成田山参篭断食 

 


  この2年間の懸案のひとつが成田山参篭断食。やっと状況が整い3泊4日のまとまった時間を作ることができたので実行に移すことができた。

今執筆中のdissertation paperを推敲したり、仏教関係の調べものをするには、もってこいの環境だ。このところ関心を持ってきたテーマのひとつとして、仏教におけるsystems thinkingやtranslational thinkingだ。非常に幅広い仏教のなかでも、際立ってsystematicかつsystemicな体系を誇るのは密教、とくに真言密教だろう。

この断食道場は、パソコンやスマホなどの電子機器の持ち込みは禁止なのでネット環境から心身を離脱させることになる。したがって情報や知識へのアクセスは紙ベースの媒体に限定される。さいわい成田山には仏教研究所が付設されており、膨大な蔵書と静かな閲覧室があるので、ゆっくり読書するにはもってこいだ。

 

 (寛朝大僧正)

食べることをすべて絶ち、護摩供養、読経、読書、論文チェック、ノートづくり、散歩、参拝、ボーッと思索する、以外はなにもせず。

断食はいわゆる飢餓状態に自分を置くわけだから、これは生命にとっての一大事、一大危機だ。その一大危機状況を意図的に作り出し、そのプロセスのなかで、なにかを感じたり、内省したり、異質な刺激を得てゆこうというのは、実は飽食の現代にあって逆説的な贅沢なのかもしれない。

さて、成田山新勝寺は平安時代中期に起きた平将門の乱の際、939年(天慶2年)朱雀天皇の密勅により寛朝大僧正を東国へ遣わしたことに起源を持つ。なので、平将門が生まれたとされる佐倉市の将門町(まさかどまち)の住人は今でも成田山への参拝を拒んでいるくらいだ。

全国、断食を行う施設は多い。しかし成田山参篭断食の特色は:

①真言宗智山派成田山の総本山が運営する由緒正しい密教修行道場であること。祐天上人、二宮尊徳、倉田百三、歴代の市川團十郎らもここで断食修行を行っている。

②広大な境内には各種宗教施設、庭園、美術館、修行道場、瞑想・断食・写経プログラムなどの充実したインフラストラクチャーが整っている。

③それにも拘わらず、2泊3日で5000円(3泊目以降は一日につきプラス1000円)という値段は、不謹慎な比較だが、北海道のライダーハウスとまではいかないものの、正式な断食施設のなかでも最も安い部類だ。

④断食に期待する成果は人それぞれに異なるし、かなり主観的なものだ。それでいいと思う。また断食から引き出す価値をかりに、

価値=成果/コスト

と、とらえてみれば価値はかなり大きなものになると思われる。

⑤その経験価値を修行者といっしょに創ってゆく「場」が断食道場。経験価値をシェアする場が断食道場。だからたまたまのご縁でいっしょになった同室の方々のことも大切に。

⑥健康法、デトックス、ダイエットとしての断食という文脈はここには一切ない。しかし、参加者の多くは減量、体質改善、健康増進を主目的としているようだ。かつては心身鍛錬が断食の主目的だったが、今は断食がケアシフトしているのだ。この断食道場は、そういったスタンスではなく、修行としての「参篭断食」を前面に打ち出しているのが、またいい。

 (金剛界曼荼羅)

 所感など。

・いい経験だった。今までまる二日間の断食はやったことがあったが、3泊4日連続で断食というのは初めてだ。

・二日目の午後はちょっとだるくなった。たぶん新皮質の脳血流が減っているためだろう、分析的な作業はしんどくなる。英語のペーパーを推敲するのがうっとうしくなり、密教関係の一般書、専門書などを集中して読んだ。

・アタマの使い方が変わってくる。断食中は、新皮質系の前頭野あたりででものごとを論理的、直線的に考えるというよりは、もっと奥まった旧皮質や古皮質や辺縁系でものごとをじわ~っと丸く包み込んでゆく感じだ。

・とはいえ、早朝の護摩供養や午後3時間からの読経を除けば、時間はたっぷりありかつゆっくり流れる。なので、必然的にぼーーーっとする時間が増えるのだ。ネットもなし、スマホもなし、食べ物もなし、水以外の飲料もなし・・・・。ないないづくしというのは、結局、自分の内面や身の回りのリアルな環境に意識の方向性が向く。

