第17講:若い世代が追い求める、「勤勉」と「幸福」の間にあるもの

 先月、「Everyone a Changemaker―世界を変える社会イノベーション―」というシンポジウムが開催された。趣旨は題名の通り、各自が“チェンジメーカー”になって、 それぞれのできる範囲で社会を良い方向に変えていこうというものだ。今回はこのシンポジウムを振り返りながら、変質しつつある日本の「勤勉さ」について改 めて考えてみたい。

 

 筆者はこのシンポジウムの開催に関与している。告知後、2日足らずで参加申し込みが殺到し、300人以上の会場が満席になってしまった。正直なところ驚 嘆している。しかも、そのほとんどは20歳代、30歳代の若い世代である。社会イノベーション、社会起業家、社会的企業というテーマは、若い世代を惹きつ けるようだ(ちなみにこのシンポジウムに参加した人々がTwitterで自主的に感想や意見を言い合って共有している。Twitterのハッシュタグは#titchange#socentjpなど)。

 社会起業家とは、「社会の問題を見つけて定義し、新規性の強い事業アイデアを繰り出して持続的に取り組み、その事業を普及させ、社会に大きなインパクト を与えるような変革の担い手」である。そのような担い手によって成される変革のことを「社会イノベーション」という(具体例は後述する)。

 このように書くと、「わざわざ起業と社会起業、企業と社会的企業を区別する必要などないのではないか」という疑問を持つ向きもあるかもしれない。もっともな疑問だ。そのような疑問を抱きながら続きを読んでいただきたい。

 このシンポジウムでは、第一線の社会イノベーション実践者、支援者が一同に会した。そして、社会イノベーションについて非常に幅広く、また深く議論した(このシンポジウムの詳細な報告書がアップされる予定のサイトはこちら)。拙論では、社会イノベーションや社会起業という現象が何を意味するものか、を考えてみたい。

 

勤勉と自殺

 前講の『大丈夫か?日本資本主義の未来(勤勉のゆくえ)』で述べたように、現下の日本では、「勤勉」→「経済成長」→「幸福」という図式が成り立たなくなってきている。このような状況のなか、「経済成長」に代わり、「勤勉」→「○○○○」→「幸福」という図式を埋める何かを模索する動きが徐々に広まりつつある。

 幸福とは何かを古典や哲学を引っ張り出して、薀蓄(うんちく)している場合ではない。そんなことよりも、「幸福」ではない人がとる行動、すなわち自殺件数に注目すれば、少なくとも日本社会が「幸福」から遠いことは自明だ。

 日本の自殺率の高さは、欧米先進国と比較するとダントツ。さらに範囲を広げて比較すると日本は、ベラルーシ、リトアニア、ロシア、カザフスタン、ハンガリーに次いで自殺率は世界第6位だ。

 NPO法人ライフリンクの清水康之代表はこう嘆ずる。「かつて交通戦争で亡くなる人の数が1万人を超えて、『交通戦争』と呼ばれた時代があったが、今や自殺で亡くなる人は年間3万数千人。日本社会は今、『自殺戦争』の渦中にいると言うべきだろう」。

 社会の規範が崩れ、人と人を結ぶ紐帯が消失する現象は、東欧の旧共産主義国で見られたが、社会主義体制の崩壊を見なかった日本でも、これに匹敵するような現象が発生しているのだ。

 急性アノミーとは、信頼しきっていた者に裏切られることで生ずる致命的打撃を原因とし、これによる心理的パニックが全体社会的規模で現れることにより、 社会における規範が全面的に解体した状態をいう(小室 1991)。いわば、今の日本が直面しているような無規範状態である。

 これについて一点のみコメントする。前講までに述べてきたように、日本人は一神教による絶対的な規範と規準を超越的な位相に持たず、規範・規準らしいも のは人間と人間の間に存在する。人はそれを「人と人との絆」「人間関係」「空気」「他人の目」「世間体」とも呼ぶ。これらの内実が崩れることは、日本の社 会にとって致命傷となる。

 NPO法人ライフリンクが実施した「自殺実態1000人調査」によると、68項目の危機要因に対してパス分析や重回帰分析を駆使した結果、自殺の「危機 複合度」が最も高い要因を「うつ病」、危機連鎖度が最も高い経路を「うつ病→自殺」と特定した。その上で詳細な自殺の危機経路パターンを16通りにモデル 化している。

