第8講:一神教における愛と平和と皆殺し

 多くのキリスト教の牧師や神父はパウロの「ローマ人への手紙」や創世記の有名な部分を熱心に解説する。しかし、彼らがあまり積極的に言及したがらないテ キストがある。それは旧約聖書の「ヨシュア記」である。ヨシュア記は、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記から成る「モーセ五書」に次ぐくらい 重要なテキストとされる。

 ヨシュア記とはイスラエル民族によるカナンの地の征服物語である。モーセの後継者ヨシュアが、イスラエル民族を指導して、ヨルダン川を渡りエリコの戦い を遂行、先住民を皆殺しにして約束の地カナンを征服し、シケムで神と再契約するまでの記述である。マックス・ヴェーバーは、「モーセ五書と士師記とを連結 させるためにBC400年頃までにヨシュア記は編集された」として、ヨシュア記を含めて「モーセ六書」にすべしとの考えを示している。

 さて、ヨシュア記は日本人には理解しがたい部分が多い。もし、キリスト教の入信希望者を前に牧師や神父がヨシュア記の解説を始めたとすれば、びっくり仰 天して入信を諦める人々が続出するのは必定だ。ヨシュア記は大量殺害、皆殺し、ジェノサイド(特定の人種・民族・国家・宗教などの構成員に対する抹消行 為)のオンパレードで、愛と平和の対極にある物語だからだ。

 しかし、この物語を読み解くコツは、皆殺しを愛と平和の「対極」ととらえるのではなく、それらは分かち難く「表裏一体」を成していると腑に落とし込むこ とである。これは一神教を信奉する人や国の、ある側面を理解することにつながり、一神教の国の企業とビジネスをするときのインテリジェンスの機微を得るこ とにもなる。

 

残忍、無慈悲な大量殺害は神の栄光を増す

 ヨシュア記のテキストをひも解けば、すさまじいまでの大量殺害に満ちあふれている。一部だけを読んでみよう。

 「七度目に、祭司が角笛を吹き鳴らすと、ヨシュアは民に命じた。ときの声をあげよ。主はあなたたちにこの町をあたえられた。町とそのなかにあるものはこ とごとく滅ぼしつくして主にささげよ。(中略)金、銀、銅器、鉄器はすべて主に捧げる聖なるものであるから、主の宝物蔵に収めよ。角笛が鳴り渡ると、民は ときの声をあげた。民が角笛を聞いて、一斉にときの声をあげると、城壁が崩れ落ち、民はそれぞれ、その場から町に突入し、この町を占領した。彼らは、男も 女も、若者も老人も、また牛、羊、ろばに至るまで町にあるものはことごとく剣にかけて滅ぼしつくした」(ヨシュア記6:16~21)

 「主はヨシュアに言われた。『おそれてはならない。おののいてはならない。全軍隊を引き連れてアイに攻め上りなさい。アイの王も民も周辺の土地もあなた の手に渡す』(中略)その日の敵の死者は男女合わせて一万二千人、アイの全住民であった。ヨシュアはアイの住民をことごとく滅ぼし尽くすまで、投げ槍を差 し伸べた手を引っ込めなかった」(ヨシュア記:81~26)

 「ヨシュアは命じた。『洞穴の入り口を開け、あの五人の王たちを洞穴からわたしたちの前に引き出せ』。彼らはそのとおりにし、エルサレム、ヘブロン、ヤ ルムト、ラキシュ、エグロンの五人の王を洞穴から引き出した。五人の王がヨシュアの前に引き出されると、ヨシュアはイスラエルのすべての人々を呼び寄せ、 彼らと共に戦った兵士の指揮官たちに、『ここに来て彼らの首を踏みつけよ』と命じた。彼らは来て、王たちの首を踏みつけた。ヨシュアは言った。『恐れては ならない。おののいてはならない。強く雄々しくあれ。あなたたちが戦う敵に対して、主はこのようになさるのである』。ヨシュアはその後、彼らを打ち殺し、 五本の木にかけ、夕方までさらしておいた」(ヨシュア記10:22~26)

 

「殺すなかれ」はユダヤ・キリスト教の内輪だけ?

