反抗そして知的放浪としての留学

Cornell-University             (コーネル大学)

留学の「効用」とはなにか?

確固たる専門を持ちたい・・・。英語を研鑽したい・・・。異文化間コミュニケーション能力を伸ばしたい・・・。まっとうなビジネススキルを身につけたい・・・。泊をつけたい・・・。高い報酬を得たい。

だいたいこんなものか。しかし、これらは表層的な、あるいは処世術的なうわべの理由にすぎないのではないだろうか。

20代の自分の場合、とてもじゃないけど、このまま日本のねちっとした同質性や同調圧力に囲まれて、平平凡凡な青年でいつづけることへの鬱勃かつ歴然とした反抗だったのだ。

そこには日本の大学システムへの反抗もあった。だいたい日本で教えられている社会科学(とくに経済、経営管理系)ほとんどが輸入学問をモトにした言説で構成されたもの、つまり、ウソっぽいのだ。

だからやや過激な表現を使うとなると、「日本の和製インチキ大学院」(日本人の、日本人による、日本人のためのという、ドメスティックで内に閉じた和製学問の自己撞着の場所)へ行くことは、実は、知的な敗退以外のなにものでもないのだ。この点では、東大も、早稲田も、慶応もまったく同じだ。(・・・と当時のぼくは確信していた)

社会科学(social science)の本場は間違いなくアメリカである。そして数ある米国の大学のなかでも、学ぶべき大学はアイビーリーグなどトップ層の数校しかないのである。それ以外はダメだ。

日本の大学に対する反抗。そしてあからさまな全否定。

日本の大学に棲息したり、日本の大学にいくばくかの権威を見出したい人達から見れば、エキセントリックで危険な思想だろう。

「ナマイキにもほどがある。なにを、このアメリカかぶれのエリート主義者め」こんな声が聞こえてくる。

かってに言ってろ。(・・・と当時のぼくはそのような声を無視し否定していた)

これほどさように、留学とは、野心に溢れ、コワイものもあまり知らず、一貫性を求め、危うい自己効力感を求める若者にとっては、ほとんど自転車ツーリングの放浪のようなものだったのだ。

反抗としての放浪。

ただし、たんなる放浪ではなく知的放浪である。

リスクを冒して、山に分け入り、谷や峠を越え、ピークをつき、テントで寝る。

自分でゴール=問題を設定し、自分でカラダを張って自分の行くべき道を見つけてゆく。

それでいいのではないか。

放浪したいヤツが自分のリスクで放浪する。そして、自分だけの一流を目指す。

やりたくないヤツは、やらない。

ほんとうにせっぱつまらずに、なんとなく留学するヤツの中には、英語など外国語スキルも伸びないし、異文化間コミュ力だってしょぼい人はゴマンといる。専門性もなし。チャラい語学学校通いだけ。ディグリーもとらずに、現地にもなじまずに。

・ちょこっと留学して帰ってこれば、「グローバル人材」ですか(笑)

・大学を国際化して「グローバル人材」=海外の大学で学ぶ日本人留学生を増やせば、長期的に日本の国力があがるんですか(笑)

・多少英語をしゃべれるようになって、それなりの体裁のいいコンピテンシーのセットをパッケージすれば「グローバル人材」なんですか(笑)

・・・バカ言うのも、ほどほどにせいよ!!!

「グローバル人材」なんていう日本だけに流通している特殊用語の周りに渦巻く言説は、どうも嘘くさい。

知的放浪としての留学は、特異な反抗に突き動かされる少数のマイノリティ=奇人変人であってこそ、効用があるのだ。

留学とは、反抗そして知的放浪なのである。

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました