商業出版=自己アバターづくりは複雑系ネットワークへの投資

大学に雇用されている研究者ならば、サバイバルのために論文の発表はもはやあたりまえというか必須。研究者にとってジャーナル論文の数(と質)はKPI(Key Performance Indicator)である。よって、3年間で論文0~1本程度しか書けない研究者は、有無を言わさずクビにするのが順当だろう。

その話は別として、あるテーマで、まとまった論文数がたまってくると、ひとつの論や説、思考といった新たなモチーフ、つまり自分のアバターのようなものが沸き立つ雲のように立ち現れてくることがある。こうなると短い論文では手に負えず、一冊の本としてパブリッシュ、つまり池上英子的にいうとパブリック圏(ネットワークが交差するところに生まれる自由を可能にする空間)のなかに放つのがよい。

研究には多大な時間を要する。膨大な時間とコストを投入して、研究成果をペーパーとして発表する。これらの行いは、大学が負担してくれる人件費(月次給与、賞与、その他法定福利費)と個人研究費に対するdemonstrated returnづくりでもあるが、研究者の時間とテマヒマという投資を回収するのは、一義的には研究者本人である。

さて、もうひと押しして自分の本を出版すると、さらに新しいネットワーク効果が生まれてくる。パブリック圏で新しい読者が生まれ、その読者によって、講演、パネル、シンポジウムに呼ばれたり、新たな出会いや出版の機会も舞い込んでくる。このように、ネットワークに新たな交流が生じて豊かになる。

しかし、そのようなネットワーク効果的なリターンもさることながら、一冊の書物を単独で執筆することによって、新しい体系的な知識の地平線を切り開き、知的好奇心を大いに満たすことができる。これは、自分の脳神経のなかに、今まで存在しなかった新しいニューロ・ネットワークが生じるということだ。

これはなにものにも代えがたいものだ。本を世に出すことによって、①自分のまわりに新しいソーシャルなネットワークを拡張する、掛けることの、②自分の脳神経ネットワークを新規に充実化する、外と内にまたがる複雑なネットワークのシステミックな相乗効果を得ることができるからだ。

知り合いの駆け出しの研究者の間では「業績」を作るために、出版社からの買い取り要請や低い印税率に甘んじるようなケースも多々あるが、そういうのは邪道とまでは言わないがNGである。新人でも中堅でもベテランでも、買い取りなどせずに、印税は10パーセントで行くのが正攻法だろう。ようは、出版社から見れば、その出版社のビジネスモデルにマッチした売れる原稿と売れる本が、良い原稿、良い本ということだ。

商業出版は生易しいものではなく、昨今の出版不況の折、年々商業出版のハードルは高まっている(ように感じる)。出版社の媒体や過去きづいてきたネットワークに、自分の内側のネットワークで培われた知識のネットワーク(一冊の本)を載せて、パブリッシュしてパブリック圏に投網を投げて、あたらしいネットワーク・システムを創るのだから、おいそれとはやらせてくれない。

まわりを見渡しても、商業出版で成功している著者・研究者で、投資を惜しんでいるような人は皆無だ。それぞれが、時間を捻出し、創意工夫を凝らして、地道に研究を行い、新しい知見を発見、彫琢し、自己投資を丹念に行っている。言い方を変えれば、自分のアバターである書物をパブリック圏に放擲して、内面と外面双方に及ぶ複雑なネットワーク効果を創発させるという自己アバター投資活動である。

もっとも、研究投資に必要なカネは科研費など外部の競争的資金から引っ張りこみ、研究成果を多数のペーパーにして発表し、それらを集積しさらに付加価値を凝縮したものを、自己アバターとして商業出版を介してパブリッシュすれば、印税は合法的、各種倫理基準と相反することなく自分のものとなる。表現はよくないが、「往復ビンタ」でプラグマティックで複雑なネットワーク効果を得ることができる。

それらができれば、商業出版はリターンの良い自己アバター投資=複雑系ネットワーク効果づくりとなる。もちろん業績としてもカウントされることとなる。

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