ヘルスケア経営学の構想

拙著「医療看護イノベーション」を上梓したのは、もう7-8年前のことだ。そのちょっと前まで東京農工大学の技術経営研究科(Management of Technology)という大学院で教鞭を執っていたので、そこでヘルスケア分野のイノベーションを研究していたことが素地になっている。

当時、経営や技術経営界隈では「イノベーション」はすでにマチュアなキーワードになっていたが、その言葉は医療や看護の世界では十分に受けいれられてはおらず、学会においてさえもイノベーションに関する議論も未熟だった。ただし、医学・看護系の主要な学会に出入りするような一部の知的な方々から見れば医療や看護の分野において、表面的には煌びやかで成長を誘うような語感が伴う「イノベーションというファッショナブルな単語の内実に注目する余地は拡がりつつあるように思える。

地味な経済の言葉でいえば、付加価値労働生産性をあげる源泉が、改善でありイノベーションということになる。もっとも労働人口が減りつつある日本に無理して「成長」をもたらすためには、労働人口ひとりあたりの付加価値労働生産性をあげてゆくしか方策はななく、小さく言えばそれは改善であり、おおきく言えばイノベーションということになるので、国をあげてイノベーションに向き合わざるを得ないというのが実情だ。

狭義のヘルスケア市場とは健康の保持や増進に役立つ商品の生産、販売またはサービスの提供が行われる市場だ。政府によると、ヘルスケアの市場規模は2016年で約25兆円、2025年には約33兆円になると推計されていて、年々急激に伸びている。そこで、政府もヘルスケア産業政策の基本理念を「生涯現役社会の構築」と掲げ、経済社会システムを再構築しつつある。

健康の保持、増進とはべつに、病気になってからのキュアやケアは国民医療費で推計される。45兆円を軽く突破していずれ近い将来は50兆円を超えていくだろう。つまり、健康の保持、増進、病後のキュアやケアを合わせると80兆円にもなる一大産業がヘルスケアそうヘルスケアはまぎれもなく成長産業だ。

さて、キッタハッタの自由闊達な創造的活動がまかりとおり、優勝劣敗がはっきりする自由市場(フリーマーケット)ではイノベーションは死活的に重要だ。だから、自由市場の企業を対象とする通常の経営(学)ではイノベーションが一大テーマになりうる。とはいえ、自由市場とはリアルな世界に存在するのかと問われれば、いやいや自由市場はバーチャルな理念型であり研究者のアマタの中だけに存在するステレオタイプだ。

それはさておき、価格や人件費までもが暗黙的に診療報酬制度、医療計画、医療法、保助看法、PMDA(Pharmaceutical and Medical Devices Agency)などの制度によって規定・規制されている保健・医療・福祉サービスの(準)公共セクターは、幸か不幸かフリーマーケットではない。いやむしろ、フリーマーケットを原理的に信奉する市場原理主義者からは忌み嫌われる規制市場だ。

だから、この界隈でイノベーションを議論するためには、ともすれば理念型に走りがちなマーケットというよりはむしろ、政策、制度、システムに始まり、風土、文化、社会的共通資本(宇沢)までを包摂するリアルなインスティテューションを議論するという構えが必要となってくる。

政策(policy)をはじめとする多様なインスティテューションを分析し先取りしバグを突いて経営(management)に活かすことになるので、ヘルスケア経営学とは政策分析とマネジメントが一体となったものでもある。

個別の病院などのウェルビーイング増進をミッションとするインスティテューションを対象にすれば、ミクロレベルのヘルスケア経営となり、コミュニティ全体のウェルビーイング生態系を対象にすればマクロレベルのヘルスケア経営学(つまり地域包括ケアのヘルスケア経営)となり、その中間あたりに注目すればメゾレベルのヘルスケア経営になるだろう。

メゾレベルの地域包括ケアシステムでのヘルスケア経営のトレンドで注目しておきたいのはインテグレーションを進める保健・医療・福祉・介護の複合体経営だ。2007年度の医療法改訂で「社会医療法人」が新設されたが2014年には複数の医療法人や社会福祉法人がマネジメントする多様な施設を一体的に経営できるようにするために非営利ホールディングカンパニー型法人の設立が閣議決定されている。

また2016年の医療法改正では「地域医療連携推進法人」という仕組みが導入された。この新手のインスティテューションは海外IHN(Integrated Health Network)を参考に導入されたもので、酒田市の日本海ヘルスケアネットなど希少ながらも応用事例がある(参考サイト)。

いすれのレベルでも、鍵概念は、コラボレーション(多職種連携、チーム)によるウェルビーイングの増進となる。患者、利用者のウェルビーイグ増進をミッションとしつつ、従業員などのステークホルダのウェルビーイングを実現するという二刀流が求められる。

キュア(医療)は直すウェルビーイングであり、ケア(介護・福祉)は支えるウェルビーイングであり、予防・健康増進は伸ばすウェルビーイング。医療、保健、福祉、介護つまりヘルスケアは、いずれのミッションもウェルビーイングに収斂する。

ゆえに多少格式張って言えば、ヘルスケアのイノベーションをまっとうに議論できるのは、フリーマーケットを前提にする一般産業用の経営学ではなく、ミクロ、メゾ、マクロのウェルビーイング・インスティテューションを包摂するヘルスケア経営学である。そんなことが背景があり、雑談のような話でよかったらお引き受けしますよという条件つきで「看護におけるイノベーションの創出」という講演をとある学会でしたことがある。

そうこうしているうちに、別の学会が「高度実践看護が担うイノベーション ―融合する知の実装―」を統一テーマにして学術集会を開き、そこで教育講演をやってくれという。ともあれ看護系は、どうしても目先、口先、手先の臨床に埋没して、モノコトを俯瞰する経済・政策・経営を架橋する社会科学に疎い人たちが多い。だから、この手の講演は分かりやすく話題を提供する必要があるし、また、そこがオモシロイところだと思う。

ヘルスケアの地平に拡がるイノベーション(の活用と創発)をどうとらえるのか?!そのためには、ぜひともすわりの良い視座、つまりディシプリンとしてのヘルスケア経営学のような知的な構えが必要だ。いずれまとまった本にでもしてみたいものだ。

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