熊野那智大社と那智の滝

熊野那智大社

ことは昨年、2023年3月、九州東岸を佐多岬から自転車で延岡まで走った時に立ち寄った日向の美々津にさかのぼる。イワレヒコ(後の神武天皇)が畿内へと入る東征の第一歩を踏み出し日向灘へと船旅を始めたという伝承が残る地、それが美々津だ。地元の人々から見れば美々津の海岸こそが日本発祥の地なのだ。だから美々津の海岸には天高く仰々しいほどのモニュメントが建っている。

2023年3月に訪れた日向美々津

そして、長い船旅の果てに畿内に侵入を開始した地が、那智勝浦の那智の浜。八咫烏(イワレヒコに味方し道案内を買って出た地元の部族長のシンボル)がヤマトまで道案内をしたことになっている。その丹敷浦(にしきのうら)の陸側には那智駅があり、那智駅に隣接して道の駅那智と観光センター、温泉「丹敷の湯」が一体となった施設になっている。

となれば、イワレヒコの物語に尽きせぬ興味を抱く我が身としては記紀の古に想いを馳せつつ道の駅那智に泊まる、の一択。というわけで神武天皇の足跡をたどりつつ、伊勢からの道の駅那智まで4駆をけって移動、丹敷の湯でひと風呂浴びて車中で一泊したのであった。

ただし、初代の神武天皇(イワレヒコ)以降の、2代綏靖天皇、3代安寧天皇、4代懿徳天皇、5代孝昭天皇、6代孝安天皇、7代孝霊天皇、8代孝元天皇、9代開化天皇は実在を根拠づける歴史学的なエビデンスがほぼほぼないので歴史学の用語では「欠史八代」と呼ばれている。人物の実在に重きを置くということ、編集された物語というシステムに重きを置くことは別ものだ。

さて、神日本磐余彦命(カムヤマト・イワレヒコノミコト)の御東征を顕彰して造営されたのが熊野那智大社ということになっている。

記紀の「神武東征神話」によると、西暦紀元前662年、神日本磐余彦命の一行は現在の那智の浜に上陸し、一行が光り輝く山を見つけ、その山を目指し進んで行ったところ、那智の瀧に出くわし、その御瀧を大己貴神(オオナムチ)の現れたる御神体として祭ったという。イワレヒコ率いる軍勢はアマテラスより使わされた八咫烏の先導により、無事大和の橿原の地へ進行(侵攻)し、紀元前660年2月11日に初代天皇、神武天皇として即位した、ということになっている。

熊野那智大社のホームページには「那智御瀧は熊野那智大社の別宮、飛瀧神社の御神体としてお祀り申し上げています」とある。

滝そのものをご神体としているのは縄文的な心象の発露だ。おそらくイワレヒコがやってくる前、そして、記紀史観による神々の再システム化が行われる前は、ローカルな地元のカミが素朴に祭られていたのだろう。

荘厳な那智の滝

オオナムチというカミは、もともと奈良の三輪山あたりを支配していた一族のリーダーだ。もとからいたカミにかぶせるように那智にわざわざオオムナチをもってきたのは、後世の記紀史観による神々の再システム化(再編集)というほかはあるまい。昨日の伊勢神宮でも考えてみたが、この時代の神社に祭られている神々は、そんな後知恵の上塗りみたいなことが平然と(無理無理に)行われてきたストーリーで満載だ。

このあたりの事情は古くは在野研究者の原田常治の「古代日本正史」や「上代日本正史」で「捏造」として指摘されている。皇国史観に神経質なほどに批判的な左派が牛耳っていた戦後の歴史学会の風潮の影響もあったのだろう。ただし、「神仏たちの秘密」で松岡正剛が公開してしまった「記紀伝承による日本神話神統系パンテオン譜構造」を引けば、熊野那智大社と那智の滝には、ローカルなそこはかとない歴史の機微と面白さが際立つのである。

縄文人のメンタリティーとシンクロさせて霊気漂う凛とした那智の滝に無心に祈りをささげつつも、令和の世をしのぐシステム科学者のはしくれとしてシステム思考を駆使して神話や神社に埋め込まれたスピリチュアリティ、そしてスピリチュアリティに埋め込まれた作為の来歴を紐解くのもまた一興である。

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