第15講:どうした? 勤勉の倫理と日本的資本主義の精神

 社会主義に勝利したかのように見えた資本主義だが、このところ資本主義に吹きつける風は冷たい。アメリカ発の強 欲・金融資本主義の崩落現象後の悪あがきに怒るマイケル・ムーア監督は、舌鋒鋭くキャピタリズムをこきおろす。さて、日本の資本主義はどうなるのか。そこ を見極めるためには日本的資本主義の来歴を知る必要がある。

第7講:ユダヤの深謀遠慮と旧約聖書』で触れた「創世記」では、働くことは原罪の対価であるという見方で一貫している。また古代ギリシャのプロメテウス神話でも、人間は神の庇護から離れ大地から命の糧を自分たちで得ていかなければならないという途方もない苦役を課せられたという話が出てくる。

 アリストテレスは、働くことは市民を腐敗させると説いているし、ソクラテスは、健全な市民は商業などに従事すると友情や愛国心を失うので市民による労働 を禁止すべきだと主張している。プラトンは、人間の働きの中で最も高貴なことは哲学すること、次に戦争をすること、最も価値が低いことは労働である、と 言っている。労働は奴隷のものであったのである。

 かたやヘシオドスは「労働は恥ではない。働かないことこそ恥だ」と述べ、パウロは新約聖書の中で「落ち着いた暮らしをし、自分の仕事に励み、自分の手で 働くように努めなさい」(テサロニケの信徒への手紙)と言った。このように古い時代の西洋社会では、労働について賛否両論があるものの、否定的見解に立つ 見方が支配的だった。

 

働くこと=労働の換骨奪胎

 働くことについてネガティブな見方が大勢を占めていた西洋社会だが、近代の契機は、この労働観の大逆転から始まった。よく知られているように、マック ス・ヴェーバーは「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(以下、プロ倫と略す)の中で、西洋近代の資本主義を発展させた原動力を、カルヴィニズ ム(プロテスタントの一派)の宗教倫理から生まれる禁欲であるとした。

 嗜好品、アルコール、娯楽、セックスを断つというような禁欲ではない。この点は誤解のなきよう。それぞれの職務の労働に一生懸命、専心して励みながらも、世俗的な富の追求や過剰な消費には距離を置いて慎むといった行動的禁欲(aktive askese)である。

 宗教改革の指導者カルヴァンの予定説は絶望的な説だ。つまり、救済される人間は前もって予定・決定されており、人間の意志や努力でこれを変更することは 絶対にできない。禁欲的にせっせと労働に励み、この世に神の栄光をあらわすことによって、「自分は救われている」という確信を持つことができるようになる というのだ。

 ヴェーバーは、このような一見積極的な金儲けに反するようなピューリタンの行動様式(エートス)こそが、実はその富の蓄積の推進力となり、ひいては近代資本主義の基礎となり得たと論じる。『第9講:イスラームの葛藤』で述べたように、契約更改の概念とともに、行動的禁欲に支えられた労働の絶対化が西洋社会の近代化に大いに貢献している。

 もっぱら奴隷が労働を担当し、労働が蔑まれていた地域から人格的一神教が発生している。そして奴隷制度の変質・散逸とともに労働が奴隷でない人々も行う ようになるにしたがって、働くことの意味も変化する。「働くこと」が「労働」として位置付けられるようになるのは、実は近代以降だ。

 

「日本的勤勉の精神」の源流

 さて、日本ではどうか。日本神話の最高神、天照大神は熱心に機織りをして「働くこと」を実践している。なんと神様が汗を流して働いているのである。これは、人格的一神教では絶対にあり得ない情景だ。そしてこのような風景は、単に日本神話の中の話で終わることではない。

 一例のみ挙げる。現代でも皇居には天皇陛下が稲を栽培する水田があり、天皇陛下自ら田植えや稲刈りをなさる。君主を仰ぐ国家は多いが、天皇のように、自ら水田に入り稲を育てる君主は空前絶後ではないか。

 さて、1990年代のバブル崩壊に至るまで、日本経済は世界から「奇跡」とまで讃嘆されるほどの経済成長と栄華を体現していた。そこで、大東亜戦争の敗戦後、この怒涛のような経済発展を説明するのには、日本資本主義の構成原理を説明する必要性が急浮上してきた。

