札幌から知床岬まで全行程人力移動の旅(3)~知床岬海岸線縦走1日目~We are in Shiretoko once in a blue moon.

カテゴリー : シンクロニシティ

<朝日に向かってエントリー>

朝4:30起床。5時過ぎには相泊のシーカヤックで航海を始めるエントリーポイントに到着。

いよいよ知床の海に初エントリーだ。

幸い、海はないでいる。ないだ海に朝日が昇る。

<相泊のあたり ダブル艇から桜井さんが撮影>

相泊から漕ぎだして、しばらくは岸に番屋がつづいている。

この船は、リジッド・カヤックというタイプ。「リジッド=固定」とは、常に船体の形が固定されているという意味で、最も一般的なカヤック。

船体上面には「デッキ」と言われる覆いがあり、人が乗る部分(コックピット)だけ穴が開いている。コックピット開口部と体の間には、浸水防止用の「スプレースカート」を装着するが、今回はなし。沈してもいいように、念のためウェットスーツで身を固めた。

コックピットの前後には、隔壁で仕切られた荷物用の空間がある。 荷室のハッチは密閉されているため、ひっくり返っても浸水せず浮力を保つ構造になっている。

ビニール袋に荷持をいれ、荷室に格納。縦走用のザックは荷室に入りきれないので、バウ側のデッキ上部にくくりつけた。

 

昨日まではシケていたが、むこう3日間は高気圧に知床半島はすっぽり覆われ、海岸線の天候はここ2カ月間で最高のものとなる見通しだ。

なぜ、シーカヤックなのか?

クヅレ浜という場所にクジラが一頭漂着し、その死肉を目当てにヒグマが多い時で13頭、死んだクジラに群がっているのだ。(詳細はこのサイト)その群の中にはクジラの肉にありつくためあたりに居ついているヒグマもいるという。

<情報収集のため立ち寄ったルサフィールドハウスにて>

 

<クジラの死体>

接近して見ると、肉はほとんど食べられていた。

肉は食いちぎられ、巨大な背骨だけが海岸に残っている。

これを持ち帰るのは至難の業だろうが、ちょっと考えなくもなかった・・・。

そのクズレ浜は海岸線から山のへりまで30m程度しかなく、そこをクリアーする時には必然的に、ヒグマに接近するリスクを冒すことになる。

<ダブル艇のバウがないだ海面を切って進む>

そのような顕在化したリスクは回避するのが定石ということで、1週間前に、ダブル艇を桜井さんとYくんが、シングル艇を僕が操舵して、その危険地帯を回避して先の湾に上陸して、そこから海岸線を縦走してゆくというプランになったのだ。

過去、カヌーは四万十川キャンピングツーリング、釧路川の下流の塘路から細岡あたりまでなど、おもに河川を中心に試みてきた。数年前からシーカヤックの操縦技術(・・・といってもシングル艇をひとりで操縦するに必要な基礎テクニックのみなのだが)を体得していたのが幸いした。

            ***

数年前まで、僕の知床は、素朴にも、というか安直にも、南側の羅臼と北側のウトロをむすぶ線からほんの10kmほど北に行った沿岸部に限定されていた。岩尾別から五湖方面もたしかにすばらしい情景に満ち満ちてはいるものの、もっとdeepな知床に対する欲求は増すばかりだったのだ。

そして今年、機は熟した。

知床ド素人の僕としては、いくら大胆になってもプロのガイドなしの挑戦はしょせん暴挙というもの。ヒグマ回避、ルートファイディング、特殊環境での野営、悪天候時の撤退などは、プロのガイドが必要と判断した。

それやこれやで、facebookや大学関係の飲み会のおり、賛同者を募るために徒歩による知床岬までの海岸線縦走の構想を5月位からボチボチ紹介しはじめたのだ。

そこでこのアイディアに乗ってきたのが、Yくん。Yくんは昨年、東京から九州まで自転車ツーリングを成し遂げているし、若さゆえの向こう見ずさや青さが残ることを割り引いても、アウトドア方面への可能性を感じさせる有望な若者だ。

            ***

 <午前中はこのこの通りのないだ海面>

自転車もシーカヤックも、前進するための基本動作を「漕ぐ」という。

左舷側が常に知床の海岸から山々まで開けた視界を確保できるので、絶景に次ぐ絶景のオンパレード!

1時間ほど漕いでクズレ浜に接近すると、一匹のヒグマが骨だけとなったクジラに取り付いているのが見えてきた。

おお、ヒグマ!

