ハーフマラソンを初めて走った話

ハーフマラソン大会(2013千葉県民マラソン大会)に初めて出て走ってきた。

老若男女が号砲とともにいっせいに走りだし、だんだんと一本の帯みたいになってゴールを目指す。その長い帯の中の、ほんの一粒になってひたすら走ってきた。感動的な体験だった。

3カ月くらい前この大会をめざして練習(というか練習に毛が生えた程度のランニング)を開始し、facebookのほうで、いろいろその道の先輩や先達から教えてもらいながら練習をしてきたのだが、たった一人でシコシコ走るのと大勢のなかの一人として走るのとでは、まったく違うことに、遅ればせながら気がついた。

譬えて言えば、1人の練習は(褻)のようなものだ。日常の中で仕事や雑事をヤリクリして練習のための時間、空間をつくり、ジワッと体をつくってゆく。けっこう孤独な作業なのだ。そしてないより地味だ。

いっぽうマラソン大会は、ハレ(晴れ、霽れ)のようなものだ。勢いのいい音楽がジャンジャンとスタート地点の体育館のまわりに充満し、広場には屋台、出店が所狭しと連なる。そう、お祭りなのだ。まわりのランナーは、みんな溌剌としているし、高揚感でいっぱいだ。

(この日のいでたち)

スタート地点で、ちょっと雑談をしたあるランナーは、だから今日は「晴れ着」を着ていたと言っていた。頭の上のランニングキャップからつま先のランニングシューズ(オーダーメード)まで総額50万円以上かかっていると言っていた。スゴイなぁ。。たしかに、晴れの祭りの場で身につける服のことを柳田国男は「晴れ着」だと言っている。

さて、ハレのお祭りでは、なにに絶対的な価値を見出し、なにを祝祭の対象とし、なにを祝い、なにに感謝するのか?走るという神聖な所作によって聖別されるものはなんなのか?

(参加者にはたくさんのおみあげが)

その、おおきなひとつは、みんなといっしょに走ること、走ることができるくらいに健康になること(becoming healthy)と、健康であること(being healthy)ではないのか。ケの練習によって健康レベルを維持、増強し、ハレの大会で、みんなでわーーっと走り、健康レベルを「記録」によって共認してゆく。

ということで、走りへのモチベーションおおいにアップ!と同時につぎは、自転車のほうでも、センチュリーライドや長距離ランドナーイベントに参加することも画策中。

 

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