前回に続き、厩戸皇子(聖徳太子)の時代までさかのぼって、歴史をひもときつつ、そこから様々なインテリジェンス活動、すなわち、「個人、企業、国家の 方針、意思決定、将来に影響を及ぼす多様なデータ、情報、知識を収集、分析、管理し、活用する」活動を読みとってみたい。
厩戸皇子の知恵袋的存在として、秦河勝(はたのかわかつ)をとりあげる。秦氏一族の動きには古代のインテリジェンス活動が凝縮されているからだ。秦氏は ユーラシア大陸のかなり奥まった地域の出身で、朝鮮半島を経由してやってきた渡来系氏族である。秦氏は6世紀頃から断続的に朝鮮半島を経由して日本列島の 倭国へ渡来してきた。鉱山技術、鍛冶技術、養蚕、機織、酒造などの最先端テクノロジーを倭国に伝播させた氏族だ。
秦河勝は、その際立った技術経営力、人材機動力、財力、国際的知識を駆使し、厩戸皇子のブレーンとして大活躍した。厩戸皇子は、当時の微妙な外交、地政 学的ニュアンスを熟知していた秦河勝から、儒教、仏教のみならず中東系諸宗教、律令制といった当時の知のワールド・スタンダードのみならず、国際政治、通 商、パワーポリティクスの機微を徹底的に学んだのである。
秦氏と八幡神社の関係
秦氏は、九州北部の宇佐八幡神社がある地域を拠点にして、山城(現在の京都)さらには全国に広がっていった。秦氏に関する史料は全国に散らばっている が、特に、九州北部の宇佐地域や、山城地方に多くの史料が残されている。例えば山城地方にある太秦(うずまさ)がその名のとおり秦氏の一大拠点だった。
八幡神社といえば、稲荷とならんで日本でもっとも馴染みの深い神社の一つだ。はちまんさま、やはたさまを祀る八幡社、八幡宮、若宮神社などを含めると、 全国津々浦々、街中、田舎を含めてその数は全国で1万4800社(神社庁公表)となる。読者の皆様も近所を見渡せば、どこか近くに八幡様が鎮座しているの ではないだろうか。その八幡神社は、もともとは秦氏のカミさまを祀る神社である。そのカミさまがどこから来たのか、なにものなのか、についてミステリーが ある。
秦氏は新羅を経て渡来したとされる。これについては、いくつか根拠がある。秦氏が多く住んでいたとされる地域から発掘された瓦は新羅系のものが圧倒的に 多い。また秦氏の氏寺、「広隆寺」にある国宝第一号の「弥勒菩薩半迦思惟像」は、朝鮮半島の新羅地区で出土した弥勒菩薩半迦思惟像に酷似している。しかも 広隆寺の仏像の材料である赤松は、新羅領域の赤松であることが判明している。
秦一族は古代の技術経営スーパーエリート
秦氏が得意とした鍛冶とは、木、火、土、水、金を制御するテクノロジーであり、古代日本にとっては奇跡にも近いワザだった。ちなみに、木、火、土、水、 金(もっかどすいきん)の五行をもって宇宙の構成要素とする。土着人から見れば、鍛冶とは自然をあやつり、そこから光り輝く銅や鉄を生み出す神秘の所業で もあった。
九州北部・近畿の銅山とその麓に展開された銅を生産する場のマネジメントは、秦氏および関連の一族によってなされたものと考えられる。火と日を知るもの をヒジリ(聖)という。火を制御する鳥が鍛冶シャーマンのシンボルであり、秦氏の場合、神の鳥のシンボルは「鷹」だった。
秦氏は、鍛冶の技術をよく営み、金属器をよく鋳造したので、必然的にシャーマン的色彩を帯びている。古代において技術者は祭祀者でもあった。つまり、も のづくりとは、自然に働きかけ、そこから神秘に満ちたモノやコトを生み出す神聖な所作であった。ものづくりの原風景が秦氏界隈には沢山ある。
秦氏は日本に養蚕、機織の技術をもたらした一族でもある。ハタは機に通じている。蚕を飼い、その蚕がつくる繭から生糸を紡ぎだし、あでやかな絹織物に仕 立て上げる。艶やかに絹で織られた着物を着る人々は羨望の目で眺められたことであろう。ちなみにサンスクリットでハタは「絹の布」をさす。
秦氏のハタは畑作にも通じている。秦氏によって、養蚕に加え、先進的な開墾技術、畑作技術、土木技術が導入された。平安京遷都の際に、山瀬の国あたりに 領地を持っていた秦氏は、新都計画、建設にあたり、桓武天皇の政権に莫大な貢献をしている。都市計画、古代のシビル・エンジニアリングに通暁し、財力豊富 な秦氏がいなければ平安京もありえなかった。周知の通り、平安京は長安を模してデザインされた。その都市計画のグランドデザインにおいても、秦氏は決定的 に重要な役割を果たしている。
秦氏のハタは旗にも通じている。古来、多数の「秦氏」が住む場所には、一族の目印として旗(秦)を立てる習慣があった。日本人は現在でも旗を掲げたり、振ったりするのが大好きだ。八幡さまには今でもよく旗が立っている。
秦氏一族は蘇我氏や物部氏のように政治権力を掌握する意図は無かったようだ。あくまでも、時の勢力に反抗することなく、むしろ柔軟に対応しリアリストと して生きるという姿勢をとった。圧倒的な技術、技術経営力を保持する集団は、権力から重宝されるのが世の常だ。さらに秦氏は、時の勢力に柔軟に対応するた めに高度なインテリジェンスを駆使したと思われる。
秦氏周辺の奇説珍説