 たとえば被雇用者ならば、「配置転換→過労+職場の人間関係の悪化→うつ病→自殺」「昇進→過労→仕事の失敗→職場の人間関係の悪化→自殺」。自営業者の場合ならば、「事業不振→生活苦→多重債務→うつ病→自殺」というように。

 共通する経路を抽出してみると、おおよそ「過剰なストレス→仕事でのつまずき・失敗→収入閉塞→人間関係の脆弱化・崩壊→うつ病の罹患→自殺」というようになる。

 私見を述べると、勤勉のメカニズムは自殺のメカニズムに似ている。つまり、勤勉のメカニズムとは、「(1)ストレスにうまく対処して元気で健康→(2) 休まずに働く→(3)収入を得る→(4)家族・地域・会社などでの人間関係を維持する→(5)いきいきと生活を続ける」ことである。

 勤勉のメカニズムが自殺のそれと異なる点は、最後の「いきいきと生活を続ける」が最初の「ストレスにうまく対処して元気で健康」にフィードバックされて、ぐるぐると循環していくことである。

 とすると、勤勉と自殺は表裏一体の主題である。勤勉は首尾一貫感覚(身の回りの世界が首尾一貫していると感じること)の発露であり、自殺は首尾一貫感覚の喪失である。自殺は日本的社会空間に存在する。勤勉もまた然り、日本的社会空間に存在する。

 1998年以降、年間3万人を超えて、衰える勢いのない自殺者の数は、日本人的勤勉の足元の崩落を予兆している。

 

今後急増する「行き場」がない人口

 いずれにせよ、物質的な充足、経済成長、従来型の雇用、世の中にある既存のソリューションのみに答えを見出すのではなく、「勤勉」→「経済成長」→「幸 福」という図式における代替的な媒介項目を求めている人たちが社会イノベーションや社会起業に活路を見出しつつあるのではないだろうか。

 かたや「経済成長」に代わる媒介項目を模索する若者が浮き足立って、社会起業カリスマに表層的に熱狂しているのではないかという、冷めた見方もある。また社会イノベーションという包括的な説明概念だけでは、実際のソリューションにはならないという批判もあるだろう。

 しかし、筆者は社会起業や社会イノベーションの動向は時代の必然であると見立てている。そこにはいくつかの構造的な背景が作用しているのである。

 第1の構造的背景は、人口構造の変化のモメンタム。広井良典が指摘するように、特に戦後、農村から都市へ人口移動が大規模に起こり、都市で働く人のコ ミュニティは「会社」と「核家族」となっていった。こうして、人は生まれてからの15年くらいと、定年退職して死ぬまでの年月を地域に埋め込まれたコミュ ニティで暮らすが、壮年期の働き盛りは会社、役所、団体などで雇用されて過ごすというパターンが出来上がってきた。

 さて、日本全体に占める「子供+老人」の割合は、1990年から2000年を底にして「ほぼきれいなU字カーブ」を描くとされている。戦後、出生率の低 下により「子供+老人」の割合は減り続けていたが、1990年代を境に高齢化の勢いが上回り、「子供+老人」の割合は増勢に転じた。戦後から高度成長期を 経て最近までは、一貫して地域とのかかわりが薄い人々(生産年齢人口)が増え続けた時代であり、それが現在は、逆に地域とのかかわりが強い人々(子供+老 人)が一貫した増加期に入る、その入口の時代なのである(広井 2009)。

 こうして今後増え続ける老人人口と、相対的には減少傾向にありながらも明日の社会を担う子供人口の居場所は、核家族、学校、医療・福祉施設などの既存の 場だけでは対応できなくなりつつある。新しい場やコミュニティづくりが人口構造変化の圧力によって要請されているのである。

 

共同体の包摂と排除

 若者が社会起業や社会イノベーションに関心を示す第2の構造的背景は、壮年期あるいは生産年齢の人々の受け皿となってきた企業体質の変化だ。資本主義の 主要な担い手たる会社は、高度成長期において擬似的な、あるいは代替的な共同体として、広義の社会保障の提供者だった。しかし、1980年代以降、より明 確には1990年代以降、徐々に能力主義や成果主義といった人事戦略を採用するようになり、共同体というよりはむしろ機能体としての性格を強めてきてい る。

