第3講:厩戸皇子と遣隋使を巡るインテリジェンス

 インテリジェンスとは、「個人、企業、国家の方針、意思決定、将来に影響を及ぼす多様なデータ、情報、知識を収集、分析、管理し、活用すること、ならび にそれらの素養、行動様式、知恵を総合したもの」である。競合相手の情報や事情を意図的に探り、評価し、知識に変えていく「諜報」、諜報にいそしむ相手側 から身を守る「防諜」、諜報と防諜を組み合わせて情報や知識を意図的に操作し、企図する成果を実現する「諜略」は、すべてインテリジェンスに含まれる。

 諜報謀略は、人間が言語を持った時から始まった。ただし、歴史を変えるような大掛かりな諜報諜略となると、仕掛けたほうも、引っかかったほうも、その事 実を認めないから、史実や記録として残らない。したがって、大掛かりな諜報諜略が歴史として記録されることはよほどのことがない限りない。むしろ諜報諜略 の成果としての権力交代あるいは権力の正当性が、歴史の編纂者の手によって書かれ、操作される。

 本連載を進めるにあたって、歴史をひもときつつ、そこにおけるインテリジェンス活動を読み解いてみたい。過去から学ぶのは、インテリジェンス研究の作法 である。例えば、中国の兵法書「孫子」はインテリジェンスにかかわる知恵の集積であり、現在にいたるまで各国語に翻訳され、インテリジェンスや軍事の講義 で必ず引用されている。現に筆者が留学していたコーネル大学の軍事学講座において、受講者は孫子を熱心に読み解いていた。

 

「しのび」を駆使した厩戸皇子

 日本におけるインテリジェンスの起源を探るために、聖徳太子の時代にまでさかのぼってみたい。聖徳太子は「十七条の憲法」や「冠位十二階」を制定した古 代日本の偉人として伝えられている。日本書紀によれば馬小屋で出産した皇子であるから、厩戸皇子(うまやどのみこ)という名が付けられた。聖徳太子という 尊称は後年与えられたものなので、ここでは、一般的に使われる厩戸皇子という呼称を使わせていただく。

 人間が二人以上集まれば、そこに利害関係が生じ、権力の錯綜も生じる。とりわけ中央集権国家の形成にあたっては、権力の集中を伴うゆえに、必然的に権力 闘争が発生する。権力闘争を巡って情報の不均衡が生じ、諜報諜略が生まれる。畿内に豪族が発生し、中央集権国家の基礎が出来上がりつつあった厩戸皇子の時 代、豪族達が敵情を探って優位に立とうとする発想を持つのは必然であった。

 そう考えると、厩戸皇子の親戚であった当時の実力者、蘇我馬子も諜者を使っていたことはまず間違いない。ここで当時の朝鮮半島と倭国との政治状況をざっと振り返ってみる。

 そもそも蘇我馬子の先祖は朝鮮半島の百済の官僚だった。高句麗が百済に侵攻して百済が崩壊したのち、木満致(もくまんち)という百済の高級官僚が亡命し て倭国にやってきた。その木満致は名を改め、蘇我氏の基礎をつくった蘇我満智(そがのまち)となったとする説がある。このような出自の蘇我氏は、渡来人集 団を倭国の王家に仕えさせ、倭国と元百済勢力との連携を強めたがっていた。

 蘇我氏に対抗する勢力の代表が、大伴(おおとも)氏や物部(もののべ)氏であった。大伴氏はアメノオシヒを祖先とし、大王家の宮廷の兵をひきいていた。 アメノオシヒとは、倭国の土俗的神話で大王家の祖先のニニギノミコトとともに天から降りてきたとされている。一方、物部氏は大王家とは別に、ニギハヤヒを 祖先とする一族とされる。物部氏は古い土着氏族で、大王家が大和(やまと)地方に入る以前から、大和の有力氏族を支配していた。大伴氏が失脚したあとは、 蘇我氏と物部氏が対立するようになる。

 渡来系の蘇我氏は崇仏派で、土着系の物部氏は排仏派であった。蘇我氏は、当時のユニバーサルな価値観、すなわち仏教による統一国家建設を目論んだ。これ に対し、物部氏は、ローカルな土着的神話価値観による連合国家建設を考えた。両氏の対立は先鋭化し、収拾がつかない状態に陥った。厩戸皇子はこのような混 乱のなか、登場した。