 しかしながら、日本は断じてキリスト教国家ではない。日本には、マックス・ヴェーバーが近代資本主義の精神と呼んだ敬虔なプロテスタントの世俗内禁欲の 行動様式(エートス)は存在しない。なんといっても日本では、一神教キリスト教徒の人口は1パーセントとて超えたことがないのだ。こうして、日本の資本主 義が発生した仕組みをどうのように説明したらよいのかが、日本の知的社会の一大関心事となっていったのである。

 こうして、カルヴィニズムを中心とする敬虔なプロテスタントの禁欲のエートスを代替する日本的に宗教的なるものの存在を説明して、もって日本資本主義と西洋に発展した近代資本主義に同型の原理を見出してゆこうとする研究が始まった。

 ただし、戦後の知識社会を総舐めにしたマルクス主義の唯物史観のひな形に、日本近代資本主義を無理やり押し込もうとした試みはあまり良いことではなかっ た。そんな中にあって、日米でのヴェーバー学の系譜は、タルコット・パーソンズ、大塚久雄、そして小室直樹といった研究者に継承されてきている。

 

ヴェーバー以前に生まれた日本の先駆者たち

 さて「プロ倫」でマックス・ヴェーバーが「資本主義の精神」と呼んでいるものは、だれかに強制されたり、誘導されたりするものではない。自生的、歴史的に形成され、人々の内面にひたひたと、しかし確実に浸透してゆく。

 常々筆者は、日本でのヴェーバー学の系譜では、大塚と小室の間に実はもう一人、有益な補助線のような論者がいると見たてている。故・山本七平である。山 本は、論拠と解釈と主張とを混合させるエキセントリックな言説を好んで用いたためか、あまりに鋭いことを論じたためか、学術的系譜の中には積極的には位置 付けられてはいないのだが…。

 山本は、敬虔なプロテスタントの禁欲のエートスを代替する「日本的に宗教的なるもの」として、純粋に日本文化圏において自生的、歴史的に形成され、人々の内面に浸透し、助長し、推し進めてきた行動様式を見出した。それは、「日本的勤勉の精神」であるという。

 『第5講:仏教に埋め込まれたインテリジェンスの連鎖』でも鈴木正三と石田梅岩には軽く触れたが、この文脈から今一度、正三と梅岩の人となりと思想を振り返ってみよう。

 

農業即仏行を説いた鈴木正三

 鈴木正三(1579-1655)は、もともと徳川家臣の身分だったが、42歳のときに突然出家して僧侶に転じた。著作活動に熱心な人であり、武士だった 頃からせっせと自分の考えを書物にまとめている。代表作の「万民徳用」では、仮名書きのやさしい和文で「人々の心のもち方が自由になり、人々が心の世界の 中で自由に振る舞うことができるようになるためならば、南無阿弥陀仏と念仏を唱えるのもよし、座禅をしてみるのもよし、さらには、毎日、自分に与えられた それぞれの職分=仕事に、精一杯打ち込んで働いていけば、それが、人間として完成していくことになる」と説いた。

 正三の遺稿「反故集」の中には、「自分は遁世の身となって、師匠を求めたが、師匠とすべき人を見出す縁がなかった」と書かれている。この一文からは、正 三の凛とした気概と隔絶した自信がうかがえる。そして、どの宗派、どの教団にも属さず、自由な立場で当時の葬式仏教や檀家仏教のあり方を手厳しく批判し、 民衆のために実際の生活に密着して、役立つ新しい仏教の教えを説いたのであった。

 正三は、坐禅とともに念仏を重視して「禅よし、念仏よし」と説いた。「正三の仁王不動禅」といわれるように、「仁王像や不動像のように厳しい心、激しい 心を持って坐禅をし、その気持ちを一日中持ち続けよ」と言った。念仏については「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と、息を引ききり引ききり、強く念仏せよ」と か、「眼を見すえ、拳を握り、きっと胸を張り出して、南無阿弥陀仏と申せ」と言っている。

 

平易な言葉で民衆に語りかける

 正三は、密教門に伝わる荘厳行者法という観想法の一端を説明していることから、開祖空海を頂く真言密教に関する行法についても相当の身体知があったはず。だが正三の巧みなところは、そのような難解な特殊用語は民衆に向かって一切用いなかったことである。

 「仏法と渡世の術は同じで、各々の職分の中に仏法を見出せ」と説いた。有名な職分説である。そして「一鍬一鍬に、南無阿弥陀仏を唱えて耕作すれば、必ず仏果に至る」とも熱く説いた。

 当時の商人は士農工商と言われるように身分制度の最下層に置かれていた。商人はモノを売るだけで利益を得る卑しい存在だと考えられていたからだ。ところが正三は、真っ向からこの考え方を否定した。

