「日本人は勤勉さを失いつつあるのかもしれない。勤勉さを礎とした、高度成長時代からの社会制度は、このままでは立ち行かなくなる」と多くの人が考えているようだ。そこで今回は、「勤勉」の現状と未来を見立てることによって、日本資本主義の今後の姿を占ってみたい。
筆者は海外で、よくこんなことを言われた。
「日本人はじっと耐えて、脇目もふらず一生懸命がんばる」
「日本人同士集って本気を出すと、他の国の人々はかなわない」
「日本人の勤勉さが、あの高度経済成長を支えてきたのですね」
要するに、日本人は勤勉だというのである。前回の「どうした? 勤勉の倫理と日本的資本主義の精神」で見たように、日本人の勤勉さはある種、歴史・文化に刷り込まれてきたものであり、その行動様式は社会や経済のあり方と無関係ではない。むしろ、勤勉の精神が社会や経済のあり方を支えてきたと言ってよいだろう。
そう思っていた矢先の2008年に、いささか考えさせられる調査結果が発表された。読売新聞社の「年間連続調査」は、「日本の発展を支えてきた『日本人の勤勉さ』について、これからも続くと思う人は35%にとどまり、そうは思わない人が61%に上る」と報じたのだ。
日本人の勤勉さについては84~91年に5回調査し、今後とも続くと思う人が常に多数派だった。日本人の勤勉さが続くと思わない人の方が多くなったのは 2008年度の調査結果が初めて。特に20歳代では66%に達した。1984年の調査では、「続く」と思う人が59%、「続くと思わない」人が33%だっ たので、この四半世紀で見方の比率がほぼ逆転したことになる。
どうやら日本人の勤勉さは消失・沈滞しつつある、とまでは言わないが、大いに変質しつつあるようだ。一生懸命、勉強や仕事に励んでもしょうがない。せっ せと勤勉に励んで一体何になるのか――。こんな声が聞こえてくるようだ。要は、勤勉であることの目的、勤勉であることによってもたらされる効用がハッキリ しなくなってきているのである。
成長と勤勉
「成長」は、従来の経済の合言葉、大義名文、呪文だった。1955年から1973年までの18年間、日本経済は成長に成長を重ねてきた。なぜこの時代に 日本経済は高度成長を遂げたのかについて諸説あるが、「需要」「供給」「イノベーション」の3条件が絶妙に組み合わさったことから飛躍的な経済成長がもた らされた点に異論はないだろう。
新しい価値を市場にもたらして伝搬させるイノベーションが勃興し、付加価値生産にかかわる十分な人、モノ、カネ、情報などの資源が調達可能で、生産された付加価値を消費する需要が拡大を続けるという3つの条件を満たしたがゆえに、飛躍的に経済が成長してきたのだ。
これらの基調を後押しする社会的イベントも盛大に行われ、特需となった。1964年の東京オリンピック、1965年の北爆から1975年のサイゴン陥落 までのベトナム戦争、1970年の大阪万博(日本万国博覧会)などは特需をもたらした。それやこれやで1968年には国民総生産(GNP)が資本主義国家 の中で第2位に達し、一連の経済成長は「東洋の奇跡」と言われた。
このように「成長」は戦後長らく日本の背骨を支えてきた。そして勤勉が成長を支え、成長すれば皆が豊かに幸福になるのだ、という確固たる確信と納得が あったのだ。文化人類学者の上田紀行は、「右肩上がりの時代、それは自分自身の個別の『生きる意味』を深く追い求めなくても、ひとまずは幸せにやっていけ る時代だった」と言い、バブル経済とともに崩壊した成長神話の残骸に、「かけがえのなさの喪失」という殺伐とした風景を見る。
成長ありきの2軸対立
社会民主主義的な「ケインズ主義」と、保守自由主義的な「市場主義」はよく対置されて議論される。前者は大きな政府を是認し、市場には欠陥があるからコントロールされるべきと主張。後者はすべてを市場と自由な個人に委ね、政府による介入を拒み、小さな政府を主張する。
ケインズの祖国イギリスは、第2次世界大戦後はおおむねケインズ派だった。「経済を安定させ、失業などの不均衡を是正するために、政府は市場に介入すべ し」との議論に、真っ向から反旗を翻す向きは少数派。ケインズによれば、経済に不均衡や不安定が付いてまわるのは、市場そのものが“不完全”だからであ る。
1980年代になって、イギリスのサッチャーとアメリカのレーガンはともに小さな政府を目指した。だが2人が企てたことは、実は市場原理主義のように 「市場の完全性を前提にする」というよりは、むしろ様々な規制を緩和し、民営化を勧め、競争を促進することによって「市場を“完全”な状態に近くしようと する」ことだった。
サッチャーはケインズの天敵だったハイエクの思想を信奉していたとよく言われる。ハイエクは市場の万能性を素朴に信じようとは言わなかった。むしろ自由 を求めてやまない人間の理性にはどうしようもない「限界」があるから、市場を管理、操作、統制、制御するといった夢物語を追いかけるのを止めにして、一切 を市場に任せようと言ったのだ。
ハイエクによると、人間とは「高度に合理的で聡明な存在ではなく、きわめて非合理的で誤りに陥りやすい存在」である。だからこそ、決して万能ではない市場に委ねるほうが賢明であると彼は考えた。これをハイエクの「相対的市場主義」という。
いずれにせよ、ケインズ主義も市場主義も、それらを援用する為政者も引用する論者も、おしなべて「成長」という大義名分を肌身離さず持っていたことには変わりがない。
経済成長は幸福を約束しない!?
