「エロティック・キャピタル」と「女子のチカラ」

 

職業がら女性とよくお会いする。いや、むしろ会わなければ仕事が進まないので、好むと好まざるを問わず会わなければいけないのだ。

授業、講演、セミナー、ワークショップ、各種プロジェクト・・・・。

10代の看護学生さんから、20~30代の主任さんや大学院生さん、40代の師長さん、50代以上の看護部長や病院の副院長さん。看護学系の大学教授ともなると、60歳以上の女性が圧倒的に多い。

このように日常的に50歳くらいの年齢レンジを回遊するように交流しながら、そこはなとなくも、つくづくと気がついていることがある。

それは、年齢というファクターを越えて、あるいは底通して、デキル女性は、強いし、その強さの源泉、そして強さのエクスプレッションつまり表現として「キレイ」なのだ。そして、近年、その傾向に拍車がかかっているように思えてならないのだ。

べつに化粧がうまいとか、持って生まれた造形が綺麗だのという表層的、断片的なことではない。そうではなく、多くのデキル女性においては、キレイがその人の奥底の動機、能力資質、そして目に見える行動といったレイヤーにまで一気通貫して強く息づいているのだ。

簡単にいえば、彼女たちは、キレイをチカラとして持っているし、キレイでいるチカラを持っているのだ。

では、キレイなチカラとはいったいなにか?

その問いに対して真正面からこたえた面白い説がある。

キャサリン・ハキムCatherine Hakim)という英国の社会学研究者によると、キレイなチカラとは、抽象化して言えばエロティック・キャピタル(erotic capital)となる。

彼女は、経済学者ゲリー・ベッカーが概念化したヒューマン・キャピタル(human capital)やジョン・デューイ、ロバートパットナムといった社会学者たちが彫琢してきたソーシャル・キャピタル(social capital)といった概念のむこうを張って、「美しさ、セックスアピール、着こなしのセンス、人を惹きつける魅力」などからなる「資本」をエロティック・キャピタル(erotic capital)と名づけている。

このエロティック・キャピタルなるものが、さまざまな社会や職場でのコミュニケーションを通してチカラを大きく左右するというのである。この本の副題には、ぎょうぎょうしくもエロティック・キャピタルが「ボードルーム(役員室)とベッドルームでの魅力の源泉」とまで書いてある。

ははあ。

ハキム女子もとい、女史は、①美しさ、②性的魅力、③社会的地位や役割の魅力、④活発さと元気・エネルギー、⑤表象的プレゼンテーション、⑥セクシュアリティの6つを挙げているのだが・・・。

 

エロティック・キャピタルにまで昇華されうるキレイとはいったいなんなのか?キレイを取り巻く日本のシーンはもうちょっとネジレているのではないか?そしてそればもっと複雑なのではないか?

この「女子のチカラ」という本は、そんな疑問の一端に答えてくれる。

とくに2章までが以上のような文脈に照らし合わせるとけっこう面白い。(ただし、そのような文脈をもたなければ単なる軽薄浅薄なサブカル系女子評論書物なのかも?)

・若くて美しい女優やモデルが美人としてもてはやされ、女性たちを美のお手本としてするのではなく、むしろ、そこから逸脱する要素を持っている人物が若い女性を含めたお手本となっている。(p89)

・美の魔女たちは、まさに美によって、眩惑し、闘い、変容する。我々は、自己努力によるトランスフォーメーションによって欠如を埋めようとする魔法に惹きつけられる。(p90)

ここで岡崎京子の「ヘルタースケルター」の主人公りりこのセリフが効いてくる。

・「そうよ わたしはわたしがつくったのよ あたしが選んで あたしがあたしになったのよ」(p92)

・素敵すぎる奥さんやきれいすぎるお母さんは、良妻賢母規範を軽やかに飛び越えて向こうの世界へ行ってしまう。(p98)

さて、エロティック・キャピタルは資本である以上、不断の投資によって活性化される。ところが積極的にケアしなければ加齢とともに減磨耗するという性格を持つ。

「キレイ」とは①減磨耗に抵抗するアーティフイシャルなインベストメント(人工的な投資)なものであると同時に、②美しさの常識や同調圧力が予定している規範や文脈から逸脱、越境、転換することによって強化される感覚なのだ。

たとえば、

・オネエ美人

・大人女子

・実年齢から想起される印象とハッとするような隔絶があるいわゆる「美魔女」

・トランスセクシュアリティ系の人々。。。

既存のキレイ文脈から逸脱、越境、転換したズレのノリシロが美しさ、キレイを生むのだ。キレイという価値は文脈依存的だ。その文脈を異質なものと結びつける、その境地においてキレイなことこそが、新しいキレイを生むのだ。

この新しいキレイをトランスレーショナル・エロティシズム(超文脈的、逸脱、越境のエロさ)と命名して(笑)、このようなキレイを体現している人々を探し、出会ったりすることは密やか愉しみでもある。。

たしかに、仕事ができる女性は、標準的なパフォーマンスに甘んじるアベレージ・パフォーマのレベルを超越している。彼女たちは、その超越したズレの部分を巧みに「キレイ」として表象するし、周囲はそのように諒解もする、と理解すれば合点がゆく。

女性観察は愉しくもあり、また奥深いものだ。

 

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