 会社は勤勉の製造・維持装置だったが、そこでは勤勉の経路がいつのまにか自殺の経路と並走するようになってしまった。共同体の機能体化のコストは決して小さいものではない。

 皮肉な言い方になってしまうが、本来は機能体でありながらも、日本社会の特殊事情により共同体として位置づけられてきた会社が次第に換骨奪胎され、機能体としての性格を強める中、企業社会を巡る雇用関係と社会的責任(CSR)のあり方が問われている。

 そして共同体としての家庭や地域が薄弱なものとなり、共同体としての会社が機能体化するプロセスの中で、共同体から排除され、どこにも帰属しない、ない しは所属できない人々が増大した。これは、「失業」「低所得」「住宅難」「ニート」「非正規雇用者」「格差社会」「健康格差」「家庭崩壊」「無縁社会」と いった言葉で語られる社会的な問題を引き起こしている。

 これは、共同体のありかが急激に変遷してきた末にたどり着いた、日本のソーシャル・エクスクルージョン(社会的な排除)と言えよう。企業、核家族、地域が包摂の程度と範囲を狭め、その結果、排除されつつある「コミュニティ」なき社会の問題となった。

 

35歳前後をピークとする世代の内面の変化

 第3の背景は、35歳前後をピークとする世代の内面の変化だ。昨年NHKの番組「“35歳”を救え あすの日本 未来からの提言」が実施した、35歳を対象とした1万人へのアンケート結果は意味深長だ。いわゆるロスジェネ世代(就職氷河期世代)にとって、長期安定雇 用制度の利用度・信頼度は低くなっていて、「転職経験がある」は66%、「会社が倒産するかもしれない」が42%、「解雇されるかもしれない」が30%と なっている。

 有名な「マズローの欲求階層説」によると、人間の欲求は、「生理欲求→安全欲求→社会欲求→承認欲求→自己実現欲求」というように、複層的に高まってゆ くという。だとしたら、社会起業を目指す若者たちは、雇用、職業選択、生活にかかわる道筋の不安定さに苛まれつつも、自らの社会欲求、承認欲求、自己実現 欲求をひたすら満たしたいと突き進む群像なのかもしれない。

 個人主義的性向を持ち、新たな価値を創出、獲得することに貪欲で、既成の権威には懐疑的ながらも、自己の権利は主張し、脱物質的でもあり、自然志向的。そんな若者を「ポストモダン的人間」と呼ぶのもよかろう。

 しかし、人格的一神教のような絶対的な規範と規準を超越的な位相に持たず、規範・規準らしいものは人間と人間の間に存在させる日本人は、西欧のように宗 教(キリスト教)を合理化あるいは近代化させた経験はない。その意味で、西欧的価値基準から見れば、日本人はいくらポストモダン的人間を気取っても、実は 精神世界の深淵はプレモダン世界の住人でもある。

 そのようなポストモダン、プレモダンがないまぜとなった文明人の出現は世界史における日本の特異性でもあるが、このアンビバレンスの中に、ある種の危うさ、もろさ、傷つきやすさが伴うことに自覚的になるべきだろう。

 これらのアンビバレンスをことさら自覚するのでもなく隠すのでもなく、以下に羅列するような社会的問題解決の当事者として「新しい勤勉」と「新しい幸 福」を媒介する「何か」を求め、そこにのっぴきならない「生きる意味」さえも求めてやまない人々。35歳前後をピークとして前後に拡がる世代で社会イノ ベーションに活路を見出す人々の内面は、このように複雑である。

 俯瞰すれば、静かだが抗えない人口・企業・産業の構造変化に対する一つの社会的反応が、社会イノベーションであり、社会起業の動きである。社会イノベーションや社会起業を支援するという意志や行動は、以上の意味合いにおいて、複雑さへの対応なのである。

 

新しいコミュニティ、新しいサービス

 社会イノベーションないしは社会起業を取り巻く動向の特徴は、従来の行政、民間企業、伝統的な非営利活動が十分に対応できてこなかった領域の社会問題に 対して、斬新なソリューションを提供していこうとすることだ。ただし、「新しい公」のような既成概念に矮小化してしまうと、コトの本質が見えなくなるので 注意してもらいたい。