 殺してはいけないという戒律はユダヤ教徒の内側にのみ有効で、異教の民には適用されない。神が殺せと命ずれば、それは絶対的な命令である。人間の判断が 入り込む余地は微塵もない。もし、人が倫理や感情を持ちだして神の命令にそむけば瀆神(とくしん)となってしまう。したがって、命令=契約を素直に、忠実 に実行するのが正しい信仰の姿なのである。命令=契約に対して一切の疑義をさしはさむことはできない。

 かつてソドムの件(前講を 参照)では、神を値切ったアブラハムであったが、「ひとり子イサクを焼いて犠牲(いけにえ)にささげよ」という神の命令には忠実に従った。実際のひとり子 殺しは結局実行されなかったものの、内面の信仰としては忠実に実行された。ここにおいてイサクの犠牲という贖罪(しょくざい)は行為と内面の信仰という二 つのパートによって構成されるのだ。後に出現したキリスト教は、イサクの犠牲のアイデアから、「行為でなく内面の信仰が優越する」というアイデアを導出し た。さらに後世に及んでは、内面の信仰は「信仰の自由」へと拡大され、近代デモクラシーにつながっていく。

 こうして救世主の受難、贖罪死というキリスト教の根本的な教義が確立していった。キリストの贖罪死によって絶対的無制限の愛(アガペ)が表出、発動されて人類の原罪は許された、とするアイデアの契機は旧約聖書に由来する。

 ここで注目すべきは預言者第二イザヤである。第二イザヤが活躍した時代は、バビロン捕囚末期にバビロニアがキュロスII世率いるアケメネス朝ペルシャによって倒された時代だ。捕囚されたユダヤ人達も、同王からの解放令を受け取った時期にあたる。

 第二イザヤが「自らをなげうち、死んで罪人のひとりに数えられた」(第二イザヤ書2:53:12)という物語は預言者の代理贖罪的な死の記述である。信仰の立場から、この記述は、後のイエス・キリスト出現の預言が含意されているとして重要視されている。

 比較宗教学の立場から、「苦難というものを、このように、この世界の救済に役立つべき手段として、熱烈に栄光化した」のが第二イザヤであるとマックス・ヴェーバーは喝破する。

 犠牲(いけにえ)の対象が動物から人間へ、他人から自分の子へ、自分の子から預言者へ、そして預言者から神の子へと、キリスト教が生成される過程も含め、極限的に展開してゆく。この物語の展開は弁証法的ではあるが、強迫的な神経症を伴うストレスの表出でもある。

 「他人の罪のために罪なき犠牲として自由意思によって死につく『神の僕(しもべ)』」(マックス・ヴェーバー)というイノベーティブなアイデアは、贖罪 思想とメシア(救世主)思想とを融合させていき、新宗教であるキリスト教の突出した構成要素となっていくのである。そしてユダヤ教ではユダヤ民族を単位と する集団救済が眼目だったものの、キリスト教では個人救済となっていき、普遍性を獲得する契機をつかんでいく。

 しかし、無制限大量殺害の精神は、旧約聖書を参照しなければならなかったキリスト教にも継承されることとなった。「僕」とはいったい誰なのか、という素朴ながらも根本的な疑問を置いたままで。

 

「皆殺し」と「愛と平和」を表裏一体のものにした

 大航海時代の歴史に接すると、「なぜ善良なキリスト教徒が残忍の限りをつくして原住民の大虐殺にいそしんだのか」と誰しもが疑問に思う。だが、神の命令 だから虐殺するのである。それ以上でもそれ以下でもない。「あなたの敵を愛」(マタイによる福音書5:44)する人が敵を殺しても、神の命令なので矛盾し ないのだ。「隣人にかぎりなき奉仕をする人」が大虐殺に手を染めても、両方とも神の命令である以上、矛盾しない。

