ちょっと前にムスリムの友人雑談していたら、はやりというか、なんというか、昨今の世相の話になった。その友人は、アメリカで大学を出て、オーストラリアでマスターをとって、日本人の奥さんと仲良くやっている。
さて、たしかにアメリカは自由の国だ。財産の相続、選挙、国政、タウン、カウンティ、州、そして連邦政府の運営に至るまで、自由の追求、あるいは自由を阻害するものの排斥には病的に熱心なところがある。そうすることによって、やっと自由を得て、保障することができるのだ。
でも社会の99%の人々は、社会の多数派、社会のマジョリティーとして自由を享受することができていないと憤慨している。史上最高値を更新しているダウ平均株価の熱狂をしりめに、あのウオール街占拠運動は、未だにちゃんと続いている。こんなことは、日本のメディアはまったく報道していないのだが。。
99%のなかでも、とくにイスラムの人々の「居心地」が急速に悪化している。ボストン・マラソンでの爆破事件を端緒にして、ますますその傾向が強くなっている。
99パーエントからも疎外される圧倒的少数者。その中の、怒れる人たち、阻害される人たち、体制に根本的な不満を持つ人たちは、たとえアメリカという国で成長し大人になっても、まったくもって、「立つ瀬」がない。自分の存在理由、自分の意見がまったく通らない社会で、「立つ瀬」を失った者に残されたものは「絶望」しかないのだろうか?
静かに覚醒している内向的な絶望が、攻撃の手段を持った時、内部からも外部からも制御の効かない不条理の暴力へと姿を変える。その不条理な暴力を、ヒステリックに排斥し、また懲らしめるという不条理の連鎖・・・。
でもな・・・、友人は言った。
友人:「そんなことで、アタマに来ていたらやってらんねー。だからオレはちゃんと勉強してアメリカの大学も出たし、オーストラリアの大学でマスターもとった。たえず、自覚的な少数者として社会に折り合いをつけていかなきゃ、ますます白い目で見られるわけさ」
私:「そりゃ、オマエはアタマもいいし、ビジネススキルもある。容量よく折り合いをつけていると思うよ」
友人:「いいか、ヒロ。おまえら日本人だって、アメリカでは悪辣なことを企む少数者として理不尽なレッテルをベタリと貼られていたんだせ。だからアメリカは、憲法を破ってまで日系人を強制収容所にぶち込んだし、ヒロシマ、ナガサキでアトミック・ボムを爆発させて『人道上の罪』を堂々とやってのけたんだぜ。オマエにはボストン・マラソン爆破事件容疑者の若造の気持ち、わかって欲しいんだよ」
私:「そこまで言うか!」
なるほど、彼に言わせれば、ボム=爆弾が、こういう文脈でつながってくるのだ。不意に仕掛けられる攻撃で平和がぶち壊される、そういう時のアメリカこそ、その行動原理の本質が現れるのだ。
・・・・健康であること、幸せをわかちあうランニングイベントで多数の人々を殺傷させた容疑者の動機とやらを、いずれ世界の注目を浴びるであろう裁判の過程で、とくと知りたいと思う。と同時に、今回の一件には、はからずもアメリカという国の行動原理の一端が、またも、顕現しつつあるように思えてしかたがないのだ。
そこで、この本を手にとって再読した次第。。著者の橋爪大三郎先生はこう書いている。
「しかし、最近のテロや国内の犯罪を見てみると、少数者の絶望をうまく回収するメカニズムが、もしかしたらアメリカには欠けているのかな、とも思われます」(p109)
もしかしたらではなく、そのメカニズは圧倒的に欠けていると思う。
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