秦氏の周りには神秘の香があり、その周辺には奇説や珍説が生まれている。その一つが、秦氏はユダヤ人景教徒であったというものだ。
景教とは、原始キリスト教の流れをくむ東方キリスト教のひとつである。その研究者で早稲田大学名誉教授、東京文理科大学学長を歴任した歴史民俗学者・言 語学者の佐伯好郎博士(1871-1965)は、「秦氏は『資治通鑑』(11世紀の中国の史書)に出てくる弓月王国の末裔であり、その秦氏が古代日本に初 期のキリスト教をもたらした」と主張した。
佐伯は私見として、うづまさ(太秦)、すなわち秦氏の拠点について次のように述べる。
「うづ」は“Ishu”即ち“Jesus”又、「まさ」は“Messiah”の転訛語に外ならぬものである。それは、アラマイク語及びセミチック語の“イエス・メシア”Jesus the messiah の転訛語に外ならぬ。
ユダヤ教のラビ(教師)、マーヴィン・トケイヤー氏(1936-)も、「秦氏ユダヤ人景教徒」説を支持している。トケイヤー氏は、以下をその根拠としてあげている。
・モリヤ山でのアブラハムによるイサク奉献に酷似した祭「御頭祭(おんとうさい)」が信州の諏訪大社に古来伝わっている
・イスラエルの契約の箱と神輿の類似性
・イスラエルの祭司の服装と神社の神主の服装の類似性
・古代イスラエルの風習と神主のお祓いの仕草の類似性
・イスラエルの幕屋の構造と神社の構造の類似性
これらの根拠をあげたトケイヤー氏は、秦氏はユダヤ系であり、日本人の先祖の一部はシルクロードを経て渡来したイスラエルの「失われた十支族」の末裔だ、と論じている。
イスラエル国防軍のヨセフ・アイデルバーグ陸軍少佐はさらに珍奇なことを説く。秦一族がもともと住んでいた「弓月国」のあった場所は、中央アジアの天山 山脈の麓であり、その付近は「ヤマトゥ」という名前である。ヤマト、すなわち倭であり大和という名称は、秦一族が故郷を偲んで命名させた、というのであ る。
この説は、日本人の先祖はユダヤ人であり、旧約聖書に登場する「失われた十支族」の末裔だなどとする「日ユ同祖説」を根拠付けることに情熱を傾ける人々からも支持されている。
仮にこれらが真実であるのならば、フランシスコ・ザビエルよりもさらに遡ることおよそ1000年以上も前に原始キリスト教徒、ユダヤ教徒が日本にやって 来たことになる。この教徒は、ユダヤ教に近い原始キリスト教を信じ、しかもユダヤ人であった可能性が高いという。つまり、ヨーロッパに伝播して独自の発展 を遂げたローマ・カソリックやプロテスタントというヨーロッパ型の白人キリスト教とは異質のものである。
ゴルゴタにて磔にされたキリストはキリストの弟・イスキリであって、本物のキリストは密かに日本に渡り天寿を全うして亡くなったという伝説が青森県三戸 郡新郷村戸来に伝えられている。2004年(平成16年)6月6日のキリスト祭においてイスラエル在日大使館一等書記官が「キリストの墓」を訪れ、イスラ エルストーンを寄贈している。イスラエル国家はこの伝説を肯定しているのである。
ただし、こうした「日ユ同祖説」には影の部分があるということに注意を要する。「日ユ同祖説」に固執、執着して、荒唐無稽な論理を無理に日本に押しつけて利益を得ようとする勢力にも注意を要する。
秦氏をとりまく謎は、文献史実や状況証拠に頼る従来の歴史学、民族学では解けない。日本史において第一級の史料には間違いないが、古事記、日本書紀とて政治的な意図、思惑で書かれており、書いた側の意図により操作的記述はあって当たり前と見なければいけないからだ。
どうしても謎を追究しようとするなら、ユダヤ人の方、弓月国あたりに昔から住んでいるネイティブの方、宇佐地域や太秦あるいはゆかりの神社関係者で古く から秦氏の家系にいる方、にお願いして身体細胞の一部を採取させてもらい、DNA配列上の特徴を洗い出してみるという手がある。統計学的に有意な類似性が 確認されたら、これら仮説の検証の有力な一助になるだろう。「日ユ同祖説」を説く方々に取り組んでもらいたいところだ。
余談だが、ユダヤ人に声をひそめてこの手の話をすると、相手は身を乗り出してくること請け合いである。イスラエルやアメリカ在住のユダヤ系の人々とうま くビジネスをしようとする向きは、飯でもいっしょに食べながら薀蓄すれば面白いだろう。ユダヤ系以外の人々にはもちろん、こんな話はしないほうがよい。
いずれにせよ、日本は表面上、仏教、神道の国ではあるが、ご先祖様、土産神、八百万の神々、儒教、道教、神仙、ゾロアスター教、マニ教、ユーラシア大陸の反対側の古代宗教などが習合混合して多元的、多神教的古層を、深い部分に温存してきている。
秦、旗、羽田、畑、畠、波多家、幡家、端、波多、葉多、傍、波田、和田、和多、阿多、八田、飛騨、飛弾などの苗字を持つ家系は、秦氏の末裔である可能性がある。読者のまわりにも、これらの姓を持つ方々がおられるかもしれない。
引用:諜報謀略講座 ~経営に活かすインテリジェンス~ – 第4講:古代日本の知恵袋、渡来氏族「秦氏」の摩訶不思議:ITpro
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