみたい。日本的経営を支えてきた人事制度とその運用に焦点を絞り込む。

 

 異邦人の観察眼は、しばしば当地で生まれ育った人間では気がつかないような本質を射抜くことがある。特に社会的現象については、社会に暗黙裡に飲み込ま れずに、相対化して分析することができるからだ。その意味で日本の経営事象を「日本的経営」としていち早く分析・記述して、世界へ伝達したジェームズ・ア ベグレン博士の功績は大きい。

 ウィキペディアによると、『ジェームズ・アベグレン(James C. Abegglen、1926年 – 2007年5月2日)は、アメリカの経営学者、経済学者。日本企業の経営手法を「日本的経営」として分析し、戦後の日本の企業の発展の源泉が、「終身雇 用」「年功序列」「企業内組合」にあることをつきとめた。また、「終身雇用」という言葉の生みの親として知られる』と紹介されている。

 だが実は、アベグレンは自ら進んで「終身雇用」(Life-time employment)という用語を用いていたわけではなく、「終身の関係」(Life-time commitment)という用語を使っていたことはあまり知られていない。終身において雇用が誰にでも適用される(つまり誰も失業しない)という「終身 雇用」の制度は存在し得ないが、通俗説として一人歩きしてしまったのだ。

 アベグレンの「終身の関係」(Life-time commitment)というとらえ方は、複雑な社会的現象を説明するための概念であり、社会科学で用いられる理念型(イディアルタイプ)のようなものだ。

 また上記では「アメリカの経営学者」としているが、博士は1997年に日本国籍を取得しているので、正確には「アメリカ生まれでその後日本人となった経営学者」とでも書くべきだろう。なぜ、細部にこだわるのかといえば、生前の博士と筆者は交流があったからだ。

 アベグレンの日本企業研究は、日本的経営の究極的特徴を労使関係、あるいは人的資源管理にあると見立てた経営学者の占部都美(うらべ くによし)によっても注目され、その後の日本人による日本人のための「日本的経営」研究とその実践に先鞭をつけることになった。アベグレンなかりせば、世 界的文脈での「日本的経営」は無きにも等しかったのである。

 

日本的経営は欧米の経営に収斂するのか

 日本的経営論には2つの大きく異なった立場がある。収斂(しゅうれん)説と非収斂説である。収斂説に立てば、工業化と都市化が進むことによって日本社会 も欧米的な社会のパターンに収斂していき、日本的経営はその特殊性を次第に失って欧米的な経営管理制度に変化していくとする。その一方で非収斂説は、工業 化によって同じ近代的な生産技術が導入されても、それは必ずしもその国の伝統的な社会や文化を変革するものではなく、その国の社会や文化に適合した独自の 経営管理制度を生み出すものであり、それらが有効に働くとする立場である(占部 1978)。

 アベグレンは非収斂説の立場で一貫している。「いかなる社会においても、経営組織が効果的であるためには、(その社会の根底にある価値基準や人間関係の パターンと)整合しなければならないということは自明の理である」として、以来、2004年に出版した「新・日本の経営」の中でもこの立場は一貫してブレ がない。

 「社会の根底にある価値基準や人間関係のパターン」については、この連載でも歴史や宗教について書き連ねてきたように、明らかに欧米と日本の間には相違がある。その違いを腹に落とさなければ、日本的経営の奥底を諜知することはできないだろう。

 第15講:どうした?勤勉の倫理と日本的資本主義の精神までの連載でも描写したように、日本社会の根底にある価値基準は、神と人間が循環する多神、多層、多元的なメンタリティーとして、雑多な宗教が折り重なるように習合してできた、特殊な心象基盤の上に作られていった。

 そこでは、「みんな一緒にがんばる」「みんなで分けあう」「世間さまに恥ずかしくないようにする」といった人間関係のパターンとともに、「お天道様が見 ている」「働くことは当たり前」「ご先祖さまのおかげ」「神様、仏様を畏れ敬う」「足るを知る」といった価値基準が暗黙的に共有されてきた。人格的一神教 の影響が微弱だった日本では、人間の上に神はいないし、人間の下に奴隷もいない。ましてや神と人間との契約もない。どこまでも人間が中心にいる人間関係の パターンなのだ。

 日本的経営のあり方は、このような日本社会の根底にある価値基準や人間関係のパターンに多くを負っている。と同時に、それらの価値基準や人間関係のパターンを維持する社会的な装置が日本的経営をいただく日本企業でもある。

 アベグレンの言説を借りれば、日本企業と従業員の関係は、このような価値基準や人間関係パターンを包含する「社会契約」を基礎として出来上がっている。 そして、これが日本的経営の骨格をも作り上げた。ゆえに日本企業は、特定の成果を生み出すことを至上目的とする機能体ではない。自らの存続を目的とし、組 織構成員の価値基準や人間関係パターンを維持するための共同体、という性格が色濃い。

 アベグレンも指摘するように、欧米、特にアングロサクソン系の研究者や経営実務家は世界各国の制度が「収斂」すると論じることが多い。日本では「収斂」というと各国の制度が中間領域のどこかに近づくようなイメージで語られることが多いが、これはナイーブな認識だ。

 そうではなく「収斂」というのは、正しく適切とされる「英米型の制度に近づくこと」を意味する。よって「各国の違いは解消されなければならず、日本の雇 用制度と経営手法が英米型に変化する、あるいは変化させられて近づくことによって解消されてゆくはずだ、そうあるべきだ」というのが「収斂論」である。い わゆる「グローバライゼーション」も「収斂論」の系譜に立った見方である。経営収斂説が欧米において支配的なことの背景には、絶対的な唯一神の教義を頂く 世俗世界の経営という現象さえも収斂させていこうという、ある種の脅迫的な観念を見過ごすわけにはいかないだろう。

 余談だが、現実の世界には頑迷強固な価値判断としての「収斂論」も存在する。新会社法、改正独禁法、郵政民営化法などの「改革」を「要望」した『年次改革要望書』も、その根底には操作主義的な「収斂論」が息づいていることを知るべきである。

 

共同体としての「カイシャ」

 さて価値基準や人間関係のパターンは、人事制度とその運用によって顕著に現われる。すなわち、とかく抽象論に終始しやすい日本的経営論を現場目線で議論をするためには、人事制度の変化を見る必要がある。

 「終身の関係」を労使で共有する人事制度は、あくまで正規従業員が中心である。正規雇用者数は、1997年をピークに減少している。そのため、雇用者全 体に占める非正規雇用者(パート、アルバイト、契約社員、派遣社員など、期間を定めた短期契約で雇われる職員)の比率は1995年以降高まり、非正規化の 急激な進展という結果をもたらした。非正規雇用者数は1995年に1000万人を超え、2006年には1707万人となり、「役員を除く雇用者」の中で 33%を占めている。

 私見によると、戦後の日本企業の人事制度は下の図のようにおおむね20年サイクルで大きな変化を遂げてきている。筆者はこれを「人事制度20年周期変化説」と呼んでいる。

人事制度20年周期変化説
図●人事制度20年周期変化説

 

 日本的経営を支えてきた日本的人事制度は過去に、年功主義、職能主義、成果主義(meritocracy)と変遷してきている。この変化を追跡することによって日本的経営の変化をとらえることができる。

 ちなみに2010年代には4つの「?」マークを入れてある。「?」はいったいどうなるのか、という疑問を留めながら続きを読んでいただきたい。

 

生活保障:1950年代からの20年

 この時代、米国のモノづくり技術を積極的に導入して、第二次世界大戦の敗戦の焦土から日本は復興しつつあった。新産業が勃興して企業は組織的な拡大にま い進した。機能体の衣をまといつつ国民の生活を保障する共同体として企業が登場したのだ。この時代の人事理念は「生活保障」に尽きた。

 役職が最も目に見えるステータスだった。拡大基調にある組織では、係長、課長、部長、役員というようにタテ方向に上がっていける機会は多く、単純な職階制度がとられた。「社員は仲間。善き仲間に厳密な評価は不要」と考えられ、暗黙的な人柄、人格、年功評価が中心だった。

 賃金も年功給がベースとなり、その上に役職給が乗るという構造が中心だった。ベースアップは、賃金表の書き換えと定期昇給によるものだった。イケイケドンドンの時代、人事制度は単純なものだった。

 「一社懸命」に働けば、役職も得ることができる。そして会社は社員という仲間の輪を拡大し、囲い込んでいった。独身寮、世帯寮にはじまり、厚生年金、失業保険など企業が負担する福利厚生や社会保障の提供が普及した。

 一方、農村共同体が崩壊し、企業に雇用される都市住民が急増していった。こうして企業は、機能体でありながらも代替的な共同体(Gemeinde)とし て発展していったのである。そこでは、善き仲間の一員でいること、その仲間から仲間とみなされることが、なにより重要なことだった。いわゆる同調圧力がう まく機能したのだ。

 この時代の人事制度の分析・記述は、日本の組織を相対化して観察することができる外国人の視点が中心だった。その代表格がアベグレンである。こうして 「終身の関係」(Life-time commitment)、年功賃金(Seniority-based wages)、定期雇用(Periodic hiring)、企業内訓練(In-company training)、企業内組合(Enterprise union)などの理念型が立てられた。

 

年功能力主義:1970年代からの20年

 1970年代からの20年間は、オイルショックなどを契機として拡大基調に陰りもあったが、この時代を通してモノづくり企業は躍進した。1980年以降 は、雇用者に占める非正規雇用者の比率が上昇を続けている。このような時代に正規雇用向けに登場してきたのが、「職能資格制度」である。

 職能資格制度は日本ならではのユニークな制度だ。職能資格制度とは、従業員の職務遂行能力(略して「職能」)の程度に応じて会社や会社グループの閉じた空間にのみ有効な「資格」を付与する制度である。

 1970年代を中心にして企業社会に流行し、一部上場企業のうち9割くらいが、この制度を運用しているといわれる。「年功的な人事を見直し、能力基準の 人材登用を可能にする」「役職にとらわれることなく、人の能力を基準にして処遇する」「人を重視する人本主義の具体的な制度への反映」などという言説が流 行ったものだ。

 一言でいえば、過去の主流すなわち職階・年功主義に対するアンチテーゼとして登場し、普及してきたのが職能資格制度だ。しかし運用を経て、年功運用的色彩が織り込まれ、年功資格制度になってしまった。その背景をまとめると、次のようになる。

 

  • 社内職能資格には標準滞留年数がある。能力が急進すれば職能資格も急上昇するはずだが、社内職能資格は急上昇しない。逆に能力が劣化しても、職能資格が落ちることはまずない。
  • 人事評価は、職務遂行能力に対して公正になされることが期待されたが、職場では明確な優劣をつけることがはばかられる。評価における中心化傾向(評価結果が評価スケールの中間付近に集中してしまう傾向)が顕著となった。
  • 職能資格の付与は年功的になる。そして職能資格にリンクしている職能給は、結果として年功給になっていった。

 こうして役職によるモチベーションはかなわなくとも、職能資格の付与とモチベーション維持策が行われるようになったのだ。長期安定雇用を前提にした共同体の仲間感覚の維持は、まだまだこの時代の大きなテーマだった。

 この時代には職能資格制度の理論家として楠田丘や弥富拓海、弥富賢之などの活躍をみる。また経営学の領域で日本的人事が研究対象とされるようになった。 以上の第1期(1950年代~)、第2期(1970年代~)を通して、日本的に特殊な制度が普及したこともあり、日本的経営の「非収斂説」が幅を利かせ た。

 

成果主義:1990年代からの20年

 1990年代からのグローバライゼーションが昂進した時代、それまでの共同体としての企業組織に「成果主義」すなわち機能体の原理が持ち込まれるようになった。その背後にあるのは新古典派経済学であり、それらによって理論武装した市場主義だった。

 企業を成り立たせるシステムとして人事制度は反応性が鈍く、変化するのは遅い。しかしながら、この時代は収斂圧力が強く顕れ、多くの企業が人事制度の改 革に着手している。外需依存型のグローバル企業はおおむね海外人事を成果主義に対応させ、その流れを日本に持ち込み、本丸の人事制度を「成果主義」的に変 更するような手法をとった。

 この時代には、バブル期(1986~1991年)に抱え込んだ「設備、債務、雇用」という3つの過剰を解消するリストラが一般的になった。先に述べたよ うに、正規雇用者数は1997年をピークに減少している。雇用者全体に占める非正規雇用者の比率は1995年以降さらに高まり、非正規化の急激な進展とい う結果をもたらした。

 非正規雇用者数は1995年に1000万人を超え、2006年には1707万人となり、「役員を除く雇用者」の中で33%を占めている。ちなみに女性の 場合は53%である。これらの非正規雇用者は多くの場合、外縁から日本的経営を支えながらも、日本的経営がもたらす直接的なメリットからは疎外されるとい うアンビバレントな位置にいる。

 グローバル経済とのインタフェースが大きな企業ほど、必然的に成果主義の要素を人事制度にも取り込むことになっていった。第1期、第2期は共同体の原理 が中心だったが、この時代の中心概念は機能体の原理だったためである。こうして、日本的経営は異質な非日本的要素と初めて向き合い、対峙することになった のだ。

 そもそも成果を計量的に測定するためには、「職務(Job)」の内容が確定している必要がある。だが、共同体でありつづけた日本の組織に、職務という概 念はなかった。はじめに人ありきで、仕事は人のまわりに融通無碍に形成される。職務は、非属人的・先験的に日本の組織には存在し得ない。

 だから、仲間を思いやりながら人間中心に仕事を進める人々にとって、欧米企業のように「職務記述書(Job Description)」を書くということは、実は異文化経験だったのだ。余談だが、こんな話がある。

 「日本人もアメリカ人も、失業以外のことで仕事の不安を感じることがある。日本人は職務記述書を書くときに、アメリカ人は職務記述書がないときに」。

 

機能体への体質転換剤としての成果主義

 米国では、機能組織としての企業経営、人事制度運営の蓄積がある。よって1980年代以降、米国発のHuman Resources Management(HRM)系のコンサルティング会社が日本でもクライアントを持ち始める。職務分析(Job Analysis)、職務評価(Job Evaluation)、目標管理(Management by Objectives)、成果主義賃金(Pay for Performance)といった手法が本格的に和風にアレンジされ、日本の大企業を中心として移植された。当初は在日欧米企業を中心として、そして前述 したような経緯で日経連(日本経済団体連合会)の所属企業までもが顧客リストに載り始めたのである。

 日本企業が軽視してきた「職務」という機能体の価値観を組織に移植し、もって、職務等級、成果評価、成果立脚型賃金をシステムとして日本企業に埋め込む作業は、要するに、共同体に機能体原理を持ち込む試みである。

 アベグレンはさほど厳しく糾弾しなかったが、共同体には良い面と共に弊害をもたらす面があることも事実だ。共同体の内と外に別々の規範を当てはめる二重 規範(ダブルスタンダード)は、度重なる不祥事やそれらのもみ消し事件の温床となった。なまぬるい仲間主義が馴れ合いを呼び、ホワイトカラーの生産性が低 い一因とも指弾された。また、共同体体質では過去の慣習や因習を否定する自己改革ができないとの批判も根強かった。

 よって、「大胆な戦略実行力が共同体的企業組織にはないのではないか」とトップが判断する企業は、こぞって成果主義という異質を注入したのだ。

 

成果主義の蹉跌

 日経ビジネス(2009年5月11日号)の特集「成果主義の逆襲」には、成果主義に関する次のようなアンケート結果が掲載されていた。

 

  • 「勤務先が成果主義型の制度を取っている」と答えた944人を対象に、勤務先の成果主義の成否を聞いたところ、「失敗だった」とする回答は68.5%に達し、「成功だった」という回答(31.0%)を大きく上回った。
  • 「成果主義に基づく自身の評価に満足しているかどうか」については、「不満である」が43.3%、「満足している」が16.2%。
  • 「職場に何らかの弊害が発生したかどうか」については、「発生した」が65.7%に達した。
  • 「失敗の要因は制度と運用のどちらにあると思いますか」という問いには、「制度そのものより運用上の問題が大きい」とする回答が66.0%、「制度そのものの問題が大きい」は32.5%だった。

 このようなネガティブな反応の本質は、共同体原理が発する「機能体原理への拒絶反応」から生まれている。異質に対する共同体の免疫反応がことさら強かったのは自明の理である。

 成果主義は、株主利益を合理的に追求する圧力を経営者にかけつつ、企業価値を上げることには貢献したのかもしれない。だが会社共同体の内部に向かって は、価値基準や人間関係のパターンの希釈化、希薄化を招き、外部に向かっては、人件費の変動費化の名のもとに非正規雇用者を大量に生みだしたのだ。

 

人本主義という普遍的非収斂説

 しかしながら1990年代の日本的経営論では、大胆な言説の展開がみられた。バブル崩壊までの短期間ながらも経済的に空前の繁栄をみた背景には、日本が相対的に非階層化され、民主化された企業社会を創り出したとする「人本主義」という言説である(伊丹 1993)。

 アベグレンの著書の熱心な読者であった経営学者の伊丹敬之は、資本主義に対照させて「人本主義」という独自の用語を用いて、日本企業の平均的な特徴を三 つのキーワードで説明する。それは、企業の概念で言えば「従業員主権」、組織内分配の概念という点では「分散シェアリング(分配)」、市場取引の概念では 「組織的市場」だ(伊丹 2009)。

 日本経済がバブルの崩壊で低迷してきたこの時代は、アメリカ経済が逆に好調だった。アメリカ型のカネの論理を中心とするヨコモジ経営手法が圧倒的な脚光を浴びていた時代に、伊丹は大胆不敵にも資本主義と対置するかたちで「人本主義」を主張したのだ。

 伊丹は、資本主義は「カネを経済活動のもっとも重要な資源と考え、その資源(カネ)の提供者のネットワークをどのように作るかを中心原理として企業シス テムが作られるもの」とする。それに対置される「人本主義」は、「ヒトが経済活動のもっとも重要な資源であることを強調し、その資源の提供者たちのネット ワーク、つまり人材を提供し、取引をしている人々のネットワークを安定的につくり、それを維持・発展させることこそ大切、と考える原理」であるという(伊 丹 2009)。

 明らかに非収斂説に立っているが、「日本の特殊性を示す言葉」では語らずに、「人本主義」の経済合理性には普遍性があるとした。すなわち、人本主義=普遍的非収斂説の登場である。

 

日本的経営の次は、共同体原理の発展的復活

 企業と従業員によるギブ&テイクの「場」としての職務(Job)を確定し、目標管理でさらに精緻化し、目標の達成度に見合った職務給を支給する、という 成果主義の方向性は、共同体原理と鋭く対立し、被雇用者側に不満をもたらした。第1期、第2期の郷愁と決別できていない正規社員、管理職、役員にとって、 この不満は深く、暗く、そして大きなものだ。

 アベグレンは、筆者との対話でも非収斂説を明快に展開し、アメリカ的な機能体原理を過剰に移植することや、グローバリズムという名のアメリカ中心収斂説 に警鐘を鳴らし続けた。「日本社会の根底にある価値基準や人間関係のパターンを大事にしないと、コミュニティとしての日本企業は崩壊するぞ」と。

 さらに、アベグレンはこう言うのだ。真に業績のいい日本企業は、一見前時代的で、古く、日本的な価値観を組織の奥底に温め、共有し、次世代に継承してきているのだと。

 資本主義のあり方が大きく問われている昨今だ。その中でも日本資本主義の行き方が問われている。日本的経営なくして日本企業はない。また、日本企業なく して日本資本主義もない。日本的資本主義の明日を占うためには、日本企業、なかんずく日本の企業社会の根底にある価値基準や人間関係のパターンを映し出 す、人事制度とその運用を注視しなければなるまい。

 日本的経営にとって、2010年代の4つの「?」は大きく重い。技術立国・日本の方向模索期と重なる時代に、日本的経営に次なる発展があるとすれば、グ ローバル化に即妙に対応しながらも、絆、縁、信頼、触れ合い、分かち合い、といった共同体原理の発展的復活にある。機能体・共同体の異種原理混合によるハ イブリッド化の時代を通過しなければ、日本的経営の新たな地平線は見えないだろう。

 

    【参考文献など】

  • ジェームス・アベグレン、占部都美監訳「日本の経営」、ダイヤモンド社、1958
  • ジェームス・アベグレン、山岡洋一訳「新・日本の経営」、日本経済新聞社、2004
  • 占部都美、「日本的経営論批判」、国民経済雑誌138巻4号
  • 平成20年版「労働経済の分析」(労働経済白書)
  • 伊丹 敬之、「人本主義企業―変わる経営変わらぬ原理」、筑摩書房、1993
  • 伊丹 敬之、「日本企業の人本主義システム」、平成21年宮中講書始の儀におけるご進講

 

引用:諜報謀略講座 ~経営に活かすインテリジェンス~ –第18講:日本的経営あるいはジェームズ・アベグレン博士との対話 :ITpro

第17講:若い世代が追い求める、「勤勉」と「幸福」の間にあるもの

カテゴリー : アメリカ

 先月、「Everyone a Changemaker―世界を変える社会イノベーション―」というシンポジウムが開催された。趣旨は題名の通り、各自が“チェンジメーカー”になって、 それぞれのできる範囲で社会を良い方向に変えていこうというものだ。今回はこのシンポジウムを振り返りながら、変質しつつある日本の「勤勉さ」について改 めて考えてみたい。

 

 筆者はこのシンポジウムの開催に関与している。告知後、2日足らずで参加申し込みが殺到し、300人以上の会場が満席になってしまった。正直なところ驚 嘆している。しかも、そのほとんどは20歳代、30歳代の若い世代である。社会イノベーション、社会起業家、社会的企業というテーマは、若い世代を惹きつ けるようだ(ちなみにこのシンポジウムに参加した人々がTwitterで自主的に感想や意見を言い合って共有している。Twitterのハッシュタグは#titchange#socentjpなど)。

 社会起業家とは、「社会の問題を見つけて定義し、新規性の強い事業アイデアを繰り出して持続的に取り組み、その事業を普及させ、社会に大きなインパクト を与えるような変革の担い手」である。そのような担い手によって成される変革のことを「社会イノベーション」という(具体例は後述する)。

 このように書くと、「わざわざ起業と社会起業、企業と社会的企業を区別する必要などないのではないか」という疑問を持つ向きもあるかもしれない。もっともな疑問だ。そのような疑問を抱きながら続きを読んでいただきたい。

 このシンポジウムでは、第一線の社会イノベーション実践者、支援者が一同に会した。そして、社会イノベーションについて非常に幅広く、また深く議論した(このシンポジウムの詳細な報告書がアップされる予定のサイトはこちら)。拙論では、社会イノベーションや社会起業という現象が何を意味するものか、を考えてみたい。

 

勤勉と自殺

 前講の『大丈夫か?日本資本主義の未来(勤勉のゆくえ)』で述べたように、現下の日本では、「勤勉」→「経済成長」→「幸福」という図式が成り立たなくなってきている。このような状況のなか、「経済成長」に代わり、「勤勉」→「○○○○」→「幸福」という図式を埋める何かを模索する動きが徐々に広まりつつある。

 幸福とは何かを古典や哲学を引っ張り出して、薀蓄(うんちく)している場合ではない。そんなことよりも、「幸福」ではない人がとる行動、すなわち自殺件数に注目すれば、少なくとも日本社会が「幸福」から遠いことは自明だ。

 日本の自殺率の高さは、欧米先進国と比較するとダントツ。さらに範囲を広げて比較すると日本は、ベラルーシ、リトアニア、ロシア、カザフスタン、ハンガリーに次いで自殺率は世界第6位だ。

 NPO法人ライフリンクの清水康之代表はこう嘆ずる。「かつて交通戦争で亡くなる人の数が1万人を超えて、『交通戦争』と呼ばれた時代があったが、今や自殺で亡くなる人は年間3万数千人。日本社会は今、『自殺戦争』の渦中にいると言うべきだろう」。

 社会の規範が崩れ、人と人を結ぶ紐帯が消失する現象は、東欧の旧共産主義国で見られたが、社会主義体制の崩壊を見なかった日本でも、これに匹敵するような現象が発生しているのだ。

 急性アノミーとは、信頼しきっていた者に裏切られることで生ずる致命的打撃を原因とし、これによる心理的パニックが全体社会的規模で現れることにより、 社会における規範が全面的に解体した状態をいう(小室 1991)。いわば、今の日本が直面しているような無規範状態である。

 これについて一点のみコメントする。前講までに述べてきたように、日本人は一神教による絶対的な規範と規準を超越的な位相に持たず、規範・規準らしいも のは人間と人間の間に存在する。人はそれを「人と人との絆」「人間関係」「空気」「他人の目」「世間体」とも呼ぶ。これらの内実が崩れることは、日本の社 会にとって致命傷となる。

 NPO法人ライフリンクが実施した「自殺実態1000人調査」によると、68項目の危機要因に対してパス分析や重回帰分析を駆使した結果、自殺の「危機 複合度」が最も高い要因を「うつ病」、危機連鎖度が最も高い経路を「うつ病→自殺」と特定した。その上で詳細な自殺の危機経路パターンを16通りにモデル 化している。

 たとえば被雇用者ならば、「配置転換→過労+職場の人間関係の悪化→うつ病→自殺」「昇進→過労→仕事の失敗→職場の人間関係の悪化→自殺」。自営業者の場合ならば、「事業不振→生活苦→多重債務→うつ病→自殺」というように。

 共通する経路を抽出してみると、おおよそ「過剰なストレス→仕事でのつまずき・失敗→収入閉塞→人間関係の脆弱化・崩壊→うつ病の罹患→自殺」というようになる。

 私見を述べると、勤勉のメカニズムは自殺のメカニズムに似ている。つまり、勤勉のメカニズムとは、「(1)ストレスにうまく対処して元気で健康→(2) 休まずに働く→(3)収入を得る→(4)家族・地域・会社などでの人間関係を維持する→(5)いきいきと生活を続ける」ことである。

 勤勉のメカニズムが自殺のそれと異なる点は、最後の「いきいきと生活を続ける」が最初の「ストレスにうまく対処して元気で健康」にフィードバックされて、ぐるぐると循環していくことである。

 とすると、勤勉と自殺は表裏一体の主題である。勤勉は首尾一貫感覚(身の回りの世界が首尾一貫していると感じること)の発露であり、自殺は首尾一貫感覚の喪失である。自殺は日本的社会空間に存在する。勤勉もまた然り、日本的社会空間に存在する。

 1998年以降、年間3万人を超えて、衰える勢いのない自殺者の数は、日本人的勤勉の足元の崩落を予兆している。

 

今後急増する「行き場」がない人口

 いずれにせよ、物質的な充足、経済成長、従来型の雇用、世の中にある既存のソリューションのみに答えを見出すのではなく、「勤勉」→「経済成長」→「幸 福」という図式における代替的な媒介項目を求めている人たちが社会イノベーションや社会起業に活路を見出しつつあるのではないだろうか。

