コンピテンシー理論の隠微な裏側

<コンピテンシー理論を生んだマクレランド博士>

救急看護学会の学術会長の浅香えみ子さんとご縁があり、この学術集会に呼ばれて2つの話をしてきた。

そのひとつが「多職種連携協働のための コンピテンシー:T型人間のすすめ 」というテーマ。 スライドを作りながら、コンピテンシー理論と自分の関わりが意外に古く、多岐におよんでいることを再発見。少なくとも3冊の本と4本の英語論文でコンピテンシーをテーマにしている。

もともと、米国系のコンサルティングファームに参画していた頃に、この理論を飯のタネのひとつにするということで首を突っ込んだのがそもそものなれそめ。当時は日本企業の多くが人事鮮度を埃をかぶったような年功制度や、旧態依然とした職能資格制度から、功利主義、プラグマティズムズム、メリットクラシーの哲学を除去した、似非というか鵺のような「成果主義」に転換していた。

と書いてしまえば、あまりにも表面的だ。

実は、近代化のプロセス、近代資本主義の浸潤という過程と同時並行的に、共同体としては村落共同体、家庭という伝統的な共同体が次々と崩壊し、最後に残ったのが企業という共同体。共同体が共同体の機能要件を体現したものが、年功序列制度、年功賃金、企業内組合、抽象的な人格評価など、人事の諸制度。

コンピテンシー理論が隠微に組み込まれる成果主義の本当のいやらしさは、究極のところ、共同体破壊にあったし、今もそうだ。制度変革を依頼してくる経営者や人事担当役員には、このことの本質が分かっている人もいれば、まったく能天気な人もいる。

功利主義、プラグマティズム、メリットクラシー の哲学でしかと武装しなければ、成果主義のカイシャや産業界をサバイブなんてできない。素手で、成果主義の荒野を渡り歩くのは危険きわまりない。能天気で牧歌的で共同体の良き仲間のような情緒規範の塊のようなサラリーマンは、かくして、成果主義にやられ、疎外されるのだ。

武装には「武器」が必要だ。その「武器」を巧みなポジショニングで流通しようとしたのが言論系武器商人の瀧本哲史。久しぶりに彼と会って、コンピテンシー理論の隠微な裏側の話をしたかったのだが、その彼ももう故人となってしまった。

コメント

タイトルとURLをコピーしました