第6講:語られ得ぬ法華経の来歴

 「法華経」は、だれによって、なぜ、どのようにして書かれたのか。「諜報謀略論」の視点からこの問いに答える試みは本邦初と思う。諜報謀略論は新たな発 見や異質な発想をもたらし、奇想天外、意外なことがらを浮き彫りにする。そこから、人の心を揺さぶるインテリジェンスの粋を感じていただきたい。

分裂したグループが法華経を創作した

 そもそも啓示宗教であるユダヤ・キリスト教では、経典テキストを確定するために並々ならぬ努力がなされてきた。そして確定された経典テキストに対する解釈の違いが公会議で議論され、正統・異端を生んできた。

 だが仏教では、仏陀入滅後、経典テキストを確定するために「結集」(数百人の僧が集まって経典の内容を議論する会議)が数回開かれたが、その後はかなり 自由に経典テキストが創作された。経典テキストの創作が自由ならば解釈も自由。だから、ユダヤ・キリスト教の言説に起こったような正統・異端の議論をその まま単純に仏教に当てはめることはできない。

 さて、このような実情を基本としながらも、法華経創作の背景には、当時のインドの社会経済事情と仏教教団が抱えていた問題がからんでいる。社会が複雑に なれば、人の悩みも複雑になる。そんな人々の悩みに対して、仏教はどう行動すべきか。民衆に対して新しい仏教をアピールする必要性を、伝統的なグループ 「上座部」から分離した改革派の「大衆部」は痛感していた。

 しかし、大衆部は「戒」(仏教信者の行動規範)のみならず、上座部の経典(正統・保守系)を使用することはできない。そこで、大衆部は思案した。つま り、読んでいてあまりメリハリがなく、面白くもない上座部の経典よりも、「情感に満ち満ちた、きらびやかな描写、臨場感、躍動感溢れる言説でマーケティン グしたほうが、仏教を普及させるという大義に沿う」と考えたのだ。

 このような事情のもとで、法華経を含む大乗経典が創作された。例えるなら、法華経は仏教教団という秩序と社会のカオスの縁から生まれた突然変異のようなものである。

法華経と原始キリスト教との奇妙な符号

 ただし、突然変異と言っても、瓢箪(ひょうたん)から駒のように法華経がポンと出てきたわけではない。実は、大衆部の僧らがあるものを参照した(影響を受けた)と考えられている。それは、原始キリスト教の福音だった可能性がある。

 こう言ってしまうと、「仏教のなかにキリスト教が入っているわけがあるまい!」「そんな、とんでもない!」という反応もあるだろう。

 しかし、一概にそうとも言えない理由がある。ちょっと面白いので紹介させていただく。「法華経」をフィクション・ライティングしたときに参照したのは原始キリスト教だったということの根拠として、(1)時代背景と(2)「法華経」の論理構成をあげてみよう。

 まず時代の背景。西暦50年から150年にはキリストの十二弟子の一人のトマスがインドに布教に来ていたとされ、原初的形態をとどめた原始キリスト教(現在よく見る西欧化、白人化されたキリスト教とは異なる)が急速に教線を拡大していたのである。

 傍証をあげる。現在でもインドのケララ州に行けばトマスが建てた教会堂が公式に保存され、口承、口伝のたぐいがたくさん残っている。法華経の成立時期とトマスによるインドへのキリスト教伝道の時期は符号するのである。

 次に論理構成。拡大著しい新興宗教のキリスト教の隆盛を横目でみながら、「法華経」フィクション・ライターはキリスト教の言説戦略を大いに参考にした可能性が高いのだ。法華経の論理構成と初期キリスト教の福音の論理構成は同型だからである。

 法華経は「一乗妙法」を説く。すべての人々を平等に救済する唯一の教えであるとしている。法華経は「久遠本仏」を説く。これは永遠の救い主が仏であると いう宣言である。法華経は「菩薩行道」を説く。法華経の教えを一生涯かけて他者に伝道することがなによりの救済への道だという教えである。

 法華経は、一乗妙法、久遠本仏、菩薩行道を、法華経の真実性、絶対性、優位性とともに、これでもか、これでもかと繰り返し説く。この経典を読む人間は、 法華経のゆらぎの世界に心酔し、魅せられる。このテキストは読む者を引き込み、法華経の内在的論理、情念を信者に浸透させる工夫に満ちている。その意味 で、たしかに法華経は創作仏教経典における画期的なイノベーションだった。

 イエス・キリストのみを救い主として心の底から信じ、十字架による罪のつぐないを受け入れ、確信し、ひたすらイエス・キリストを信じ、その教えを他者に伝えることで誰もが等しく救済されると福音書は説く。法華経と福音書の論理構成は同じなのである。

 法華経の構成論理は、上座部系の経典には全く見られず、仏教の脈絡からは隔絶したものであり、かつ福音書の論理構成と同型である。ゆえに法華経の構成論 理は仏教本来の思考様式から生まれたものではなく、外部の福音書に本源があり伝播した可能性がある。この仮説をにわかに「とんでもない考え」として排除は できないだろう。

 カオスの縁には新たな知識の創発、突然変異が頻繁に立ち現れるものだ。法華経は、こうしたカオスの縁に突然発生したゆらぎのようなものだ。このゆらぎは、めぐりめぐって後世に多大な混乱をもたらすことになったのだが。

「如是我聞」という虚偽の文言

 創作物語としての法華経は原始キリスト教の福音から伝播された論理構成を利用して生成されたと考えることができるだろう。しかし、状況証拠が中心で、立証に必要十分な根拠が整っているとは言えないので、ここでは原始キリスト教伝播説をいったんは横に置いておこう。

