伊勢外宮、内宮で垣間見た縄文の痕跡と「歴史認識」

伊良子岬から伊勢志摩を望む

浜松に住んでいた子供時代から行動範囲は近所の子供たちに比べて広いほうで、東の天竜川、西の浜名湖というような範囲だった。大学学部以降、自転車に乗るようになって輪をかけて行動範囲は拡がり、西日本一周や東海道縦走などのおり、名古屋を通る伊勢湾沿いのルートを選択することが多く渥美半島はスルー。

渥美半島は伊勢湾に突き出た半島という性格もあり、子供時代に家族旅行でいったのが最後で、ほぼ未知の地だったのである。

したがって今回の旅では、ぜひとも渥美半島の先端の伊良子岬まで走り、少々洒落てフェリーで対岸の紀伊半島の根っこまで移動し、伊勢神宮に行くというルートを選択。

宇治橋が架かる鈴川は、宮川水系の一級河川で、全長約20kmほど。神路山を源流とし、伊勢神宮の内宮神域内を通って伊勢湾に流れ込む。

古い神社では、鳥居、拝殿、神殿といった人造物以外にも、境内やその周辺に縄文遺跡や縄文の痕跡がそれとなく残っていることがある。そのような神社の多くは、山の麓、湧き水のある山麓や台地崖下、 海に突き出した高台や台地の突端、見晴らしのよいロケーションに鎮座する。また、神々しくも鬱蒼とした森や巨木、清水がこんこんと湧き出る泉や池などもあるのが特徴だ。

内宮にはこれらすべての条件が整っている。「豊葦原の瑞穂の国」は、清らかな水に恵まれ稲がたわわに稔る国だ。お米は単なる食料としてだけではなく、神と人とを結ぶお供え物だ。神宮では稲が芽吹き、そして稔るという稲作の周期と共に、年間1500回に及ぶお祭りが行われることからみても、 豊作祈願や新米への感謝をはじめ、弥生文化(稲作農耕)を象徴するようなものを守り伝えていこうという強い意志が脈々と継承されている。

古い神道には、およそ万物に神宿るといアニミズム的感覚=精霊信仰が残っている。そこには、異形の巨木や巨岩・奇岩が境内に存在して霊的な存在として崇められていることが多い。ところが伊勢神宮内宮は、「霊的なものを体現した自然物」は全面に出てくることはなく、遷宮による真新しい社殿群が、人間のアーティフィシャル(人造的)な営みと弥生的な人間中心主義、それらを継承したうえでやがて出雲系勢力からクニ譲りを勝ち取ったヤマト政権の斉一なる意図が表象されている。

ただし、弥生的なるもの、ヤマト系なるものがすべてかといえばそうでもない。たとえば、注意して歩き回っていると、内宮には下の写真のような木立の手前の自然石だけを神域としている場所を見つけた。石がならべられていて積まれている。そしてシンプルな結界が結ばれている。

内宮の縄文的自然石信仰の痕跡

外宮にも不思議な縄文的な石がひっそりと結界を張られて残っている。

外宮の縄文的自然石信仰の痕跡

だから神社は面白いのだが。天照大御神を祭る内宮と豊受大御神を祭る外宮。さて、ここで疑問。内宮と外宮、どちらを先に参拝すべきなのか?

そら、普通ならウチからソトという順番でしょう!というはずだ。事実、神宮司庁によると、2023年の伊勢神宮内宮(ないくう)と外宮(げくう)の年間参拝者数の合計は内宮485万4850人に対して、外宮231万8479人となっていて2倍以上の差がある。

ウチからソトというのは、伊勢神宮を後から造営したヤマト政権のヤマトヒメの意図。偉いのは天照大御神(支配者のカミ)で、お次が豊受大御神(先住民のカミ)という序列をつけたのだ。

しかしだ。世が代わるとき、天皇陛下がお参りする順番を終えたことを報告する「親謁(しんえつ)の儀」をソト(外宮)で取り行ってから、ウチ(内宮)に報告(参拝)する。

ここが「歴史認識」のオモシロイもあり奥深い部分であり、真実は皇統ないしは宮内庁には真実の歴史への一定の配慮があるということだろう。国の成り立ち(コンスティチューション)を考慮するとき、よりリスペクトすべきは、より根源的な(古い)豊受大御神荒御魂を祭る外宮(ソト)であり、より表層的(新しい)天照大御神を祭る内宮(ウチ)は次ということだろう。

『古事記』と『日本書紀』で歴史を再編集して、アマテラスを中心に据えたヤマト政権とそれを継承してこのクニの淵源を祭っている伊勢神宮の内宮。ロケーションは縄文的。外宮では、内宮に比べ、縄文的なアミニズム信仰が全面に出ている。具体的には、豊受大御神荒御魂を祭る「多賀宮」、 土のカミ大土乃御祖神を祭る「土宮」、 風雨のカミである級長津彦命、級長戸辺命を祭る「風宮」が表象されている。

土と風という自然の精霊、そして自然からもたらされる豊穣さを直接的に崇拝することは、優れてアニミズム的な心象風景だろう。

そんな伊勢神宮の外宮、内宮という優れてヤマト的なアーティフィシャルな風景のなかにも、目を懲らして見ればひっそりと目立つことなく縄文的なインプリケーションと歴史認識の機微が息づいていることが分かる。

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