イタリアでの学会発表、夏の北海道自転車ツーリングが終わり、そして次の学会発表の資料が、まあ、なんとかできて、あとは本番に臨むだけ。ここ1週間くらいは、ヴィクトル・フランクルの「夜と霧」を何年ぶりかに読み返し、進化生態医学(Evolutionary and Ecological Medicine)というテキストにハマっておおいに没頭。その余波で、コリン・ウィルソンの「超越意識の探求」を読み返す。
重い本ばかりだったので、気分を冷やすために軽めのダニエル・ピンクのA Whole New Mindを読み返した。この本、数年前にアメリカ人の友人から、オマエこれいいぜ読めよ、と言われたほんだ。
この本は、大前研一さんが監訳していて「ハイコンセプト」という日本語の本になっている。Empathyとか共感ということが一般に言われ始めたのは、この本がひとつのきっかけになっていると踏んでいるのだが、さて。
ビジネス書のクオリティは、アメリカで定評のある書物が日本のそれよりも抜きんでていることが多い。日本語で読んでみて、おお面白い!と感じた本は英語でも読むとさらに面白くなる。
軽妙な文体や言い回し、単語の用法など、オヤッと気づくところ数限りなしだ。こういうのは、英語の雑談のときなど助かること請け合いだ。
さて、そんな集中的な読書が一段落して、久しぶりに畏友と呑んだ。
そいつが、実に面白いことを書いたりしている。
なるほどな思ったのでメモしておきたい。
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あたりまえのことをあたりまえにやる「今日」という話だ。
言ってみれば、ハイコンセプトでもなくローコンセプトでもない。右脳でも左脳でもない、超越でも没超越でも、雨でも霧でもない。
あたりまえの思考!
「今日風邪をひいてしまって、ランニングを一日欠いてしまった。風邪の原因は、昨夜飲み過ぎて友人の家に泊り薄着で寝て体を冷やしてしまったことだ。今後の反省材料だ。この程度の風邪ならば、薬を飲むまでもなく、暖かくして一晩たっぷり寝れば治る。だから今日は風邪を直して読書に専念すのとするか。明日のために」
また、「2014年3月31日までに大きなペーパーを完成させて提出するために、毎日アイディアをコツコツと煮詰め書きためることが、2014年3月31日が「今日」になった時に威力を発揮するはずだ」
その友人はこう言う(書く)のだ。
「過去の今日は『今日』のためにあり、『今日』は未来の今日のためにある」
(おいおい、もっと早くオレにも教えてほしかったなぁ)
今日、そして、いまここ、を充実して過ごす、己の実存を意味に満ちた時間に投げ込むことが、過去に培った思索、知識、経験、交友、財産などを有効活用でき、未来へもつながるのである。
もちろん、この教えは10代、20代の若者から・・・・・100才近くの老人まで、示唆に富むと思う。「死ぬこと」で未来は終わってしまうのか?自分の未来を「死」の境界をもって終わらせないとしたら、未来は死後の世界にも存続することになる。
そう捉えると、上の言葉は死後の「今日」も含むことになる。
う~ん、さらに意味深長になる。
そういうことを教えてくれる古い友人というのは大切なものだ。
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