朝護孫寺と厩戸の王

朝護孫寺の仏塔

昨夜は三輪山登拝の後、あの阿修羅に対面するために興福寺、そして薬師寺とまわってから奈良に住んでいる旧友と会ったりした後、信貴山の麓にある「音の花温泉」という味わい深くもあり庶民的な雰囲気の温泉でひと風呂浴びてから、「道の駅 大和路へぐり」へそそくさと移動し、そこで車中泊し快眠。

日本の多層・多神教の心象風景を探ることはもはや研究テーマを通り越えてライフワークみたいなものだ。こんな放浪的なライフワークに集中的にいそしんだ昨日を振り返れば、実にディープな一日であった。ただし、移動性高気圧のためか奈良盆地は季節はずれの放射冷却が発生して明け方はかなり寒く、フロントガラスの内側は凍結していた。

さて、厩戸の王について以前、厩戸皇子と遣隋使を巡るインテリジェンスを小文をとある連載で書いたこともあり、興味は尽きない。

今から1400余年の昔、厩戸の王(聖徳太子)が朝敵物部守屋をやっつけるための戦いに臨むとき、この山で毘沙門天王を霊感によって感得したそうな。太子は「崇仏派」で物部氏は「廃仏派」であるとよく昔の日本史の教科書に書いてあるが、ことはそう単純ではない。そもそも当時の仏教というので当時のグローバルスタンダードにも等しく、最先端の科学、学問、哲学、思弁、社会システム運用方法などが凝縮された一大ニュートレンドだったのだ。

蘇我氏をはじめ変革派エリートを自認する階層、氏族はこぞって、この新しいグローバルスタンダードをバックボーンにして社会改革、政治改革に走りだした。それに比べて、土着のむかしながらのアミニズム、呪術、しきたり、習慣などが入り混じった神道の世界ー今回のフィールドワークで訪れた伊勢神宮、熊野那智大社、石上神社、大神神社・・ーを担ぐ勢力は、統一的なテキストもなく、どうしようもなくバカでコンサーバティブな奴ら。その伝統主義の守旧派から見れば、「崇仏派」は仏教かぶれの新しいもの好きのけしからん輩だったのだ。

その後、歴史は壬申の乱を挟んで血みどろの仏教勢力と非仏教勢力の戦いの連続であった。かように両者がかつぐ価値システムには先鋭な対立構造があったのだ。

厩戸の王(聖徳太子)

物部守屋を懲らしめた太子は、この山を「信ずべき、貴ぶべき山」つまり「信貴山」と名付け、日本最初の毘沙門天王御出現霊場となったといわれれる。朝護孫子寺のサイトでは、「醍醐天皇の御病気のため、勅命により命蓮上人が毘沙門天王に病気平癒の祈願をいたしました。加持感応空なしからず天皇の御病気は、たちまちにして癒えました。よって天皇、朝廟安穏・守護国土・子孫長久の祈願所として「朝護孫子寺」の勅号を賜ることとなりました」と説明している。

現在の朝護孫寺は、そんな血みどろの仏教勢力と非仏教勢力の戦いに対する反省もあってか、あるいは対立疲れのためか、いい塩梅に両者が融合している。境内に神社や鳥居が点在し、密教寺院であって神社の趣がいたることにある。人呼んで神仏習合の知恵なのだろうか。

残忍非道のガザ地区で、「ヘブライとムスリムをいっしょくたんに混ぜ合わせイスラエル人もパレスチナ人も、なかよくまじりあって、一神教テンプルに行こう!」というのは悪いジョークというか支離滅裂な言説だろう。この悪い冗談もユーラシアの東の果ての島では、ヘブライを神道力、ムスリムを仏教勢力に置き換えて実現している。そのありえないくらい稀有な歴史をもつのが、この国のお国がらなのだろう。

実は、日本人にとっての宗教はなにかといえば、仏教でもなく神道でもない「日本教」(山本七平・小室直樹, 2016)。「神仏たちの秘密」の松岡正剛(2008)の言を借りて言えば、「日本教」とは、仏教や神道を混ぜアワセ、つじつまをソロエ(垂加神道など)、ときにキソイあい(崇・排闘争、大化の改新、廃仏毀釈など)、換骨奪胎した和風レリジョンのシツラエだろう。現在の朝護孫寺では、アワセ(合わせ)、ソロイ(揃い)、キソイ(競い)を織り込む「日本という方法」(松岡)の姿が、饒舌に映し出されている。落ち着いたら今回のフィールドワークから得たアイディアを論考をまとめてみたいものだ。

もっとも、お国がら(コンスティテューション)に確固とした方向性を示す規範が憲法(コンスティテューション)。1787 年に宣言されたアメリカ合衆国憲法に先立つこと1000有余年、太子が定めた十七条憲法の「和(やわらぎ)を以て貴しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ」は、けだし、遠いウチにおいては崇仏・廃仏の血みどろの抗争、近くのソトにおいては、今のガザ地区の惨状を見るにつけ、画期的な言説なのではなかろうか。

松岡 正剛(2008).神仏たちの秘密―日本の面影の源流を解く.春秋社
小室 直樹, 山本 七平(2016). 日本教の社会学. ビジネス社.

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