(水野南北の肖像画)
食を断つ断食、食を節する節食。断食や節食は、たしかに健康によいというのは、医学の臨床研究のエビデンスもずいぶんと積みあがってきている。たしかに、やれグルメだ、やれ飽食だと、ひたすら食べるという食欲の追求は、栄養過多を現代人にもたらしている。生活習慣病の一大要因は明らかに「食べすぎ」である。食べることができずに死ぬのではなく、食べ過ぎて死ぬというのは、じつは、人類の歴史、はたまた生命の歴史38億年を振り返っても、生物として、特異きわまりない出来事だ。
心臓病、がん、糖尿病、骨粗鬆症、肥満は飽食病(diseases of affluence)といわれている。食べすぎて病気になったり死ぬとは、ここ50年くらいの日本を含める先進国に蔓延している極めて現代的な「病」だ。幸か不幸か、その50年という歪んだ瞬間に生きている現在人。なので、北欧、アメリカ、英国、ドイツ、フランス、イタリアあたりの健康志向の知的なクラスでは、断食や節食はだんだんと静かなブームになってきている。
日本も例外ではない。ただし、欧米でトレンドになっているから断食や節食に注目しようという追随型の付和雷同には反対だ。なぜなら、日本ならではの和風断食、節食の優れているポイントは4つあり、そこに注目するといろいろなことが見えてくるからだ。
①近年、食の「欧米化」が進んでいるとはいえ、日本には日本の食生活の伝統がある。②日本には、断食や節食に関する連綿たる伝統、方法論のシステムがある。③日本の断食・節食システムは、食にとどまらす、命のありかた、生き方、運命などをも視野に入れた優れた全体論(holism)志向なものが多い。④仏教、古神道、神仙、仙道、修験道の修行システムにも断食・節食は体系的に取り入れられている。
たとえば、多くを食べずに健康になる、幸せになる、運をよくする方法論を説いた人物が江戸時代中期の日本にいた。その人、水野南北という。命、食、運をシステム的にとらえ、あらかたこんなことを説いた。
<以下引用>
○命のありかたこそが運である。食のありかたこそ命に直結する。ゆえに、食のありかたこそが運を大きく左右する。(明瞭な三段論法)
○人間の生命の根本は食である。たとえどのような良薬をもちいても、食べなければ生命をたもつことはできない。だから人にとって本当の良薬は食である。
○食事量の多少によって、人間の貧富や寿命や未来の運命を予知することができる。古人の言葉に「天に禄なき人は生じず、地に根なき草は生えず」ということばがあるが、その身ほどによって天より与えられた一定の食事量がある。みだりにむさぼり食う者は、天の戒律を破る者である。生命の存在するところに必ず食べ物があり、逆にいえば食べ物あるところに必ず生命が発生する。食べ物は生命の源であり、生命は食べ物に随うものである。そして人間の生涯の吉凶は、ことごとく食によって決まるといっても過言ではない。
○三度の食事が粗食で少量の者は、悪相・貧相であっても金持ちになり、子孫に財産や名誉をのこすであろう。いつもは粗食だが時々大食するものは大凶である。
○いつも身のほどに不相応の美食をしている者は、たとえ人相は吉であっても運勢は凶である。その美食癖をあらためなければ、家を没落させ、出世も成功もおぼつかない。まして貧乏人の美食家は「働けど働けどわが暮し楽にならず」で、一生苦労する。
○大いに成功・発展の相があっても、怠け者でずるく、酒肉をたのしみ、自分の本業に精を出さない者には成功・発展はない。
○子供の相が貧相で悪くても、その親が食に慎しみをもつならば、みだりに貧相悪相というべきではない。子供は、その親のなすところによって悪相から善相に一変することがある。子に対して親は本であるから、その本が正しければ子もおのずから正しくなる道理である。もっとも、過去世の因縁を解いてやるのは親の務めであり、親が解けないほどの因縁の場合は、子が成長して自ら解くほかない。
○悪因を解き善因を積むには、陰徳を積むほかはない。世に慈善事業や放生をして陰徳を積んだつもりになっている者があるが、これらはみな人に知られる行為であり、真の「陰徳」とはいえない。
○仏法は精神を治めることを本とするゆえに食を慎むのである。なぜなら万事心が乱れることは、みな飲食を本として起るからである。飲食を慎むときは心静かになり不動心を得る。不動心を得れば、その道(仏道)を得ることはたやすい。
○千日千夜祈ってもあなたに実がなければ神明はどこにもおられない。また実を持って祈ろうとのぞむなら自分の命を神に献じ奉ることだ。食は自分の命を養うもとである、これを献じ奉るということはすなわち自分の命を献ずるのと同じである。
○万物ことごとく妙法でないものはない、また相でないものもない。また相には有無の二つあって無相はかたがないといってもその全体像ははっきりしている。これを微妙という。すなわち心であって簡単にはいいあらわせない。また有形は形であって、かたちのあるものは法であり、体もそうである。法あるものは滅びて行く。これが法の道であり相法の道である。性ことごとく微妙より来たって、はっきりと法形を生ずる。
<以上引用> 引用サイトはこちら
断食をすると、食べ物や水のありがたさを痛感する。食を断って、はじめて食の有難さに感じ入る。だれにでもできて、やろうと思えばすぐにできる断食・節食は、明日の健康管理(health administration)にとって必須科目だろう。
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