役には立たないが、意味はかろうじてあるアート?

芸術の秋。

遊戯の秋。

梁塵秘抄にも、こうあるではないか。

「遊びをせんとや生まれけむ、戯れせんとや生まれけむ」

人生とは畢竟、遊戯なのだ。そして、遊戯は芸術につながり、自由に創造する心こそがアートの源泉である。

東シナ海に浮かぶ某島で採取した鍾乳石。約40cmもの長さがあり、ここまで成長するには数十万年の時間を要したという。

そして八ヶ岳の某河原で拾ってきた切り株をさらに鋸で切って、ノミで削り込み、鍾乳石を立てる台座をしつらえた。

デコレーションとして、旧石器時代の遺跡あたりから採取した蜆(しじみ)の殻を配置してみた。これは先週講演で訪れた中部地方某市の近郊で拾ってきたものだ。

数十万年の時をへて成長した鍾乳石も、旧石器時代の蜆も、木の切り株もすべてタダで入手したものだ。でも、これらのオブジェの組み合わせには、豊饒な時間、時代の累積が折り重なり、「時間」、「いのち」、「自然」という意味が暗黙的に埋め込まれている。

研究室に鎮座する、このアート(?)を横目に見て、友人は微妙な嗤いを押さえつつポツリと言った。

「で、これ、なんの役にたつの?」

「なんの役にも立たないよ。でも、これを眺めていると直感が研ぎ澄まされるんだ」

で、小泉信三の言葉を引っ張り出して、こう加えてみた。

「すぐに役にたつものは、すぐに役にたたなくなるのさ」

すぐには役には立たないが、でも、しかと直感に訴え、意味を対峙する者に投げかけるものがアートなのである。苦しい言い訳のようだが。。

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