Self-Organizationあるいは「自己組織性と社会」

新春早々、目が覚めるようなビックニュースに触れた。なんと、東工大時代の恩師の一人である今田高俊先生(東京工業大学名誉教授)が天皇皇后両陛下に講書始の儀でご進講されたのだ

講書始の儀にて御進講されたテーマは「自己組織化の時代ー持続可能な社会のために」。学者としては年に3人しか選ばれ推戴されないので、現代に生きる学者として、控えめに言っても位人臣を極めたということにもなろう。

ご本人曰く、宮内庁から連絡があった一昨年の12月以来、コロナに罹患しないよう細心の注意をはらってこの日を迎えるための日々が続いたという。しかも、講書始の儀が執り行われる前日にPCR検査をして当日中に結果を宮内庁に報告せねばならなかったそうだ。陰性結果を知らせるメールできた時には安堵するとともにぐったりしたそうだ。いやはや。

講書始の儀の様子はこちらで閲覧できる。今田先生の御進講は17分20秒からだ。

そんなこともあり、お祝いの挨拶を兼ねて今田先生とSNSで連絡をとりあった後、名著「自己組織性と社会」(日本語版)を戴いた。実に畏れ多いことである。英語で博士論文を書いているとき引用の都合でSpringerNatureから出版されたSelf-Organization and society(英語版)と格闘したのだが、こうして日本語版の大著をあらためて読む機会が著者ご本人の厚意によってもたらされ、深い感慨を覚えるものだ。

自己組織性は、社会科学の深奥を大転換させるほどのインパクトを持つ知る人ぞ知るグランド・セオリーである。この理論の一端でも知らなければ、社会科学学徒としてはモグリだと思われる。付言すると、日本社会科学の系譜を理解するためには、今田先生の先生にあたる小室直樹との脈絡も押さえておくべきだろう。

それやこれやで、東工大が東京医科歯科大学と統合して東京科学大学と名称が変わるというニュースに接し一抹の寂しさを感じないわけでもない。大学も、そこに集う個人も「ゆらぎ」と「自己言及」(自己が自己にはたらきかけること)を繰り返し、変化してゆかなければ比較優位は保てない。いや、ここで「比較優位を保つ」という合理的な目的論を持ち出すことは、自己組織性の学問的境地からは誤謬命題である。目的合理性うんうんではなく、変化すること、内側から内破すること、それ自体によって、持続するのである。個人も組織も。そこには目的も、合理性もなく、すなわち、近代科学の呪縛からの解脱である。自己組織化とは、ただただ自己言及的な増幅によって、進化の限界を乗り越えようとするのである(自己組織性と社会, p11)。

****以下は、御進講抄録****


自己組織化の時代―持続可能な社会のために
東京工業大学名誉教授情報・システム研究機構統計数理研究所客員教授今田 髙俊

今、地球環境に優しくかつ将来世代にも迷惑をかけない持続可能な社会づくりが求められています。持続可能な社会というのは、その言葉からして一見、停滞的で活力に欠けるかのような響きを持ちますが、こういう社会にこそ活力が必要です。それを自力で自己を変える自己組織化という観点から考えてみたいと思います。


生命の躍動と力への意志

私が自己組織化の研究をしているときに、大きな影響を受けた哲学者が2人います。ベルクソンとニーチェです。

ベルクソンは『創造的進化』について興味深い考察をしました。この進化論は普通の生物進化論とは違います。ダーウィン流の生物進化論では突然変異が発生して、それが適者生存という形で選択淘汰されますが、ベルクソンの進化論は生命の躍動(エランヴィタール)がキーワードです。生命の躍動とは、自らに対する差異を生み出しつつ生成変化を遂げることです。絶えず変化することのなかに持続がある、「持続とは変化することなり」というのが彼の重要な主張です。

ところで自己組織化とは、システムが環境との相互作用を営みつつも、自らの手で自らの構造をつくり変えていくことを表します。つまり、環境変化の有る無しにかかわらず自力で自己を変えることです。環境変化に適応することの重要性がしばしば指摘されますが、自己組織化の特徴は環境変化によらず内発的な力によって自己を変えることにあります。ベルクソンは、内破つまり内から爆発する力によって自己組織化がなされることを教えてくれた哲学者です。持続可能な社会であるためには変化を通じた持続が求められます。持続には変化が不可欠であり、変化を通じた持続が活性化しているときに創造的進化が起きると言えるのです。

