岡山城にシステム的な賢慮を見る

全国国立大学看護部長会という会に招かれて岡山医療センターで「ポストコロナ時代のウェルビーイング・リーダーシップ~心理的安全基地と挑戦を育む組織・人材開発」という講演をやってきた。

前の日は夕刻まで都内の大規模急性期病院で組織・人材開発のワークショップをやり、新幹線に乗って岡山まで移動。はからずともその翌日の講演も似たようなテーマの講演だ。組織開発や人材開発というテーマは、セオレティカルな部分もあるのだが、現場に近い実践の部分のほうがはるかに大きい。

理論的であり実践的な内容でないと現場からは評価していただけない。では研究者はとかく理論のほうに足場を持つ研究者は、どのようなスタンスをとればいいのか? 

賢慮(phronesis)。

臨床の現場では、とかく目、手、口、足腰を使い結果を出すことができる技術知(techne)がものをいう。研究者は、その現場のワザに普遍性や再現性のある理論知(episteme)を与える。これは学理や法則性といってもよいだろう。

フローネシスとは、アリストテレスが言い始めたとされるが、技術知と理論知を行ったり来たりして、それぞれを高める媒介のようなものだ。その触媒があるから技術は学理に触れて高まるし、現場のワザに触れて学理も進化してゆく。双方をぐるぐると循環させ再帰させる触媒のようなものが賢慮。

岡山城の天守は、外壁は黒塗りの下見板で覆われていて、黒が際立つ。だから、烏城という別名があるそうだ。烏とはカラスのことだ。また、発掘研究によると、宇喜多秀家時代の金箔瓦が出土しているという。築城時には、城内の主要な建物の随所に金箔瓦が用いられ、豊臣政権下の有力大名である威厳が、誇示されていたという。瓦をはじめ城の随所が黄金によって荘厳されていたので、金烏城とも呼ばれていたようだ。

烏城やら金烏城という呼称は、どこかこの城の美しさを嘲っているような響きがある。なにもかくも美しい岡山城の凛々しい姿を嘲笑することはないのではないか。この嘲笑的なネーミングの由来は、宇喜多秀家の来歴を一瞥するとうなづける部分がある。

宇喜多秀家は毀誉褒貶が半ばする人物だ。 宇喜多騒動でトラブルを起こし、西軍として参戦した関ヶ原の戦いで敗走して、 秀家は伊吹山中に逃げ込んだ。 宇喜多家は家康によって敗者として改易されたが、その後、 西軍側であった島津義弘などを頼って薩摩国に潜伏しながら落ちのび、鹿児島県垂水市あたりに隠密にかくまわれたが、発見されて八丈島に島流しとなり、不遇の余生を送ったのだ。

だから「徳川史観」から見れば、敵対した勢力の有力者であり、無残な敗者にして逃亡者。つまり否定しておくべき武将だったのだろう。烏城やら金烏城といった悪意さえ感じるネーミングからはそんな歴史的意図を感じ取らねばいけないだろう。


ともあれ、築城という現場の技術には、基礎工事、梁や柱のデザインはおろか、内装、外装、美学、景観との融合、機能実装、防衛学、農商工業を振興する地域経営など実に多様な技術のシステム的、デザイン的な総合化が必要だ。それらの実に多様な技術の広がりの上に、築城学という学理が成り立っている。築城学という学理によって、広大無辺の技術や組織開発、人材開発という裾野が広がる。


さすれば、築城にかかわる学理と技術知を往還させる賢慮の持ち主こそ、宇喜多秀家をはじめとする城主とその参謀諸氏ということになろうか。実に賢慮に富む賢明な城主が賢君であり、城は、賢慮の象徴にして、その唯一無二の具象システムなのだろう。

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