ヘルスケア経営学の試論


システム科学、制度派経済学、新制度派経済学、イノベーション理論の知見を援用して、筆者のオリジナルセオリーとしてヘルスケア経営学を試しに構想してみる。医療管理学や看護管理学と異なることは、それらがタテ割の医療や看護のみを対象とするものだが、ヘルスケア経営学は、保健・医療・看護・介護・福祉をヨコ方向に包括してヘルスケアととらえ、それらを俯瞰して包括的にマネジメントするときの視点、視座、方法論を提供することになる。

インスティチューション(制度)は、システムの一部であり、システム内での役割や行動を規定するためのフレームワーク。システムは、物理的・技術的・人間的な要素の集合であるのに対し、インスティチューションは、その中でどのように意思決定がなされ、資源が分配されるかをコミュニケーションを介して制御する。

たとえば、企業の経営システムにおいて、制度はその企業文化、雇用契約、報酬体系、ガバナンスルールなどであり、それらが従業員や経営者の行動を規定する。正確に言えば、インスティチューションはシステムの中に存在し、システムの安定性を維持しつつ、システムが進化する際にも適応しながら持続する。

つまりインスティチューションはシステムの部分集合ということになる。システム全体が様々な要素の相互作用を通じて動的に機能するのに対し、インスティチューションはそのシステム内での行動基準を与える一部であり、システム全体が効率的かつ秩序立って運営されるための枠組みを提供する。

シンプルにいえば、

  • システム = 複数の要素や関係の総体、つまりSystem=(entity, relation)
  • インスティチューション = その中で行動とコミュニケーションを規定するルールや仕組み

このようにとらえることで、制度的要因やシステム全体との関係を踏まえた包括的な視点から、保健、医療、福祉、介護などの分野の経営課題を整理することが可能となるだろう。14ほどの主要なポイントを整理してみる。後半の9~14はイノベーション対応と創発に関するものだ。

1. ウェルビーイングの実現

近代以降、厚生経済学などではwell beingないしはwelfareは「厚生」と訳され、福祉論では「福祉」と訳されてきたが、ヘルスケア経営学では、ウェルビーイングについて以下の4点を重視する。しかしながら、患者のウェルビーイングが絶対視されるあまり、従業員のウェルビーイングが後手後手になっているのが、今日のヘルスケアだろう。ウェルビーイングは、ヘルスケア経営のミッションないしは究極のゴールであると同時に資源でもある。ここに、目的であり手段でもあるという複雑なループ構造をマネジメントするという課題が現れる。

ヘルスケア経営が生み出すべき価値には大きく分けて追求的価値(purposeful value)と探索的価値(purposive value)とがある。前者は計量化の対象となるが、後者は定性的なものだ。追求的価値とは、(quality)、安全(safety)、効率(efficiency)があるが、これらはトレードオフになりやすい。かたや探索的価値とは「いのち」の意味に関するものであり、生活生命人生が含まれる。いずれも生きること(life)に含意されるものである。

  • ウェルビーイングと自己組織性:苦痛を避け心身ともによりよい状態、つまりウェルビーイングを持続していこうとするのは生物の本性である。その本性は進化になかに埋め込まれている。生命の躍動(ベルクソン)が進化を支えるのだが、生命は絶えず、自己言及とゆらぎを創発させながら動いている。システム理論のレンズから見れば、ウェルビーイングに関わる制度とは社会システムとしての自己言及とゆらぎの契機をつくるものである。
  • 従業員のウェルビーイング: 医療や介護に従事する従業員が心身ともに健康であることは、患者ケアの質を高める上で不可欠であり、人的資源管理の中心的なテーマである。
  • 患者のウェルビーイング: 患者のケアを中心に据えた組織文化や制度設計が、医療サービスの質を高め、社会全体の福祉向上に貢献する。たとえば、治療を中心とするキュアは「直す」ウェルビーイング、看護や介護のケアは「支えるウェルビーイング」、予防・健康増進は「伸ばす」ウェルビーイングととらえることができるだろう。これらは複雑な入れ子構造をなしている。
  • 社会・地球環境のウェルビーイング:人間のウェルビーイングは社会や地球環境のウェルビーイングに依存する以上、社会システムと地球環境システムとのバランスを図って持続的に発展せてゆく必要がある。