 しかし、法華経に多用されている「如是我聞」という虚偽の文言には逃げ道がない。この点は非常に重要だ。

 「法華経」フィクション・ライターは、独自のストーリーを作り上げ、「如是我聞」=「是くの如く我聞けり」=「私はこのように直接お釈迦様からお聞きし ました」と虚偽の言説を埋め込んだのである。仏陀直説の正典に見せかける偽装工作と呼ばれてもしかたがあるまい。結果として、「如是我聞」というフレーズ は、おおいなるノイズとなったのだ。

 お釈迦様から直接聞いてもいないことを、勝手に聞いたことにしてしまった。諜報諜略論の立場から厳しく言えば、法華経は当事のインドの布教対象の民衆に対する欺瞞(ぎまん)工作の産物であり、未来に向けた共同謀議のノイズだったのである。

 もっとも、今も昔もインドというお国柄は歴史を事実に基づいて記述するという民族意識は希薄のようだ。なんでも混ぜこぜにして未来に向かって解き放つ、 おおらかな文化基盤に立っている。だから「法華経」フィクション・ライターには、欺瞞や共同謀議をしでかしたという意識はあまりなかったのではないか。カ オスの縁にいた大衆部にとっても、法華経が未来に向かってどのような影響を及ぼすかについては、予測できなかったとみるべきだろう。

 むしろ、仏教を再構築して、変化する社会の悩める大衆に対して、救済の手を差し伸べようという宗教的情熱が行き過ぎたのかもしれない。そこに上座部へのねじれた感情が作用して、ことに及んだのかもしれない。

「如是我聞」の謀略効果は甚大極まる

 さりとて、隋の時代に全仏教経典の価値を調べた智顗(ちぎ、538 – 597年、天台智者大師)、そしてそれ以降の仏教者は、「法華経」フィクション・ライターの、無邪気といえば無邪気、狡猾といえば狡猾、遊び心といえば遊 び心から作られた欺瞞工作のようなゆらぎ、ノイズにはまってしまった。智顗は非常に実直な人物で、カオスの縁にいた大衆部の心性、法華経に埋め込まれたゆ らぎ、ノイズを見抜けなかったのだろうか。

 インドの「法華経」フィクション・ライターの共同謀議による経典捏造(ねつぞう)の社会的インパクトは広大無辺といっていほど甚大なものであった。仏教 経典のデファクト・スタンダードとして、ユーラシア大陸東部のほぼすべての地域で広く流布し、漢語はもちろんのこと、チベット語、ウイグル語、モンゴル 語、満州語、朝鮮語にまで翻訳されて、異言語、異文化へ伝播した。2000年という長きにわたる歴史に浸透させることに成功したからだ。ユーラシア大陸の 東端を越え、日本でも大きな影響を及ぼしたことは前回述べたとおりである。

 「北京で今日、蝶が風の中で羽ばたいて空気をそよがせるとすると、それが1カ月後にニューヨークで嵐となる」という例え話がある。このような現象はバタ フライ効果と呼ばれる。カオスの特徴としてよく言及されるため、聞いたことがある読者もいるだろう。バタフライ効果とは、初期値の小さな差が思いもよらぬ 差となって結果に表れることを指す。

 1900年くらい前に、「如是我聞」という4文字が物語に加えられ、それが仏教経典になった。約1900年後に、遥か東方の日本で選挙が行われ、その仏 教経典をかつぐグループに関連する政党が政治の動向を左右している。事後的に歴史を振り返れば、法華経の来歴にはありありとバタフライ効果が見てとれる。

 当初、予測されていなかった運命をたどることになった法華経。わずかな創作というゆらぎが、めぐりめぐって、時代を超えて、途方もない大変異を多様な地域に及ぼしたのである。

インテリジェンスが増幅させた歴史的バタフライ効果

 この欺瞞工作、ノイズ挿入を仕掛け、後の世に途方もないバタフライ効果を放った一派は、天才インテリジェンスの集団である。

 「いったい何千万人、何億人の人々が法華経を読み、心が救われ、法華経のかなたに極楽浄土を夢見ながら死んでいったのか」と想いをめぐらせてみても、だ まされた後味の悪さをおぼえるというより、空しさが残るだけだ。事実として、法華経は仏陀の直説と信じられ、信仰されてきたからだ。

 現在インドにおいては、仏教は衰微してヒンドゥー教に取り込まれている。もちろん法華経の人気もからきしない。一方、日本では、法華経が歴史的なバタフ ライ効果により興隆した。法華経を創作して後世に伝播させたインテリジェンスの天才達は極楽浄土からこの不思議な風景を見下ろしてニヤニヤ笑っているのだ ろうか。あるいは地獄に堕ちて、事の顛末を見上げて苦しみもがき懺悔しているのだろうか。

 人間の行動様式を規定する宗教の中には、機微に触れる高度なインテリジェンスの足跡を数多く発見することができる。そして高度なインテリジェンスは経営 にも求められる。ゆえに、インテリジェンス経営を目指す経営者は、自覚的に身の周りの宗教に触れてみることをお勧めする。そこには「人を心から動かせる文 化、仕組み」があり、経営者として宗教から学ぶものは大きいのである。

 

引用:諜報謀略講座 ~経営に活かすインテリジェンス~ – 第6講:語られ得ぬ法華経の来歴:ITpro

コメント

タイトルとURLをコピーしました