 かたや「経済成長」に代わる媒介項目を模索する若者が浮き足立って、社会起業カリスマに表層的に熱狂しているのではないかという、冷めた見方もある。また社会イノベーションという包括的な説明概念だけでは、実際のソリューションにはならないという批判もあるだろう。

 しかし、筆者は社会起業や社会イノベーションの動向は時代の必然であると見立てている。そこにはいくつかの構造的な背景が作用しているのである。

 第1の構造的背景は、人口構造の変化のモメンタム。広井良典が指摘するように、特に戦後、農村から都市へ人口移動が大規模に起こり、都市で働く人のコ ミュニティは「会社」と「核家族」となっていった。こうして、人は生まれてからの15年くらいと、定年退職して死ぬまでの年月を地域に埋め込まれたコミュ ニティで暮らすが、壮年期の働き盛りは会社、役所、団体などで雇用されて過ごすというパターンが出来上がってきた。

 さて、日本全体に占める「子供+老人」の割合は、1990年から2000年を底にして「ほぼきれいなU字カーブ」を描くとされている。戦後、出生率の低 下により「子供+老人」の割合は減り続けていたが、1990年代を境に高齢化の勢いが上回り、「子供+老人」の割合は増勢に転じた。戦後から高度成長期を 経て最近までは、一貫して地域とのかかわりが薄い人々(生産年齢人口)が増え続けた時代であり、それが現在は、逆に地域とのかかわりが強い人々(子供+老 人)が一貫した増加期に入る、その入口の時代なのである(広井 2009)。

 こうして今後増え続ける老人人口と、相対的には減少傾向にありながらも明日の社会を担う子供人口の居場所は、核家族、学校、医療・福祉施設などの既存の 場だけでは対応できなくなりつつある。新しい場やコミュニティづくりが人口構造変化の圧力によって要請されているのである。

 

共同体の包摂と排除

 若者が社会起業や社会イノベーションに関心を示す第2の構造的背景は、壮年期あるいは生産年齢の人々の受け皿となってきた企業体質の変化だ。資本主義の 主要な担い手たる会社は、高度成長期において擬似的な、あるいは代替的な共同体として、広義の社会保障の提供者だった。しかし、1980年代以降、より明 確には1990年代以降、徐々に能力主義や成果主義といった人事戦略を採用するようになり、共同体というよりはむしろ機能体としての性格を強めてきてい る。

 会社は勤勉の製造・維持装置だったが、そこでは勤勉の経路がいつのまにか自殺の経路と並走するようになってしまった。共同体の機能体化のコストは決して小さいものではない。

 皮肉な言い方になってしまうが、本来は機能体でありながらも、日本社会の特殊事情により共同体として位置づけられてきた会社が次第に換骨奪胎され、機能体としての性格を強める中、企業社会を巡る雇用関係と社会的責任(CSR)のあり方が問われている。

 そして共同体としての家庭や地域が薄弱なものとなり、共同体としての会社が機能体化するプロセスの中で、共同体から排除され、どこにも帰属しない、ない しは所属できない人々が増大した。これは、「失業」「低所得」「住宅難」「ニート」「非正規雇用者」「格差社会」「健康格差」「家庭崩壊」「無縁社会」と いった言葉で語られる社会的な問題を引き起こしている。

 これは、共同体のありかが急激に変遷してきた末にたどり着いた、日本のソーシャル・エクスクルージョン(社会的な排除)と言えよう。企業、核家族、地域が包摂の程度と範囲を狭め、その結果、排除されつつある「コミュニティ」なき社会の問題となった。

 

35歳前後をピークとする世代の内面の変化

 第3の背景は、35歳前後をピークとする世代の内面の変化だ。昨年NHKの番組「“35歳”を救え あすの日本 未来からの提言」が実施した、35歳を対象とした1万人へのアンケート結果は意味深長だ。いわゆるロスジェネ世代(就職氷河期世代)にとって、長期安定雇 用制度の利用度・信頼度は低くなっていて、「転職経験がある」は66%、「会社が倒産するかもしれない」が42%、「解雇されるかもしれない」が30%と なっている。

 有名な「マズローの欲求階層説」によると、人間の欲求は、「生理欲求→安全欲求→社会欲求→承認欲求→自己実現欲求」というように、複層的に高まってゆ くという。だとしたら、社会起業を目指す若者たちは、雇用、職業選択、生活にかかわる道筋の不安定さに苛まれつつも、自らの社会欲求、承認欲求、自己実現 欲求をひたすら満たしたいと突き進む群像なのかもしれない。

 個人主義的性向を持ち、新たな価値を創出、獲得することに貪欲で、既成の権威には懐疑的ながらも、自己の権利は主張し、脱物質的でもあり、自然志向的。そんな若者を「ポストモダン的人間」と呼ぶのもよかろう。

 しかし、人格的一神教のような絶対的な規範と規準を超越的な位相に持たず、規範・規準らしいものは人間と人間の間に存在させる日本人は、西欧のように宗 教(キリスト教)を合理化あるいは近代化させた経験はない。その意味で、西欧的価値基準から見れば、日本人はいくらポストモダン的人間を気取っても、実は 精神世界の深淵はプレモダン世界の住人でもある。

 そのようなポストモダン、プレモダンがないまぜとなった文明人の出現は世界史における日本の特異性でもあるが、このアンビバレンスの中に、ある種の危うさ、もろさ、傷つきやすさが伴うことに自覚的になるべきだろう。

 これらのアンビバレンスをことさら自覚するのでもなく隠すのでもなく、以下に羅列するような社会的問題解決の当事者として「新しい勤勉」と「新しい幸 福」を媒介する「何か」を求め、そこにのっぴきならない「生きる意味」さえも求めてやまない人々。35歳前後をピークとして前後に拡がる世代で社会イノ ベーションに活路を見出す人々の内面は、このように複雑である。

 俯瞰すれば、静かだが抗えない人口・企業・産業の構造変化に対する一つの社会的反応が、社会イノベーションであり、社会起業の動きである。社会イノベーションや社会起業を支援するという意志や行動は、以上の意味合いにおいて、複雑さへの対応なのである。

 

新しいコミュニティ、新しいサービス

 社会イノベーションないしは社会起業を取り巻く動向の特徴は、従来の行政、民間企業、伝統的な非営利活動が十分に対応できてこなかった領域の社会問題に 対して、斬新なソリューションを提供していこうとすることだ。ただし、「新しい公」のような既成概念に矮小化してしまうと、コトの本質が見えなくなるので 注意してもらいたい。

 もちろん、そこには単一の解があるわけではなく、保健・医療・福祉、街づくり、環境保全、自然保護、森林保全、過疎対策、農村活性化、教育、能力開発、 セーフティーネット、文化・芸術、地域経済活性化、消費者保護、雇用支援、弱者救済、障害者支援、貧困対策、災害救援、人権擁護、男女共同参画、科学技術 振興、地域安全、国際協力…など、多種多様なテーマが広がっている。

 ここに重要なテーマが潜んでいる。上記の多種多様なテーマ、あるいは社会起業のビジネスモデルが提供するものは、製品・商品というより、断然サービスが中心である。経済エンジンの主題は、「モノ」→「エネルギー」→「情報」→「サービス」と変わってきている。

 日本のGDP(国内総生産)の70%はサービスセクターが生み出しているほど、近年の経済のサービス化は顕著なものだ。その中でも、社会イノベーションは公共財、準・公共財、私財の領域を融合する新しいタイプのサービス創出を狙ったものが多い。

 

システムとスケールアウトが求められる

 社会起業家を支援するアショカ財団の代 表であるビル・ドレイトン氏の話に耳を傾けよう。アショカ財団の研修生(アショカ・フェロー)として選ばれた人々の5年後を追跡調査すると、その97%が プロジェクトを継続しており、88%の人のアイデアが他の組織に伝播している。さらに55%のアショカ・フェローのアクションが、発展途上国を中心とする 国家政策にまで影響を与えている。つまり、社会に対するインパクトが甚大なのだ。

 アショカ・フェローの審査にあたっては、新しいアイデアを持つこと、クリエイティビティがあること、起業家としての能力・資質、問題解決へのコミットメント、アイデアの社会的インパクト、倫理観と信頼を徹底的に調べ上げる。

 ここで注目されるものはシステムとスケールアウトである。地道に地域密着型で行動する「草の根」市民運動も大事だが、卓越した社会起業家は、ソリューション提供のシステム化と多様な地域への展開というスケールアウトを実現している。

 もっとも、この点については「チェンジメーカー~社会起業家が世の中を変える」の著者である渡邊奈々氏も指摘している。社会起業家の定義をあまり拡張す るのではなく、少なくともソリューション提供のシステム化と多様な地域への展開というスケールアウトを実現している起業家にのみ「社会起業家」という言葉 を使っていこうというものである。

 

チェンジメーカーを生み出す土壌

 膨大な人数におよぶ社会起業家を審査、育成してきたアショカ財団の経験によると、社会起業家は10代のうちに何か「違うこと」をしており、その経験がまた別の経験を呼び、結果としてシステミックな変化をもたらす社会起業家に至るという。

 「違うこと」をやることは素晴らしいし、「違うこと」から差異、価値が生じる。周りとはちょっと違うことをやる人のことをチェンジメーカーという。

 「チェンジメーカーになるための一番大きな壁は自覚の壁である」とドレイトン氏は静かに語る。

 他人を変えることは難しくても、自分を変えることは多分それほどには難しくないだろう。その意味で、だれもがチェンジメーカーになれるはずである。そして、卓越した社会イノベーションをもたらす社会起業家は、豊かなチェンジメーカーの裾野があって初めて出現するものだ。

 シンポジウム「Everyone a Changemaker」のキーノート・スピーチで、渡邊奈々氏は「86%の高校生、54%の中学生が自分はダメだと思っている」という現状に警鐘を鳴ら した。ドレイトン氏が言うように、自己肯定感、自己効力感がなければ社会に向ける眼差しは暗く屈折したものになるだろう。「ダメ」から「デキル」へ反転さ せるようなギア・チャンジが求められている。

 チェンジメーカーを生み出す土壌をどのように耕して行ったらいいのか。大きな課題だ。ドレイトン氏は近々、11~20歳の子供を対象に、チェンジメイキ ングを実践させ、持続的な変化を起こすトレーニング・プログラムを行うという。そして、アショカ財団はJPMorgan Chase Foundationから約23万ドルの助成を受けて、日本でも若者向けの社会起業支援に乗り出す。

 

同調圧力、違い、イノベーション

 たしかに第15講の『どうした? 勤勉の倫理と日本的資本主義の精神』 で触れた「みんな一緒にがんばる」「みんなで分けあう」「世間さまに恥ずかしくないように」「みんなの目を気にしながら生きる」ことは日本的勤勉の倫理を 維持する上で看過できないが、「周囲と同じようにしなければならない」という隠微な同調圧力は「違い」を排除する方向にも作用する。

 そこに自助努力の原則が強く刷り込まれれば、成功も失敗も自分のせいになってしまい、「とりあえず周囲と同じような方向で頑張る」ということになりかねない。

 経済学者のシュンペーターはイノベーションの源泉を「新結合」に求めたが、結合されるべき「違い」が排除されていたのでは、今の日本でイノベーションが 創発されるべくもなかろう。シンポジウムのパネルディスカッションで司会を務めた渡辺孝東京工業大学特任教授が指摘するように、現在日本の起業活動は OECDで最も低いレベルにある。

 日本の社会は、「周囲と同じような振る舞いをする人々を大切にして、周囲と違ったことをやる人を疎む傾向が強い」と感じるのは筆者だけではないだろう。 周囲と異なること、違うことを尊重しない環境からは異質は発生しない。異質なものが萌芽しなければイノベーションも生まれない。イノベーションの沈滞と 「違い」を排除する暗黙の同調圧力とは無関係ではあるまい。

 さてドレイトン氏は嬉しそうに、メアリー・ゴードン氏が始めた「Roots of Empathy」の話をする。彼女は学校からいじめをなくす活動をしている。アショカ・フェローになってからたった4年で、ゴードン氏のプログラムを採用する学校は2校から2000校に増えた(この活動を日本語で紹介しているサイトはこちら)。

 彼女たちがやっていることは、いたって簡単。教室に赤ちゃんを連れていき、「先生」と大きく書かれたTシャツを赤ちゃんに着せて、その子が何を言おうとしているのかを生徒たちに考えてもらい、話し合ってもらうだけ。

 大学に依頼して実施した追跡調査の結果、この活動により、いじめの件数は激減した。大きなインパクトである。言葉の通じない赤ちゃんとの触れあいを通して、「相手の身になって考える」というアイデアがすべての始まりだったそうだ。

 違いを気にする学生に対してドレイトン氏はこう言う。「まずは学生の方々に伝えたい。誰もやっていないことをやりなさい。そうすれば比較をされないですよ」。

 

「所得階層別の価格設定」という常識破り

 「資本主義を人間化する」。シンポジウムで、このなんとも刺激的な演題でプレゼンテーションしたのはデビッド・グリーン氏。人間のために資本主義を活用するという話だ。

 「人生の時間の使い方は二つ。一つは、生きている間に自分に返ってくること。地位、名誉、お金などです。もう一つは、人類全体の向上、より良い世界に貢献することです。私は後者を選んだだけです」 と自己紹介する。