もう1人のニーチェは『力への意志』のなかで生きる力について論じています。彼の言い分によれば人間が本来持っている無限の可能性を引き出し、環境変化に右往左往することなく、内破の力で絶えず生成変化を遂げることが力への意志の現れであるとしています。人がこういう力を発揮して活性化するような組織や社会へ転換するのが持続可能な社会の条件だと考えられます。また、社会学者のウェーバーは不確実で流動する現実に向き合うなかから新しい価値理念が生まれるとしていますが、これはニーチェ的なイメージがよく伝わってくる見解です。近代社会では、不確実なことがあると確実性を高めよう、効率化して確実さを求めようという反応に陥りがちですが、新しい価値が創造されるのは不確実性に耐え抜いたときです。こうした発想は自己組織化ということに関連して、とても重要なことです。


内破による自己変革

ここで自己組織化における内破による自己変革について話したいと思います。内破は環境適応ではなく自己適応ということを含意します。環境の変化に適応できるよう自分を変えるというのは、変化の原因を外に求めることであり真の意味での自己組織化とは言えません。

自己組織化を分りやすくイメージするためには、昆虫におけるサナギの変態つまり《メタモルフォーゼ》のたとえが有効です。卵からかえった青虫は木の葉を貪欲に食べて成長し、その後サナギになります。このサナギの状態は、そのなかで劇的な体質変化が起きているときです。みのによって可能な限り環境から遮断され、環境との相互作用は営みません(酸素の出入りはありますが)。それは外界に対して事実上、閉じたシステムであります。外から見ると目立った変化はありませんが、そのなかでは古い体細胞をスクラップし新しい体細胞を構築する自己組織化の営みがなされています。新たな体細胞は青虫の体細胞を養分として増殖していきます。この状態を経て、青虫は例えば蝶という、姿かたちや機能も全く異なるものに生まれ変わります。つまり、メタモルフォーゼとは環境からの刺激を受けて受動的になされるのではなく、自力で自身の体質転換をはかることです。


自己組織化には、ゆらぎと自己言及が必要

メタモルフォーゼは生物での話ですが、社会の方に目を向けてみますと、自己組織化という考えの萌芽は、古くは古代ギリシャ時代の哲学者デモクリトスや古代ローマ時代の哲学者ルクレティウスにまで遡ることができます。また、近代哲学の基礎を築いたデカルトやカントの哲学にも仮説や言葉として登場します。

自己組織化について初めて本格的に論じられたのは第二次世界大戦後間もないころですが、それは船の舵取りに語源を持つサイバネティクスに基づいた環境適応型の自己組織化でした。その後、1970年代後半以降に、要素の協同現象に語源を持つシナジェティクスに代表される、自己内発型の自己組織化が複数登場して、議論が盛り上がりました。

こうした先行研究を踏まえて、私は自己組織化の本質的要因が《ゆらぎ》と《自己言及》の2つにあると認識するに至りました。

第一のゆらぎは自己組織化の小さなたねのようなもので、物理学では平均値からの揺れと言われます。社会現象で言えば、ゆらぎとは一般に、ものごとの基盤をぐらつかせ危うくする要因のことであり、既存の枠組みや発想では処理できない現象を指します。特に社会学では、世の中の決まりやしきたりから外れる逸脱行動ということになります。ただ、逸脱行動は否定的に捉えられがちですが、創造的なものもあることに注意が必要です。

ゆらぎについてはこれまで様々な研究がなされています。1/fゆらぎは心地よさの源泉と言われます。海辺で吹くそよ風や名ヴァイオリニストが奏でる音には1/fゆらぎが含まれます。生命科学では、ゆらぎは生きていることの証であると言われます。社会的な例としては、1980年代に「ゆらぎ」という言葉が流行ったことを指摘できます。当時、曲がりなりにも豊かな社会が訪れたことで、人々の価値観が多様化し、生活様式が個性化するようになりました。多様化や個性化は、人々の行動や価値観が、既存の「標準モデル」で解読できない状態を表します。かつて高度経済成長の時代には、人間こうすれば豊かになれる、幸せになれるというモデルがありましたが、それが崩れて、多様化や個性化と言われるようになりました。型にはまらない現象に出会うと、条件反射的に「多様化ですね」「個性化ですね」という言葉が口をついて出る状況でした。しかし、多様化とは何か、個性化とは何かの中身は曖昧なままで、きちんと定式化されませんでした。何かにつけて多様化や個性化が乱発される状況は、ゆらぎ社会の温床だと言えます。