 もちろん、そこには単一の解があるわけではなく、保健・医療・福祉、街づくり、環境保全、自然保護、森林保全、過疎対策、農村活性化、教育、能力開発、 セーフティーネット、文化・芸術、地域経済活性化、消費者保護、雇用支援、弱者救済、障害者支援、貧困対策、災害救援、人権擁護、男女共同参画、科学技術 振興、地域安全、国際協力…など、多種多様なテーマが広がっている。

 ここに重要なテーマが潜んでいる。上記の多種多様なテーマ、あるいは社会起業のビジネスモデルが提供するものは、製品・商品というより、断然サービスが中心である。経済エンジンの主題は、「モノ」→「エネルギー」→「情報」→「サービス」と変わってきている。

 日本のGDP(国内総生産)の70%はサービスセクターが生み出しているほど、近年の経済のサービス化は顕著なものだ。その中でも、社会イノベーションは公共財、準・公共財、私財の領域を融合する新しいタイプのサービス創出を狙ったものが多い。

 

システムとスケールアウトが求められる

 社会起業家を支援するアショカ財団の代 表であるビル・ドレイトン氏の話に耳を傾けよう。アショカ財団の研修生(アショカ・フェロー)として選ばれた人々の5年後を追跡調査すると、その97%が プロジェクトを継続しており、88%の人のアイデアが他の組織に伝播している。さらに55%のアショカ・フェローのアクションが、発展途上国を中心とする 国家政策にまで影響を与えている。つまり、社会に対するインパクトが甚大なのだ。

 アショカ・フェローの審査にあたっては、新しいアイデアを持つこと、クリエイティビティがあること、起業家としての能力・資質、問題解決へのコミットメント、アイデアの社会的インパクト、倫理観と信頼を徹底的に調べ上げる。

 ここで注目されるものはシステムとスケールアウトである。地道に地域密着型で行動する「草の根」市民運動も大事だが、卓越した社会起業家は、ソリューション提供のシステム化と多様な地域への展開というスケールアウトを実現している。

 もっとも、この点については「チェンジメーカー~社会起業家が世の中を変える」の著者である渡邊奈々氏も指摘している。社会起業家の定義をあまり拡張す るのではなく、少なくともソリューション提供のシステム化と多様な地域への展開というスケールアウトを実現している起業家にのみ「社会起業家」という言葉 を使っていこうというものである。

 

チェンジメーカーを生み出す土壌

 膨大な人数におよぶ社会起業家を審査、育成してきたアショカ財団の経験によると、社会起業家は10代のうちに何か「違うこと」をしており、その経験がまた別の経験を呼び、結果としてシステミックな変化をもたらす社会起業家に至るという。

 「違うこと」をやることは素晴らしいし、「違うこと」から差異、価値が生じる。周りとはちょっと違うことをやる人のことをチェンジメーカーという。

 「チェンジメーカーになるための一番大きな壁は自覚の壁である」とドレイトン氏は静かに語る。

 他人を変えることは難しくても、自分を変えることは多分それほどには難しくないだろう。その意味で、だれもがチェンジメーカーになれるはずである。そして、卓越した社会イノベーションをもたらす社会起業家は、豊かなチェンジメーカーの裾野があって初めて出現するものだ。

 シンポジウム「Everyone a Changemaker」のキーノート・スピーチで、渡邊奈々氏は「86%の高校生、54%の中学生が自分はダメだと思っている」という現状に警鐘を鳴ら した。ドレイトン氏が言うように、自己肯定感、自己効力感がなければ社会に向ける眼差しは暗く屈折したものになるだろう。「ダメ」から「デキル」へ反転さ せるようなギア・チャンジが求められている。

 チェンジメーカーを生み出す土壌をどのように耕して行ったらいいのか。大きな課題だ。ドレイトン氏は近々、11~20歳の子供を対象に、チェンジメイキ ングを実践させ、持続的な変化を起こすトレーニング・プログラムを行うという。そして、アショカ財団はJPMorgan Chase Foundationから約23万ドルの助成を受けて、日本でも若者向けの社会起業支援に乗り出す。

 

同調圧力、違い、イノベーション

 たしかに第15講の『どうした? 勤勉の倫理と日本的資本主義の精神』 で触れた「みんな一緒にがんばる」「みんなで分けあう」「世間さまに恥ずかしくないように」「みんなの目を気にしながら生きる」ことは日本的勤勉の倫理を 維持する上で看過できないが、「周囲と同じようにしなければならない」という隠微な同調圧力は「違い」を排除する方向にも作用する。

