居心地の良い多様性、米国の学生寮

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20代のころ、専門分野でとんがり、ディグリーを取るためにアメリカに留学に行った。でも、隠微で鉛のように重い日本というシステムの圧力・圧迫から逃れて放浪(脱システム)することも動機だったように思える。専門を突き詰め、日本から逃避して、知的に放浪する・・・。知的放浪を正当化するためには、東海岸のアイビーリーグに属する大学は都合がよかったのだ。

大学のキャンパスの中にはフラタニティー・ハウスという友愛団体の寮がたくさんある。「面白い日本人がやってきた」ということで、大学キャンパスの西南方向にゆるやかに伸びる傾斜地に立つKappa Alpha Societyのロッジのメンバーとなった。居心地がよかったので、そこに2年間も居ついてしまったのだ。

居心地がよかった理由はなんだろう。

日本人の集団は、だれもが同じように考え、表現し、行動する。またそうするような同調圧力に合わせる規範といったものが、隠微に働く。日本というシステムの内側にのみいると、この摺りこまれた習性にはなかなか気づかない。その一部になりきってしまうからだ。

さて、その友愛団体の寮は、政治主義的には、民主党、共和党、リベラル、さらに尖ったリバタリアン(これが多数派というのも面白い)とばらけていて、人種的には、ワスプ、ユダヤ人、ヒスパニック、黒人、黄色人種とこれまた多様。選考も、政治、経済、数学、物理学、産業労働、心理学、工学、生物学、農学、人間生態、リベラルアーツ・・・、というようにこれまた多様なのだ。

性的嗜好も80パーセントはストレートだったが、20パーセントはゲイ、バイ。

この中間団体はフリーメイソン系のロッジでもあり、よくふらっと放浪者や学問愛好者がおとづれては会議に参加するために数日泊まってまたどこかへ消えてゆく。

皆はそれぞれ異なっていてあたり前。だからお互いの違いを尊重しながらバカ騒ぎやランチキ騒ぎを繰り返しつつ勉学にも励み、ラディカルにプラグマティックに共同生活を織りなしてゆく。

日本にない多様性が実に居心地よかったのだ。

今でも日本人だけの集団や会議に、言い知れぬ違和感を覚えるのは、こういう多様性のなかで、青春のひと時にを謳歌したことによるものだろう。

 

評伝 小室直樹』(上・下)

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村上篤直『評伝 小室直樹』(上) 学問と酒と猫を愛した過激な天才』(768ページ)『同(下) 現実はやがて私に追いつくであろう』(746ページ) 村上篤直氏が執念を燃やして書き上げたこの評伝二部作の大著。

空前絶後の小室学(社会科学の統合者)としての学問展開の学術的軌跡のみならず、数々の破天荒な奇行、逸脱、越境、乱痴気騒ぎ、裏話・秘話・痴話の類が満載だ。

硬軟織り交ぜた物語の展開に、ずんずん引き込まれる。きちんと小室の著作を読み込んでいる著者の真摯な向き合い方にも好感がもてる。いや、村上は、真摯どころか、命を賭けた真剣勝負をこの2巻で挑んでもいるようだ。

脚注も充実、取材者リストも強烈。さらに小室直樹の年譜が巻末についているも素晴らしい。著者の村上は小室直樹の全著作物を渉猟し、掘り下げ、さらに関係者に周到にして緻密なインタビューを敢行。

直接あったことがある人物が以外な側面を見せながら登場しているも新鮮だ。えっ、そうだったの?!という人間模様の描写が、これまた面白い。

そしてこの大著。松下が直接知る方々も多数登場。ああ、そうだったのかと、時に抱腹絶倒、時に深いため息をつき、感動も新たに5日かけて読了。

診療報酬・介護報酬解説BOOK 2018(平成30)年度改定対応版: 看護政策・経営学で読み解く

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拙著を出版しました。

今回の企画は、大島敏子先生とコラボして、2018年度の診療報酬・介護報酬同時改定を受け、看護の現場に直結する内容を選りすぐって改定裏話も含めて解説するというもの。

ただし、類書と最も異なるのは、看護政策・経営学という松下独自の体系をベースにして、診療報酬・介護報酬のツボをつかみ、うまく活用するノウハウを紹介しているところです。

一般病棟入院基本料の評価体系の見直し、入退院支援など地域連携をはじめとした加算の内容から今後の方向性まで、看護管理者が押さえておきたいポイントを解説しています。

医療管理学、政策分析学の立場から松下が編集と執筆を行いました。さて、ここでは一般病棟入院基本料の評価体系についてのみ書きます。

              ***

そもそも7対1が創設された2006年に、多くの病院が高い報酬を求めて 7対1を取得しようとして看護師採用争奪戦が巻き起こりました。
 
 厚労省は、当初は7対1の届出病床数2万床を政策的な目標としました。この読みが大きく外れ、ピーク時には約38万床まで激増してしまいました。
 
 政策的な誤算を通り越えて、これは事実上の大失政と言わなければなりません。
 
 しかし、厚労省はこの失政を認めませんでした。「官僚の無謬性」という疾患です。
 
 あげくのはてには、7対1が過剰になったところで、厚生労働省は7対1の施設基準を厳しくすることよって、7対1 から10対1に逆誘導しなおしました。
 
 さらなる失策の上塗りです。
 
 このように 7対1 と10対1を巡る入院基本料の改定の歴史は、創設時の誤算と失政の上塗りともいうべき状況です。巷かまびすしい根拠に基づいた政策策定(Evidence-based Policy Making)とは隔絶しています。
 
 このようにして、社会的共通資本(宇沢弘文)である医療・看護サービスが、社会的共通資本を擁護、増進するべき厚労省によって、こともあろうに毀損されてきたのです。
 
そして、改定のたびに、医療経営関係者の吐息、被害者意識、怨嗟、冷笑がないまぜとなり、不信感を醸成してきました。

今次改定もこのような歴史的文脈から分析する必要があります。
 
2018年の前回改定は、7対1と10対1の最高部分が、それぞれ1591点と1387点であり、その差は204点という大きな報酬差がありました。また医療機関としても管理単位が異なると状況に合わせて弾力的な配置をしたくてもできませんでした。そのため 7対1から10対1への届け出変更が非常に難しかったのです。これは制度設計に問題があったのです。
 
 ところが、今次改定では積年の失政の上塗りを一気に「御和算」して、大胆に制度設計をやり直してきました。

つまり、患者の集客が滞り、稼働率が低下し、重症度と医療・看護必要度が低下すると7段階の階段を右上から左下に向かって落ちることになりうるのです。
 
 筆者がペイ・フォー・パフォーマンス7段階逆スライド方式と命名する所以です。
 
 7対1の人員基準をクリアして1591点を確保していたにも拘わらず、稼働率が下がり、重症度と医療・看護必要度も下降すると、急性期一般入院基本料の2階部分が、入院料1(1591点)→入院料2(1561点)→入院料3(1491点)→入院料4(1387点)→入院料5(1377点)→入院料6(1357点)→入院料7(1332点)というように落ちてゆくという仕組みです。

診療報酬制度改定の解説(批判)本

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2018年度は、診療報酬改定と介護報酬改定の「ダブル改定」と同時に、医療計画と介護保険事業計画の見直し、地域医療構想と在宅医療・介護連携推進事業の進展、国保財政の都道府県への移管、保険者努力支援制度の本格化など、数多くの医療改革が同時に実行される。

平成30年度診療報酬改定の基本方針(案) に関する参考資料 

それゆえに、「同時多発改定」や「惑星直列」になぞらえられることもあるくらいだ。こうなると、この界隈の業界は一気に診療報酬改定セミナーや解説本など、各種コンテンツのマーケティングで忙しくなる。

ということで今年の3月も原稿書きで忙しい。。よくある解説本は厚生労働省の政策誘導音頭のお先棒担ぎにしかすぎないので、医療管理学の中立的な立場から批判することも忘れてはいけない。

今次改定では、介護保険施設だけでなく高齢者住宅などの運営にも大きな影響を及ぼすと考えられる介護医療院が創設された。住まいの機能があるということで、自宅等の「等」に含まれるという。

さらには医療と介護の連携推進を目的とした仕組みが、診療報酬・介護報酬どちらにも盛り込まれる。そして、介護報酬では訪問介護の生活援助の大幅な見直し、通所介護へのアウトカム評価が導入される。

各地区で地域包括ケアシステムの構築が本格化する中、医療・介護事業に携わる経営者、看護管理者にとって、診療報酬と介護報酬の両方の報酬体系を理解した上で範囲の経済の機微を熟知したうえで、事業戦略を練ることがますます重要となる。

情報と秩序:WHY INFORMATION GROWS by César Hidalgo

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「経済成長とはそもそも情報成長のひとつの表われにほかならない」、「宇宙はエネルギー、物資、情報でできている」と言い放つヒダルゴには情報原理主義者の香りがしないでもない。ただし、教条的、狂信的な原理主義者とは根本的に異なるのは、プラクティカルな地平で、たとえば、複雑系科学、ネットワーク理論、社会関係性資本、制度派経済学の知見を駆使して「経済複雑性指標」を開発して「経済複雑性ランキング」(Economic Complexity Rankings)など一般に公開していることだ。経済成長の著しい場所は、情報成長が著しい場所である。ほうっておけば混沌が支配するはずの物理世界で情報が結集し、秩序が形成されるポイント(これは「場」といったほうがいい)―著者の提唱する「想像の結晶化」作用が起こる場所だ。

 
以下、気の利いたセンテンスをまとめてみる。
 
               ***

・学問の垣根を超えた愛のダンスを踊る人々の中に、誰にでもちょかいを出すプレイボーイがひとりだけいた。それが「情報」である。p17

・1950年代から60年代にかけて、情報という概念は科学界を席巻した。情報は科学の境界を越境する強力な概念として、あらゆる学問分野から熱烈な歓迎を受けたのだ。p18

・私たち人間にとって、情報と意味を区別するのは難しい。人間はメッセージを解釈せずにはいられないからだ。意味とは、メッセージが情報を処理できる生命体や機械に届いたときに初めて生じるものであって、情報を伝達させるインクの染み、音波、パルスに含まれているわけではないのだ。p21

・私たちの世界は情報を孕んでいる。どろっとした原子のスープではなく、様々な構造、形状、色、相関関係が、整然と集まって組織されている。たとえそういう物理的秩序になんらの意味がにとしても、その整然とした構造は情報の顕われなのである。p25

・非平衡系は、秩序が自然に発生し、情報の破壊を最小化するような定常状態へと自己組織化されるのだ。p62

・人間が製品を欲しがるのは、製品が他人の神経系にある知識やノウハウの実用的用途にアクセスさせ、私たちの能力を増強してくれるからなのだ。・・・・私たちが想像を結晶化するのは、アイディアを共有可能な現実にかえるためでもある。p103

・経済を知識やノウハウの増幅エンジンとして解釈するのだ。経済は人間の増強(進歩とか進化といってもよいだろうね)に必要な情報を含む物理的なパッケージを生み出すことのできる、複雑な社会技術システムというわけである。突き詰めていえば、経済とは、人間が情報を成長させるための集団的システムといえる。p105

・情報は、モノ、本、ウェブページなど、製品という形で容易に移動できるが、知識やノウハウは人々の肉体やネットワークのなかに閉じ込められている。p117

・エルヴィン・シュレーディンガーは、1944年の著書『生命とは何か』で、生命において個体が情報の担い手であることを強調した。彼は、生命とは情報を蓄えたり処理したりする能力に優れた、平衡から遠く離れた系であることを理解していた。p226

・社会関係資本に欠かせない形のひとつである信頼は、巨大なネットワークを形成し、維持するための”接着剤”であって、ネットワークに蓄積される知識やノウハウとは違いものである。p158・・・信頼は、関係構築のコストを抑えることで、より多くの知識を蓄積できる巨大なネットワークを形成しやすくするのだ。p159

・もっと意外なのは、この経済複雑性指標(Economic Complexity Index)とひとりあたりGDPとの相関関係ではない。重要なのは、この経済複雑性指標でひとりあたりGDPの長期的な変化を説明でいるという点なのだ。p206

・「情報」とは、音楽やDNAに見られる配列のように、体系化された配列に具象化されている秩序のことであり、「知識やノウハウ」とは、システムが持つ情報処理能力のことである。p213

