講演だけで関東と関西を往復するだけではいかにも芸がない。神戸で講演をひとつこなしてから、そそくさと新幹線、地下鉄烏丸線、阪急京都線を乗り継いで京都河原町へ移動。根っからの旅好きにとっては、「講演」というアウトリーチ活動に要領よく「旅」をくっつけて「講演旅行」に仕立て上げて、初秋の季節を楽しむに勝ることはない。
それやこれやで、初秋の日に知恩院の宿坊、和順会館で一泊してから京阪本線で東山の山並みを右手に見ながら北へ向かい、出町柳で叡山電鉄叡山本線に乗り換え修学院で降りて曼殊院門跡を訪れた。前日の荒天が嘘のように止んだその日の京都あたりは快晴で風もなく落ち着いた良い日となった。
さて、宗教学者にして民俗学者でもある鎌田東二さんは京大に勤めていた頃から、曼殊院の近くに住んできたそうだ。なんでもそこから比叡山を700回以上登拝しているという。鬼才鎌田さんとは日医大の長谷川先生が主催した勉強会でいろんな話をしたことがあるのだが、彼が書いてきた代表作は大体読んできている。今年の夏、月山界隈をフィールドワークしてきたのだが、そのあと、参考文献として鎌田さんの「古事記と冠婚葬祭」、「日本人は死んだらどこにいくのか」を読んだ。
鎌田東二ここにあり。日本人論の地平を開くような素晴らしい本だ。
そのなかに、がんを罹患しているご自身を「がん遊詩人」として茶化しつつも、曼殊院あたりから比叡山に登拝している、鎌田さん自身の人生の生と死を諦観しつつも凝視するような文章の濃度がとても高かった。この鎌田東二の内面から絞り出されたかのような達意の散文の濃度に触れて、なぜか曼殊院道を歩き曼殊院の枯山水、そして庭園を眺めたくなったのだ。
小さな桂離宮とも称される曼殊院。延暦年間(782~806)最澄により、鎮護国家の道場として比叡の地に創建されたのが曼殊院のはじまりだ。面白いことに、曼殊院と菅原道真との縁は深い。
天暦年間(947~957)是算国師(ぜさんこくし)のとき道真の怨霊を鎮めるために北野天満宮が造営されるや、菅原家の出自であった是算国師が、初代曼殊院別当職に補されたのだ。それ以来、以後延々と明治維新まで通算1000年もの長きにわたって北野別当職が曼殊院を歴任してきたのである。
そして時は下って明暦二年(1656)。桂離宮を創始した、かの八条宮智仁親王の第二皇子良尚法親王がこのお寺に入寺して、現在の地に堂宇を移し造営されたのが今日の曼殊院である。そんなことから、趣向・設計思想は桂離宮と共通するものが幾多もあることから、曼殊院は「小さな桂離宮」とも呼ばれている。
思えば神戸ではポジティブ感情を創発させる脳科学の話や瞑想ワークショップを面白おかしくやらせて頂いた。ところ変わって、京都では、曼殊院の枯山水、書院庭園に現前する初秋の風景は眺める者の心象に静謐なポジティブ感情を創発させることにはたと気がついた。そんな風景の向こうに鎌田さんのことを想った初秋の一日であった。
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