 「身命を天道によって、一筋に正直の道を学びなさい。正直の人には、諸天の恵みが深く、仏陀神明の加護があり、災難を防ぎ、自然に福をまし、衆人が敬愛し、浅くなく万事思ったとおりになるようになる」と述べ、正直な商売こそが仏道修行であると説いたのだ。

 

正直と農業即仏行

 正三は「正直」についても定義した。つまり「私欲に専念して、自他を隔て、人を抜いて、得利を思う人には、天道のたたりがあって、わざわいをまし、万民のにくみをうけ、衆人が敬愛することなくして、万事思ったようにはならなくなる」と。

 正三は、自分のみが名声を得たり、自分の財産を増やすことのみを求めたりすることを強く戒めた。このような行いは、結局、地獄道、餓鬼道、畜生道の三悪 道(さんなくどう)の悪しき業を増長させるだけで、天道に背き、必ずそのとがめを被るのだ。次の一文に正三の考えがよく表れている。

 「一筋に正直の道を学ぶべし。正直の人には、諸天の恵み深く、仏陀神命の加護有りて、災難を除き、自然に福をまし、衆人愛敬、浅からずして万事心に叶うべし」

 私欲を捨て、「正直」を愚直なまでに貫き通し、各自の職業に誠心誠意励むことが、お天道様、仏陀神命に沿うことになり、結局は「福」をもたらすことになるのである。

 

日本資本主義の精神

 マックス・ヴェーバーが西洋に生まれた年よりも285年もさかのぼり、日本に誕生した鈴木正三は堂々と天職観念、世俗内禁欲、利潤追求行為を肯定した。すなわち、ヴェーバーに類似した議論を日本的に宗教的なるものを背景に提示したのは括目に値する。

 いや、マックス・ヴェーバーは、あの学術用語に溢れた難解な文章を書いて、もっぱらヨーロッパの知的社会に向けて持論を提出したのに比べ、鈴木正三は分かりやすく民衆に向けて説いた。社会に対する普及・インパクトという点では、正三の言説を過少評価できないだろう。

 もちろんマックス・ヴェーバーが生まれる3世紀も前に誕生した正三は「プロ倫」を読んでいるはずもない。しかるに、正三は島原の乱の後、天草地方の復興 のため派遣されていて、実務の暇を見ては「破切支丹」を丹念に執筆して、キリスト教の教義を理論的に批判しているのである。

 ここに正三思想の真骨頂がある。プロテスタンティズムにまったく依拠しない、日本的に宗教的なるものを基盤に天職観念、世俗内禁欲、利潤追求行為の条件付き正統化を行った鈴木正三は、日本資本主義の精神的基礎を提示したことになる。

 元来、原始仏教以来、仏教は僧院での僧の労働と経済活動を一切認めてこなかった。原始仏教を主として分析したヴェーバーは、仏教に「働かざる者、食うべ からず」という新教的禁欲の発露を一切認めずに、仏教を資本主義の精神から最もかけ離れた宗教のひとつとさえ論じたのは、当然の帰結である。

 ところがヴェーバーの言説など、微塵も知るはずがない鈴木正三は、この命題とは真逆の「農業即仏行」であると断言し、「一鍬一鍬に、南無阿弥陀仏を唱えて耕作」することが、救済(因縁解脱)を保証すると説いた。

 ヴェーバーにとっては、仏教徒の農業・労働はブッダの栄光を増す救済ではまったくあり得ない。しかし、『第5講:仏教に埋め込まれたインテリジェンスの連鎖』で述べたように、大衆部が上座部から分派して創作経典を流布して元来の仏教の姿とは似ても似つかない発展経路をとるようになった大乗仏教が、鈴木正三を得て、日本の近代資本主義成立の契機に接続されたことは歴史の珍妙なるところか。

 

商業資本主義のエートスを見出した石田梅岩

 もう一人、マックス・ヴェーバーより早く日本に出現し、日本資本主義のエートスを商業の立場から説いた実践家がいる。石田梅岩(1685-1744)である。鈴木正三が没してから30年の後に梅岩は生まれた。

 石田梅岩が活躍した時代は、日本史の区分では江戸時代中期に当たる。この時代、徳川幕藩体制の経済システムは石高制と兵農分離制で支えられていた。城下町と農村との間の生活用品と農産物との交換を成立させている市場を「藩領域市場圏」という(岡崎哲二 1999)。