 異教徒に接した航海者や宣教師は、確認のため、ローマ教皇あてに「異教徒は人間か否か」との問い合わせを頻繁に送った。その回答は、「人間ではないの で、殺すも奴隷にするも自由である」ということが中心だった。よって神の命令の確証を得たキリスト教徒が現地を征服すると、原住民をいともたやすく滅ぼし てしまう。その後、アフリカから連れてきた奴隷をその土地に輸送して強制労働をさせ、利潤を上げることが一般的となった。

 罪人として滅ぼされた、おびただしい数の異教徒は、拡張された犠牲の「僕」として予定されていたのであろうか。

 ちなみに、このような個々のケースが集約されて近代国際法の萌芽となった。伝統的な国際法は、非キリスト教諸国に対しては非常に過酷で、植民地政策を正 当化する法的効力を持っていた。特に「先占の原則」(早期発見国が領有権を有するとする原理)のため、「未開国」は自動的に「無主の地」とされ、発見国が 植民地を自由に設定できることになっていた。

 「そうは言っても、人殺しを熱心にすすめるのは宗教らしくない」と日本人なら思うだろうが、その考え自体が一神教のなんたるかを理解していないことの証 左である。教義(ドグマ)は絶対なのである。ドグマの影響外の人々の視点から「ドグマにかられて狂信に走っている」と見えても、狂信している本人にしてみ れば、教義に忠実に従っているにすぎない。

 特定のドグマを濃密に共有する集団において、その外部に対する皆殺しは、その集団内の愛と平和の維持を担保する。その意味で、「皆殺し」は愛と平和の「対極」ではない。「皆殺し」は、愛と平和と「表裏一体」なのである。

キリスト教に習合されたミトラ教

 教義(ドグマ)が絶対性を帯びるためには正統性が不可欠である。初期キリスト教は、正統性を主張することにもずいぶんと腐心している。キリスト教の発生母体として古代ユダヤ教をとらえることは一般的となっているが、実はキリスト教の母体は古代ユダヤ教のみではない。

 キリスト教の一つの発生母体でもあり、競合相手でもあった宗教にミトラ教がある。フランスの宗教史家、思想家ジョゼフ・エルネスト・ルナンは、「もしキ リスト教が何らかの致命的疾患によってその成長が止まっていたならば、世界はミトラ教化していたであろう」とさえ言っているくらいだ。

 ローマに現れた時期はキリスト教もミトラ教もほぼ同時期だった。だが、313年にコンスタンティヌス1世(306 – 337)がキリスト教を公認した時点(ミラノ勅令)で、ミトラ教は国教から除外された。しかしその後、方向は一定しなかった。ギリシア哲学に傾倒し、教養 ある賢帝だったユリアヌス帝(355 – 361)は、キリスト教ではなくミトラ教に帰依し、ミトラ教の復興に尽力した。その後グラティアヌス帝が382年に出した勅令でミトラ教を含むすべての密 儀宗教は全面的に禁止された。この時期にキリスト教がミトラ教から摂取したものは数多い。

 一例を挙げよう。キリスト教で最も重要な日、12月25日は、上記のコンスタンティヌス1世が「イエスの誕生した日である」と宣言したことに由来する。 しかし、その前に在位したオーレリアン帝は、同日を「ミトラの誕生日」であると公式に認めていた。しかるに、キリスト教勢力が正統性を確立してゆく過程 で、ミトラ教は非正統的なカルト、あるいは反キリスト教的なものとして追いやられていった。

 教義(ドグマ)は絶対的なものだが、教義を確立するまでには、機微なインテリジェンスが駆使されたのである。皆殺しのインテリジェンスもあれば、「皆殺 し」と「愛と平和」を表裏一体化させるインテリジェンスもある。ユダヤ・キリスト教を奉じる個人や国と接するとき、一神教の世界に出かけてゆくとき、ある いはこれらの圏域の企業とビジネスをするときは、気持ちのどこかに以上の議論が示唆するものをとどめておくとよいだろう。

 【参考文献】

  • マックス・ヴェーバー、「古代ユダヤ教」

引用:諜報謀略講座 ~経営に活かすインテリジェンス~ – 第8講:一神教における愛と平和と皆殺し:ITpro

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