 厩戸皇子は「志能便(しのび)」と呼ばれる専門職能集団を使い、朝廷内外の情報を得ていたとされる。厩戸皇子が志能便として起用したのが大伴細人(おお ともの ほそひと)である。その当時は忍者という言葉は無かったが、この大伴細人が確認できる範囲で日本最古の忍者、すなわち諜報を専門に実施した人物で あると言ってよい。後に、忍びを「細作(さいさく)」と呼ぶことがあったが、これは大伴細人の名前に呼応する。

 厩戸皇子が大伴細人以外にも、服部氏族などの忍者を使っていた可能性は高い。そして服部氏族の末裔が伊賀忍者の源流に、大伴細人が甲賀忍者の源流に、そ れぞれなったという説がある。諜者や忍者の仕事はスパイ活動そのものである。スパイの重要性は古くから知られており、先に紹介した「孫子」は、丸ごと一章 を当てて解説している。すなわち孫子は古代における諜報諜略のテキストブックであった。

 この錯綜した権力抗争は紆余曲折の末、決着を見た。厩戸皇子は蘇我氏につき、蘇我氏と共闘して物部氏を滅ぼした。こうして倭国は、当時のユニバーサルな価値観である仏教を基礎にして統一国家づくりに歩みだすこととなった。

 権力抗争の中で政敵の動向を把握することは、自分や一族の地位、権力、財産を守ることに直結した。飛鳥時代の日本は、貴族ではなく豪族によって政治が取 り仕切られていた。豪族達は流血を伴う権力闘争を繰り返し、有力豪族である蘇我氏の親戚であった厩戸皇子でさえも寝首をかかれる可能性があった。

 

インテリジェンス活動としての遣隋使

 厩戸皇子の時代のインテリジェンス活動として、遣隋使を取り上げよう。遣隋使は5回以上派遣されているが、日本書紀には第1回目の記述がなく、なぜか第 2回目からの記述になっている。遣隋使は国家使節であると同時に、当事の覇権国家である隋の情勢を探り、日本としてうまく立ち回るポジションを得る公的な インテリジェンス活動ととらえることができる。

 595年(推古三年)、高句麗の仏僧、恵慈が日本にやってきた。恵慈は厩戸皇子の師であると通説では言われるが、この人物は外交エージェントでもあっ た。当時、高句麗は朝鮮半島で新羅と主導権争いをしており、隋とも対立を深め、厳しい立場に置かれていた。高句麗は中国から見ると同じ「冊封国」に列せら れていた日本と関係を深め、冊封国家同士の貿易関係を密にしようと考えていた。

 「冊封(さくほう)」とは、中華思想に基づく言葉であり、中国王朝の皇帝が周辺諸国の君主と名目的な君臣関係を結ぶこと意味する。中華思想では、野蛮な 国々が中国皇帝の徳を慕い、礼を受け入れれば、「華」に近づけるとされる。中国から見て「夷狄」と呼ばれた周辺国は、冊封を受けることによって華の一員と なり、その数が多いことは皇帝の徳が高い証になった。

 中華思想とは、中国が世界秩序の中心であり、その文化と思想が世界で最も高度で洗練されたものであり、漢民族以外の異民族はすべて野蛮な化外(けがい) の民とみなす思想である。もっと露骨に華夷思想ともいう。中華思想に基づく異民族への蔑称は、東夷(とうい)、西戎(せいじゅう)、北狄(ほくてき)、南 蛮(なんばん)があり、日本は東夷、つまり東の果ての野蛮な人々がたむろするところ、くらいにしか思われていなかった。ちなみに、中華思想は連綿と今日の 中華人民共和国まで継承されており、中国の歴史思想を支える背骨になっている。背骨は外からは見えないが、背骨がなければ人間の体は成立しない。

 一方、冊封国側から見れば、冊封体制に組み込まれることにより、中国からの軍事的圧力を回避できるし、中国の権威を背景に、国内と周辺に対して有利な地位を築けることになる。周辺とどう付き合っていくかが、冊封国家にとって重大な戦略であった。

厩戸皇子が隋に送った諜略レター

 厩戸皇子が遣隋使の小野妹子に持たせた、隋の煬帝あての手紙はインテリジェンスの観点から示唆に富む。有名な「日出処天子至書日没処天子無恙…」(日出 処の天子、書を日が没する処の天子に致す。つつがなきや…)で始まる手紙である。これを読んだ隋の煬帝は激怒した。この無礼者め、と。