 そこに自助努力の原則が強く刷り込まれれば、成功も失敗も自分のせいになってしまい、「とりあえず周囲と同じような方向で頑張る」ということになりかねない。

 経済学者のシュンペーターはイノベーションの源泉を「新結合」に求めたが、結合されるべき「違い」が排除されていたのでは、今の日本でイノベーションが 創発されるべくもなかろう。シンポジウムのパネルディスカッションで司会を務めた渡辺孝東京工業大学特任教授が指摘するように、現在日本の起業活動は OECDで最も低いレベルにある。

 日本の社会は、「周囲と同じような振る舞いをする人々を大切にして、周囲と違ったことをやる人を疎む傾向が強い」と感じるのは筆者だけではないだろう。 周囲と異なること、違うことを尊重しない環境からは異質は発生しない。異質なものが萌芽しなければイノベーションも生まれない。イノベーションの沈滞と 「違い」を排除する暗黙の同調圧力とは無関係ではあるまい。

 さてドレイトン氏は嬉しそうに、メアリー・ゴードン氏が始めた「Roots of Empathy」の話をする。彼女は学校からいじめをなくす活動をしている。アショカ・フェローになってからたった4年で、ゴードン氏のプログラムを採用する学校は2校から2000校に増えた(この活動を日本語で紹介しているサイトはこちら)。

 彼女たちがやっていることは、いたって簡単。教室に赤ちゃんを連れていき、「先生」と大きく書かれたTシャツを赤ちゃんに着せて、その子が何を言おうとしているのかを生徒たちに考えてもらい、話し合ってもらうだけ。

 大学に依頼して実施した追跡調査の結果、この活動により、いじめの件数は激減した。大きなインパクトである。言葉の通じない赤ちゃんとの触れあいを通して、「相手の身になって考える」というアイデアがすべての始まりだったそうだ。

 違いを気にする学生に対してドレイトン氏はこう言う。「まずは学生の方々に伝えたい。誰もやっていないことをやりなさい。そうすれば比較をされないですよ」。

 

「所得階層別の価格設定」という常識破り

 「資本主義を人間化する」。シンポジウムで、このなんとも刺激的な演題でプレゼンテーションしたのはデビッド・グリーン氏。人間のために資本主義を活用するという話だ。

 「人生の時間の使い方は二つ。一つは、生きている間に自分に返ってくること。地位、名誉、お金などです。もう一つは、人類全体の向上、より良い世界に貢献することです。私は後者を選んだだけです」 と自己紹介する。

 グリーン氏は、オーロラボ(Aurolab)社を起業し、インドなど開発途上国で初めて人工水晶体レンズ、手術用縫合糸、医薬品、眼鏡を、貧困層にも届く価格で生産している。オーロラボはこれまでインドのアラヴィンド眼科病院などで、1000万人の途上国の患者に医療サービスを提供してきている。

 68億人の政界人口の底辺をなすボトム・オブ・ピラミッド(最近ではボトムという表現を嫌い、ベース・オブ・ピラミッドと呼ばれる)に対するケアサービスによってQOL(生活の質)は着実に改善されている。

 戦略は大胆かつ前例がないものだ。一番安い価格を無料に設定することで、一気に需要を顕在化させる。

 多くの人は水晶体が曇ることによって失明する。目が見えるようになるためには手術によって水晶体を交換しないといけない。そのための水晶体を途上国の医療機関にオーロラボが破壊的廉価で納入しているのだ。

 グリーン氏が実践してきたことは、技術経営の視点から事後的に見ればオーソドックスな手法だ。

(1)技術移転して、価格設定権を握る。
(2)ヘルスケア・サービスを持続的に提供する。
(3)投資家からファイナンスを受ける。

 ただし、驚愕の価格戦略を推進している。途上国を市場としている彼のビジネスでは、「一物一価」「一サービス一価」を否定して、所得階層のセグメント別 に価格を設定している。貧困層に属する3分の1の顧客に対しては無料、それ以上の層の3分の1に対しては正価の3分の2で販売する。富裕層の顧客(全体の 約3分の1)は、高い価格(正価)を喜んで払ってくれるという。