ヒグマは泳ぐとはいえ、海上で数十メートル離れた距離からヒグマを見るのは、なんというか、海がバッファーとなり傍観者を気取ることができる。

 

 <10:30 モイレウシ湾に上陸>

モイレウシ湾は静謐な空間をたたえた箱庭のような空間だ。

そこに上陸して、船に格納したザック、荷物をとりだしてパッキング。

相泊から知床岬まで、東側の海岸をたどるルートは上級者向けのコースタリング(海岸トレッキング)コースとして知られている。その中でも比較的単調な相泊から崩浜。観音岩、化石浜を経てモイレウシ川が注ぎこむモイレウシ湾までシーカヤックで迂回したことになる。

モイレウシ湾で行動食と水を摂る。

いよいよここから海岸線の縦走が始まる。緊張に満ちた瞬間だ。

<引き潮のため歩きやすかったモイレウシ湾北側>

時は満月と重なったため、引き潮も大きく、モイレウシ湾北側の海岸は潮がずいぶんと引いていた。

満潮時には波が容赦なく海岸線を洗い、ヘツっている時に足を滑らせば海へ落下という難所である。

<無残にも靴底が剥がれ落ちるというアクシデント>

海岸の岩をヘツりはじめて10分後、それは突然やってきた。

なんと、2足の靴底が剥がれ落ちたのだ。ぐわ~~~!!、ぎょえ~~~!!

以前、友人が、飯豊連峰を縦走しようとして登山口で靴底が剥がれるという珍奇なアクシデントに遭遇したことがある。それを見聞きして、「ああ、そういうこともあるのか!マサカねぇ?」くらいに思っていた。

嗚呼、そのマサカの非常事態が、今、自分の身に降りかかっているのである!

なんてオレはドジなんだろう!知床にやってくる前に入念に山靴をチェックしておくべきだったのに・・・。アウトドアに生きる者として山靴という基本ツールのリスクマネジメントも出来ていなかったのか!

ああ~~~~~、後悔先に立たず。

と、我が身の不幸をなげきつつも、ここで撤退はありえない、断じて。

思案すること5分、この靴を、自転車ツーリングで使ってきた足首がむき出しの靴に履き替えて歩くことになったのだっ。

グッと足首をねん挫してしまった瞬間、一巻の終わりだ。したがって、ここから先の歩行は、多少ペースが遅くなっても慎重に慎重を期して着実に歩くしかない!

 痛む脚をこらえながらも、どこまでも続く海岸線は絶景の連続だ。

海岸線には、これでもか、これでもか、と言わんばかりに浮き石や浮き岩が散乱している。

足首がむき出しの靴は、これらの浮き石に足がとられて、グニャリと足首が曲がってしまう。

でも、これで歩くしか選択はなかった。トホホ・・・。

<桜井さんとYくん、実に素敵な表情だ>

プロフェッショナルなネイチャーガイドと行動することは、本当にためになる。知床のあらゆる知識、サバイバル技術、知恵といった暗黙知を共有して会得することになるのだ。

こうして、クライアントは、五感を使いながら、expeditionという稀有な経験のなかで、それらの暗黙知を体感する。natureと接するという贅沢なサービスの共創者がガイドであり、クライアントだと思う。

ところで、Yくん、絶景に接するたびに、スゲー!、これぞリア充!インパクト・マックス!などとわけのわからぬ言葉を叫びまくる。

たしかに、言語による描写を拒むような圧倒的かつ峻厳な自然に対峙して、技巧に走る描写を介在させるよりは、単刀直入にそのような非文学的表現(?)に素朴に身を落とした方が、直截かつ正直な内面の吐露というものだろう。

 

 ごろんごろんと大小の岩、石ころがころがる海岸線。

大胆なジャンプはせず、ひたすら、足首を意識して歩く。

< 女滝が見えてきた>

・・・と、突如、行く手に一頭のヒグマが出現。そして後方にももう一頭が。

我々は前方と後方から2頭のヒグマによって挟まれているのである。

さきほどの海を隔ててヒグマを眺めるという状況とは異なり、ヒグマと人間が至近な距離で陸を共有しているという現実は、この上もなく重く、クリティカルなものなのだ。

ヒグマはガサガサと茂みをトラバースして番屋の裏手を北のほうに移動していった。

ことなきを得るまでは、緊張の連続だ。

16:00滝の下番屋に到着。

そこでテントを張り、キャンプ。

漁師の人に頂いたマスと、海岸で拾ってきたコブに味噌で味付けをする。

とほうもなく美味しい料理だ。

<We are in Shiretoko once in a blue moon>

これは、夕日ではない。

満月の月明かりだ。

それもただの満月ではない!

Blue moonなのだ!

今夜2012年8月31日は、数年に一度のブルームーンだ。そしてその時を、こともあろうに、我々は、知床で迎えている。

なんという僥倖!

なんというsynchronicity!

なんというserendipity!