 激怒の原因は二つだろう。まず、日本を「日の出る国」、隋を「日が落ちる国」と表現したことである。東方の野蛮な弱小国に、隋帝国は「落ちめ」の国と書 かれ、煬帝のプライドが傷つけられたことは想像に難くない。もう一つは中国皇帝にしか使用されていなかった「天子」という用語を、「日出処の天子」として 日本が使ったことである。中華思想の体現者、煬帝から見れば言語道断の言葉づかいであった。

 これが事実であるならば、厩戸皇子は、中華思想を深く知りながら、煬帝の逆鱗に触れる書状をわざと出したことになる。「日本は新羅や百済と非常に親密な 関係があったけれども、これからは隋とも対等の関係でいかせてもらいますからよろしく」というジャブを出し、挑発したわけだ。そうそう簡単には中華的序列 にはおさまりませんよ、という外交的な意思表示であった。

 これは、高句麗の利益を考える恵慈の外交的なサシガネでもあった。すなわち、日本が隋に対して対等外交を要求することで、「日の出る国は隋に対して従順 ではない」との認識を隋に与え、高句麗と隋との関係を有利に持っていこうとするものであった。高句麗から見れば、隋からの外圧をかわして、緩い共闘連合を 日本と組むことによって国益を保全することにもなったのである。

 小野妹子も策士だ。激怒した煬帝はそれなりの返事を書いた。しかし、煬帝の返書はどこかへ行ってしまい所在不明となっている。この返書については、日本 に戻ってくる間に小野妹子が紛失してしまったとも、百済で奪い取られたとも、後世いろいろ言われている。怒りを込めた返事なのか、たんに呆れかえって日本 を子ども扱いにした返事なのか、返書が無くなってしまったので真相は分からない。

 隋から日本に帰る途中で返書は消えたとされるが、これはおかしなことである。隋から帰ってくる船には、中国から数十人もの隋の役人、使者、諜者が乗船し ており、小野妹子ら一行を監視していたはずだ。そんな中で重要極まりない手紙を紛失したり、奪い取られるものではなかろう。

 要するに、蘇我氏、厩戸皇子、小野妹子らは、怒った煬帝の手紙を読まなかったことにしたわけだ。ジャブを打っておいて、カウンターパンチはさっとよけ、 「手紙は無くなったので読んでいません」とシラを切ったということになる。小野妹子は手紙の紛失に関して責任らしい責任を取っていない。それどころか、翌 年になると第3回遣隋使として、のうのうと隋に行っている。要するに返書は後世に残すためには、都合が良くない内容だったのであろう。だから無くなったこ とにしたのである。
 
 ということで、「日出処天子至書日没処天子無恙…」にはつじつまが合わない部分が多くあり、この手紙の存在じたいが虚偽であるとの説も根強い。

 さて厩戸皇子は恵慈からコンサルティングを受け、古代の公務員規定ともいうべき「十七条の憲法」と豪族を中心とした身分制度「冠位十二階」を作り、内政 面もさることながらそれらを外交カードとして活用したと伝えられる。国内の統治を確立すると同時に、秩序、制度、法により国家の運営を執り行っている文明 国であるということを隋帝国に知らしめる必要があった、というような解釈がよくなされる。その一方で、「十七条憲法」は偽書であるという主張がある。「十 七条憲法」は厩戸皇子の作ではないと主張した津田左右吉の『日本上代史研究』は有名だ。しかしこの本は発禁処分となっている。

 このような活躍をしたとされる厩戸皇子ではあったが、その末期の死因については自殺説や他殺説がある。実のところは権力闘争、インテリジェンス活動の果てに窮して世を去らざるをえなかった側面が強いのではないだろうか。

 厩戸皇子の没後、厩戸皇子の一族はかつて皇子が加担した蘇我氏の手で滅ぼされている。しかし、その蘇我氏が滅ぼされた後の権力者の政治的意図によって、 亡き厩戸皇子は復権させられ、歴史編纂というインテリジェンス活動のなかで「聖徳太子」として美化、脚色され、物語化されていった。

 厩戸皇子はインテリジェンスを駆使したが、「聖徳太子」はインテリジェンス活動としての歴史編纂の過程で形作られたのである。その意味で非常にミステリアスな人物である。

 

引用:諜報謀略講座 ~経営に活かすインテリジェンス~ – 第3講:厩戸皇子と遣隋使を巡るインテリジェンス:ITpro

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