 ヘルスサービスのアプリケーション・レイヤーは、薬品、医療材料、診断機器などの物質レイヤーと、診療、看護などのヒューマン・サービス・レイヤーの2 層から成り立つ。オーロラボは、物質レイヤーの水晶体などを破壊的廉価で製造、流通させ、途上国のヒューマン・サービス・レイヤーに新規医療技術を学習さ せる。これにより従来は一部の富裕層しかアクセスできなかったヘルスサービスを、途上国の地域に一気に伝搬させるイノベーションである。

 詳細は、講演記録を読んでいただくとして、グリーン氏のビジネスは、技術が持続可能性をドライブすることを如実に立証している。重要なことは、技術をい かに画期的なビジネスモデルの中で活用するかだ。彼らはまず、医療用品の製造に莫大なコストがかからないという前提からスタートし、オーロラボ製品のマー ジン率を低く抑え、サプライチェーンを整備し、コストを削減し、品質管理を徹底し、持続可能なビジネスとして展開しているのだ。

 

ビジネスモデルの骨格にCSRはあるか?

 「社会的企業と一般企業の差は?」との会場からの質問に、グリーン氏はこう答える。

 「私は、最近は自分たちのことを社会的企業とはあまり言わなくなりました。高ボリューム・低マージンモデルのビジネスを市場の中で行っていることが社会に受け入れられているだけなのです」。

 人々が真に求めているものごとを、求めやすい価格で、アクセスしやすい場所で提供するという企業経営のイロハを実践することが、結局は社会的存在になる ということだ。同様に、そのための起業ならば、あえて社会的という形容詞を付ける必要もないということだろう。学説的にも社会イノベーション学派とよばれ る系統では、社会イノベーションの担い手として営利、非営利は特に問うていない。

 フィランソロピー(社会貢献活動)、CSRという概念は、企業のコアコンピタンスやビジネスモデルの骨格に埋め込まれて初めて社会的企業となるのである。コアとなる事業に付帯させて行うCSRが散見されるが、それは決してCSRの本質ではない。

 このような文脈もあり、現在米国では、社会イノベーションや社会起業が、ビジネススクールや専門職大学院、学部レベルはおろか、いろいろな学校や地域に おいて大変な勢いで広まっている。もちろんそこには、昨今のマネー資本主義の暴走に対する複雑な情念も付随しているのだが。

 

「バスレなし」のシュンペーターの予言

 マルクスの労働価値説を真っ向から否定した経済学者バヴェルクを師とするシュンペーターは、マルクスを超えようとする言説を展開した。マルクスをはじめ予言をハズすのが経済学者の常だが、シュンペーターの恐ろしさは、今のところ彼の予言にハズレがないという点にある。

 さて「資本主義はその欠点のゆえに滅びる」と書いたマルクスの逆張りで、シュンペーターは「資本主義はその成功により滅びる」と意味深長なことを書いた。

 シュンペーターは「創造的破壊」というコンセプトを思索の真ん中に据えた。そして、創造的破壊を推進する資本主義のエートス(行動様式)が衰弱し、資本 主義の屋台骨ともいえる私有財産制と自由契約制が形骸化すれば、キャピタリズムは衰退し、やがては終焉を迎えるだろうと予言した。

 創造的破壊とは不断に古いものを破壊し、新しいものを創造して絶えず内部から経済構造を革命化する産業上の突然変異である。

 シュンペーターによれば、資本主義の生命線であるイノベーションの担い手=企業家(起業家)が官僚化された専門家へ移行するにしたがい、資本主義の精神は萎縮し、活力が削がれてゆき、やがて資本主義は減退する。

 ここからが重要だ。あまり知られていないが、企業家(起業家)は主要な活躍の場を産業分野から次第に公共セクター、非営利セクターに移行させてゆくだろうと彼は書いている。シュンペーターもまた社会起業家の活躍を予見し、社会イノベーションを含意しているのである。

 1931年に日本を訪れ、京都にも遊び日本社会も垣間見たシュンペーターだが、今の日本の状況を見通していたのだろうか。若い世代が追い求めているものは、不思議と彼の予言と符合する。

 

 

引用:諜報謀略講座 ~経営に活かすインテリジェンス~ –第17講:若い世代が追い求める、「勤勉」と「幸福」の間にあるもの :ITpro

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