2009年に開催された慶応義塾創立150周年記念事業の一環として開催された「未来をひらく福澤諭吉展」がたいそう面白かった。この記念事業の際に配布された「福澤諭吉展」の資料、史料が充実していて、諭吉研究者・ファン必携とまで言われている。同著を座右において、それ以来、諭吉関連の本を読み進めている。
さて、諭吉関係の書籍は多数に渡るが、とくに面白いのは鷲田小彌太による「諭吉の事件簿」3部作だ。小説という物語、歴史という物語を架橋する表現のありかたに関する著者独自の見解は「日本人の哲学」全5部作の随所で述べられている。
歴史をファクトの羅列のみで純客観的に、記する人間の視座、視点、主観、価値判断ぬきに記述することはできないとする著者は、物語、歴史、フィクション、ノンフィクションの都合のよい通弊的な画線を排除し、創造的な表現形態である小説の拡張性を司馬遼太郎を敷衍しながら展開する。
この鷲田先生ならではの論理的整合性を持つ表現形態論が、現実的対応をもって作品にあっぱれに結実したのが、「諭吉の事件簿」3部作だ。痛快である。
日本人の哲学5部作でも相当なテキスト量、そしてそれに投入された執筆エネルギーの総量は相当なものであると思われるが、この5部作を書下ろし出版したあとに、登場したのが痛快にして洒脱な「諭吉の事件簿」3部作だ。旺盛な執筆に脱帽する思いだ。諭吉は日本人の哲学の第1巻にも登場し、①洋学の思考、②私立活計、③オーソドックスな国家論、④家長の生き方が簡潔に論じられるが、この部分と件の諭吉3部作を読み合わせると面白い。
なぜに面白いのか?
著者自らが、創造的な表現形態である小説を舞台に、諭吉を躍動させているからだ。そこには、上記の①、②、③、④が自由闊達に物語られ、縦横無尽に展開され、諭吉と由吉を取り巻く人物との邂逅、諸々の「事件」が活写されている。諭吉の分身のようなボディーガードの「由吉」は、剣豪でもある。
剣豪小説も大好きであると、札幌はすすきのに所在する文壇バーでウイスキーを飲みながらマルキストの著者は語っていた。そんな北都の夜を思い出しながらも、ページをめくる手を抑えること能わず一気に読み進んでしまった3部作だ。
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