 梅岩が活躍した時代には、地域の工業として問屋制家内工業が各地に浸透、勃興している。また、銀山などの鉱山開発、鋳造にかかわるイノベーションが進んで金・銀・銅が盛んに生産され、貴金属や貨幣の鋳造量が飛躍的に伸び、マネーサプライが増大した。

 綿布、生糸、砂糖、絹織物はかつて輸入に頼っていたが、国内での生産体制が確立され、様々なコモディティ、物資が市場を通して潤沢に流通されるように なった。いわゆる市場経済が貨幣の流通によって著しく進展したのである。徳川吉宗は、加熱する経済を抑えるために、今で言うところの総需要抑制政策(享保 の改革の倹約令)を発動したくらいの勢いだった。

 1730年(享保15年)には、全国の年貢米が集まる大阪の堂島に、堂島米会所が設立されている。堂島米会所では、米の所有権を意味する「米切手」とい う証券が売買されていた。また、正米取引(現在の現物取引に相当する)と帳合米取引(現在の先物取引に相当)も活発に行われるようになっていた。

 また敷銀と呼ばれるある種の証拠金を差し入れることによって、先物取引さえもが行われていた。このような動きにともない、社会の初期資本主義化によっ て、貨幣経済が進展し、町人、役人の生活に金銭が占める位置が大きくなり、そのため拝金主義や贈収賄が横行し始めたのも、この時代である。

 このように日本で、はつらつたる初期近代資本主義が急速に勃興し、デリバティブ(金融派生商品)のはしりのようなものが登場し、金融制度改革、財政政策が盛んに行われるようになった1730年(享保15年)、石田梅岩は独自の道徳哲学(石門心学)を唱え始めたのである。

 石田梅岩は、丹波国(現京都府亀岡市)の農家の二男に生まれた。幼少時代に京都に出て商家に奉公したが、仕事に慣れず15歳の時、帰郷の憂き目に遭って いる。梅岩は、複雑な内面の葛藤を抱えたまま、それを解決できずに成人してしまった自分を自覚していたのだろう。23歳の時、再び意を決して京都に出る。 そして中年になるまで黒柳家という呉服商に奉公し続けた。

 なんとも地味なキャリアだ。ただし、働きながら読書に多大な時間を割き、旺盛な知識欲は儒教、仏教、神道などを吸収していった。

 そして45歳の時、突如、京都の御池を上がったところの質素な家屋で「性学」の自主講座を開いた。そこで梅岩は心を尽くし、性を知るとする独自の倫理学「性理の学」を唱える。現代に知られる「心学」は後年、梅岩の弟子たちが命名したものである。

 前述したように、梅岩に先行する思想家として正三がいた。梅岩と正三の最も大きな差はなんだったのか。それは梅岩が、前期資本主義が勃興する時代に、長 年商家のビジネス現場で商業取引のディテールを熟知していたことである。さらには、実践的商人道の重要性とは裏腹に、社会的な地位が不当に低いことからも たらされる、深くて暗いコンプレックスの心の襞を深く理解していたことである。

 

職分説で説明しきれなかったもの

 鈴木正三は、徳川幕藩体制下で武士階級としてキャリアを積んでから出家し、いわゆる研究と社会改革者の道に入った。しかるに梅岩は、商業出身のキャリアを背景に、市井の講談教育者的な研究者になった。

 つまり、正三の「職分説」が士農工商のうち商人の職分を適切に説明できなかったのに対し、梅岩は営業、利幅の獲得、顧客管理、在庫管理、そして商業活動 の細部を理解していて商人・商業の職分を雄弁に説明できたのである。こうして梅岩は「商業の本質は交換の仲介業であり、その重要性は他の職分に何ら劣るも のではない」という主張を論理的に、かつ分かりやすく行い、商人、町人の圧倒的な共感を得たのである。

 余談だが、その自主講座というのがなんとも型破りなものだった。謝礼や受講料は一切受け取らず、入るも自由、去るも自由の、今で言う生涯教育のオープン カレッジのようなものだった。その講座のやり方は、一方的な講義ではなく質疑応答とクラス・ディスカッションを中心としたものだった。

 毎回の授業で教師役の梅岩が毎回課題を出す。そして次回までに受講者は答案を作成し、持ち寄って討論し、梅岩が様々な角度からコメントを出し、総括するといった今日のビジネススクールのケーススタディのようなスタイルだった。

 現在、日々仕事に追われながらも向学心の強い人々が、社会人向けビジネススクールや技術経営専門職大学院に集まっている。なんと、250年も前の京都に 実践的な無料の生涯教育の場ともよぶべきナレッジ・コミュニティがあったのだ。ビジネススクールの範を欧米にのみ求めるのではなく、250年前の日本の叡 智にも学ぶべきものがある。