経済成長はドグマ(宗教の教義)にも似た至上命題。需要側からも供給側からも、はたまたイノベーションを論じる向きからも絶対的テーゼとして祭り上げられてきた。
ところが、「はたして、経済成長は人間の幸福とどのような関係があるのか?」という点に飽くなき関心を持つ研究者が出始め、ここ数年は実に興味深いデータが出始めている。
例えば、次の図1は、経済成長が日本国民の生活全般の満足度に直結しないことを示している。日本の1人当たり実質GDPが伸びても、逆に「生活満足度」は下がっている。
図1●生活満足度と国民1人当たり実質GDP(国内総生産)の推移
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購買力平価で見た国民1人当たりGDPと「幸福度」の間にも同様の傾向がみられる。平成20年度国民生活白書によると、所得水準が低い国のグループでは 右肩上がりの正の相関を示すものの、全体として相関は弱い。所得水準が高い先進国では、所得の上昇にかかわらず幸福度はほぼ水平、つまり幸福感が高まらな いことが示唆されている。
もっとも厳密な議論をするためには、さらに膨大なデータの収集と解釈が必要なことについては論を待たないが、上記のデータから示唆されることは実に寒々 しい。「一生懸命、勤勉に働いてお金を儲けて、1人当たりGDPの向上に励んでも、生活満足度や幸福感はさして高まらない」ということだ。
以前ならば、「一生懸命、勤勉に働いてお金を儲けて、1人当たりGDPの向上に励めば、生活満足度は上がり、あなたは幸せになる」と言われれば、よほど の天の邪鬼でない限り大方は納得した。学校の先生から会社・役所の上司に至るまで、暗黙の合意・了解事項だったのではないか。
ところが今は、そうではなくなった。
「諸君はよく受験勉強に耐えて、大学に入った。これからもっと一生懸命勉強して、卒業する暁には、良い会社や研究所に入って、勤勉に働こう!そして給料をたくさん稼ごう! 幸せになるために!」とは、さすがに口が裂けても言えない。
たぶん、このような素朴な予定調和の物語は誰も純朴には信じないだろう。よしんば、そのようなことを言う人が出てきても、趣味の悪い懐古主義者と間違われるのがオチなのかもしれない。
勤勉の目的の問い直しが急務
一生懸命に勉強し、良いとされる学校へ入り、良いとされる会社に入り、社業に貢献することによって個益、つまり個の利益がもたらされる。公器である会社 が社業を発展させることにより公益がもたらされ、また利益の中から法人税などを収めることで公の利益の増進に直結する。このような勤勉の因果関係が成り立 ちづらくなっているのである。
筆者は、怠惰に流れやすい自分自身のことを都合よく棚に上げあげつつも、勤勉そのものを否定はしない。「第15講:どうした? 勤勉の倫理と日本的資本主義の精神」で議論したように、勤勉はとても大事な日本人の精神的資産であり伝統であると思っている。だから次のような議論になる。
「勤勉」→「経済成長」→「幸福」
上記の関係式の中で、「経済成長」が「勤勉」と「幸福」を媒介しなくなってきている。だから下記のように、勤勉の目的となるもの、つまり「経済成長にとって代わる媒介変数」をきちんと探し出して、自覚的に入れ込むことが大事である。
「勤勉」→「○○○○」→「幸福」
日本社会には「○○○○」について、まだまだ総意などといったものはない。当面、一人ひとりが模索してゆかねばならないところに事の重大さが潜んでいる。
集団的に深く刷り込まれた経済成長神話に代わって、一人ひとりが「○○○○」を探し、紡ぎ、意味づけていかねばならないのだ。前述した上田の言葉を借りれば、「○○○○」の定まらない状態は「かけがえのなさの喪失」にもつながる不気味なものだろう。
新しい資本主義の形は「新しい勤勉」を求める
元来、近代資本主義というものは空気のようなものだ。肌で触れることもできないし、目にも見えない。図2のように、抽象的な項目で構成されながらも、具体的にその影響下にある人の行動を拘束する。
近代資本主義は、目的合理性、労働の目的化、利子利潤倫理を基盤に置く。これらの基盤を下支えするものが「勤勉」であり、絶対性と抽象性を特徴とする私有財産制と、それによって万人が等しく絶対的に拘束される自由契約制によって成り立つのが近代資本主義である。
ここを押さえておかないと、最近騒がしい「明日の資本主義」「資本主義滅亡論」「資本主義暴走論」など、とめどもない言説の針金細工になってしまうので要注意だ。
「勤勉」をも俎上に乗せる諜報謀略論は、実は大変マジメな議論なのである。人は何に対して勤勉になりうるのか。経済成長以外に勤勉を誘導する政策的な目標はありうるのか。勤勉を演出し、社員の勤勉に依拠してきた日本的経営の姿はどうなるのか。次回以降に考えてゆこう。
- 【参考文献】
- 読売新聞、2008年7月30日
- 平成20年度国民生活白書
- 上田紀行、「生きる意味」、岩波新書、2005年
- 佐和隆光、「市場主義の終焉」、岩波新書、2000年
引用:諜報謀略講座 ~経営に活かすインテリジェンス~ –第16講:大丈夫か?日本資本主義の未来(勤勉のゆくえ) :ITpro
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