自己組織化の第二の要因は自己言及です。自己組織化では自己が自己に働きかけて自己が変わるという自己言及作用が重要になります。自己言及は言わば自己組織化のエンジンなのです。自己言及とは本来発話する人物が自己を含めて何らかの言及をすることを言います。要は、発言内容が自分自身にも適用されることです。これはしばしば論理的なパラドクスをもたらします。有名な例として、クレタ人の「嘘つき」の話があります。あるクレタ人が、「クレタ人は嘘つきである」と言った場合、当人は本当のことを言っているのか嘘をついているのかが定まらないというパラドクスに陥ってしまうことです。しかし、日常生活では私たちは自分自身に問いかけて自ら変わることを矛盾なく行っています。自己反省ということもしばしばあります。パラドクスが起きるのは形式論理を適用するからです。したがって、形式論理とは別角度から自己組織化に接近する必要があります。

自己内発型の自己組織化では、自己言及をゆらぎと結びつけて考えます。ゆらぎと合体することで、自己言及はゆらぎがゆらぎを呼ぶ自己触媒の役割を果たすことになります。自己触媒とは反応に関わっている要因が、自分と同じ要因をつくるために自分自身を必要とすることを言います。つまり、ゆらぎの文脈でいうと、ゆらぎが同じゆらぎを生むためにゆらぎ自身を必要としていることです。この自己言及作用により、ゆらぎの自己強化が起きてシステムが不安定な状態に移行し、新秩序の形成が促されます。例えば、流行現象はそれまでには存在していなかった新たな差異づくりとして発生します。どこかの誰かが、ポツンと変わったことを試み、これに同調する人が出てきて自己触媒作用が出来上がり、他者を次々と巻き込んで流行現象が現実化します。

要は、自己組織化における自己言及とはゆらぎと結びついた自己触媒作用であるということです。

1980年代に流行したゆらぎとしての多様化と個性化は、これらが自己触媒となって増幅し、社会を導くモデルの喪失という混沌とした状態に陥りました。産業社会は豊かさを追求するまさにその行為によって、「物の豊かさ」を追求する従来のエネルギーを萎えさせていったのです。このため来たるべき社会の秩序が明確にならないまま、人々は不安定な状況に身を置くことになりました。


持続可能な社会の時代精神

しかし、1990年代に入って以降、こうしたゆらぎ状況に対して新たな秩序形成を目指す模索が様々な形でなされるようになりました。例えば、営利企業や行政では手が届かないサービスや援助を提供するボランティア活動や非営利組織(NPO)・非政府組織(NGO)の活動が高まったことです。これらの活動は多様化と個性化を軸とした秩序形成のはしりと言えます。またこうした経緯と並行して、持続可能な社会という新秩序の形成へ向けた取り組みが始まりました。

持続可能な社会とは成長や発展に囚われた活動をひたすら追求する社会ではなく、また停滞や安定状態に甘んじる社会でもありません。かつての高度経済成長の時代には人々の浮かれた気分を抑えるために「秩序ある繁栄」という時代精神が存在しました。しかし、成長神話が崩壊し経済の停滞が長引くなかで、「活力ある安定」がこれに代わる新たな時代精神として定着してきました。この時代精神を担うのが持続可能な社会です。

2015年に開催された国連サミットで「持続可能な開発目標」が採択されました。地球上の「誰一人取り残さない」多様性と包摂性のある社会の実現を唱えています。その内容は、貧困、人権、エネルギー、不平等、気候変動など社会、経済、環境に総合的に取り組む17の大きな目標と169のターゲットからなる壮大な行動計画です。まさに多様性に富む行動計画であり、各国の個性的な取り組みが求められます。

こうした社会を実現するためには、諸個人が様々な試みに果敢に挑戦し、アイディアを生み出したりシステムづくりをしたりして、持続可能な行為様式の確立と社会の秩序づくりが必要です。この試みは、冒頭で述べたベルクソンのいう「持続とは変化することなり」に呼応するものであり、まさにゆらぎと自己言及を核とする自己組織化へ向けた動向として期待できると思うのです。

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