2. 制度的環境とのすりあわせ

ヘルスケアに関わる経営は、外部の制度的環境と密接に関連していて、特に以下の要素が重要となる。

  • 法律・規制の遵守: ヘルスケアに関わる市場は新古典派経済学の教科書に登場するようなフリーマーケット原則がそのまま通じることは稀だ。経営者や管理者は、医療法、介護保険制度、福祉サービスに関連する規制を遵守しつつ、これらの制度的枠組みが経営に与える影響を考慮する必要がある。特に、労働法や健康安全規制は、従業員の人的資源管理と経営戦略に直結する。
  • 事業ビークル:国立、公立、公的、地方独立行政法人、一般社団法人、公益社団法人、医療法人、社会医療法人、特定医療法人、基金供出型法人など多様な法人が事業を乗せる法的なビークル(乗りもの)がある。それぞれ根拠法があり、いわゆる非営利性を担保するために多様な規制がかけられいる。
  • 政策との連動: ヘルスケアという公共財準公共財をやり取りする準市場(疑似市場)では、国や地方自治体の政策がヘルスケア分野に与える影響は大きく、政策の誘導や動向に応じた柔軟な対応が求められる。診療報酬制度や介護報酬制度をはじめとする制度に基づく財源の配分が組織の戦略にどのように影響するかが重要な論点である。

3. 内部制度の整備と組織文化づくり

制度派経営学の観点から、ヘルスケア組織内部の制度(インスティチューション)も重要である。

  • 組織文化とリーダーシップ: 組織のビジョンや価値観に基づいた文化形成が、従業員のモチベーションやエンゲージメントに影響を与える。特に医療機関では、患者ケアを重視した文化とリーダーシップの役割が重要である。
  • 報酬制度とキャリア開発: 医療従事者の労働条件やキャリアパスを適切に管理するための制度を整備することが、従業員の離職防止やパフォーマンス向上に寄与する。

4. ネットワーク・連携・統合の推進

制度派経営学では、ヘルスケアにおけるネットワークの進化プロセス、つまり連絡、調整、連携、統合が重要な論点となる。

  • 異なるサービス間の連携: 保健、医療、福祉、介護の各分野は、それぞれ異なる制度や慣習に基づいて運営されているが、これらがシステムとして連携し、統合的に機能することが必要である。制度的な枠組みを超えた連携が、より効率的で質の高いサービスを実現する鍵となる。
  • 地域包括ケア: 地域レベルでの連携が重要であり、地域包括ケアシステムの構築やネットワークの活用が求められる。これは、異なる組織や分野の間での協力関係を促進し、患者や高齢者のケアを円滑にするための制度設計に関わる。

5. 多様性と包摂の配慮

ヘルスケア分野では、多様性(ダイバーシティ)と包摂(インクルージョン)の推進が重要である。

  • 多様な人材の活用: 介護や医療に従事する従業員は、性別、年齢、国籍、専門分野などの点で多様である。この多様性を組織内でどう活かし、適切な管理を行うかが問われる。
  • 包摂的な組織運営: 多様なバックグラウンドを持つ従業員が能力を最大限に発揮できるよう、包摂的な職場文化や組織制度の整備が必要である。

6. メタレベル、メゾレベル、ミクロレベルを行き来するマネジメント

制度派経営学の枠組みでは、メタ、メゾ、ミクロの各レベルでの視点が重要となる。

  • メタレベル: 国の政策や法規制、グローバルな動向に応じたヘルスケアシステム全体の適応が問われる。SDGsなどの国際的な指針が影響を及ぼす。
  • メゾレベル: 地域や業界全体での連携や制度設計が重要である。特に、地域医療ネットワークや産学連携による人材育成が求められる。
  • ミクロレベル: 個別の医療機関や福祉施設における具体的な人事管理、患者ケア、リソースの最適配分などがミクロレベルの論点となる。

7. 競争優位性と革新のための制度デザイン

ヘルスケア組織は、競争力を持続し、革新を続けるために、制度設計(institutional design)を見直す必要がある。

  • イノベーションと情報・知識管理: 医療や福祉分野では、最新の技術や知識を活用し、継続的に改善していくことが求められる。これには、外部の教育制度や研究機関との連携も重要である。
  • タレントマネジメント: 組織が高度専門職のスキルを持つ人材を発見し、育成し、維持するための制度的なフレームワークが求められる。

8. 心理的安全性と組織学習

ヘルスケア組織内の心理的安全性組織学習の促進も、制度派経営学における重要なテーマである。

  • 心理的安全性の確保: 医療従事者がリスクを恐れずに意見を述べ、チーム内で建設的な対話を行える環境を制度的に確保することが、組織の改善に寄与する。
  • 組織学習の仕組みづくり: 変化する制度的環境に適応し続けるために、ヘルスケア組織が継続的に学び、進化するための学習システムが必要である。

ヘルスケア制度派経営学におけるイノベーションへの対応とイノベーションの創発は、制度やシステムを中心に考えるため、以下の視点が重要となる。

9. 制度的枠組みの中でのイノベーション対応

イノベーションへの対応は、既存の制度や規制の中で新たな技術やプロセスを取り入れるプロセスである。ヘルスケアにおいては、法的規制や倫理基準が強く関与しており、これを前提とした慎重な対応が求められる。

