いいものを書けば読者の気持ちに響くものだ。読む方からすれば、いい本を読めばタメになる。響けば、明日からの行動も変わるかもしれない。「書く」と「読む」・・・これらの行為を通して、著者ー読者という二項的な図式を通り越して、読者は著者を飲み込んで、著者にもなかった新しいアイディアを得ることもできる。
みかたをちょっと変えれば、書く、読むという営為は異界越境となる。そして、読者の認知や行動が変容する。それを著者が認知、期待すれば、目には見えないが、たしかに著者ー読者の関係性は変化することになる。
「書く」と「読む」、そして、それらの行為のシステミックな相互浸潤と相互作用。著者ー読者の間に広がる関係性のなかの変化、行動変容の契機となる。無数の書き手と無数の読者が織りなす複雑な関係性は、「インドラの網」のようだ。一つの水玉は、すべての水玉を映し出し、それらすべてがきめ細やかな網の目で繋がっている。なにかのきっかけで、ちょっと変われば、それがたちまち、網の目の関係性を通して、すべてに伝搬してゆく。
社会構成主義が、関係性を声高に主張する2000年以上もまえに、インド哲学(とくに大乗仏教法相宗に伝わる唯識)は関係性の本質をとらえていた。唯識とは、正しく言えば、「唯識所変」、つまり、唯(ただ)識(しき)によって変じられたところのもの」。われわれの識(こころ)こそが、モノやコトをつくりあげ、構成し、決定(けちじょう)しているのである。
「手を打てば
鯉は餌と聞き
鳥は逃げ
女中は茶と聞く
猿沢の池」
興福寺にある猿沢の池。そこで、手を叩いてみると、刹那にパチンという音が池のあたりに響き渡る。すると、その手のひらから発せられた音を、鯉は餌がまかれているととらえて集まってくる。かたや池で休んでいた鳥はビックリして空に羽ばたいて逃げる。寺の女中さんは、坊さんが茶を所望していると捉え、お茶をたてる準備をする。そして、鯉、鳥、女中がなす行為が、また、それぞれの網の目でつながった別の行為に連綿と繋がってゆく・・・。叩かれた二つの手によって発せられるパチンという音一つとっても、それを受ける側の識(こころ)のとらえかたで、まったく意味は異なり、まったく別の関係性が生起されるのだ。
パチンという音のスパークが読書だとしよう。すると、読者ひとりひとりに、それぞれ異なる意味のスパークが起こる。それが、インドラの網のように波及してゆく。「書く」と「読む」は、これほど左様に響き合って伝わってゆく。そのようなスパークの契機となるようなものを書きたいものだ。
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