 

ブルーといっても月が青く見えたり、月を見てブルーな気持ちになることではない。

ブルームーンとは、1カ月の間に2回満月が見られるということだ。そもそも、ブルームーンとはどういう現象なのか。通常、満月は1カ月に1度しか見ることができない。それは月が約1カ月かけて満ち欠けをするからだ。

しかし、その「約1カ月」は正確にカウントするト29.5日である。現在の暦では、1カ月は2月を除いて30日か31日という日数を割り当てられている。この誤差が積もり積もって、2~4年に一度1カ月の間に2度、満月を見ることができる。これが「ブルームーン」というわけである。前回は2010年にブルームーンが発生したので、今回は2年ぶりとなる。

英語では非常に珍しい、僥倖ということを”once in a blue moon”と表現する慣用句がある。また、blue moonを見ると幸せになれるという言い伝えがある。

そう、まさに、We are in Shiretoko once in a blue moon.なのだ!

                                               ***

blue moonは、地上の一切の生命あるものに、やさしい波動をおしみなく送ってくる。

霊妙なパワー。

(その霊妙でsubtleなパワーを、体の芯まで受け入れて内部化する特殊な観想で、いただきました)

今晩のblue moonを決して忘れはしまい、というか、このパワーは僕の深層に脈々と生き続けることになった。

                                               ***

それは低く張り詰めた薄い雲を照らし出し、知床の海面に静かに深くきらめきを放っている。

その乳白色と燻銀のような残光を得て、水平線の向こうには国後島の山々が漆黒のシルエットを浮かびあがらせる。

神々しくも煌々と輝く満月の月は、静かに大空を移動してゆく。

そんな風景につつまれて、知床の沢の水をバーナーで熱して湯にし、お湯割りにして飲むウイスキーは格別だ。

ここは知床なのである。 

つづき>>>

世界のソトとウチ

カテゴリー : No book, no life.

上のマップで言うと、伝統的な経営学やマネジメント論は、左側のアプローチが中心。一般性、因果律、効率、根拠、論理といったものが重視される。サイエンスの体裁をとろうとするほど、経営学やマネジメント論は、むろん、このアプローチが中心になってくる。

でも、ちょっと食い足りない。

そこで、外界(outer world)から内界(inner world)へと拡張してみる。

どうやら、世界の潮流を眺めていると、人と組織の行動に関係するリーダーシップ論やケアサービス論は、内界(inner world)へ向かっているようだ。そこでは、左側ではほとんど語られなかった、精神、特殊性、共時性、意味、物語、情念が織りなす特殊な世界が本質的に重要になってくる。

いろいろな分野のリーダーは、それぞれ個別の意味世界に棲息しているので、右側の特殊な世界とは切り離せない。緩和ケアをはじめとする看護サービスなどのhuman serviceでも、ヒトの内面、内界にたいする精神的ケア、支援、エンパワーメントが含まれる。

なので、ネタを明かすと、人的資源管理論、組織行動論、アントレプレナーシップ論、ヒューマンサービス論などでは、越境を促すために下の2冊をグループワークや副読本として使っている。

            ***

シンクロニシティは意味のある偶然とでもいってよいだろう。通常の因果律では因果関係が見いだせない事象における関係性を説明する考え方なので、シンクロニシティは「共時性」ともユング派の研究者によって訳されている。この分野の著作では、デイヴィッド・ピート『シンクロニシティ』が秀逸だ。

複数の出来事が原因→結果というようなシーケンシャルな因果関係を飛び越えて、意味的関連を惹起して同時に起きることである。だからシンクロニシティを「共起性」といってもあながち誤訳ではないだろう。しかし、こと学問の作法でシンクロニシティを実証的、客観的に説明することは難しい。

なぜなら、出来事、偶然、非・超因果、意味、同時、共起、主観を内包するシンクロニシティには、必然的にランダムネス(雑然性)やタービュランス(乱流性)やストレンジネス(奇妙性)やコンプレクシティ(複雑性)がつきもので、このようなことがらは実はサイエンスの枠組みでまだきちんと説明がなされていないからだ。

果たして運は能力なのか、能力が及ぶ範囲の外にあるまったくの別物なのか?

運は能力の一部門であるという考え方がある。そのひとつの発現としてセレンディピティ(serendipity)という言葉は「偶然幸運に出会う能力」を意味する。

シンクロニシティ(synchronicity)も共時、共起、偶然に積極的にかかわる自覚的能力を予兆するものである。

偶然幸運に出会う能力は、能動的に環境にはたらきかける操作の範疇ではなく、環境から自分への働きかけ、メッセージ、予感を感じ取る受動的な領域に属する。

とすると、セレンディピティはシンクロニシティを用意周到に活用する自覚的readinessとでもいうような意識の力を含意する。

この本は、シンクロニシティをリーダーシップの重要な要素として、自伝的な文脈で前向きに議論している。リーダーシップという視点からシンクロニシティを真っ正面から議論した論者はなく、そこにこの本の新鮮味がある。

伝統的=本流的な理論、モデルを説明した「行動科学の展開」に対するアンチテーゼのような本。シンクロニシティは、実は現在サイエンスの鬼門のような位相にある。因果関係でなかなか説明できない現象だからだ。