読書・執筆の裏ワザは鉄砲玉面会にあり

 

本を出版したいという人とよく出会う。自身も今まで16冊本を書いてきているので、どうやったらいい本を世に出せるかということは常々気持ちのどこかにある。でも20冊にも達していないので、ナマイキなことは言えないのだが。

 そこで、ある人と本を書くことについてまとまった話になった。だいたい以下のような結論に至った。
 

①共著者として参加する。

②パワフルな講演、言説で種をまく。

③コネで編集者を紹介してもらう。

④企画書をつくって送りつける。

 
たしかに、本を出版することの、近因項だけをとりだせば、以上の4つくらいが相場だろう。でも案外、急がば回れで遠因項のほうがむしろ大事だ。別の言い方をすれば、本を書くための基盤づくり、生活習慣、基礎体力づくりといったテーマだ。でも基本はいたって簡単だと思う。本を書くための、最善にして最強の準備は読書である。
 
ドタ勘でいうと、初めての本を1冊の本を書くには500冊のきちんとした読書(つまり、読書ノートを残したり、読んだ内容を咀嚼して自分なりのアウトプットにする)が必要になる。
 
以降、2冊目、3冊目・・・と一冊あたりの読書量は逓減してゆくいっぽう、2冊目、3冊目・・・と本を書くにしたがって、執筆するという経験値、モノ書きとしての蓄積されたスキルや知識、そして読者がついてくるので、少ない読書量で本を書けるようにはなる。しかし、ちょっと売れて、その勢いで粗製乱造するモノ書きは案外多いものだ。やはり書くことを涵養するための読書は絶対に怠ってはならない。
 
ということで、実務系の本、社会科学系の専門書やノンフィクションに限定して本を執筆するための遠因項についてまとめてみる。
 
まず前提になることは、一冊の本にするに足る「文脈」をもっていなければらならいということ。その文脈に、ナカミ、実質、内容(つまりコンテンツ)がくっついて、その人ならではのオリジナルな自家薬篭中のものの見方、構え、問題解決、提案、提言、時代認識といったようなものになってゆく。文脈には知識や情報を吸い寄せる粘着性があるのだ。
 
著作物の執筆方法は、決まりきったノウハウのようなものはないだろう。あえて言えば、本をよく読みこみ、同じような課題意識を持つ先人が発見したもの、古人の到達点を丹念に調べ上げ、世の中や現象を自分の眼でキッチリ見極め、よく考えるということだ。
 
僕の場合は、無類の神保町フリーク、雑多な読書趣味にくわえ、20代には雑学諸般、放浪を切り口とした人文地理、歴史、宗教といった教養から、健康医療管理学、人間、経営学、経済学、社会学、比較宗教学、システム思考、サービス科学の方面へと専門をとがらせたりまたいだりしていったので、おのづとこういった方面の本が目にとまり、自然と目は活字を追うようになった。
 
さて、ここからが本題だ。
 
読書は内向的な作業だ。でも、これを外向に転じて、まるで地引網を引くように次々にいい本、文献、そして特殊な人脈を引き寄せるいい方法がある。「これは!」と思った本の著者に直接連絡をして面会を申し込んで実際に会うのである。これを鉄砲玉面会という。
 
そのココロは、これはと思った著者に直接アタリをつけ、面談のアポをとり、あとは鉄砲弾のように著者のところに飛んでいって会うのだ。
 
初めてこの方法を初めて実行したのは18歳の時だった。当時はメールなどという便利なモノはなかたので、出版社に電話して著者の連絡先(電話番号とできれば住所)を教えてもらうのだ。今なら著者名の検索すればメルアドなどのコンタクト先は5分で調べることができる。
 
忘れもしない、暗殺された故ベニグノ・アキノフィリピン大統領と一時行動を共にして、モロ民族解放戦線で民族解放運動にも関与していた、「国際浪人プッタギナモー」の著者若宮清氏である。
 
「かくかくしかじかの点に深く感銘をうけた」、「このポイントについてもっと知りたい」、「自分はこう考えるが先生の見解をお聞きたい」、「ひいてはぜひ一回おめにかかりたい」と結ぶのである。
 
こうたたみ掛けると著者はけっこう感激してくれて会ってくれる。本や著者に強く興味を持っても、実際に会うというアクションを起こす人はまずいないのだ。だから著者は、喜んであってくれるのだ。
 
しかもこちらから出かけてゆくのでコーヒーくらいはまず出してくれる。時々ではあるが飯まで食わせてくれることもある。「大学教授になる方法」の鷲田小彌太氏にいたっては、鉄砲玉面会決行のその日の夜に意気投合して、札幌ススキノの文壇バーでいっしょに酒まで飲んだこともある。鷲田氏が分析し構築した方法論を大いに参考にしてキャリアを拵えてきたので、この出会いがなければ今日の自分はないということになる。
 
いままで通算30回くらいこの鉄砲玉面会を使っているが、なんと断られたためしは一回もない。生涯百発百中を更新中だ。
 
鉄砲玉面会のいいところは無限だ。まず、著者のひととなりに直接触れることができる。昨日まで活字でしか知りえなかった著者が目の前1メートルのところに座っていて、読者である自分と生身の人間として一対一で対峙している図。これは感動ものだ。
 
そして、その著者の着眼点、問題意識、時代認識など直接話を聞くことができる。自分の見方、意見にも率直に意見をくれて、よくすると対話になり、新しい地平線が忽然と開けてくるのだ。たゆたゆしいモチベーションや豊饒なインスピレーションを得ることもできる。そして、関連する書物や文献も紹介してもらえる。さらには、当該分野の会ってみて面白い人、研究者、懇意にしている編集者などの紹介にあずかることができるのだ。
 
鉄砲玉面会もだんだん発展してくると、まず、会うからには相手に一目置かれなければいけない。つまり、ぎゃふんと言わせなくとも、厭味ったらしくなく、こいつはなかなかのヤツだと思わせるためには、その著者が書いたほとんどすべての著作物に目を通して、ポイントを理解しておく必要がある。すると論点、事実関係の整理の仕方がおのずとわかってくる。さらには、こういう角度から見ると別の見方や議論ができる、などなど一ひねり、二ひねりしたダイアローグが成立するようになるのだ。
 
鉄砲玉面会の味をしめた私は、その後、一貫して最低年に1-2回は実行している。相手は冒険家、実務家、小説家から専門領域で知的アウトプットを出す一流の学者まで様々だ。各段に読書生活の奥行が拡がり、人生の新しい地平がそこはかとなくも歴然と開けること必定である。
 
読書そして本の出版の裏ワザは鉄砲玉面会にあるのである。・・・とここまでツラツラ書いて気がついたのだが、鉄砲玉面会は読書・執筆に始まって人生諸般に資すること決して少なくないように思えるのだが。。

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