 グリーン氏は、オーロラボ(Aurolab)社を起業し、インドなど開発途上国で初めて人工水晶体レンズ、手術用縫合糸、医薬品、眼鏡を、貧困層にも届く価格で生産している。オーロラボはこれまでインドのアラヴィンド眼科病院などで、1000万人の途上国の患者に医療サービスを提供してきている。

 68億人の政界人口の底辺をなすボトム・オブ・ピラミッド(最近ではボトムという表現を嫌い、ベース・オブ・ピラミッドと呼ばれる)に対するケアサービスによってQOL(生活の質)は着実に改善されている。

 戦略は大胆かつ前例がないものだ。一番安い価格を無料に設定することで、一気に需要を顕在化させる。

 多くの人は水晶体が曇ることによって失明する。目が見えるようになるためには手術によって水晶体を交換しないといけない。そのための水晶体を途上国の医療機関にオーロラボが破壊的廉価で納入しているのだ。

 グリーン氏が実践してきたことは、技術経営の視点から事後的に見ればオーソドックスな手法だ。

(1)技術移転して、価格設定権を握る。
(2)ヘルスケア・サービスを持続的に提供する。
(3)投資家からファイナンスを受ける。

 ただし、驚愕の価格戦略を推進している。途上国を市場としている彼のビジネスでは、「一物一価」「一サービス一価」を否定して、所得階層のセグメント別 に価格を設定している。貧困層に属する3分の1の顧客に対しては無料、それ以上の層の3分の1に対しては正価の3分の2で販売する。富裕層の顧客(全体の 約3分の1)は、高い価格(正価)を喜んで払ってくれるという。

 ヘルスサービスのアプリケーション・レイヤーは、薬品、医療材料、診断機器などの物質レイヤーと、診療、看護などのヒューマン・サービス・レイヤーの2 層から成り立つ。オーロラボは、物質レイヤーの水晶体などを破壊的廉価で製造、流通させ、途上国のヒューマン・サービス・レイヤーに新規医療技術を学習さ せる。これにより従来は一部の富裕層しかアクセスできなかったヘルスサービスを、途上国の地域に一気に伝搬させるイノベーションである。

 詳細は、講演記録を読んでいただくとして、グリーン氏のビジネスは、技術が持続可能性をドライブすることを如実に立証している。重要なことは、技術をい かに画期的なビジネスモデルの中で活用するかだ。彼らはまず、医療用品の製造に莫大なコストがかからないという前提からスタートし、オーロラボ製品のマー ジン率を低く抑え、サプライチェーンを整備し、コストを削減し、品質管理を徹底し、持続可能なビジネスとして展開しているのだ。

 

ビジネスモデルの骨格にCSRはあるか?

 「社会的企業と一般企業の差は?」との会場からの質問に、グリーン氏はこう答える。

 「私は、最近は自分たちのことを社会的企業とはあまり言わなくなりました。高ボリューム・低マージンモデルのビジネスを市場の中で行っていることが社会に受け入れられているだけなのです」。

 人々が真に求めているものごとを、求めやすい価格で、アクセスしやすい場所で提供するという企業経営のイロハを実践することが、結局は社会的存在になる ということだ。同様に、そのための起業ならば、あえて社会的という形容詞を付ける必要もないということだろう。学説的にも社会イノベーション学派とよばれ る系統では、社会イノベーションの担い手として営利、非営利は特に問うていない。

 フィランソロピー(社会貢献活動)、CSRという概念は、企業のコアコンピタンスやビジネスモデルの骨格に埋め込まれて初めて社会的企業となるのである。コアとなる事業に付帯させて行うCSRが散見されるが、それは決してCSRの本質ではない。

 このような文脈もあり、現在米国では、社会イノベーションや社会起業が、ビジネススクールや専門職大学院、学部レベルはおろか、いろいろな学校や地域に おいて大変な勢いで広まっている。もちろんそこには、昨今のマネー資本主義の暴走に対する複雑な情念も付随しているのだが。

 

「バスレなし」のシュンペーターの予言

 マルクスの労働価値説を真っ向から否定した経済学者バヴェルクを師とするシュンペーターは、マルクスを超えようとする言説を展開した。マルクスをはじめ予言をハズすのが経済学者の常だが、シュンペーターの恐ろしさは、今のところ彼の予言にハズレがないという点にある。

 さて「資本主義はその欠点のゆえに滅びる」と書いたマルクスの逆張りで、シュンペーターは「資本主義はその成功により滅びる」と意味深長なことを書いた。

 シュンペーターは「創造的破壊」というコンセプトを思索の真ん中に据えた。そして、創造的破壊を推進する資本主義のエートス(行動様式)が衰弱し、資本 主義の屋台骨ともいえる私有財産制と自由契約制が形骸化すれば、キャピタリズムは衰退し、やがては終焉を迎えるだろうと予言した。

 創造的破壊とは不断に古いものを破壊し、新しいものを創造して絶えず内部から経済構造を革命化する産業上の突然変異である。

 シュンペーターによれば、資本主義の生命線であるイノベーションの担い手=企業家(起業家)が官僚化された専門家へ移行するにしたがい、資本主義の精神は萎縮し、活力が削がれてゆき、やがて資本主義は減退する。

 ここからが重要だ。あまり知られていないが、企業家(起業家)は主要な活躍の場を産業分野から次第に公共セクター、非営利セクターに移行させてゆくだろうと彼は書いている。シュンペーターもまた社会起業家の活躍を予見し、社会イノベーションを含意しているのである。

 1931年に日本を訪れ、京都にも遊び日本社会も垣間見たシュンペーターだが、今の日本の状況を見通していたのだろうか。若い世代が追い求めているものは、不思議と彼の予言と符合する。

 

 

引用:諜報謀略講座 ~経営に活かすインテリジェンス~ –第17講:若い世代が追い求める、「勤勉」と「幸福」の間にあるもの :ITpro

第16講:大丈夫か?日本資本主義の未来(勤勉のゆくえ)

カテゴリー : アントレプレナーシップ

 「日本人は勤勉さを失いつつあるのかもしれない。勤勉さを礎とした、高度成長時代からの社会制度は、このままでは立ち行かなくなる」と多くの人が考えているようだ。そこで今回は、「勤勉」の現状と未来を見立てることによって、日本資本主義の今後の姿を占ってみたい。

 筆者は海外で、よくこんなことを言われた。

「日本人はじっと耐えて、脇目もふらず一生懸命がんばる」
「日本人同士集って本気を出すと、他の国の人々はかなわない」
「日本人の勤勉さが、あの高度経済成長を支えてきたのですね」

 要するに、日本人は勤勉だというのである。前回の「どうした? 勤勉の倫理と日本的資本主義の精神」で見たように、日本人の勤勉さはある種、歴史・文化に刷り込まれてきたものであり、その行動様式は社会や経済のあり方と無関係ではない。むしろ、勤勉の精神が社会や経済のあり方を支えてきたと言ってよいだろう。

 そう思っていた矢先の2008年に、いささか考えさせられる調査結果が発表された。読売新聞社の「年間連続調査」は、「日本の発展を支えてきた『日本人の勤勉さ』について、これからも続くと思う人は35%にとどまり、そうは思わない人が61%に上る」と報じたのだ。

 日本人の勤勉さについては84~91年に5回調査し、今後とも続くと思う人が常に多数派だった。日本人の勤勉さが続くと思わない人の方が多くなったのは 2008年度の調査結果が初めて。特に20歳代では66%に達した。1984年の調査では、「続く」と思う人が59%、「続くと思わない」人が33%だっ たので、この四半世紀で見方の比率がほぼ逆転したことになる。

 どうやら日本人の勤勉さは消失・沈滞しつつある、とまでは言わないが、大いに変質しつつあるようだ。一生懸命、勉強や仕事に励んでもしょうがない。せっ せと勤勉に励んで一体何になるのか――。こんな声が聞こえてくるようだ。要は、勤勉であることの目的、勤勉であることによってもたらされる効用がハッキリ しなくなってきているのである。

 

成長と勤勉

 「成長」は、従来の経済の合言葉、大義名文、呪文だった。1955年から1973年までの18年間、日本経済は成長に成長を重ねてきた。なぜこの時代に 日本経済は高度成長を遂げたのかについて諸説あるが、「需要」「供給」「イノベーション」の3条件が絶妙に組み合わさったことから飛躍的な経済成長がもた らされた点に異論はないだろう。

 新しい価値を市場にもたらして伝搬させるイノベーションが勃興し、付加価値生産にかかわる十分な人、モノ、カネ、情報などの資源が調達可能で、生産された付加価値を消費する需要が拡大を続けるという3つの条件を満たしたがゆえに、飛躍的に経済が成長してきたのだ。

 これらの基調を後押しする社会的イベントも盛大に行われ、特需となった。1964年の東京オリンピック、1965年の北爆から1975年のサイゴン陥落 までのベトナム戦争、1970年の大阪万博(日本万国博覧会)などは特需をもたらした。それやこれやで1968年には国民総生産(GNP)が資本主義国家 の中で第2位に達し、一連の経済成長は「東洋の奇跡」と言われた。

 このように「成長」は戦後長らく日本の背骨を支えてきた。そして勤勉が成長を支え、成長すれば皆が豊かに幸福になるのだ、という確固たる確信と納得が あったのだ。文化人類学者の上田紀行は、「右肩上がりの時代、それは自分自身の個別の『生きる意味』を深く追い求めなくても、ひとまずは幸せにやっていけ る時代だった」と言い、バブル経済とともに崩壊した成長神話の残骸に、「かけがえのなさの喪失」という殺伐とした風景を見る。

 

成長ありきの2軸対立

 社会民主主義的な「ケインズ主義」と、保守自由主義的な「市場主義」はよく対置されて議論される。前者は大きな政府を是認し、市場には欠陥があるからコントロールされるべきと主張。後者はすべてを市場と自由な個人に委ね、政府による介入を拒み、小さな政府を主張する。

 ケインズの祖国イギリスは、第2次世界大戦後はおおむねケインズ派だった。「経済を安定させ、失業などの不均衡を是正するために、政府は市場に介入すべ し」との議論に、真っ向から反旗を翻す向きは少数派。ケインズによれば、経済に不均衡や不安定が付いてまわるのは、市場そのものが“不完全”だからであ る。

 1980年代になって、イギリスのサッチャーとアメリカのレーガンはともに小さな政府を目指した。だが2人が企てたことは、実は市場原理主義のように 「市場の完全性を前提にする」というよりは、むしろ様々な規制を緩和し、民営化を勧め、競争を促進することによって「市場を“完全”な状態に近くしようと する」ことだった。

 サッチャーはケインズの天敵だったハイエクの思想を信奉していたとよく言われる。ハイエクは市場の万能性を素朴に信じようとは言わなかった。むしろ自由 を求めてやまない人間の理性にはどうしようもない「限界」があるから、市場を管理、操作、統制、制御するといった夢物語を追いかけるのを止めにして、一切 を市場に任せようと言ったのだ。

 ハイエクによると、人間とは「高度に合理的で聡明な存在ではなく、きわめて非合理的で誤りに陥りやすい存在」である。だからこそ、決して万能ではない市場に委ねるほうが賢明であると彼は考えた。これをハイエクの「相対的市場主義」という。

 いずれにせよ、ケインズ主義も市場主義も、それらを援用する為政者も引用する論者も、おしなべて「成長」という大義名分を肌身離さず持っていたことには変わりがない。

 

経済成長は幸福を約束しない!?

 経済成長はドグマ(宗教の教義)にも似た至上命題。需要側からも供給側からも、はたまたイノベーションを論じる向きからも絶対的テーゼとして祭り上げられてきた。

 ところが、「はたして、経済成長は人間の幸福とどのような関係があるのか?」という点に飽くなき関心を持つ研究者が出始め、ここ数年は実に興味深いデータが出始めている。

 例えば、次の図1は、経済成長が日本国民の生活全般の満足度に直結しないことを示している。日本の1人当たり実質GDPが伸びても、逆に「生活満足度」は下がっている。

生活満足度と国民1人当たり実質GDP(国内総生産)の推移
図1●生活満足度と国民1人当たり実質GDP(国内総生産)の推移
[画像のクリックで拡大表示]

 

 購買力平価で見た国民1人当たりGDPと「幸福度」の間にも同様の傾向がみられる。平成20年度国民生活白書によると、所得水準が低い国のグループでは 右肩上がりの正の相関を示すものの、全体として相関は弱い。所得水準が高い先進国では、所得の上昇にかかわらず幸福度はほぼ水平、つまり幸福感が高まらな いことが示唆されている。

 もっとも厳密な議論をするためには、さらに膨大なデータの収集と解釈が必要なことについては論を待たないが、上記のデータから示唆されることは実に寒々 しい。「一生懸命、勤勉に働いてお金を儲けて、1人当たりGDPの向上に励んでも、生活満足度や幸福感はさして高まらない」ということだ。

 以前ならば、「一生懸命、勤勉に働いてお金を儲けて、1人当たりGDPの向上に励めば、生活満足度は上がり、あなたは幸せになる」と言われれば、よほど の天の邪鬼でない限り大方は納得した。学校の先生から会社・役所の上司に至るまで、暗黙の合意・了解事項だったのではないか。

 ところが今は、そうではなくなった。

 「諸君はよく受験勉強に耐えて、大学に入った。これからもっと一生懸命勉強して、卒業する暁には、良い会社や研究所に入って、勤勉に働こう!そして給料をたくさん稼ごう! 幸せになるために!」とは、さすがに口が裂けても言えない。

 たぶん、このような素朴な予定調和の物語は誰も純朴には信じないだろう。よしんば、そのようなことを言う人が出てきても、趣味の悪い懐古主義者と間違われるのがオチなのかもしれない。

 

勤勉の目的の問い直しが急務

 一生懸命に勉強し、良いとされる学校へ入り、良いとされる会社に入り、社業に貢献することによって個益、つまり個の利益がもたらされる。公器である会社 が社業を発展させることにより公益がもたらされ、また利益の中から法人税などを収めることで公の利益の増進に直結する。このような勤勉の因果関係が成り立 ちづらくなっているのである。

 筆者は、怠惰に流れやすい自分自身のことを都合よく棚に上げあげつつも、勤勉そのものを否定はしない。「第15講:どうした? 勤勉の倫理と日本的資本主義の精神」で議論したように、勤勉はとても大事な日本人の精神的資産であり伝統であると思っている。だから次のような議論になる。

「勤勉」→「経済成長」→「幸福」

 上記の関係式の中で、「経済成長」が「勤勉」と「幸福」を媒介しなくなってきている。だから下記のように、勤勉の目的となるもの、つまり「経済成長にとって代わる媒介変数」をきちんと探し出して、自覚的に入れ込むことが大事である。

「勤勉」→「○○○○」→「幸福」

 日本社会には「○○○○」について、まだまだ総意などといったものはない。当面、一人ひとりが模索してゆかねばならないところに事の重大さが潜んでいる。

 集団的に深く刷り込まれた経済成長神話に代わって、一人ひとりが「○○○○」を探し、紡ぎ、意味づけていかねばならないのだ。前述した上田の言葉を借りれば、「○○○○」の定まらない状態は「かけがえのなさの喪失」にもつながる不気味なものだろう。

 

新しい資本主義の形は「新しい勤勉」を求める

 元来、近代資本主義というものは空気のようなものだ。肌で触れることもできないし、目にも見えない。図2のように、抽象的な項目で構成されながらも、具体的にその影響下にある人の行動を拘束する。

近代資本主義の構成

図2●近代資本主義の構成

 

 近代資本主義は、目的合理性、労働の目的化、利子利潤倫理を基盤に置く。これらの基盤を下支えするものが「勤勉」であり、絶対性と抽象性を特徴とする私有財産制と、それによって万人が等しく絶対的に拘束される自由契約制によって成り立つのが近代資本主義である。

 ここを押さえておかないと、最近騒がしい「明日の資本主義」「資本主義滅亡論」「資本主義暴走論」など、とめどもない言説の針金細工になってしまうので要注意だ。

 「勤勉」をも俎上に乗せる諜報謀略論は、実は大変マジメな議論なのである。人は何に対して勤勉になりうるのか。経済成長以外に勤勉を誘導する政策的な目標はありうるのか。勤勉を演出し、社員の勤勉に依拠してきた日本的経営の姿はどうなるのか。次回以降に考えてゆこう。

 

    【参考文献】

  • 読売新聞、2008年7月30日
  • 平成20年度国民生活白書
  • 上田紀行、「生きる意味」、岩波新書、2005年
  • 佐和隆光、「市場主義の終焉」、岩波新書、2000年

 

引用:諜報謀略講座 ~経営に活かすインテリジェンス~ –第16講:大丈夫か?日本資本主義の未来(勤勉のゆくえ) :ITpro

第15講:どうした? 勤勉の倫理と日本的資本主義の精神

カテゴリー : スピリチュアリティ&宗教

 社会主義に勝利したかのように見えた資本主義だが、このところ資本主義に吹きつける風は冷たい。アメリカ発の強 欲・金融資本主義の崩落現象後の悪あがきに怒るマイケル・ムーア監督は、舌鋒鋭くキャピタリズムをこきおろす。さて、日本の資本主義はどうなるのか。そこ を見極めるためには日本的資本主義の来歴を知る必要がある。

第7講:ユダヤの深謀遠慮と旧約聖書』で触れた「創世記」では、働くことは原罪の対価であるという見方で一貫している。また古代ギリシャのプロメテウス神話でも、人間は神の庇護から離れ大地から命の糧を自分たちで得ていかなければならないという途方もない苦役を課せられたという話が出てくる。

 アリストテレスは、働くことは市民を腐敗させると説いているし、ソクラテスは、健全な市民は商業などに従事すると友情や愛国心を失うので市民による労働 を禁止すべきだと主張している。プラトンは、人間の働きの中で最も高貴なことは哲学すること、次に戦争をすること、最も価値が低いことは労働である、と 言っている。労働は奴隷のものであったのである。

 かたやヘシオドスは「労働は恥ではない。働かないことこそ恥だ」と述べ、パウロは新約聖書の中で「落ち着いた暮らしをし、自分の仕事に励み、自分の手で 働くように努めなさい」(テサロニケの信徒への手紙)と言った。このように古い時代の西洋社会では、労働について賛否両論があるものの、否定的見解に立つ 見方が支配的だった。

 

働くこと=労働の換骨奪胎

 働くことについてネガティブな見方が大勢を占めていた西洋社会だが、近代の契機は、この労働観の大逆転から始まった。よく知られているように、マック ス・ヴェーバーは「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(以下、プロ倫と略す)の中で、西洋近代の資本主義を発展させた原動力を、カルヴィニズ ム(プロテスタントの一派)の宗教倫理から生まれる禁欲であるとした。

 嗜好品、アルコール、娯楽、セックスを断つというような禁欲ではない。この点は誤解のなきよう。それぞれの職務の労働に一生懸命、専心して励みながらも、世俗的な富の追求や過剰な消費には距離を置いて慎むといった行動的禁欲(aktive askese)である。

 宗教改革の指導者カルヴァンの予定説は絶望的な説だ。つまり、救済される人間は前もって予定・決定されており、人間の意志や努力でこれを変更することは 絶対にできない。禁欲的にせっせと労働に励み、この世に神の栄光をあらわすことによって、「自分は救われている」という確信を持つことができるようになる というのだ。

 ヴェーバーは、このような一見積極的な金儲けに反するようなピューリタンの行動様式(エートス)こそが、実はその富の蓄積の推進力となり、ひいては近代資本主義の基礎となり得たと論じる。『第9講:イスラームの葛藤』で述べたように、契約更改の概念とともに、行動的禁欲に支えられた労働の絶対化が西洋社会の近代化に大いに貢献している。

 もっぱら奴隷が労働を担当し、労働が蔑まれていた地域から人格的一神教が発生している。そして奴隷制度の変質・散逸とともに労働が奴隷でない人々も行う ようになるにしたがって、働くことの意味も変化する。「働くこと」が「労働」として位置付けられるようになるのは、実は近代以降だ。

 

「日本的勤勉の精神」の源流

 さて、日本ではどうか。日本神話の最高神、天照大神は熱心に機織りをして「働くこと」を実践している。なんと神様が汗を流して働いているのである。これは、人格的一神教では絶対にあり得ない情景だ。そしてこのような風景は、単に日本神話の中の話で終わることではない。

 一例のみ挙げる。現代でも皇居には天皇陛下が稲を栽培する水田があり、天皇陛下自ら田植えや稲刈りをなさる。君主を仰ぐ国家は多いが、天皇のように、自ら水田に入り稲を育てる君主は空前絶後ではないか。

 さて、1990年代のバブル崩壊に至るまで、日本経済は世界から「奇跡」とまで讃嘆されるほどの経済成長と栄華を体現していた。そこで、大東亜戦争の敗戦後、この怒涛のような経済発展を説明するのには、日本資本主義の構成原理を説明する必要性が急浮上してきた。

 しかしながら、日本は断じてキリスト教国家ではない。日本には、マックス・ヴェーバーが近代資本主義の精神と呼んだ敬虔なプロテスタントの世俗内禁欲の 行動様式(エートス)は存在しない。なんといっても日本では、一神教キリスト教徒の人口は1パーセントとて超えたことがないのだ。こうして、日本の資本主 義が発生した仕組みをどうのように説明したらよいのかが、日本の知的社会の一大関心事となっていったのである。

 こうして、カルヴィニズムを中心とする敬虔なプロテスタントの禁欲のエートスを代替する日本的に宗教的なるものの存在を説明して、もって日本資本主義と西洋に発展した近代資本主義に同型の原理を見出してゆこうとする研究が始まった。

 ただし、戦後の知識社会を総舐めにしたマルクス主義の唯物史観のひな形に、日本近代資本主義を無理やり押し込もうとした試みはあまり良いことではなかっ た。そんな中にあって、日米でのヴェーバー学の系譜は、タルコット・パーソンズ、大塚久雄、そして小室直樹といった研究者に継承されてきている。

 

ヴェーバー以前に生まれた日本の先駆者たち

 さて「プロ倫」でマックス・ヴェーバーが「資本主義の精神」と呼んでいるものは、だれかに強制されたり、誘導されたりするものではない。自生的、歴史的に形成され、人々の内面にひたひたと、しかし確実に浸透してゆく。

 常々筆者は、日本でのヴェーバー学の系譜では、大塚と小室の間に実はもう一人、有益な補助線のような論者がいると見たてている。故・山本七平である。山 本は、論拠と解釈と主張とを混合させるエキセントリックな言説を好んで用いたためか、あまりに鋭いことを論じたためか、学術的系譜の中には積極的には位置 付けられてはいないのだが…。

 山本は、敬虔なプロテスタントの禁欲のエートスを代替する「日本的に宗教的なるもの」として、純粋に日本文化圏において自生的、歴史的に形成され、人々の内面に浸透し、助長し、推し進めてきた行動様式を見出した。それは、「日本的勤勉の精神」であるという。

 『第5講:仏教に埋め込まれたインテリジェンスの連鎖』でも鈴木正三と石田梅岩には軽く触れたが、この文脈から今一度、正三と梅岩の人となりと思想を振り返ってみよう。

 

農業即仏行を説いた鈴木正三

 鈴木正三(1579-1655)は、もともと徳川家臣の身分だったが、42歳のときに突然出家して僧侶に転じた。著作活動に熱心な人であり、武士だった 頃からせっせと自分の考えを書物にまとめている。代表作の「万民徳用」では、仮名書きのやさしい和文で「人々の心のもち方が自由になり、人々が心の世界の 中で自由に振る舞うことができるようになるためならば、南無阿弥陀仏と念仏を唱えるのもよし、座禅をしてみるのもよし、さらには、毎日、自分に与えられた それぞれの職分=仕事に、精一杯打ち込んで働いていけば、それが、人間として完成していくことになる」と説いた。

 正三の遺稿「反故集」の中には、「自分は遁世の身となって、師匠を求めたが、師匠とすべき人を見出す縁がなかった」と書かれている。この一文からは、正 三の凛とした気概と隔絶した自信がうかがえる。そして、どの宗派、どの教団にも属さず、自由な立場で当時の葬式仏教や檀家仏教のあり方を手厳しく批判し、 民衆のために実際の生活に密着して、役立つ新しい仏教の教えを説いたのであった。

 正三は、坐禅とともに念仏を重視して「禅よし、念仏よし」と説いた。「正三の仁王不動禅」といわれるように、「仁王像や不動像のように厳しい心、激しい 心を持って坐禅をし、その気持ちを一日中持ち続けよ」と言った。念仏については「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と、息を引ききり引ききり、強く念仏せよ」と か、「眼を見すえ、拳を握り、きっと胸を張り出して、南無阿弥陀仏と申せ」と言っている。

 

平易な言葉で民衆に語りかける

 正三は、密教門に伝わる荘厳行者法という観想法の一端を説明していることから、開祖空海を頂く真言密教に関する行法についても相当の身体知があったはず。だが正三の巧みなところは、そのような難解な特殊用語は民衆に向かって一切用いなかったことである。

 「仏法と渡世の術は同じで、各々の職分の中に仏法を見出せ」と説いた。有名な職分説である。そして「一鍬一鍬に、南無阿弥陀仏を唱えて耕作すれば、必ず仏果に至る」とも熱く説いた。

 当時の商人は士農工商と言われるように身分制度の最下層に置かれていた。商人はモノを売るだけで利益を得る卑しい存在だと考えられていたからだ。ところが正三は、真っ向からこの考え方を否定した。

 「身命を天道によって、一筋に正直の道を学びなさい。正直の人には、諸天の恵みが深く、仏陀神明の加護があり、災難を防ぎ、自然に福をまし、衆人が敬愛し、浅くなく万事思ったとおりになるようになる」と述べ、正直な商売こそが仏道修行であると説いたのだ。

 

正直と農業即仏行

 正三は「正直」についても定義した。つまり「私欲に専念して、自他を隔て、人を抜いて、得利を思う人には、天道のたたりがあって、わざわいをまし、万民のにくみをうけ、衆人が敬愛することなくして、万事思ったようにはならなくなる」と。

 正三は、自分のみが名声を得たり、自分の財産を増やすことのみを求めたりすることを強く戒めた。このような行いは、結局、地獄道、餓鬼道、畜生道の三悪 道(さんなくどう)の悪しき業を増長させるだけで、天道に背き、必ずそのとがめを被るのだ。次の一文に正三の考えがよく表れている。

 「一筋に正直の道を学ぶべし。正直の人には、諸天の恵み深く、仏陀神命の加護有りて、災難を除き、自然に福をまし、衆人愛敬、浅からずして万事心に叶うべし」

 私欲を捨て、「正直」を愚直なまでに貫き通し、各自の職業に誠心誠意励むことが、お天道様、仏陀神命に沿うことになり、結局は「福」をもたらすことになるのである。

 

日本資本主義の精神

 マックス・ヴェーバーが西洋に生まれた年よりも285年もさかのぼり、日本に誕生した鈴木正三は堂々と天職観念、世俗内禁欲、利潤追求行為を肯定した。すなわち、ヴェーバーに類似した議論を日本的に宗教的なるものを背景に提示したのは括目に値する。

