知的生産の技術

カテゴリー : No book, no life.

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一読してからのインパクトが数十年に渡って延々と続く本もあれば、数か月ともたない本もある。前者の代表格として、梅竿忠夫の「知的生産の技術」がある。この本を読んだのはたしか高校1年のときだったか。神保町や早稲田通りの古本街に通いはじめた頃、高校生よりも一回りも二回りも年をとった多くの大人が手に取り、けっこうな評判になっていた本だ。

さして知的な生活をおくっているとは自覚していなかった高校生にとっては、「知的」という呪文のようなフレーズは、もうそれだけで立派な大人に近づいたような感覚も手伝い魅力的だ。さらに件のその「技術」さえ要領よく習得すれば、だれでもかれでも「知的」を手に入れることができるとあっては、飛びつかざるを得ない。

そんな不思議な磁力を発する本だったのだ。この本を一読後ずっと大いに役に立ってきた3つのものがある。

①発見の手帳

インスピレーションによって得たもの、アイディア、本の感想などをカードではなくノートにとりまくる。きちんとして文章にする前のたんなる単語の羅列や絵、スケッチ、記号などなんでもよい。梅竿には探検のバックグラウンドがあるが、大学に入ってインドからネパールを自転車で旅した時も、このノートは大変役に立ち、論文にもなった。

ただし、京大式カードなどのカード作成の方向には進まなかった。カードの保管が面倒でぱらぱらとめくるノートの方が、日記の機能を併せ持つことから過去、現在一貫してノート派だ。コクヨの普通ヨコ罫7mm30行30枚つづりのCampusを愛用している。

いまでは、evernoteと同様なことをしている。クラウド環境にぶちこんでおけば、世界中どこでも書き、更新し、かつ閲覧できる発見手帳が魔法の絨毯に乗ったようなものだ。ノートにスケッチした概念図や相関図、ごちゃごちゃした走り書き、ブレストの成果をスマホの写真にとり、それをevernoteに送ってやり、一元保管するという技も使える。

②読書

人は知識を活用して考える。自分の経験という制約を越えて知識を仕入れるために読書をする。考えたことを文章にする。したがって文章を書くためには読書、知識の体得は必須である。

本は集中して知的な興奮のもと一気に読み終えるのがよい。その興奮を冷まして、冷静な読後感と言えるくらいにまでこなれてきたら、傍線をわんさか引いた部分や汚く書き込んだ事柄について、ノートにまとめる。同じ本を読んだ友人とこのノートをベースにしていろいろナマイキな議論をするのである。

さっと求める本を手に取ることができる書斎を持つことの意味は強調しても強調しすぎることはない。「知的生産の技術」では書斎の記述はさほど多くはないが、書斎論といえば、同じく高校生の頃に読んだ渡辺昇一の「知的生活の方法」の影響はぬぐえない。

概して、インプット系の読書・書斎論は渡辺昇一、アウトプット系の記録づくり・執筆技法・文章作法は梅竿忠夫という組み合わせだ。

 ③ペンからタイプライターへ

昔はガリ版という旧世代の印刷技術があり、貧乏学生のクラブ活動では重宝したものだ。ガリ版がやがて湿ったヘンな匂いがするコピーとなり、10円コピーとなり、ワープロとなり、パソコンとなった。タイプライターは以前、英文科の女学生を拝み倒して借りて使ってみたが、性分に合わなかったこともあり途中でとん挫。

その後、1980年代後半にアメリカで研究生活を送っていた頃にマッキントッシュを使い始め、タイプライターは完全スルーとなった。ローマ字入力は便利だ。日本語の文章も英語の文章もブラインドタッチのローマ字入力ができると書くスピードが思考スピードに近づく。

一冊の本は亀のように遅いワードではなく、アウトラインプロセッサ「秀丸」を使うに限る。知的空間をevernoteで膨張させ素材を整えて仕込み終えてから、全体構想→部分構想→章立て→節の構成→文章の書きおろしという作業が、リニアではなく、「全体構想⇔部分構想⇔章立て⇔節の構成⇔文章の書きおろし」というようにマクロ的な俯瞰とミクロ的な書き下ろしが、同時進行的にできるのがよい。

モノ書きにとって隔世の感だ。

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新しい研究室への引っ越しで古い本を整理整頓していると、ふと目に入った黄ばんだ「知的生産の技術」。読み始めると、2017年現在でも十分読めるし示唆する内容は実に本質的なものばかりだ。

 

小屋生活の系譜

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八ヶ岳本をいうマイナーなジャンルがある。登山でもなく、単なるレジャーをテーマにした本でもない。八ヶ岳の麓に移住したり、住んだりすることを主たるテーマに置く一群の本のことをいう。

八ヶ岳南麓に小さな山荘を営む身からすれば、気になるテーマで、かれこれ30年以上もこのテーマを追いかけるというほどではないが、まぁフォローしてきている。そんななかで、異色の本に遭遇した。

「僕はなぜ小屋で暮らすようになったのか」がそれだ。

慶応の大学院で研究した後、いろいろあってホームレスを彷彿とさせる路上生活を経て、数々の試行錯誤を経た筆者が、雑木林に小屋を建て多摩川の河川敷にテントを張って、これら二つの拠点をカブで往復しながら暮らしているという。知的な人とあって、家庭教師などの都市系の仕事で収入を得ながら、菜園で栽培する野菜や川で釣った魚などを食べながら慎ましく生活しているという。

著者は活字を紡いだり思索が好きな人と見えて、内面描写も内向的な人独特のじめっとした陰影を落としながらも、生活の描写は淡々としていてなぜか小気味よい。

通底するテーマは「哲学」や「死生観」。幼い頃に「自分の死」のイメージに思い至ってより、「生きていること」の不思議さや儚さに思い巡らせてきた著者が、思考の世界と現実的な生活との折り合いをつけてゆく試行錯誤の記録だ。

小屋、山小屋、山荘をテーマにした本は、有産階級の人やある程度仕事をやり終えたり、いくばくかの成功を収めた後に高原や見晴しのよいところに移り住んだり、セカンドハウスを持つといったストーリーが中心だが、この本は、それらのプチブル的趣向とは歴然と隔絶している。

著者によるブログも面白い。

ウォールデン池畔の森の中にこじんまりとした丸太小屋を建て、自給自足の生活を『ウォールデン 森の生活』(1854年)に紡いだヘンリー・デイヴィッド・ソロー(Henry David Thoreau、1817年- 1862年)の系譜がそこはかとなく見え隠れするのも味わい深い。