羽黒山側からの「三関三渡」という見方では、羽黒山(現生)、月山(過去)、湯殿山(未来)が表象されているという。湯殿山側では、真言密教の世界観に基づき、出羽三山について「三山三宿」とよび、羽黒山は胎蔵界、月山は金剛界、湯殿山は金胎一致の理想世界と説かれている。そして、湯殿山は、即身成仏が成就する三社総奥の院、最神秘の霊場とされ、三社のなかでも別格である。
羽黒三山をテーマとする書物ではよくこんな説明が登場する。いかにもさもありなんという感じだ。羽黒三山の死と生のコスモロジー・システム(宇宙観)というと、いかにも清らかな神秘的な響きにあふれている。
とはいえ、羽黒山の死と生のコスモロジー・システムは、ドロドロした世俗的な寺社権力闘争の結果、かろうじて人為的に構成されてきたという側面もある。江戸時代には湯殿山をめぐる支配権闘争の繰り返しだった。天宥別当(寺院勢力のトップ)による世俗界の徳川幕府への接近、天海への政治的接近と天台宗への改修と真言宗の排斥、庄内藩勢力との政治闘争、天宥の「政敵」たちの抹殺など。
そして天宥は伊豆の新島へと島流しとなり羽黒山ではなく、縁もゆかりもない離島で死んでいった。
明治維新を迎えた後の西川須賀雄による仏教勢力の排除は先に述べたとおりだった。このような世俗的な闘争のはてに羽黒山の精神世界が構成されてきたことは、聖と俗のはざまは紙一重ということだろう。聖の表層のみをありがたく見て拝んでばかりいると、深層の闘争構図が見えなくなってしまうから要注意だ。深層の闘争構図をおさえておくことで、より深く「聖」なる部分に対する理解も深まるのではないか。
民俗学者の戸川安章(1986)は、「肉体を離れた霊魂は、生前のかれが崇敬の念を捧げ、朝な夕なに仰いだ山を目指して旅立つ。しかし生前に犯した罪業や、罪業から生じた穢れがまつわりついている間は、その山に登ることができず、途中のどこかにとどまっていなければならない。(中略)ある年数を経て穢れを解消した霊魂は、なんのだれそれという個性も消えて、『先祖さま』という大きなひとつの霊格に包含される。そのとき死者の霊は、月山とか鳥海山とかいった、生前のかれらが神なる山、神のいます山として朝夕に仰いだ高山に安住するのである」と著している(新版出羽三山修験道の研究)。
柴燈護摩は、その「生まれ変わり」の過程のなかで、母胎内で成長する新しい肉体と霊魂にまとわりつく業を焼き、さらには水で清め自分自身に絡みついている煩悩を焼き捨てるための通過儀式である。・・・・という説明は、どこか作為的でさえある。
秋の峰入りは、胎内の修行ともいわれる。この修行は、擬死再生をモチーフにした死と再生の儀式である。修行者は、穢れに満ちた身体を山に返し(つまり擬死)、新しい命をはぐくむ受胎の儀礼を行い、胎内(つまり道場)で魂を得て育ち、 修行の最後に産声を上げて復活する。その間、夜を徹した勤行や奥山の秘所を駆けめぐる山林抖擻(とそう)などの荒行が繰り返される。この峰入りは、現在、明治時代の「神仏分離」によって排斥され戦後の国家神道否定の流れのなかで再興した仏教の勢力とその反対勢力であり紆余曲折ののち、返り咲いた神道勢力が並立して別々に行っている。
ありし日々の神仏習合(神仏混交)の羽黒修験道はどこに行ってしまったのだろうか?羽黒山の死と生のコスモロジーの価値システムは、世俗的な諸勢力の闘争、葛藤、だまし合い、殺戮の業から生まれた超越的な妥協の産物なのかもしれない。身もふたもない見方だが。
コメント