 さて、1739年(元文4年)、4巻2冊から成る都鄙問答(とひもんどう)は、このような実践的かつ知的に沸騰する場から生まれた。門下生がわざわざ梅 岩をめぐる質疑応答を整理して、問答形式で編さんしたのである。それを関西の湯どころ、有馬温泉に持ち込み、師と学生が交わりながら内容を確認して書物に したという凝りようである。

 当時は、商人の営利活動は世の中の妬み、恨みの対象でさえあった。拝金主義や贈収賄の風潮が世の中全体を覆う中、梅岩は「商人の売買は天の佑け」「商人が利益を得るのは、武士が禄をもらうのと同じ」と述べて、商行為の正当性を正々堂々と説いたのだった。

 梅岩は、営利活動を否定するどころか、積極的に肯定し、商業倫理そして商業活動の持続的発展の論点から、本業の中で社会的責任を果たしていくことを説いた。そこに石心門の今日的、世界的な文脈での意味があるのである。

 

健全な資本主義の進化に必要な抑制的・禁欲的な対抗倫理

 正三と梅岩の思想はユダヤ・キリスト教の系譜にあるプロテスタンティズムとは異質。しかし、西洋と東洋の一角に発生した近代資本主義の背骨としての働きには共通項がある。

 それは、自己膨張する欲求によってもたらされる、とめどもない拡大再生産、富の追求を抑止するマインドセットとしての働きである。このマインドセットが近代資本主義には必要なのだ。近代資本主義は、抑制的・禁欲的な対抗倫理が機能してはじめて萌芽、発展の途につく。

 さて、西洋に始まり、西洋の拡張としての米国、日本などを経て発展してきた資本主義の次の大きな舞台の1つは中国だ。中国共産党が文化大革命の時代に、 断固否定した儒教を今日熱心に復活させている。中国の指導部は、社会主義市場経済という異形の体制下で資本主義を発展させるためには、抑制的・禁欲的な対 抗倫理がなければならないことに気が付いている。社会主義はその対抗倫理を提供することはできない。それゆえに、孔子を中心とする儒教の復活を画策してい る。

 統治、支配する側の論理、規範が濃厚な儒教にどこまで民衆のマインドセットとしての役割が果たせるのかは疑問だ。また、中国共産党の指導による孔子のリ バイバル、普及は、自生的に大衆のマインドセットの中に浸透する性格のものではない。今後、中国の資本主義の行く末を予見するためには、それを支える基幹 のマインドセットをこそ正しく知るべきだろう。

 

日本人が空気のように吸い込んできた独自の倫理観

 話を日本に戻す。人格的一神教が発生した奴隷制度とは無縁だった日本では、人間の上に神はいないし、人間の下に奴隷もいない。ましてや神と人間との契約もない。どこまでも人間が中心なのだ。

 神と人間が循環する多神、多層、多元的なメンタリティが、雑多な宗教が折り重なるように習合してできた特殊な心象基盤の上に作られていった。「お天道様 が見ている」「働くことは当たり前あたりまえ」「みんな一緒にがんばる」、「みんなで分けあう」「ご先祖さまのおかげ」「神様、仏様を畏れ敬う」「世間さ まに恥ずかしくないように」「足るを知る」ことが空気のように浸透し、その空気を日本人は吸って働いてきた。

 無論、高度経済成長、平成バブル経済とその崩壊の過程で、このような心象が蹂躙され複雑骨折したかのようにも見えるが、それはそれとして別講で詳細を検討することとする。

 かつて先人が築いた日本的勤勉の倫理と日本資本主義の精神を再点検することが重要だろう。そこには資本主義再構築のヒント、新しい働き方についての示唆が隠れている。

 歴史と思想の襞に隠れているものにスポットライトを当て再発見して活用してゆく。これもまた諜報的な教養の生かし方である。

 

    【参考文献】

  • 岡崎哲二、「江戸の市場経済」、講談社新書メチエ、1999年
  • 山本七平、小室 直樹、「日本教の社会学」、講談社、1981年
  • 山本七平、「日本資本主義の精神」、ビジネス社、2006年
  • 石田 梅岩、「都鄙問答」、岩波文庫、2007年
  • 鈴木正三記念館

 

引用:諜報謀略講座 ~経営に活かすインテリジェンス~ –第15講:どうした? 勤勉の倫理と日本的資本主義の精神 :ITpro

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