宇宙はエネルギー、物資、情報でできている。p225

人間は物資の持つ計算能力の究極の化身である。人間は新しい形態の情報を生み出すような脳や社会を組織化してゆく過程で、その計算能力を具象化する。私たちが情報を蓄える場所はモノである。モノがあるからこそ、メッセージを伝えたり、社会的活動や仕事を連携させたりできるのだが、より重要なのは知識やノウハウなどの実用的用途を伝えられる、という点だ。p228

知的生産の技術

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一読してからのインパクトが数十年に渡って延々と続く本もあれば、数か月ともたない本もある。前者の代表格として、梅竿忠夫の「知的生産の技術」がある。この本を読んだのはたしか高校1年のときだったか。神保町や早稲田通りの古本街に通いはじめた頃、高校生よりも一回りも二回りも年をとった多くの大人が手に取り、けっこうな評判になっていた本だ。

さして知的な生活をおくっているとは自覚していなかった高校生にとっては、「知的」という呪文のようなフレーズは、もうそれだけで立派な大人に近づいたような感覚も手伝い魅力的だ。さらに件のその「技術」さえ要領よく習得すれば、だれでもかれでも「知的」を手に入れることができるとあっては、飛びつかざるを得ない。

そんな不思議な磁力を発する本だったのだ。この本を一読後ずっと大いに役に立ってきた3つのものがある。

①発見の手帳

インスピレーションによって得たもの、アイディア、本の感想などをカードではなくノートにとりまくる。きちんとして文章にする前のたんなる単語の羅列や絵、スケッチ、記号などなんでもよい。梅竿には探検のバックグラウンドがあるが、大学に入ってインドからネパールを自転車で旅した時も、このノートは大変役に立ち、論文にもなった。

ただし、京大式カードなどのカード作成の方向には進まなかった。カードの保管が面倒でぱらぱらとめくるノートの方が、日記の機能を併せ持つことから過去、現在一貫してノート派だ。コクヨの普通ヨコ罫7mm30行30枚つづりのCampusを愛用している。

いまでは、evernoteと同様なことをしている。クラウド環境にぶちこんでおけば、世界中どこでも書き、更新し、かつ閲覧できる発見手帳が魔法の絨毯に乗ったようなものだ。ノートにスケッチした概念図や相関図、ごちゃごちゃした走り書き、ブレストの成果をスマホの写真にとり、それをevernoteに送ってやり、一元保管するという技も使える。

②読書

人は知識を活用して考える。自分の経験という制約を越えて知識を仕入れるために読書をする。考えたことを文章にする。したがって文章を書くためには読書、知識の体得は必須である。

本は集中して知的な興奮のもと一気に読み終えるのがよい。その興奮を冷まして、冷静な読後感と言えるくらいにまでこなれてきたら、傍線をわんさか引いた部分や汚く書き込んだ事柄について、ノートにまとめる。同じ本を読んだ友人とこのノートをベースにしていろいろナマイキな議論をするのである。

さっと求める本を手に取ることができる書斎を持つことの意味は強調しても強調しすぎることはない。「知的生産の技術」では書斎の記述はさほど多くはないが、書斎論といえば、同じく高校生の頃に読んだ渡辺昇一の「知的生活の方法」の影響はぬぐえない。

概して、インプット系の読書・書斎論は渡辺昇一、アウトプット系の記録づくり・執筆技法・文章作法は梅竿忠夫という組み合わせだ。

 ③ペンからタイプライターへ

昔はガリ版という旧世代の印刷技術があり、貧乏学生のクラブ活動では重宝したものだ。ガリ版がやがて湿ったヘンな匂いがするコピーとなり、10円コピーとなり、ワープロとなり、パソコンとなった。タイプライターは以前、英文科の女学生を拝み倒して借りて使ってみたが、性分に合わなかったこともあり途中でとん挫。

その後、1980年代後半にアメリカで研究生活を送っていた頃にマッキントッシュを使い始め、タイプライターは完全スルーとなった。ローマ字入力は便利だ。日本語の文章も英語の文章もブラインドタッチのローマ字入力ができると書くスピードが思考スピードに近づく。

一冊の本は亀のように遅いワードではなく、アウトラインプロセッサ「秀丸」を使うに限る。知的空間をevernoteで膨張させ素材を整えて仕込み終えてから、全体構想→部分構想→章立て→節の構成→文章の書きおろしという作業が、リニアではなく、「全体構想⇔部分構想⇔章立て⇔節の構成⇔文章の書きおろし」というようにマクロ的な俯瞰とミクロ的な書き下ろしが、同時進行的にできるのがよい。

モノ書きにとって隔世の感だ。

                  *** 

新しい研究室への引っ越しで古い本を整理整頓していると、ふと目に入った黄ばんだ「知的生産の技術」。読み始めると、2017年現在でも十分読めるし示唆する内容は実に本質的なものばかりだ。

 

小屋生活の系譜

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八ヶ岳本をいうマイナーなジャンルがある。登山でもなく、単なるレジャーをテーマにした本でもない。八ヶ岳の麓に移住したり、住んだりすることを主たるテーマに置く一群の本のことをいう。

八ヶ岳南麓に小さな山荘を営む身からすれば、気になるテーマで、かれこれ30年以上もこのテーマを追いかけるというほどではないが、まぁフォローしてきている。そんななかで、異色の本に遭遇した。

「僕はなぜ小屋で暮らすようになったのか」がそれだ。

慶応の大学院で研究した後、いろいろあってホームレスを彷彿とさせる路上生活を経て、数々の試行錯誤を経た筆者が、雑木林に小屋を建て多摩川の河川敷にテントを張って、これら二つの拠点をカブで往復しながら暮らしているという。知的な人とあって、家庭教師などの都市系の仕事で収入を得ながら、菜園で栽培する野菜や川で釣った魚などを食べながら慎ましく生活しているという。

著者は活字を紡いだり思索が好きな人と見えて、内面描写も内向的な人独特のじめっとした陰影を落としながらも、生活の描写は淡々としていてなぜか小気味よい。

通底するテーマは「哲学」や「死生観」。幼い頃に「自分の死」のイメージに思い至ってより、「生きていること」の不思議さや儚さに思い巡らせてきた著者が、思考の世界と現実的な生活との折り合いをつけてゆく試行錯誤の記録だ。

小屋、山小屋、山荘をテーマにした本は、有産階級の人やある程度仕事をやり終えたり、いくばくかの成功を収めた後に高原や見晴しのよいところに移り住んだり、セカンドハウスを持つといったストーリーが中心だが、この本は、それらのプチブル的趣向とは歴然と隔絶している。

著者によるブログも面白い。

ウォールデン池畔の森の中にこじんまりとした丸太小屋を建て、自給自足の生活を『ウォールデン 森の生活』(1854年)に紡いだヘンリー・デイヴィッド・ソロー(Henry David Thoreau、1817年- 1862年)の系譜がそこはかとなく見え隠れするのも味わい深い。

 

書くことの効用

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飲み会で難しい質問をされた。

「なんのために論文を書くのか?」

うーん、研究者としてあたりまえのことなのであまり深くは考えたことはなかった。新規性の強いオリジナルな実証的なアイディアを知的成果として知識社会≒学会に還元するのは当然といえば当然すぎる。

さて、あたりまえかつ当然のことは横に置いて、ペーパーなり書著を書くことの副次的な効用をメモしておきたい。

1)自分の学問を深めることができる。
 
2)これまでのプロフェッショナル生活のなかで蓄積してきたdiscipline, practiceの間の循環運動をまとめることができ、よき人生の一里塚となる。
 
3)論文執筆を知的生活の基本とすることができる。
 
4)英語で書くので、英語writingのたな卸しになる。
 
5)衣食住、健康、家族からのサポートがあってはじめて、論文執筆という知的贅沢をすることができる。生活を整えることができる。
 
6)海外の学会、国際学会で発表する機会が織り込まれるので、知見がひろがる。
 
7)ボケ防止=知的活動水準を向上させることができる。
 
8)ランニング、サイクリングという運動系と論文執筆という知的活動を組み合わせることによって脳の力を強化することができる。Active agingの効果あり。
 
9)運動系と知的作業としての論文執筆を媒介する健康法として断食を位置づけると、非常にオリジナリティに富んだライフスタイルになる。
 
10)以上をまとめると、執筆というのは人生屈指の贅沢なことなのかもしれない。今日論文や本の原稿を書き進めることがきるということは、昨日までの「今日」がある意味、クリエーティブだったから、そして未来の「今日」を豊かにすることだから。
 
まるでハイパーグラフィアのように、書くことそれ自体が、抜き差しならなく好き、を通り越して、まるで新陳代謝のように生きることの一部と化している人間にとってみれば、もちろんこんな正当化はいらないはずだ。
 
 
 
 

書斎は人生への投資である

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<書斎をテーマにした本が面白い>

年末は書斎の整理整頓。いろいろかたずけながら、書斎についてメモしてみる。

一年という時間は書斎を中心にしてサイクルのように回っている。

つまり、春から夏にかけては自転車に乗って北海道ツーリングをしたり海外にでかけたりすることが多い。自転車は書斎兼ガレージに格納してあり、自転車ツーリングの計画は書斎で練るので、書斎が出発点となる。

秋から冬にかけては書斎にとじこもってひたすら活字を追ったり、論文や本の原稿を書くことに膨大な時間を費やす。暑い時期に外向的な活動で溜め込んだパワーを寒い時期になってからは内向的で知的な作業に向けるのだ。

アウトドアは外向的な活動だが、書斎の時間は内向的だ。

さりとて外的な環境に積極的に分け入って新しい境地を切り拓いてゆく外向性と内面世界に沈潜して活字を紡ぐという内向性は素朴に二項対立するわけではない。むしろ、外向と内向は相互補完であり、相互に浸潤しあう再帰的な性格を持っている。

その再帰の「場」が書斎だ。外に向かう外向性と内に向かう内向性が交わる豊饒の場である。

さて、多少なりとも知的な活動をしている人にとって書斎は必須にして不可欠の場だ。ここを根城にして古今東西の書物と語り合い、活字を紡いでは知的な発信もする。論文や書物を執筆する。

家族や世の喧噪から自身を隔絶し、自分だけの世界に埋没できる。かといって、孤独のみに埋没するのではなく、ネットに繋がったパソコンやデバイスがあれば、SNSやメールを使って世界中の友人たちとも交流できる。

いやいや、書斎とはそれ以上に私秘的で創造的な場である。

起業家になる前は外資系のコンサルティング・ファームで経営コンサルタントをやっていて、仕事の傍ら専門領域で単著2冊、共著1冊を書いた。共著は職場のコンサルタント仲間で一緒に書いたものだ。経営現場で得たアイディアを熟成させたり、個別の経営事象に理論の枠組みを与え体系化したりするのはすべて書斎の中の作業である。

そうして書いた「看護経営学」と「続・看護経営学」という本は売れた。全国から講演に呼ばれ、信じられないことに講演料と印税だけで結構な額のカネがたまったのだ。

さて、そのカネをどう使うか?

当時の最低資本金に相当するカネが講演料と印税だけでたまっていたので、書斎でワルだくみをした。秘密の事業構想アイディアをニヤニヤしながらとくと仕込み、事業計画を嬉々として書き上げ、自分の会社を創ることにしたのだ。

会社経営ではICTテクノロジーやネット系テクノロジーを起点にしたビジネスモデルつくりに心血を注いだ。いわゆるイノベーション・マネジメントだ。で、いいビジネスモデルを拵え、いろいろなコンテストで発表していろいろな賞をもらったり外部から出資を受けたりした。

資本金だけで2億円くらいまで増資したのだ。これらのビジネスプランも書斎で書き上げたので、会社(幕張副都心にあった)は書斎の延長線みたいなものだったのだ。

リーマンショックの寸前に奇特な上場企業の社長と役員がやってきて、自分の会社を買いたいと言ってきた。拝金主義の生臭い匂いを放つ、けっして好きなタイプの男たちではなかったが、デューデリを経て会社を売って小銭を稼いた。いわゆるキャピタルゲインというやつだ。あと半年遅れたら、こうはならなかったはずだ。運がよかったのだろう。

松下が会社を売却したという話が漏れ通わり、東京農工大学という国立大学の大学院でイノベーションや起業に関する授業を受け持たないかというオファーがあり、はからずも大学教授に転身した。

面白いことに、会社を売却して身から完全分離させたのだが、会社経営で蓄積してきたイノベーション創発や技術経営(Management of Technology)の自家薬篭中のノウハウ、経験、理論枠組みはがっちりと無形資産として残ったのである。

多忙を極めるベンチャー企業経営(フィールド)のかたわら、書斎(精神の安息所)で専門書を5冊書いている。会社の起業から売却までの全プロセスは、かけがえのない「経験学習」となった。

経験はだまっていれば暗黙知でしかないが、体系化して理論化すれば、汎用性のある形式知となる。暗黙知を形式知に転換する装置が書斎なのだ。

いずれにせよ、①書斎→②事業構想→③起業→④成長→⑤売却という流れの、⑤会社売却がイグジットなら、事業構想のエントランスは①書斎だ。書斎からビジネスが始まったのである。

暑い夏の日々、この書斎で冷涼の地に別荘を持つことを汗をかきながら妄想し、数年後には八ヶ岳の麓に第二の書斎、つまりセカンドハウスを持つことになった。本の増殖が一巡すると書斎も増殖するのだ。標高1300メートルで2冊の本を書き上げている。

かれこれ本も20冊近く、この書斎で書き続けてきている。会社を売却してちょっとしたお金と時間ができたので、重い腰を揚げて長年の課題だった博士論文を書くことにした。この博士論文もこの書斎でカタカタとキーボードを叩きながらせっせと書き綴ったものだ。

それやこれやで、仕事遍歴の伏流には、読み、考え、書くという所作の流れがある。読む、考える、書くという、そこはかとない知的な作業は書斎なしではありえない。今風にいえば、書斎とはワーク・デザインや自分イノベーションの起点なのだろう。

たしかに書斎は「男の隠れ家」や「秘密基地」といった意味あいもなくはない。しかし、書斎の本質は内向と外向という二つの異なるエレメントを止揚させて新しい境地を切り開く知的生産の場である。そのような場をつくることは、人生に対する真剣勝負の知的な投資なのだ。

ゆえに知的たらんとする男たるもの絶対に書斎を持つべし、なのである。

 

診療報酬制度の改定解説本  

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看護経済・政策研究学会に出てみないか?ととある人に言われ、時間もあるし出てみようと思い出てみたら、議論がけっこう面白かった。パネルディスカッションの延長でフロアを巻き込んでワサッと話題が盛り上がり、会場のあちこちから手があがりアツい議論になったのだ。

看護経営学という専門書を書いたことがあるくらいだから、看護経済・政策については一言も二言も言いたい方だ。修士時代の専門は、政策分析&経営学(Policy Analysis and Management)と健康医療管理学(Health Administration)なので、だまっているほうが難しい。また、だまって議論を聞いている性分ではなく、議論に首を突っ込んで、あーだこーだ言うのが好きなのだ。

で、いろいろ言わせてもらった。さっぱりした気持ちになって会場を出て遊びに出かけようと思っていたら、とある人から声をかけられた。これまた面白い話に発展した。

数日後、その人(看護界ではかなりの著名人かと)から電話が入り、なんでも本の中心的な章をいくつか書いてほしいいとのこと。とどのつまりは、スキマ時間を中心に3か月でB5版130ページの原稿を書いた。20分スキマの時間ができれば、どのような仕事をやっていてもPCに向かって原稿を書き進め、クラウドにぶち込んでおくのだ。この繰り返しだ。

自身17冊目の本が出来上がってきた。

さて2年に一度のペースで行われる診療報酬制度の解説は、ある意味、厚生労働省の政策マーケティングの「御用」のお先棒を担ぐことにもなりかねない。ここをちゃんと自覚していないと、いわゆる無自覚な御用学者に身を落としてしまう。したがって、政策批判は批判としてきちんと書かせてもらいますよ、という前提で執筆。編集室から、あまりにも厚生労働省批判が辛辣な部分の表現をもっとやんわりかいてくれとかいろいろ言われたが、辛辣な批判がないところに公正妥当な政策もないわけなので、書くべきは書かせてもらった。

権力におもねない批判が公正妥当な政策を担保するのだ。医療経済や医療政策のテクニカルなイシューは通常、この道の専門知識のない議員によるチェックが入りずらい。だから中立的な立場にある識者が正々堂々と批判しなければならないのである。

 

読書・執筆の裏ワザは鉄砲玉面会にあり

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本を出版したいという人とよく出会う。自身も今まで16冊本を書いてきているので、どうやったらいい本を世に出せるかということは常々気持ちのどこかにある。でも20冊にも達していないので、ナマイキなことは言えないのだが。

 そこで、ある人と本を書くことについてまとまった話になった。だいたい以下のような結論に至った。
 

①共著者として参加する。

②パワフルな講演、言説で種をまく。

③コネで編集者を紹介してもらう。

④企画書をつくって送りつける。

 
たしかに、本を出版することの、近因項だけをとりだせば、以上の4つくらいが相場だろう。でも案外、急がば回れで遠因項のほうがむしろ大事だ。別の言い方をすれば、本を書くための基盤づくり、生活習慣、基礎体力づくりといったテーマだ。でも基本はいたって簡単だと思う。本を書くための、最善にして最強の準備は読書である。
 
ドタ勘でいうと、初めての本を1冊の本を書くには500冊のきちんとした読書(つまり、読書ノートを残したり、読んだ内容を咀嚼して自分なりのアウトプットにする)が必要になる。
 
以降、2冊目、3冊目・・・と一冊あたりの読書量は逓減してゆくいっぽう、2冊目、3冊目・・・と本を書くにしたがって、執筆するという経験値、モノ書きとしての蓄積されたスキルや知識、そして読者がついてくるので、少ない読書量で本を書けるようにはなる。しかし、ちょっと売れて、その勢いで粗製乱造するモノ書きは案外多いものだ。やはり書くことを涵養するための読書は絶対に怠ってはならない。
 
ということで、実務系の本、社会科学系の専門書やノンフィクションに限定して本を執筆するための遠因項についてまとめてみる。
 
まず前提になることは、一冊の本にするに足る「文脈」をもっていなければらならいということ。その文脈に、ナカミ、実質、内容(つまりコンテンツ)がくっついて、その人ならではのオリジナルな自家薬篭中のものの見方、構え、問題解決、提案、提言、時代認識といったようなものになってゆく。文脈には知識や情報を吸い寄せる粘着性があるのだ。
 
著作物の執筆方法は、決まりきったノウハウのようなものはないだろう。あえて言えば、本をよく読みこみ、同じような課題意識を持つ先人が発見したもの、古人の到達点を丹念に調べ上げ、世の中や現象を自分の眼でキッチリ見極め、よく考えるということだ。
 
僕の場合は、無類の神保町フリーク、雑多な読書趣味にくわえ、20代には雑学諸般、放浪を切り口とした人文地理、歴史、宗教といった教養から、健康医療管理学、人間、経営学、経済学、社会学、比較宗教学、システム思考、サービス科学の方面へと専門をとがらせたりまたいだりしていったので、おのづとこういった方面の本が目にとまり、自然と目は活字を追うようになった。
 
さて、ここからが本題だ。
 
読書は内向的な作業だ。でも、これを外向に転じて、まるで地引網を引くように次々にいい本、文献、そして特殊な人脈を引き寄せるいい方法がある。「これは!」と思った本の著者に直接連絡をして面会を申し込んで実際に会うのである。これを鉄砲玉面会という。
 
そのココロは、これはと思った著者に直接アタリをつけ、面談のアポをとり、あとは鉄砲弾のように著者のところに飛んでいって会うのだ。
 
初めてこの方法を初めて実行したのは18歳の時だった。当時はメールなどという便利なモノはなかたので、出版社に電話して著者の連絡先(電話番号とできれば住所)を教えてもらうのだ。今なら著者名の検索すればメルアドなどのコンタクト先は5分で調べることができる。
 
忘れもしない、暗殺された故ベニグノ・アキノフィリピン大統領と一時行動を共にして、モロ民族解放戦線で民族解放運動にも関与していた、「国際浪人プッタギナモー」の著者若宮清氏である。
 
「かくかくしかじかの点に深く感銘をうけた」、「このポイントについてもっと知りたい」、「自分はこう考えるが先生の見解をお聞きたい」、「ひいてはぜひ一回おめにかかりたい」と結ぶのである。
 
こうたたみ掛けると著者はけっこう感激してくれて会ってくれる。本や著者に強く興味を持っても、実際に会うというアクションを起こす人はまずいないのだ。だから著者は、喜んであってくれるのだ。
 
しかもこちらから出かけてゆくのでコーヒーくらいはまず出してくれる。時々ではあるが飯まで食わせてくれることもある。「大学教授になる方法」の鷲田小彌太氏にいたっては、鉄砲玉面会決行のその日の夜に意気投合して、札幌ススキノの文壇バーでいっしょに酒まで飲んだこともある。鷲田氏が分析し構築した方法論を大いに参考にしてキャリアを拵えてきたので、この出会いがなければ今日の自分はないということになる。
 
いままで通算30回くらいこの鉄砲玉面会を使っているが、なんと断られたためしは一回もない。生涯百発百中を更新中だ。
 
鉄砲玉面会のいいところは無限だ。まず、著者のひととなりに直接触れることができる。昨日まで活字でしか知りえなかった著者が目の前1メートルのところに座っていて、読者である自分と生身の人間として一対一で対峙している図。これは感動ものだ。
 
そして、その著者の着眼点、問題意識、時代認識など直接話を聞くことができる。自分の見方、意見にも率直に意見をくれて、よくすると対話になり、新しい地平線が忽然と開けてくるのだ。たゆたゆしいモチベーションや豊饒なインスピレーションを得ることもできる。そして、関連する書物や文献も紹介してもらえる。さらには、当該分野の会ってみて面白い人、研究者、懇意にしている編集者などの紹介にあずかることができるのだ。
 
鉄砲玉面会もだんだん発展してくると、まず、会うからには相手に一目置かれなければいけない。つまり、ぎゃふんと言わせなくとも、厭味ったらしくなく、こいつはなかなかのヤツだと思わせるためには、その著者が書いたほとんどすべての著作物に目を通して、ポイントを理解しておく必要がある。すると論点、事実関係の整理の仕方がおのずとわかってくる。さらには、こういう角度から見ると別の見方や議論ができる、などなど一ひねり、二ひねりしたダイアローグが成立するようになるのだ。
 
鉄砲玉面会の味をしめた私は、その後、一貫して最低年に1-2回は実行している。相手は冒険家、実務家、小説家から専門領域で知的アウトプットを出す一流の学者まで様々だ。各段に読書生活の奥行が拡がり、人生の新しい地平がそこはかとなくも歴然と開けること必定である。
 
読書そして本の出版の裏ワザは鉄砲玉面会にあるのである。・・・とここまでツラツラ書いて気がついたのだが、鉄砲玉面会は読書・執筆に始まって人生諸般に資すること決して少なくないように思えるのだが。。

「エロティック・キャピタル」と「女子のチカラ」

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職業がら女性とよくお会いする。いや、むしろ会わなければ仕事が進まないので、好むと好まざるを問わず会わなければいけないのだ。

授業、講演、セミナー、ワークショップ、各種プロジェクト・・・・。

10代の看護学生さんから、20~30代の主任さんや大学院生さん、40代の師長さん、50代以上の看護部長や病院の副院長さん。看護学系の大学教授ともなると、60歳以上の女性が圧倒的に多い。

このように日常的に50歳くらいの年齢レンジを回遊するように交流しながら、そこはなとなくも、つくづくと気がついていることがある。

それは、年齢というファクターを越えて、あるいは底通して、デキル女性は、強いし、その強さの源泉、そして強さのエクスプレッションつまり表現として「キレイ」なのだ。そして、近年、その傾向に拍車がかかっているように思えてならないのだ。

べつに化粧がうまいとか、持って生まれた造形が綺麗だのという表層的、断片的なことではない。そうではなく、多くのデキル女性においては、キレイがその人の奥底の動機、能力資質、そして目に見える行動といったレイヤーにまで一気通貫して強く息づいているのだ。

簡単にいえば、彼女たちは、キレイをチカラとして持っているし、キレイでいるチカラを持っているのだ。

では、キレイなチカラとはいったいなにか?

