ジャパニーズvsグローバル?!


今年は面白い年で、日本語と英語の本を1冊づつ出版する。日本語の方は単著で、英語のほうはエディター(企画編集者)として。2つの言語を時に悪戦苦闘しながらも行ったり来たりして、なんとか同時並行的に書き終えつつある。いろいろ気が付いたことがあるので、メモしておきたい。

ちょっとした身体性が日本語と英語を架橋するのではないだろうか。英語は使いはじめて、もう40年以上もたつが、ようやく自分の言葉になってきたな、とふと楽観することもあるが、やはり、まだまだだと諦観することのほうが多い。脳の神経細胞のネットワークの中身はどうなっているのか知らないが、たぶん、別々の領域に納められているのだろう。英語に疲れると、日本語の書き、日本語に疲れると英語を紡いだりする。もっとも、アメリカ留学中に必要に迫られ高速ブラインドタッチを体得しているので、英語はもちろん日本語のタイピングもすべてローマ字だ。

ふだんはあたりまえのようにローマ字入力を使っているのだが、日本語も英語もローマ字入力する、ということは指や手の運動が共通しているので、両語の行き来がたいへんやりやすい。脳科学の方では、言語をつかさどる脳の部位として、ブローカ野やウェルニッケ野が知られている。たぶん、英語も日本語も、これらの野や領域のどこかに無節操にグシャと入っているのだろう。ローマ字タイピングというカラダの動きは身体性の発露だろう。たぶん、キーボードをカタカタ打つタイピングという紛れもない身体性が、ふたつの書き言葉を架橋しているのではないか。

日本語の本の出版社は、初稿、再稿、再々稿というように、合計3回手書きによるゲラ直しを行った。すべて手書きでゲラに朱を入れる作業だ。実にアナログであり、効率的ではない。英語の本は僕による査読も、出版社のエディタによる初稿、 再稿も、ずべてデジタルだ。シンガポールにあるSpringerNatureのAP本社と契約のやり取りを行い、神谷町にあるSpringer Japanと編集者と進捗確認などやり、プロダクションはなんと南インドである。

面白いのは、英語の出版契約書は、サインまでもがデジタルサイン。結局、はじめから終わりまで、全部デジタルで完結した。日本語出版社のほうは、契約書というビジネスライクなフォーマットはなく、口約束の世界(メールはあるが)。この、どろーっとしたやり方は、日本の出版業界では今も昔もよくある話だ。

英語圏内の出版ビジネスのエコシステムは、たとえば、著者にアクセスするのは大学が集中する大都市、プロダクションは人件費が安くて英語力も相応な人が多数いるインドの都市などというように、英語出版ビジネスのエコシステムをフルに利用できる。原稿提出、査読、編集はすべてコンテンツ・マネジメント・システムを使う。紙は一切介在しない。いちいち会ったり、電話したりとかは一切なし。効率的だ。

一見、英語エコシステムをフル活用する英語の本書きのほうが合理的だ。だが、ペラペラと紙のクオリア(質感)を体感しながら、紙のゲラに肉筆で朱を入れるという、身体性が介在する作業のほうが、しっくり来る。この、しっくり来てしまうことが僕の限界(あるいは自分の、日本語という所作の特徴)なのだろう。ローマ字24文字で森羅万象を表現する英語には元来デジタルと親和性が高い。その点、ひらがな、漢字、カタカナなどごちゃまぜの交雑的言語=日本語は、どこかアナログ的余韻がべったりくっついている。

日本語では、著者、編集者、ゲラを起こす人、装丁者、販売などが、交雑的にクオリアを創発させながらじっくりともつれ合いながら本を作ってゆく。英語では、プレーヤーたちは、直線的にサクサク、カタカタと無機質的にストレートに本をプロダクションしてゆく。前者は擦り合わせ型で、後者はさしずめモジュール型だ。そういうウチに閉じた日本語によるローカルな出版文化と、オープンな世界言語≒英語によるグローバルなパブリッシング・カルチャーの相違は実に面白い(と同時に決定的だ)。ある意味、日本語による本づくりの、そのような非効率を平然と行い得ることは贅沢なことなのだろう。あるいは、昨今の出版不況の遠因かもしれぬが。

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