看護サービスX情報学Xシステム思考

Nursing Informatics at Kwantlen Polytechnic University

このところ、医療機関の現場や各地の看護協会での講演活動を通して看護と情報学(インフォーマティクス)、システム思考がますます接近していることを実感している。とくに倉敷中央病院で2日間カンヅメになって看護を含む多職種のチーム医療トレーニングをさらせていただいた時に強く感じた。

そもそも医療チームの中の看護業務は、患者の臨床情報のみならず、家族、社会における役割、死生観など非常に広範な情報(定量・定性ともに)を取り込むことによって成立している。「成立」というのは、以下のような一連のフローがアウトカムに集束して初めて成り立つということだ。とくに、近年アウトカム志向の看護サービスが強調されているが、情報の活用とは、成果にむすびついてナンボの世界だ。

さて、ここで注意したいのが、①データ→(意味づけ)→②情報→(編集・構造化)→③知識→(判断・行動)→④問題解決→(具体的な介入)④成果(臨床的効果、患者満足効果などのアウトカム)、という流れだ。(詳しくは拙著「看護経営学」などに詳しい)

ダントツに仕事ができる人たちは、どのような仕事でもこの流れを個人的に確立している。また、組織としても、この流れが組織学習として確立されることになれば、一段と高いレベルの組織の知恵にもなる。

ところが、看護の現場はさながらデータの洪水だ。バイタルサイン、各種検査データ、医師からの指示データ、患者の容態の時系列変化、じょくそうリスクアセスメント・・・数え上げたら切りがない。さらには、専門看護師や認定看護師になってくると、それぞれの専門分野ごとで扱う情報がガラッと変わってくる。同じ医師や看護師であっても専門領域が異なってくると話が通じない、なんてこともよくあることだ。

笑うに笑えない。データや情報に振り回されてしまい、知識、問題解決、成果といったより価値の高いフェーズにまでつながらないのだ。

そして、現代看護ではエビデンスとしての「記録」や問題解決志向(Problem Oriented)の記録といった情報の編集・構造化も強く問われている。行ったこと、考えたことをツラツラ書き記すだけの牧歌的な所感程度の記録はもはや過去の遺物だ。もっとも近年は、看護行為そして看護行為を記述する言語体系を標準化してゆくという動きも顕著である。

日本でも北米看護協会が提唱したNursing Interventions Classificationの日本語バージョンを導入・唱導する動きもあるくらいだ。すべての介入行為は標準的な言語で表現できるのか、という問いについては批判の俎上にあがることもある。たとえば患者の内面・実存的な苦しみ、そしてそれに対する介入の標準化は到底ムリで、だからこそ、物語り=ナラティブに注目すべし、との批判には一理も二理もあるだろう。

いずれにせよ、生成された知識をいかに判断と行動の、手段として活用できるのか、が問われているのである。つまり、具体的な問題が解決され、システムを介して何がしかのアウトカムが成果としてもたらされる必要があるのだ。

それゆえに、看護と情報学とシステム思考は親和性が極めて強く、また近未来の看護は情報学やシステム思考なしではまったく成り立たなくなるだろう。

医療の世界では、ウェラブルな生体情報センシングデバイスや臨床ビックデータの活用などというイノベーションが巻き起こりつつある。これらのイノベーションには大いに期待したいのだが、そのようなイノベーションによってもたらされる情報は、また新たな洪水を巻き起こすことになるだろう。

このような動向に対応するためには、それなりに新しい武器あるいはスキルセットが必要だ。それをひとことで言うと、「看護サービスX情報学Xシステム思考」である。

日本ではほとんど知られていないようだが、アメリカではこの方向での看護教育・研究のイノベーションが著しい。その。データ→情報のイノベーションにより効果的に対応して、知識→問題解決→成果という後半の流れの主人公である人間サイドのスキルセットを高めて行くというものだ。

たとえば、

デューク大学看護学部ナーシングインフォーマティクス

バンダービルド大学看護学部ナーシングインフォーマティクス

 ペンシルベニア州立大学看護学部ナーシングインフォーマティスク

 いずれも、「看護サービスX情報学Xシステム思考」を前面に打ち出したカリキュラムで勝負している。

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