その問いに対して真正面からこたえた面白い説がある。

キャサリン・ハキムCatherine Hakim)という英国の社会学研究者によると、キレイなチカラとは、抽象化して言えばエロティック・キャピタル(erotic capital)となる。

彼女は、経済学者ゲリー・ベッカーが概念化したヒューマン・キャピタル(human capital)やジョン・デューイ、ロバートパットナムといった社会学者たちが彫琢してきたソーシャル・キャピタル(social capital)といった概念のむこうを張って、「美しさ、セックスアピール、着こなしのセンス、人を惹きつける魅力」などからなる「資本」をエロティック・キャピタル(erotic capital)と名づけている。

このエロティック・キャピタルなるものが、さまざまな社会や職場でのコミュニケーションを通してチカラを大きく左右するというのである。この本の副題には、ぎょうぎょうしくもエロティック・キャピタルが「ボードルーム(役員室)とベッドルームでの魅力の源泉」とまで書いてある。

ははあ。

ハキム女子もとい、女史は、①美しさ、②性的魅力、③社会的地位や役割の魅力、④活発さと元気・エネルギー、⑤表象的プレゼンテーション、⑥セクシュアリティの6つを挙げているのだが・・・。

 

エロティック・キャピタルにまで昇華されうるキレイとはいったいなんなのか?キレイを取り巻く日本のシーンはもうちょっとネジレているのではないか?そしてそればもっと複雑なのではないか?

この「女子のチカラ」という本は、そんな疑問の一端に答えてくれる。

とくに2章までが以上のような文脈に照らし合わせるとけっこう面白い。(ただし、そのような文脈をもたなければ単なる軽薄浅薄なサブカル系女子評論書物なのかも?)

・若くて美しい女優やモデルが美人としてもてはやされ、女性たちを美のお手本としてするのではなく、むしろ、そこから逸脱する要素を持っている人物が若い女性を含めたお手本となっている。(p89)

・美の魔女たちは、まさに美によって、眩惑し、闘い、変容する。我々は、自己努力によるトランスフォーメーションによって欠如を埋めようとする魔法に惹きつけられる。(p90)

ここで岡崎京子の「ヘルタースケルター」の主人公りりこのセリフが効いてくる。

・「そうよ わたしはわたしがつくったのよ あたしが選んで あたしがあたしになったのよ」(p92)

・素敵すぎる奥さんやきれいすぎるお母さんは、良妻賢母規範を軽やかに飛び越えて向こうの世界へ行ってしまう。(p98)

さて、エロティック・キャピタルは資本である以上、不断の投資によって活性化される。ところが積極的にケアしなければ加齢とともに減磨耗するという性格を持つ。

「キレイ」とは①減磨耗に抵抗するアーティフイシャルなインベストメント(人工的な投資)なものであると同時に、②美しさの常識や同調圧力が予定している規範や文脈から逸脱、越境、転換することによって強化される感覚なのだ。

たとえば、

・オネエ美人

・大人女子

・実年齢から想起される印象とハッとするような隔絶があるいわゆる「美魔女」

・トランスセクシュアリティ系の人々。。。

既存のキレイ文脈から逸脱、越境、転換したズレのノリシロが美しさ、キレイを生むのだ。キレイという価値は文脈依存的だ。その文脈を異質なものと結びつける、その境地においてキレイなことこそが、新しいキレイを生むのだ。

この新しいキレイをトランスレーショナル・エロティシズム(超文脈的、逸脱、越境のエロさ)と命名して(笑)、このようなキレイを体現している人々を探し、出会ったりすることは密やか愉しみでもある。。

たしかに、仕事ができる女性は、標準的なパフォーマンスに甘んじるアベレージ・パフォーマのレベルを超越している。彼女たちは、その超越したズレの部分を巧みに「キレイ」として表象するし、周囲はそのように諒解もする、と理解すれば合点がゆく。

女性観察は愉しくもあり、また奥深いものだ。

 

健康増進あるいは美容皮膚科医とのダイアローグ

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昨夜は美容皮膚科医の田中優子女史と健康をメインテーマとして貴重な座談。美容皮膚科医と意見を効果するのは初めての経験なので、とってもためになった。アイディアの異種混交はイノベーションの契機だ。

さて自分が専門とする医療・健康管理学は主として医療や健康に関する社会システムを観察や考察の対象にする。「私」は、これらの社会システムから距離を置いて観察、分析、評価する。この「私」が健康であればこそできることだ。したがって、「私」は健全に健康でなければならないのだ。

ゆえに、「私」に対するケア≒健康増進(ヘルス・プロモーション)は一人のプロフェショナルとしても、サイクリストとしても極めて重要なことなのだ。

健康増進は一過性のイベントなどでは決してなく、長期に渡って地道に行う習慣のようなものだ。で、今まで健康増進のために習慣化してきたものは:

 
①サイクリング(10代の終わりから現在まで)
②ビタミン類特にc大量摂取(25才以降現在まで)
③瞑想(25才以降40代まではかなり、今はほどほど)
④ファスティング(50代から)
⑤ランニング(50代から)
 
 これら以外の習慣+としては、できるだけ多くの方々と社交や絆づくりの場を持つ。講演など人前で知見を披露する機会を持つ。興味を持つ分野の本を大量に読んで仕事のアウトプットに活かす。ストレスをためない。軽快・陽気な気分をキープする。多様でポジティブ、マインドフルな感情の到来を楽しむ。たまにはドンチャン騒ぎをする。逸脱や越境行為も楽しむ。
 
 大体実年齢よりも最低でも10歳くらいは若く見られる自分なのだが、プロフェッショナルな美容皮膚科医から見ても実年齢マイナス15才くらいに見えるというのは、いやはやといった感じだ。したがって、上記①~⑤の効果はある程度検証されたと思いたいものだ。
 
ただし、正確に言えば「①~⑤プラスアルファの習慣の長期継続→現在の自分が若く見える」という因果関係が完全に立証されたわけではない。健康に関する現象はとても複雑適応的なので、単純明快なリニアな因果関係というものはありえないのだ。
 
だから、健康人生は検証がきわめて難しい実験の様相を呈するのだ・・・。
 
さてさて、スキンケア(直接肌になにかを塗ったりすること)は今までやったことがない。この点については、「男たるもの、女々しい化粧なんぞに凝っていかがなものか、という古い価値観の影響か。毎年夏には北海道自転車ツーリング真っ黒に日焼けしているので、蓄積された皮膚へのダメージは相当なものであるはずだ。このあたりは改善テーマだ。
 
随所に面白い記述を発見。例えば:
 
・腸で免疫細胞の8割が作られている。・・・腸はいわば人体最大の免疫機関。(p70)
 
・セロトニンの90%は腸内細菌が産出している(p71)
 
・ボディは魂の入れもの(p80)
 
・高濃度ビタミンC点滴・・・透明感のある美白肌や肝班改善。免疫力アップによりガン予防やガンの代替療法として注目されている(p89)
 
なるほど!といった感じだ。
 
 

ケアの本質:生きることの意味 ミルトン・メイヤロフ

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ケアってなんだろ?ケアの原点は?生きるってどういうこと?