 いや、マックス・ヴェーバーは、あの学術用語に溢れた難解な文章を書いて、もっぱらヨーロッパの知的社会に向けて持論を提出したのに比べ、鈴木正三は分かりやすく民衆に向けて説いた。社会に対する普及・インパクトという点では、正三の言説を過少評価できないだろう。

 もちろんマックス・ヴェーバーが生まれる3世紀も前に誕生した正三は「プロ倫」を読んでいるはずもない。しかるに、正三は島原の乱の後、天草地方の復興 のため派遣されていて、実務の暇を見ては「破切支丹」を丹念に執筆して、キリスト教の教義を理論的に批判しているのである。

 ここに正三思想の真骨頂がある。プロテスタンティズムにまったく依拠しない、日本的に宗教的なるものを基盤に天職観念、世俗内禁欲、利潤追求行為の条件付き正統化を行った鈴木正三は、日本資本主義の精神的基礎を提示したことになる。

 元来、原始仏教以来、仏教は僧院での僧の労働と経済活動を一切認めてこなかった。原始仏教を主として分析したヴェーバーは、仏教に「働かざる者、食うべ からず」という新教的禁欲の発露を一切認めずに、仏教を資本主義の精神から最もかけ離れた宗教のひとつとさえ論じたのは、当然の帰結である。

 ところがヴェーバーの言説など、微塵も知るはずがない鈴木正三は、この命題とは真逆の「農業即仏行」であると断言し、「一鍬一鍬に、南無阿弥陀仏を唱えて耕作」することが、救済(因縁解脱)を保証すると説いた。

 ヴェーバーにとっては、仏教徒の農業・労働はブッダの栄光を増す救済ではまったくあり得ない。しかし、『第5講:仏教に埋め込まれたインテリジェンスの連鎖』で述べたように、大衆部が上座部から分派して創作経典を流布して元来の仏教の姿とは似ても似つかない発展経路をとるようになった大乗仏教が、鈴木正三を得て、日本の近代資本主義成立の契機に接続されたことは歴史の珍妙なるところか。

 

商業資本主義のエートスを見出した石田梅岩

 もう一人、マックス・ヴェーバーより早く日本に出現し、日本資本主義のエートスを商業の立場から説いた実践家がいる。石田梅岩(1685-1744)である。鈴木正三が没してから30年の後に梅岩は生まれた。

 石田梅岩が活躍した時代は、日本史の区分では江戸時代中期に当たる。この時代、徳川幕藩体制の経済システムは石高制と兵農分離制で支えられていた。城下町と農村との間の生活用品と農産物との交換を成立させている市場を「藩領域市場圏」という(岡崎哲二 1999)。

 梅岩が活躍した時代には、地域の工業として問屋制家内工業が各地に浸透、勃興している。また、銀山などの鉱山開発、鋳造にかかわるイノベーションが進んで金・銀・銅が盛んに生産され、貴金属や貨幣の鋳造量が飛躍的に伸び、マネーサプライが増大した。

 綿布、生糸、砂糖、絹織物はかつて輸入に頼っていたが、国内での生産体制が確立され、様々なコモディティ、物資が市場を通して潤沢に流通されるように なった。いわゆる市場経済が貨幣の流通によって著しく進展したのである。徳川吉宗は、加熱する経済を抑えるために、今で言うところの総需要抑制政策(享保 の改革の倹約令)を発動したくらいの勢いだった。

 1730年(享保15年)には、全国の年貢米が集まる大阪の堂島に、堂島米会所が設立されている。堂島米会所では、米の所有権を意味する「米切手」とい う証券が売買されていた。また、正米取引(現在の現物取引に相当する)と帳合米取引(現在の先物取引に相当)も活発に行われるようになっていた。

 また敷銀と呼ばれるある種の証拠金を差し入れることによって、先物取引さえもが行われていた。このような動きにともない、社会の初期資本主義化によっ て、貨幣経済が進展し、町人、役人の生活に金銭が占める位置が大きくなり、そのため拝金主義や贈収賄が横行し始めたのも、この時代である。

 このように日本で、はつらつたる初期近代資本主義が急速に勃興し、デリバティブ(金融派生商品)のはしりのようなものが登場し、金融制度改革、財政政策が盛んに行われるようになった1730年(享保15年)、石田梅岩は独自の道徳哲学(石門心学)を唱え始めたのである。

 石田梅岩は、丹波国(現京都府亀岡市)の農家の二男に生まれた。幼少時代に京都に出て商家に奉公したが、仕事に慣れず15歳の時、帰郷の憂き目に遭って いる。梅岩は、複雑な内面の葛藤を抱えたまま、それを解決できずに成人してしまった自分を自覚していたのだろう。23歳の時、再び意を決して京都に出る。 そして中年になるまで黒柳家という呉服商に奉公し続けた。

 なんとも地味なキャリアだ。ただし、働きながら読書に多大な時間を割き、旺盛な知識欲は儒教、仏教、神道などを吸収していった。

 そして45歳の時、突如、京都の御池を上がったところの質素な家屋で「性学」の自主講座を開いた。そこで梅岩は心を尽くし、性を知るとする独自の倫理学「性理の学」を唱える。現代に知られる「心学」は後年、梅岩の弟子たちが命名したものである。

 前述したように、梅岩に先行する思想家として正三がいた。梅岩と正三の最も大きな差はなんだったのか。それは梅岩が、前期資本主義が勃興する時代に、長 年商家のビジネス現場で商業取引のディテールを熟知していたことである。さらには、実践的商人道の重要性とは裏腹に、社会的な地位が不当に低いことからも たらされる、深くて暗いコンプレックスの心の襞を深く理解していたことである。

 

職分説で説明しきれなかったもの

 鈴木正三は、徳川幕藩体制下で武士階級としてキャリアを積んでから出家し、いわゆる研究と社会改革者の道に入った。しかるに梅岩は、商業出身のキャリアを背景に、市井の講談教育者的な研究者になった。

 つまり、正三の「職分説」が士農工商のうち商人の職分を適切に説明できなかったのに対し、梅岩は営業、利幅の獲得、顧客管理、在庫管理、そして商業活動 の細部を理解していて商人・商業の職分を雄弁に説明できたのである。こうして梅岩は「商業の本質は交換の仲介業であり、その重要性は他の職分に何ら劣るも のではない」という主張を論理的に、かつ分かりやすく行い、商人、町人の圧倒的な共感を得たのである。

 余談だが、その自主講座というのがなんとも型破りなものだった。謝礼や受講料は一切受け取らず、入るも自由、去るも自由の、今で言う生涯教育のオープン カレッジのようなものだった。その講座のやり方は、一方的な講義ではなく質疑応答とクラス・ディスカッションを中心としたものだった。

 毎回の授業で教師役の梅岩が毎回課題を出す。そして次回までに受講者は答案を作成し、持ち寄って討論し、梅岩が様々な角度からコメントを出し、総括するといった今日のビジネススクールのケーススタディのようなスタイルだった。

 現在、日々仕事に追われながらも向学心の強い人々が、社会人向けビジネススクールや技術経営専門職大学院に集まっている。なんと、250年も前の京都に 実践的な無料の生涯教育の場ともよぶべきナレッジ・コミュニティがあったのだ。ビジネススクールの範を欧米にのみ求めるのではなく、250年前の日本の叡 智にも学ぶべきものがある。

 さて、1739年(元文4年)、4巻2冊から成る都鄙問答(とひもんどう)は、このような実践的かつ知的に沸騰する場から生まれた。門下生がわざわざ梅 岩をめぐる質疑応答を整理して、問答形式で編さんしたのである。それを関西の湯どころ、有馬温泉に持ち込み、師と学生が交わりながら内容を確認して書物に したという凝りようである。

 当時は、商人の営利活動は世の中の妬み、恨みの対象でさえあった。拝金主義や贈収賄の風潮が世の中全体を覆う中、梅岩は「商人の売買は天の佑け」「商人が利益を得るのは、武士が禄をもらうのと同じ」と述べて、商行為の正当性を正々堂々と説いたのだった。

 梅岩は、営利活動を否定するどころか、積極的に肯定し、商業倫理そして商業活動の持続的発展の論点から、本業の中で社会的責任を果たしていくことを説いた。そこに石心門の今日的、世界的な文脈での意味があるのである。

 

健全な資本主義の進化に必要な抑制的・禁欲的な対抗倫理

 正三と梅岩の思想はユダヤ・キリスト教の系譜にあるプロテスタンティズムとは異質。しかし、西洋と東洋の一角に発生した近代資本主義の背骨としての働きには共通項がある。

 それは、自己膨張する欲求によってもたらされる、とめどもない拡大再生産、富の追求を抑止するマインドセットとしての働きである。このマインドセットが近代資本主義には必要なのだ。近代資本主義は、抑制的・禁欲的な対抗倫理が機能してはじめて萌芽、発展の途につく。

 さて、西洋に始まり、西洋の拡張としての米国、日本などを経て発展してきた資本主義の次の大きな舞台の1つは中国だ。中国共産党が文化大革命の時代に、 断固否定した儒教を今日熱心に復活させている。中国の指導部は、社会主義市場経済という異形の体制下で資本主義を発展させるためには、抑制的・禁欲的な対 抗倫理がなければならないことに気が付いている。社会主義はその対抗倫理を提供することはできない。それゆえに、孔子を中心とする儒教の復活を画策してい る。

 統治、支配する側の論理、規範が濃厚な儒教にどこまで民衆のマインドセットとしての役割が果たせるのかは疑問だ。また、中国共産党の指導による孔子のリ バイバル、普及は、自生的に大衆のマインドセットの中に浸透する性格のものではない。今後、中国の資本主義の行く末を予見するためには、それを支える基幹 のマインドセットをこそ正しく知るべきだろう。

 

日本人が空気のように吸い込んできた独自の倫理観

 話を日本に戻す。人格的一神教が発生した奴隷制度とは無縁だった日本では、人間の上に神はいないし、人間の下に奴隷もいない。ましてや神と人間との契約もない。どこまでも人間が中心なのだ。

 神と人間が循環する多神、多層、多元的なメンタリティが、雑多な宗教が折り重なるように習合してできた特殊な心象基盤の上に作られていった。「お天道様 が見ている」「働くことは当たり前あたりまえ」「みんな一緒にがんばる」、「みんなで分けあう」「ご先祖さまのおかげ」「神様、仏様を畏れ敬う」「世間さ まに恥ずかしくないように」「足るを知る」ことが空気のように浸透し、その空気を日本人は吸って働いてきた。

 無論、高度経済成長、平成バブル経済とその崩壊の過程で、このような心象が蹂躙され複雑骨折したかのようにも見えるが、それはそれとして別講で詳細を検討することとする。

 かつて先人が築いた日本的勤勉の倫理と日本資本主義の精神を再点検することが重要だろう。そこには資本主義再構築のヒント、新しい働き方についての示唆が隠れている。

 歴史と思想の襞に隠れているものにスポットライトを当て再発見して活用してゆく。これもまた諜報的な教養の生かし方である。

 

    【参考文献】

  • 岡崎哲二、「江戸の市場経済」、講談社新書メチエ、1999年
  • 山本七平、小室 直樹、「日本教の社会学」、講談社、1981年
  • 山本七平、「日本資本主義の精神」、ビジネス社、2006年
  • 石田 梅岩、「都鄙問答」、岩波文庫、2007年
  • 鈴木正三記念館

 

引用:諜報謀略講座 ~経営に活かすインテリジェンス~ –第15講:どうした? 勤勉の倫理と日本的資本主義の精神 :ITpro

第14講:英語で世界をシノぐ方法(覇権言語ソフトパワーとのつきあい方)

カテゴリー : アメリカ

  日本人がアジア・アフリカの母語を持つ人々とも英語でコミュニケーションをとるのが当たり前の時代となって久し い。だが、読み書きではひけをとらないものの、話すのが億劫という日本人は相変わらず多い。そこで今回は、英語とどのように付き合ったらいいのかを考えて みよう。

 前回はチャイナ的人間関係の話をしたが、筆者は中国の友人と語らう時は英語を使っている。もっとも、世界中どこの人々とであろうが、コミュニケーションのツールは英語になってきている。

 筆者の中国の友人は、北京にある外資系企業の管理職で、海外からやってくるビジネス・パーソンとも英語でビジネスをやっている。

 その友人がショッキングなことを言う。「世界各国のビジネス・パーソンと英語で意思疎通しているのだけど、ジャパニーズの英会話力が最低だ」と。

 たしかに、英語を母(国)語としない人のための英語力総合テスト(TOEFL)の日本人の成績には目を覆いたくなる。なんと、長年、北朝鮮が最下位で日 本はビリから2番目である。中学、高校、大学というように、多くの日本人は6~10年も学校で英語を勉強している。しかも、街には英会話学校が乱立し、教 育ママは幼児向け英会話レッスンにわが子を通わせることが、もう何年もブームとなっている。獲得できる英語リテラシーを英語習得に投じる投資で割り算すれ ば、日本人の英語ROIは極めて低い水準だろう。

 

なぜ日本人は英語がヘタなのか

 自覚があれば、それなりに“英語ベタ”を逆手にとることもできる。だが、英語ベタな日本人は無自覚なままでいると、国際諜報はおろか、異文化間コミュニケーションの現場でおおいに損をしているし、圧倒的に不利になることが多い。

 そう言うと、次のような反論があるだろう。

「わが日本民族は英語民族による植民地支配を退け、それゆえにかつて敵性語であった英語は浸透していないのだ」

「大東亜戦争敗戦後の米国帝国主義に屈しない最後の砦が日本語という言語聖域(言霊)なのだ」

「言語学的に英語と日本語は極端に隔絶しているので、日本人の英語は上達しないのだ」

「学校での英語教育法が間違っているからいけないのだ」

「そもそも英語なんかできなくても生活できる」

 たしかに英語ができない、英語を使いたくない理由は山ほどあるだろう。しかし、ここで重要なことは、消極的にしか英語にかかわらないことで被っている不利益である。そして、ますます影響力を強めている英語の、背後に存在する構造を理解しておくことが大切である。

 英語圏の国々、特に米国と英国にとって英語は「ソフトパワー」の切り札である。ソフトパワーとは、軍事、経済などの力の行使によらず、その国の有する文 化、主義、価値観、政策などに対する理解や共感を広範に醸成することで、間接的に支配力を増長させてゆく力である。ソフトパワーを持つ英語が世界に浸透す ればするほど、英語コミュニティに有利に作用するのである。

 英語ソフトパワーの効用は、英語コミュニティに参加する人口が増えれば増えるほど増加する。したがって、英語を使えるようになると英語ソフトパワーの恩恵にあずかることができる。いわゆるネットワーク効果が英語圏を拡大させているのだ。

 

英語に接する日本人の5類型

 どんな言語でもそうだが、その言語を深く習得し、あるいは内面化するほどに、その言語が使われている地域や国、そして伝統、文化、社会経済の諸制度に愛着、同一化傾向を示すものだ。

 この傾向を熟知する米国寡頭勢力は、この英語ソフトパワーの利用に長けている。せっせと日本から産学官のエリート留学生を受け入れ、ソフトに親米派を醸成してきている。

 英語、特に米語を学ぶということは、この陰微なソフトパワーの影響下に参入しつつ、英語とその背景にある精神、伝統、発想、制度、行動様式を獲得するということである。このあたりの自覚の仕方には、おおむね5通りあると筆者は考えている。

 1番目は、学習の効果が出る前にギブアップしてしまうタイプ。そして日本語という閉じた言語空間、日本という閉じた空間に棲息することを選択する。このような人々を「日本ガラパゴス系」と呼んでいる。

 2番目は、カッコよく話せないが、なんとか聞ける、書けるというタイプ。必要に迫られないと、積極的には英語を用いない人々である。このような人々を「どっちつかず系」という。

 3番目は、その言語に熟達し、その言語の発想様式を取り込んでしまう自分に陶酔するタイプ。このような人々はジェスチャーや表情まで、それ風にするのが心底カッコいいと思っている。留学経験者や外資系企業の日本法人などによくいるタイプだ。「ナルシスト系」という。

 4番目のタイプは、興味の対象が外国語から、その外国語が活用される対象、つまりその文化、制度、その言語で記述される学問へ向かうタイプである。その 対象に傾倒するあまり、へたをするとその言語が使用される海外の大学や大学院まで行ってしまうタイプだ。「思い込み系」という。

 5番目のタイプは少数派。異言語に深く触れることにより、母(国)語に回帰してくるタイプである。この場合、やや過剰な回帰を伴うことが多く、民族の歴史やオリジナリティ、保守思想にまで遡っていくことがある。「伝統リターン系」である。

 

ローカル言語の1つが数百年で“世界語”になった

 いずれにせよ、英語に触れさせ、英語の理解者を増やし、聞いて、読んで、書き、話す、というコミュニケーションを英語で運用してもらうことは、英語圏や英語ネットワークにとって利益となる。

 カエサルがブリテン島に上陸した約2000年前には、英語は存在すらしていなかった。それから紀元500年後あたりから、今の姿とは異なる Englisc(English)が現れた。シェイクスピアがせっせと著作活動にいそしむ頃、500万~700万くらいの人々が英語を用いるようになる。

 その後、英国による植民地支配、産業革命、北米における英語の採用、科学技術の普及などによって、英語は英米のみならず、インド、アジア、アフリカ、南太平洋の島々などの地域にまで広まった。1980年代には7億5000万人に使われるようになった。

 また、マグナカルタ、権利章典、人身保護律、陪審制度、英国コモン・ローを経て独立宣言まで、すべて英語で書かれており、いわゆる権利概念、自由主義、 民主主義理念などは英語の浸透に乗って浸潤してきている。そしてIT、インターネットの出現、普及によって、英語の地位は決定的になりつつある。

 ソフトウエアを記述する言語は基本的に英語のロジックに沿って定められ、世界中のソフトウエア産業で最も使われているのは圧倒的に英語である。普遍的な ニーズを正確に理解して、製品化し、普及させてゆくすべてのフェーズで影響力を持つ言語を押さえれば、圧倒的に有利だろう。そのポジションに英語が納まっ ている。また知的財産権に関連する契約を英語で記述すれば、これまた英語側に有利となる。汎用ソフトウエアとインターネット・サービスの領域で日本発の世 界的なヒットが出ない根源的な理由の1つは、このあたりにある。

 

ますます強固になる英語の地位

 今日、英語を第一言語とする人口は4億人。さらに第2言語とする人口は4億人だ。そして第1、第2言語以外でも英語を使う人口は8億人いる。これらを合わせると約16億人となり、世界中で4人に1人は英語を使っていることになる。

 商談、国際会議、学術会議、国際スポーツイベントなどでは、公用語として英語の地位は高い。さらに、英語を公用語としている国は60以上ある。特にアジア太平洋地域での英語浸透度はすさまじい。もはや英語ができなければ「話にならない」というのが世界情勢なのである。

 そして科学、技術、経営における英語の地位は、他の言語を寄せ付けない。細かなことを除けば近代以降、科学、技術、経営の普及と英語の普及はほぼ同期し ている。これは単なる言葉の表層の問題ではない。これらの領域の専門用語、そして概念は英語で規定され、書かれ、話され、伝達され、共有され、記述される のである。

 だからこれらの領域で勝負しようとすれば、英語ができなければどうしようもない。好むと好まざるとにかかわらず、英語が世界基準、そして世界的価値に着々となりつつあるのだ。

 自分の能力の市場価値を国際的に高めるためには、英語ソフトパワー陣営に与するほうが有利に働く。だからアジア各国のエリート、エリート予備軍たちは英語の習得に余念がないのである。

 

ネット環境は読み書きが得意な日本人に有利

 筆者の周りの日本人ビジネス・パーソンは「話す」ことに自信はなくても「読み」「書き」に自身のある方は多い。この性質を逆手にとれるのがインターネット環境だ。

 海外とのやり取りで最も使われるメディアはインターネット、特にメールである。メールは日本人の特性に合っている。第1に、話すことを回避できる。この メリットは大きい。第2に、交信記録を残して共有できるので、ロジックを押さえておけば、話の勢いやムードで劣位に立たされることなく議論ができる。第3 に、日本人の正確性へのこだわりである。メールならば文法やスペルチェックにいくらでも時間を使うことができるし、それらをサポートするツールは豊富だ。

 実は筆者もこの手をよく使う。英語のコミュニケーションの多くをメールでカバーすれば、読み、書きの面積を拡げることができる。メールで鍛えておけば、 SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)やTwitter(ツイッター)の英語環境にも十分対応できるようになる。

 筆者の場合、英文契約書の締結といった海外との込み入った交渉事でも、コミュニケーションの7割はメールでのやりとりだ。残りは、電話(テレカンファレンスを含む)が2割、実際に合ってフェイス・ツー・フェイスで詰めるのが1割といったところだろう。

 もちろん、フェイス・ツー・フェイスを疎かにするのではない。読み、書きをネット経由で集中させると、かえって最もリッチなコミュニケーションであるフェイス・ツー・フェイスの価値が高まる。

 ただし、セキュリティの関係で、機密度が高い場合はどうしても対面コミュニケーションに比重がかかるのはいたしかたない。機微に触れるやりとりの王道は対面コミュニケーションである。

 

英語に取り込まれず、英語と付き合う

 このようにネットを上手に利用すれば、「読み」「書き」重視で「話す」を軽視する日本式英語教育でも、案外使えるのだ。ネットでの英語利用を含めて、英語と接してゆく生き方にはおおむね3本の道があるだろう。

 1つめは日本語に徹する生き方。英語に接しない生き方だ。そして日本語に閉じこもるのである。その場合、海外と関係するような仕事には見向きもせず、ひ たすら日本国内でシノいでゆくという生き方である。この方向の人々はすべてに「日本的~」をつけてシノいでゆくことになる。卑屈に英語に接することを断固 拒否するのも立派な態度である。

 2つめは割り切って、英語を道具として活用する生き方。きちんと英語と向きあう道を歩むのである。専門的知識を英語でも理解し運用することを目指す。前 述した日本ガラパゴス系やどっちつかず系を乗り越えていかなければならない。この場合、英語ソフトパワーに身を寄せながら生きてゆくことになる。日本人の 英語の読み、書きのリテラシーは高い。まずはジャパニーズ・イングリッシュを恥じず、堂々と日本的英語で語ろう。

 3つめは、多言語的生き方。これは2つめのシナリオの延長線にある。言語の境界を越境して、時に境界を溶かしつつ、生きてゆく場所を見つけてゆくのであ る。英語に加えて、できればもう1つ使える言語があればいいだろう。英語ソフトパワーの隠微さと機微を十分に自覚しつつ、言語多元的に生きてゆくのであ る。英語に取り込まれず英語を道具として手に馴染ませることが肝要だ。

 覇権国アメリカの地位は微妙に衰退してくるだろうが、英語、米語の比較優位なポジションは当面維持されるだろう。多元的な言語世界と付き合う上で、どのシナリオを選ぶのかは本人の自由。ただし、多言語環境で活躍したい若者には、2つめか3つめのシナリオを勧めたい。

 日本が位置するアジア太平洋地域はおろか、世界における多言語環境の筆頭に位置するのは英語である。「英語に身に寄せることができなければ周りの世界と 絶縁してしまう」くらいの危機感があってもよい。ただし、くどいようだが、健全な間合いをとって、覇権言語である英語ソフトパワーの隠微さと機微を自覚す ることが重要だ。

 

    【参考文献】

  • ロバート・マクラム、ウィリアム・クラン、ロバート・マク二―ル、「英語物語」、1989年

 

引用:諜報謀略講座 ~経営に活かすインテリジェンス~ – 第14講:英語で世界をシノぐ方法(覇権言語ソフトパワーとのつきあい方):ITpro

第13講:中国人と仲良くする方法(チャイナ的人間関係への棲み込み)

カテゴリー : アメリカ

 様々な矛盾を抱える中国だが、今後中国市場は日本企業を含め外資系企業にとって何としても食い込みたい金城湯池だ ろう。中国ビジネス成功の秘訣は「人間関係」だが、日本語でいう「人間関係」と決定的に異なる「チャイナ的人間関係」の機微を知らなければ、チャイナ社会 への食い込みは無理だ。そして食い込むためには「棲み込み」が必要となる。

 昨年、中国の清華大学と大連理工大学を訪れて、学術や財界で活躍する方々と親しく意見を交換する機会を持った。中国人の方々と囲む会食は楽しいものだが、よく話題になるのがビジネスパートナーの作り方、人間関係の構築方法である。

 国と国、企業と企業、大学と大学、すべての関係性の出発点は個人と個人のやりとりから始まる。文化・歴史・商習慣の背景が異なると、もちろん行き違いは多くなる。だからこそ、この行き違いのリスクを軽減させることによるメリットは計りしれない。

 真のビジネスパートナーとは、「第12講:古今東西、CIAの対日工作にまで通底する『孫子』の系譜」で論じたような共同謀議、つまり、共に謀(たばか)りを企てるほど親密かつ戦略的な関係のことをいう。中国企業と競合して謀りを企てたり、知的財産権がらみの偏頭痛を被っている企業ももちろんある。筆者の周りにもまた中国ビジネスで悲惨な目に遭っているケースは多い。

 日本企業側の経営戦略の稚拙さもさることながら、おうおうにして人間関係のハンドリングで過ちを積み重ね、結果としてビジネス面で泣きを見ることが多 い。そこで今回は、前回の講義で紹介した『孫子』の『用間篇』に続き、「チャイナ的人間関係」の機微について考えてみよう。

 

チャイニーズ・ビジネス達人のコンピテンシー分析

 とある大企業に鮫島寛一(仮名)という中国ビジネスについて達人級の黒幕的なプロがいる。この人物は、中国政府、中国共産党、企業、大学に独自の人脈を持ち、この人がいなければ、その会社の中国ビジネスはまったく進まない状況だった。

 その企業は、第二、第三の鮫島氏を育成しようと躍起になっており、その人材開発プログラムづくりの一環として鮫島氏のコンピテンシー(能力特性・行動特 性)を分析してくれと筆者に依頼してきたのだ。そこで、異文化対応型ハイパフォーマ分析(high performer analysis)を行うことになった。

 まずはコンピテンシーについて少々解説しておきたい。

 コンピテンシー研究に関しては、人的資源管理論(human resources management)における蓄積が顕著である。その世界的な学術的潮流の中核に位置しているのは、「Hay McBer」と呼ばれる、人的資源や組織行動のマネジメントに特化したコンサルティング・ファームである。ハーバード大学のマクレランド教授が創設した会 社である。