・ぼーーーーっつとすることは贅沢なことだ。いいことだ。

・日常生活であくせくしている自分がなにか遠い世界の別人に見えてくる。

・20メートルくらい先には出店などがあり、そこから鰻の蒲焼の旨そうな臭いが流れてくる。これはこれでなかなかオツなものだ。

(不動明王)

・同室の修行者の皆さん、けっこう暇をもてやましているので、断食の話、たわいもない世間話などけっこう楽しいものだ。

・境内でぼーーとしていると、不思議なものでやたら外国人のツーリストから話掛けられる。タイ、トルコ、インド、アメリカなど。インドから観光にやってきた親子は、日本にきてインドの神様(十二神将などは仏教に習合されて仏を守護する眷属的な位置になっている。かたや現在インドのヒンドウー教ではお釈迦様は多くの神々のひとつという位置づけだ)を見るとはビックリ仰天だと眼を丸くしていた。

・成田山公園の庭がとてつもなく美しいものに感じるようになる。眼(視覚)のみならず、耳(聴覚)、鼻(嗅覚)、舌(味覚)、身(触覚)、意(意識)が鋭敏、敏感になってくる。木立を通り抜け、池を渡る風にも甘い臭いがある。その風に乗って様々は動物の声が聞こえてくる。断食中はもちろん味覚を用いることはないのだが、自分の唾液の味がおいしく感じるのはちょっと変態になった気分でもある。要するに五識が鋭敏になるだ。と同時に、うつくしい自然に対してココロの底から畏敬の念や感謝が湧き上がってくる。

・脳の辺縁系や深い部位でものごとを感知するようになる。かなり断食と瞑想は親和的。ローマカトリック、回教でも断食を宗教的な修行として位置づけているのはうなずける。

・成田山全体がパワースポットのようなものだが、やはり、奥の院の気の凝集性は格別。

・Translateは唯識哲学の理論的系譜を継承する密教用語では「転識得智」。眼(視覚)、耳(聴覚)、鼻(嗅覚)、舌(味覚)、身(触覚)、意(意識)の五識を「成所作智」に転換してゆく。これらの前五識をまとめるこころのはたらきを含める六識を転じて「妙観察智」を得る。さらには自我に対するとらわれや自我意識といった七識を転じて「平等正智」を得る。さらに第八識の阿頼耶識を転じて「大円鏡智」を得てゆく。さらに、第九アンマラ識をトランスレートして「法界体性智」としてゆく。

・今アメリカ西海岸あたりではやりつつあるMindfulnessってのは、実は、転識得智のプロセスとしてとらえれば分かり易いだろう。意識もデザインの対象としてとらえれば、自分というprojectの中心に位置する自分の意識に対してアプローチしてゆくことは自己イノベーションやイノベーションデザインの視点から見てもとても大事なことだろう。

・転識得智は信仰というよりは、認識論、現象論の世界だ。ゆえに唯識哲学の根幹でもある。でも真言密教では身口意の三密修行のシステミックな実践方法論を内包している。

・三密とは、身密→身体活動、→言語活動、意密→精神活動ということでようは人間の活動システム(human activity systems)の根幹だ。煩悩にはまるとこれらはレベルアップしない。でも、ちょっと工夫するとかなりレベルアップできる。ちょっとをすごくに変えるのが密教の修行。

・その一方、はやり表象や象徴を通した信仰という側面も強い。金剛界曼荼羅の配置を見ると:

「成所作智」・・・・・・・不空成就如来(北)

「妙観察智」・・・・・・・無量寿如来(西)

「平等正智」・・・・・・・宝生如来(南)

「大円鏡智」・・・・・・・阿しゅく如来(東)

「法界体性智」・・・・・大日如来(中心)

というようになっている。仏教芸術として表象、象徴として表現(荘厳)している。京都の東福寺の光明院を先月訪れた。徹底的な表現主義である密教は、徹底的な非表現主義の禅とは対蹠的だ。