こんな疑問や反省がときおり首をもたげるたびに、ページを繰ってきた、この本。

年末年始の喧騒や乱痴気騒ぎも過ぎ去り、雪が降り積もるような日にはシンミリとこんなこともつらつらと考えるべし、かと。

この本、もしかして書斎を離れるかもしれないので、線を引き込んだ部分をちょっと書き写しておく。

 

              ***

・「ケアすることは、自分のいろいろな欲求を満たすために他人を単に利用するのとは正反対のことである」(p11)

・「他の人をケアすることをとおして、他の人々の役にたつことによって、その人は自身の生の真の意味をいているのである」(p19)

・「学ぶとは、知識や技術を単に増やすことではなく、根本的に新しい経験や考えを全人格的にうけとめてゆくことをとおして、その人格が再創造されることなのである」(p29)

・「ケアする教師は、学生が自分自身の方法を見つけ、自分の目標を追求してゆくものものと信頼しなければならない。この場合、教師は、学生を助け、励まし、適切な刺激にあふれた経験をさせ、こうした信頼の絆をゆるぎないものにするのである」(p53)

・「相手が成長してゆうくこと、自分のケアする能力。これら二つを信頼することは、未知の世界に私が分け入ってゆくにあたって大切なものを与えてくれる。それは勇気だ」(p65)

・「作家は自分の構想をケアすることにおいて成長する。教師は学生をケアすることによって成長する。親は子供をケアすることによって成長する。」(p69)

うーん、深い。

・「他者が成長してゆくために『私』を必要とするというだけではなく、『私』も自分自身であるためには、ケアの対象たるべき他者を必要としているのである」(p69)

メイヤロフは『私』と相手の共創的関係性について、直裁に、かつ一遍の散文詩のように味わい深く書いている。

・「私が相手をケアするということは、その人が『私』をケアすることの活性化をたすけるのである。同様に、『私』に対する相手のケアが、その相手のために行うこちらのケアの活性化に役立っているし、相手のためにケアする『私』を『強く』するのである」(p85)

・「『私』と離れたなにか、あるいは誰かに役立つことによってはじめて、『私』は自己充足ができるのである。もし『私』が自分以外のだれか、あるいはなにものかをケアできないのであれば、自己へのケアもできないのである」(p106)

・「ケアは、『私』がこの世界で『場の中にいる』ことを可能とするのである」(p115)

・「自己の生の意味を十全に生きるためには、生きることが絶えず未完成であるという特徴を持つこをを、『私』はわきまえておくべきだろう」(150)

・「ケアこそが人間のあり方のなかで最も核心的なものである。『私』はケアをとおして、またケアされることをとおして、自分がいる世界をよく理解できるようになる」(p157)

・「『私』が自己の生の意味を生きるといえるのも、『自分の生を生きる』ことができるといえるのも、『私』がある対象に依存していればこそなのである」(p163)

 

               ***

ケアを原理的にとらえていすぎ、とか、マッチョなケア論だとかいろいろ識者から批判はあるだろう。だが、サービス科学という視点から見た場合、ケアの共創性をこれほど多面的に、かつ統合的に著述して、ある種の人生論にまで昇華し得た本を知らない。

難解な学術用語は出てこない。ひたすらメイヤロフは分かり易い日常語でケアを語るのだ。その意味で、著者メイヤロフは、読者をケアしているし、また読者もまたメイヤロフによって紡ぎだされた文章をケアするように読めるのだ。

案外こんなところに、この本が読み継がれている理由があるのかも。

とかく現代の看護技術論は文字通り、技術に走り勝ちだが、このような人文的な「ケアの本質」論はそれらを補って余りあるのではないか?

 

 

職業としての学問の「街頭」

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マックス・ヴェーバーは、「職業としての学問」のなかで、意味深長なことを書いている。

「教壇に立つ者は学者の立場を濫用して持論を展開したり、政策を披露するべきではない」そうした学者たちはメディアや新聞など「教室の外へ出て…好きなところでそうするがいい」(p.60)と喝破している。大学とは学問を研鑽し、研究し養育する場であり、教員が自らの偏狭な経験、指針、あるいは世界観を提供する場ではない、と言うのだ。

ヴェーバーは手厳しく「そのようなものは、街頭に立って説け」とまで言い放つのだ。

学者が学術論文や専門書といったメディアを通して公開する知見は、「職業としての学問」の範囲を逸脱することはできない。いや、方法論、信頼性、妥当性などの学問の規準に厳格かつ適性にそったものであるべきだろう。ヴェーバーその延長線上に「講義」もそうあるべきだと言っているのだ。

だがしかし。

ヴェーバーの時代とは異なり、現在の社会科学、とくに保健・医療・福祉分野の政策分析を主題とする言説は、抜き差しがたく、持論の展開やある種の俯瞰的なピクチャないしは世界観を提示しなければ、説得力が伴い、社会的にインパクトがある言説にはなりえないのだ。

さて、このような言説をどのような場で公開したらよいのか。

ヴェーバーの時代にはなかったもの。現代の、経験、指針、あるいは世界観にかかわる言説を公開する「街頭」のひとつとしてウェブがある。

ウェブはウェブでも泡沫のようなブログや発言者不明の掲示板ではいけない。職業としての学問から得られる、世界観の披瀝は、それなりのウェブ系メディアが、いささか世俗的だが現実的な「街頭」だろう。

そんなこんなで、「ケアシフト:シルバーイノベーション最前線」の連載は、「職業としての学問」の「街頭」のようなもだ。あと1回で連載が終わる。なんとなくほっとしている。