バウンダリ(境界)のオモテとウラの価値システム

玉川寺

3月には紀伊半島から奈良方面をドサ回りしてあたりの神社を参拝しつついろいろと見てまわった。古代、日本の中心地だった畿内の視点から見れば、月山以北は辺境の辺境、化外の化外といったところか。三輪山そのものが神なのだが、麓の大神神社には、オオモノヌシ(大物主)、オオナムチ(大穴牟命)、オオクニヌシ(大国主)が祭られいた。

オオナムチもオオクニヌシも大和政権の目線から見れば、征服された側、あるいは征服されることに協力した側。だから、完全に無視したり抹殺するわけにもいかず、合わせてカミとして祀っている。

以下は勝手な旅人の視点だ。

征服した側、された側、征服する・されることに協力した側の足跡はどこに残っているのだろう?

無礼を承知でいうとカミサマの姿に、である。

月山以北は狩猟採集民(縄文系)であった蝦夷の支配する地域だった。政治上・軍事上の拠点として多賀城や秋田城が置かれたように、月山神社と大物忌神社は非蝦夷側つまり中央勢力を守護する宗教上の拠点でもあった。

ただし、注意すべきは、羽黒山あたりは支配勢力と対抗・拮抗していた土着勢力のカミをも祭る場でもあったということだ。

対立する化外の勢力もまた、境界の神を信仰しており、双方からの信仰を集めるという両義的な性格を有していた(岩鼻, 2017)。では、どう折り合いをつけたのか?民俗学者でもあり写真家の内藤正敏(2007)によると、本地―垂迹という関係性に隠れて、羽黒本社にはウラのシステムが隠れているという。

    神社仏閣   ホトケ   カミ

オモテ 羽黒本社   聖観音  稲倉魂命

      ↕     ↕     ↕

ウラ  玉川寺   三宝荒神 麤乱鬼(ソランキ)

これは卓見ではないか。

この見立てを補完すると、ソランキとは、本格的に羽黒山が開山される前からこの土地に住み、木の実や皮、動物を食う狩猟採集民の地主神(在来のカミ)だ。征服者から見れば、異界・異形・異教の化外の民のカミである。征服者のカミが在来の地主神を征服、帰順化、同化させて取り込む過程で、麤乱鬼(ソランキ)となり、地主神からオニへ転化していった。

その一つの有力な根拠として注目すべきは、玉川寺から数百メートルも離れていない場所にある玉川縄文遺跡。認知考古学的に(やや飛躍して)解釈すれば、この一帯がソランキの古郷なのだろう。羽黒街道の大鳥居から南に約1km、標高100m前後の地だ。この地で縄文時代中~晩期の遺物と集落跡が発見された。ここでは人骨を納めた晩期の甕棺墓が見つかっていて、日常の深鉢を使っており、磨製石斧や硬玉製勾玉が入っていたものもある。また、組石棺や集石遺構も出土している。庄内でも有数の広大な遺跡で、長期にわたり縄文人の生活が展開していた(引用出所)。

実際この縄文遺跡に立ってみると、羽黒山と月山のたおやかな稜線をよく見渡すことができる。たおやかな稜線を視野におさめた縄文人はそこに自然神≒カミを見なかったとは言えないだろう。

以上をまとめると、羽黒山と藤島川に挟まれた平野つまり庄内平野の東端のバウンダリ(境界)には、征服者側のカミと被征服者側のカミにオモテとウラの両義性をもたせて共存化させる特異な価値システムが横たわっていると見立てることができる。おそらくは、最後の最後まで抵抗したり反逆したので、「鬼」とされたのだろう。素直に服属したり被征服者として協力していれば、オオナムチもオオクニヌシのような扱いになっていたのかもしれない。

バウンダリ(境界)のオモテとウラのシステムは、インクルージョンの装置だ。そして征服された側のカミも、反逆・従順・帰属へのプロセスの程度にしたがい並立して拝むカミ、低い地位におしとどめるカミ、「鬼」として畏怖の対象とするカミなど序列化する。

バウンダリ(境界)のオモテとウラをつかいわけて序列化する価値システムは一神教世界には見られない多神教ならではの構造だろう。こんな視点で、オモテのカミとウラのホトケ、そしてウラの地主神の姿が見えてくるのが羽黒なのではないか?

昨今、ウェルビーイングを議論するとき、異質なモノコト、ヒトを排除するのではなく、包摂することの重要性がさかんに「インクルージョン」という言葉で持ち上げられている。ウェルビーイングやインクルージョンは日本の歴史のそこかしこに隠れている。そこをちゃんと見ないで、舶来概念としてウェルビーイングやインクルージョンを議論する浅はかさよ。

岩鼻通明(2014). 出羽三山 山岳信仰の歴史を歩く. 岩波書店

内藤 正敏 (2007).日本のミイラ信仰. 法蔵館

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