・一般にSystem=( entity, relation )と表現されるが、仏教とくに真言密教ではentityの実在性はないと観るだけではない。つまりモノ性や意思決定主体のヒトの存在を空と観て一切を空みなす空観や、現象するものすべてを仮のものと突き放す仮観でもなく、両方が備わってみる中観、さらには三諦円融観に進んでゆく。

・三密を「絶対的な存在」と合一させてゆくというのが成仏(ブッダ=仏に成るということ)。「絶対的な存在」が法身大日如来ならば仏教の密教だが、「絶対的な存在」をGodにしてしまうと、いわゆる西洋社会では受け容れがたいGodに対する冒涜行為とみなされる。後者の視点に立てば護摩供養などというものは「悪魔のミサ」のようなものだ。

・宇宙の一切が関係性(縁)によって創発され、つねに変化している。大日如来さえも、その本性には空性があるという。systems thinkingの論点で、真言密教の世界認識を書いてみたら面白いだろう。一神教の世界観と異なって多元的なエコロジカルな世界観だとおもうのだが、さて。

Cover of book "The Systems View of life" by Fritjof Capra

・仏教研究者のジョアン・メイシーは縁起をdependent co-arising(相互依存的連係生起)ととらえている。Value co-creationは縁起によって相互依存的連係生起的に創発すると押さえればシックリくる。よし、これだ。

・水はとほうもなく貴重なものだ。これさえ飲んでいれば人間はしばらくは命をつなぐことができるのだ。ひたすらありがたい。動物は水がなければ生存できないって、アタリマエのことが体の芯から理解できた。

・最後にいただいたお粥(三分がゆ程度のごく薄いもの)は美味しかった。その美味しさに素直に感動した。断食明けの初めて食事がbreakfastだ。fastingつまり断食することをbreakする、つまり破る・止めるのが、朝の食事だ。胃に染み渡った感じ。焼き味噌の味が強烈に濃く感じた。食べものはありがたい。家に帰っても出される食べ物はすべて感謝の気持ちをもって、ありがたくいただかなければいけないのだ。

                            ***

自転車仲間とインドネパールを走った折に、訪れたお釈迦様の生地ルンビニ=仏教軌道の原点。そして、その教えが根本二大分裂後、大乗仏教が勃興し、チベットや中国に中伝したり、北伝したり、変質しながら伝播してきた。その精華が大天才・弘法大師空海によって体系的にまとめられ日本に伝えられ、寛朝大僧正によって開山された成田山=今ここの仏教の帰着点。二つの点をやっと結ぶことができてよかった。

次は三つめの点を探す旅だ。

密教修行における断食を現代システム論のひとつの到達点である自己組織化という点でとらえている人はたぶん他にはいないだろう。自己組織化とは、システムが環境変化に適応してみずからの構造を変えるのではなく、環境変化のあるなしにかかわらず、自力でみずからを変えることをいう。環境適応ではなく、内破の力によってみずからを変えることであり、まさに断食は自己組織化の実践だ。しかも、だれにでもできることだ。

断食は複雑適応システム(complex adaptive system)としての人間の自己組織化能力(self-organization potency)を応用した健康法、鍛錬方、修行方だともいえるだろう。

甲田光雄博士はかつて断食の効能を10に分けてつぎのように説明している。これらは、人間の自己組織化能力の発現ととらえることができるだろう。

1.断食は眠っている本来的な力を呼び覚まし、体質を変える
2.断食は快感をもたらす
3.断食はエネルギーの利用の仕方を変える
4.断食は宿便を排出する
5.断食は環境毒素を排出する
6.断食は自己融解を起こす
7.断食は遺伝子を活性化させる
8.断食はスタミナをつける
9.断食は免疫を上げる
10.断食は活性酸素をへらす

いずれにせよ、健康法としての断食をサイクリングとランニングに組み合わせて細々とやっている自分からしてみれば、大変よい「節目」になったと感じた。夏はこのフローをうけて、絞り込んだ身(?)、清浄となった言葉(?)、鋭敏になった意(?)を以って北海道を自転車でシャカシャカ走って三密自転車道(?)を走る計画だ。

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