 ロバート・W・ホワイトは有機体のメタファを組織論に延用することが流行った1950年代に、コンピタンスを「環境と効果的に相互作用する有機体の能 力」と定義した(White 1959)。しかし、マクレランドはコンピテンシーを、「達成動機の研究を基盤にして人的資源に内在する適性である」ととらえたのである。それゆえに、コ ンピテンシー(competency)とコンピタンス(competence)は似た用語ではあるが、術語としては異質なものであり両者は異なる。

 マクレランドの系譜で初期のコンピテンシー研究をリードしたボヤティスによれば、コンピテンシーとは「動機、特性、技能、自己イメージの一種、社会的役 割、知識体系などを含む個人の潜在的特性」である(Boyatis 1982)。その系譜を発展的に継承した中心的研究者でマクレランドの系譜に立つライル・スペンサーによれば、コンピテンシーとは、「ある仕事や場面で、 外部基準に照らして効果的、もしくは優れた業績を結果としてもたらす個人の基礎を成す特性」を指す(Spencer 1993)。

 ライル・スペンサーの本は、「コンピテンシー・マネジメントの展開」として日本語訳されており、人事関係あるいは部下をお持ちの読者ならば必読書として 薦めたい。実は筆者とスペンサーは、同じHay Groupにいたこともあり、ベルギーなどで会っては教えを請うたり、議論したりしてきた間柄だ。

 さて件の鮫島氏には、リーダーシップ、対人関係能力、イニシャティブといったコンピテンシーには人を抜きんでたものが備わっている。しかし、彼に潤沢に 備わっていて、他の中国ビジネス担当者に欠落しているものは、濃密なチャイナの古典と社会に対して、自分を放ち、棲み込むくらい積極的で濃密、かつ極めて 特異な属人的性向である。

 彼は高校生のころから漢文、漢籍(中国の書籍)に親しんでいて、中国の要人と接するたびに仕事のことはさておき、中国古典に関する意見、知見を交換して きたのだ。不明な部分があれば手紙で質問したり、後日、研究して新しい解釈を開陳したり、という具合に。鋭い質問に相手が答えられない時は、その相手は、 大学の先生や読書人(知識階級に属する人々)を紹介する。そうして、鮫島氏のまわりには、自然と人脈が形成されることとなった。

 こうして鮫島氏は、インナーサークルの機微な情報・知識を共有するキーパーソンになっていった。必然的にビジネスも彼のまわりに属人的に形づくられるようになっていったのだ。

認識人、関係、情誼、幇会とともに深まる人間関係

 「そうか、中国の古典を学んで、その知識を中国人に開陳すればいいのか」と思われる向きもあろうが、それはあまりに短絡的だろう。鮫島氏は、中国の古典のみならず、中国の人間関係の法則を熟知しているのだ。

 中国では、宗族と呼ばれる親族集団の内か外かで、まったく人間関係が異なる。宗族とは、共通の祖先を持ち父系の血縁で結ばれていると考える人々によって 組織された集団である。彼らは同じ姓を持ち、祖先祭祀や族譜(一族の家系記録)の編纂などの活動を行う。また、同じ姓の男性と女性とは結婚できないという 同姓不婚の原則がある。

 宗族外にいる日本人としては、中国ビジネスを進展させるためには、インナーサークルの人間関係、つまり「認知人(レンシーレン)→関係(クアンシー)→ 情誼(チーイン)→幇会(パンフェ)」と呼ばれる人間関係の濃密さを絶対的に強めてゆく集団に受容される必要がある。ちなみに認識人とは日本語の「知人」 に近いニュアンスを持つ。「関係」は文字通り、認識人よりも特定の文脈で深い仲、つまり関係を持つ仲。さらに情誼は深い人情と誠意とともに濃密な利害関係 を共有する仲である。「幇会」は、より強固で排他的な仲間関係となる。

 認識人→関係→情誼→幇会に連なる非公式的な人間関係はいわばチャイナ社会の法則(図1)。外延部では契約が権利義務の関係を規定する が、中心に向かうに従って契約ではなく人間関係そのものが権利義務を左右するようになる。チャイナ社会が、いまだ法が支配する法治社会ではなく、人間関係 が支配する人治社会であるといわれる、1つのゆえんがここにあることに注意されたい。

 チャイナ社会の法則

 
図1●チャイナ的人間関係

 

 売官、土地の使用権利の不正移転、貸付金の私的流用、課税を違法に減免してキックバックを得る、密輸、汚職、贈収賄といった腐敗現象が、全国の中国共産 党組織や警察組織にまで蔓延している。これらの腐敗は、幇会が穏密に発達していることと無関係ではない。中国の腐敗分子の特徴は、インフォーマルな利益共 有集団を形成して不正な利益を獲得するシステムを囲いこむことであり、そこには幇会の原理が発動している。
 
 腐敗は共産党が管掌する人事部門、行政の中心である省委員会、宣伝部、民法院、検察院、公安局まで広範囲、かつ深部にまで及び、腐敗を作るのは共産党党 員がほとんどである。だから、中国では、共産党党員を対象に紀律(規律)違反、法律違反ケースの受理、調査、処分を行う専門部局である紀律検査機関を設置 せざるを得なくなっている。

 ちなみに中国企業や行政機関との契約でトラブルを起こす外資系企業が後を絶たないのは周知の事実。チャイナ社会での契約は、認識人→関係→情誼→幇会と いうように、人間関係を深めてゆく入口に建てる“一里塚”みたいなものだ。つまり契約の締結は、本格的な関係構築を始めるスタート・ラインくらいに思って おいた方がいい。そして関係が濃密なものになるに従って、法治主義の要の契約の位置づけは薄くなり、代わって前述した幇会的な人治主義が断然優位となって くる。チャイナ社会における契約の位置づけは、「第7講:ユダヤの深謀遠慮と旧約聖書」で解説したような、西側諸国のユダヤ・キリスト教的「契約」に淵源する資本主義の契約関係とは異質なものだ。

 社会主義市場経済の大きな矛盾は、市場経済によってもたらされる利益を、社会主義を推進する共産党組織内の幾千万もの幇会が不正に搾取し、その腐敗を共産党が摘発するという自家撞着の構造にある。

 その上で「チャイナ的人間関係」に入るためには、認識人、関係、情誼、幇会に関する深い理解とともに、特殊な文脈へ自らをディープに埋め込むことが必要 不可欠だ。鮫島氏は、四書五経(『論語』『詩経』など儒教の書物の中で特に重要とされるもの)をはじめとする漢籍に関する教養がその契機となった。

 今日では、論語などを積極的に学校の授業に取り入れて儒教の再評価が進んでいるものの、中国共産党は、長年、特に文化大革命期には「儒教は革命に対する 反動である」として儒家思想を徹底的に弾圧した。よって、学齢期が文革期と重なっていると、知識人でも四書五経の知識は限られている。

 「ほほう、中国人でも知らない古き良きことを深く知っている鮫島はたいした者だ」と思う隣人が次第に増え、「日本鬼子」(リーベングイズ)と悪口を言う代わりに、四書五経や武経七書について彼と語り合う人々が増えていったのだ。

チャイナ的人間関係は制度変革を超越している

 「幇」には、公式的・公開的な「幇派」と非公式的、秘密主義的な「幇会」とがある。さらに幇派には、血縁(同姓の親戚グループ)、地縁(省、県、郷、 村)、業縁(業種、業界、専門職)がある。幇会には、政治的な利害を共有するもの(洸門、三合会、致公堂など)と非公然的な反社会的勢力(天地会、海陸山 など)がある。
 幇派、幇会のいずれにせよ、「幇」の性質として一度契りを結んで仲間になれば、強固に排他的な仲間関係(自己収束的な集団)を形成していく。幇は中国に 独特な行動様式を形成してきており、幇という集団が消長する歴史が千数百年間も繰り返されてきている。チャイナ社会のシステムを維持する方向で作用してき たのだ。

 湯武討伐、易姓革命、儒学官僚支配、共産党一党独裁のように中国社会の体制を外形的に規定する原理は変遷してきたが、幇は中国社会に内在していて一貫して機能してきたと見立てることができる。つまり、幇はチャイナ社会を形成する内在的な社会システムなのだ。

 

暗黙知の次元と棲み込む力

 さて、ビジネスのリテラシーといえば、だれしもが、戦略、マーケティング、財務会計、人的資源管理、アントレプレナーシップ、統計の活用、オペレーショ ン、リーダーシップといったようなビジネス・スクールのコア・カリキュラムのようなものを思い浮かべるだろう。こうした汎用的で一般的なナレッジに、その 会社独自の文脈が加わって、その人なりのビジネスのリテラシーが形成される、とよく説明されたりする。

 しかし、同じようなカリキュラムで学び同じようなビジネスの文脈に身を置いても、中長期的には仕事の出来、不出来に雲泥の差が生じるのは、何かほかの決定的に重要な要素があるからである。その1つが「対象に棲み込む力」である。

 この「対象に棲み込む力」は図2のような式となる。つまり、いくらカリキュラム的な形式知を頭に詰め込んでも、a=棲み込み係数が低ければ、y軸の実践力は高まってこない。Y=aX+bの直線の周辺に沿うように、スパイラル状に実践力は高まっていく。

 対象に棲み込む力としての実践力

図2●対象に棲み込む力としての実践力

 

 この実践力という特殊な力は、新規プロジェクト立ち上げ、起業、イノベーション創発のような特別の機会に力を発揮する。しかし、この特殊能力は言葉でスンナリと説明できるような代物ではない。とても暗黙的なのだ。

 マイケル・ポランニーは、ゲシュタルト(形態)は認識を求めるときに能動的に経験を編集するプロセスで形づくられ、その形成と統合こそが「暗黙の力」 で、その暗黙の力が進化の動因でさえあると意味深なことを言った。石井淳蔵は、ポランニーの暗黙知を下敷きにして、優れた経営者やマネージャが新しいビジ ネスモデルや新規事業を生み出すメカニズムに迫っている。その際のキーワードが「対象に棲み込む力」である。

 石井によれば、扱っている製品、サービス、顧客、市場データなどは「近位項」に相当する。そして、棲み込んだ結果、そこに生まれる関係性、画期的発明、 新規ビジネスモデルなどが「遠位項」となる。棲み込む対象は実はなんでもよい。近位項とは、部分の性質や特徴で、遠位項とは部分が統合された全体である。 近位項は手がかりでもあり、遠位項は手がかりによって得られる全体的な成果である。

食い込みの前に首尾一貫した「棲み込み」あり

 鮫島氏の場合は遠位項がビジネスにおけるダークないしはグレーゾーンを含むチャイナ的人間関係、大陸における新規ビジネスの創出。鮫島氏は近位項と遠位 項を無意識的に行ったり来たりしながら、社内はおろかグループ企業を含めても他を圧倒する断トツの中国ビジネス実践力を体得していったのだ。

 紹興酒を片手に目を細めて笑いながら中国ビジネスのツボを語る彼は、なんとも言えない清濁併せ呑むような首尾一貫した雰囲気を放っている。彼が持つもの は、人生の当事者として身の回りの世界に首尾一貫した意味のある一体感(sense of coherence)であり、人生を手中にしている感覚だ。首尾一貫感覚とは、自分と身の回りの世界に十全な一体感を持ち自分の存在を有意味なものとして 受けとめる健康的な感覚である。

 中国ビジネスの文脈に食い込む以前に、首尾一貫した棲み込みがあったのである。そしてその棲み込む対象は、チャイナ社会の人間関係。このような暗黙的で ありながらも特殊な実践力を持つ人材は、旧来の学校秀才タイプにはあまり出現しない。なぜなら、カリキュラム的形式知の記憶に長けていても、対象を選び、 そこに棲み込むパワーが欠けていたのでは文脈に応じた断トツの成果を生み出せないからだ。

 

ビジネスの足腰としての棲み込み力、諜報謀略力

 『孫子』の『用間篇』では、敵対する対象に棲み込む力に焦点が置かれるが、アライアンス、パートナーづくりといった対象に対する友好的なかかわり方でも、対象に棲み込む力は重要な役割を発揮するのである。

 グローバル市場で各国のベンチャー企業、大手企業が覇権をかけて激しく競合し、企業同士の合従連衡は盛んになる一方だ。特に今後は中国企業によるM&Aをテコにした事業展開に弾みがつくだろう。

 このような情勢で、ビジネス展開における棲み込み力、諜報謀略能力の有無が企業戦略を大きく左右することとなる。このような特殊な棲み込み力、諜報謀略能力を保持する人的資源を確保することが競争優位に立てるか否かを決するのである。

 「日中友好」のスローガンを叫ぶのではなく、現場で「日中友好」を展開するのは実は生易しいことではない。いかに社会主義市場経済の現場の奥底に蠢く 「チャイナ的人間関係」に接触し、関与していったらよいのか。さらには、どのような機微を織り込んで人間関係を構築していったらよいのか。諜報謀略論から 見るチャイナビジネスへの棲み込み、食い込みは重い課題だ。

 

    【参考文献】

  • Robert White, “Motivation Reconsidered: The Concept of Competence”, Psychological Review 66:297-333
  • Richard Boyatzis, “The Competent Manager: A Model for Effective Performance”, Wiley-Interscience、1982年
  • ライル&シグネ・スペンサー 、「コンピテンシー・マネジメントの展開―導入・構築・活用」、2001年
  • 石井淳蔵、「ビジネスインサイト」、2009年
  • シンガポールのチャイナ社会を分析したレポートして「華人社会について ~華人社会の三角関係~」(PDF)が示唆に富んでいる。

 

引用:諜報謀略講座 ~経営に活かすインテリジェンス~ – 第13講:中国人と仲良くする方法(チャイナ的人間関係への棲み込み) :ITpro