  • 規制の遵守と適応: 医療や介護分野では、法的規制が新しい技術の導入に影響を与える。例えば、遠隔医療やAI診断の導入に際して、既存の規制に適応しつつ、その枠組み内でイノベーションを進める方法を見出す必要がある。
  • 政策との連動: 政策がイノベーションを促進する重要な要因であり、ヘルスケア制度派経営学の観点からは、国や地方の政策を理解し、それに対応した形で技術やサービスを導入することが求められる。政策支援や補助金の活用も含まれる。

10. 制度の再設計とイノベーションの促進

ヘルスケア経営学は、既存の制度を維持するだけでなく、必要に応じて制度を再設計し、イノベーションがより促進される環境を作ることも目指す。

  • 柔軟な制度設計: イノベーションを阻害する制度的な障壁を取り除き、適切な規制緩和や新しい枠組みの構築が求められる。例えば、革新的な医療技術や新しいケアモデルを迅速に導入できる柔軟なガバナンスが必要となる。
  • 制度的実験: イノベーションを促進するために、制度的な枠組み内での実験(サンドボックス制度など)が有効である。これは新しい技術やモデルが実世界でテストされ、評価された後に広く導入されるプロセスであり、制度の進化を可能にする。

11. 組織のネットワークとコラボレーション

ヘルスケアは多くの専門職や組織が連携するシステムであり、ネットワークの中でのコラボレーションがイノベーションの創発を促進する。異なる専門領域や業界の間での協働が、既存の制度の枠を超えた新しい発想や技術の開発を可能にする。

12. システム思考とイノベーションの拡張

ヘルスケア経営学は、組織やシステム全体を俯瞰して捉えるシステム思考を重視する。これに基づいて、イノベーションがシステム全体にどのように影響を与えるかを見極めることが重要である。

  • システム全体の最適化: 新しい技術やプロセスは、組織やシステム全体の中でどのように機能するかを評価し、局所的な改善ではなく、全体の効率性や効果性を高めることが求められる。例えば、医療機関でのロボティクス技術の導入は、単一の部門だけでなく、病院全体のワークフローや患者ケアにどのような影響を与えるかを検討する必要がある。
  • フィードバックループの構築: イノベーションは、システム全体に影響を与える動的なプロセスであるため、フィードバックループの構築が重要である。イノベーションがもたらす結果を監視し、それを基にさらに制度やプロセスを改善するループを回すことで、持続可能な革新が可能となる。

13. メタ、メゾ、ミクロレベルでのイノベーション創発

ヘルスケア経営学のフレームワークでは、メタ(国や国際機関)、メゾ(業界、地域)、ミクロ(個別組織)の各レベルでイノベーションを捉えることができる。

  • メタレベル: 国やグローバルな政策、制度が新しい医療技術やケアモデルをどのように支援し、促進するかを検討する。グローバルなヘルスケア政策やイノベーションの標準化がこのレベルの議論に含まれる。
  • メゾレベル: 地域や業界全体でのイノベーション促進を目指し、ヘルスケアネットワークや地域包括ケアシステムなどの広域連携を通じて新しい技術やサービスを実現するための枠組みを構築する。これには、地域内での医療機関や福祉サービス間の連携強化が含まれる。
  • ミクロレベル: 個別の病院や施設が、現場でのニーズに応じたイノベーションを実施するプロセス。特に、組織のリーダーシップが従業員に対してイノベーションを奨励し、新しいアイデアを試す文化を作り出すことが重要となる。

14. 組織内外の知識共有とイノベーションの加速

ヘルスケアにおけるイノベーションを加速させるためには、組織内外での知識共有知識創造が不可欠である。

  • 知識管理システムの構築: イノベーションはしばしば既存の知識の再利用や、異なる分野からの知識の統合によって生まれる。組織内での知識管理システムの整備や、外部の研究機関や他組織との協力を通じて、新しい知識を蓄積し、それをイノベーションに結びつけることが重要である。
  • オープンイノベーション: 外部との連携やオープンな枠組みでの知識共有を推進し、他の業界や異なる専門分野とのコラボレーションを通じて、革新的なソリューションを生み出す。このようなオープンなアプローチは、ヘルスケア分野での新しい技術やプロセスの創発を促進する。

小結

ヘルスケア経営学では、外部の法律や政策との適合、内部の組織文化や報酬制度の整備、異なる分野間のネットワークと連携、ウェルビーイングの実現、メタからミクロレベルまでの制度的影響を考慮した包括的なマネジメントが重要な論点となる。このように、制度派経営学の枠組みを用いることで、ヘルスケア分野における経営の複雑性と多様な課題に対処できるだろう。

  ヘルスケア経営学におけるイノベーションへの対応と創発は、制度的環境を前提にしながらも、柔軟な制度設計、ネットワークの活用、組織内外での知識共有を通じて進化させるべきである。メタ、メゾ、ミクロの各レベルでの制度的支援を念頭に置きつつ、心理的安全性や組織文化を醸成し、システム全体の最適化を目指してイノベーションを促進することが求められる。

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