村口和孝氏X藤野英人氏による刺激満載の講演&パネル

カテゴリー : アントレプレナーシップ

大学のシンポで、村口和孝さんと藤野英人さんによる面白い講演&パネルが開かれた。言わずと知れたベンチャー投資家、ファンド運用者として大成功を収めているお二人だ。

実は前職の東京農工大学技術経営研究科でアントレプレナーシップの講座を持っていた時、ぜひ教室に呼んでトークしてほしかったが、かなわなかったお二人。これもなにかのご縁だ。忘れないうちにメモしておこう。

村口和孝さん 

・これからは未来を積極的に実現してゆこうという「能動的人生」を求めるマインドの人にとっては面白い時代だ。

・ただし、オモシロイ時代にするためには、大企業に「勤めて」他人の言いなりに働くことを良しとする「受動的人生」とは根本的に異なる生き方が問われている。

・そもそも、現代日本は工業時代の組織=規格大量生産のオペレーション中心組織に過剰適応してしまった。そこでは失敗が少なくて平均点がいい人、組織ニーズに素直に反応する「受動的」な人が重要で、そういう人たちが大切にされてきた。

・今の日本は、規格大量生産の重厚長大型工業時代は終焉を迎え、情報やサービスが時代を引っ張っている。組織ではなく、個人の創造性が全面に出やすくなっている。自分なりの事業機会(opportunity)を探してニッチを作ろう。そうすれば自分の仕事を好きになる。

・起業つまりコトを起こすためには、未実現の需給ギャップを見つけて、そこにテコを入れる発想と行動が大事だ。

・サラリーマンは自分の会社が好きだという神話があるが、それは嘘。国際調査によっても日本のサラリーマンは自社に対する忠誠心、愛情、仕事に対するコミットメントが脆弱でカスカスな状態であることが明らかにされている。

 

 

・21世紀は日本人全員が総起業家になってゆく時代だ。いや、世界人口70億人が全員起業家の時代だ。

 

 

藤野英人さん

・2002年から2012年の10年間を見ると、トピックスコア30銘柄のいわゆる大企業グループは平均して株価がたいして上昇していない。ところが、JASDACは43パーセント上昇、東証2部で67パーセント上昇のパフォーマンスだった。

・上場している中堅・小規模企業(1705社)は経常利益が2倍となり、株価も2倍になっている。こういう企業群をこまめに調べ選別して投資をすれば私みたいにうまくいく。

・トピックスコア30銘柄の大企業では30歳台の役員は一人もいない。高齢者によって経営陣が占拠されている。アマゾン、アップル、フェイスブック、グーグルなどでは社長が30代であたりまえ。

・大学生の就職人気は相変わらず、トピックスコア30銘柄を中心にした伝統的なつまりイノベーションが弱い企業群に集中している。

・田舎の両親も知っている企業だから根拠のない安心感があるだけだ。

・東大、早稲田、慶応などの優秀であるとされる学生がそういう企業にこぞって就職するが、内実は惨憺たるもの。社内は高齢化していて、役職も高齢者によって占拠されていて、高いポジションをゲットすることはできない。給与も上がらない。

・「半沢直樹」がウケているのは、実はそういう構造が背後にあり歪んだ病理みたいなもの。あんなストーリーがウケるのは日本だけ。会社がイヤなら、とっとと辞めて起業しろと言いたい。

・だからそういう企業にムリして勤めると人生に疲れて、人生がつまならくなる。人生がつまらない人、疲れた人たちがたむろする企業からはイノベーションは起きませんよ。

・だから、若者達よ、大企業にもたれるのは止めて、心底、好きなことを探そう。好きなことを核にして起業しよう。好きなことをやれば幸せになれるし、成功確率もグンと上がるからだ。人生が面白くなる。

・そして、好きなことを、好きな人と、好きな場所でやる。昨今劇的に進んでいるIoT、AI、テレワーキング技術などの情報通信技術を上手に使えば、実現可能だ。

 

・とくに、東京以外の地方で独特のニッチを取り込んでいるマイルドヤンキー社長が経営している「地方豪族企業」がいい。そういう会社はコア事業をベースに慎重に、M&Aで地元中小企業を買収して業態を拡大してミニコングロマリットを創りつつある。

・とくにそういう会社は介護、福祉、医療分野にも積極的だ。

・リンダ・グラットンかなんかが、「100年人生」とかなんとか叫んでいて日本政府もあんな馬鹿者を呼んだのは皮肉といえば皮肉だ。

・江戸時代までは日本人の大半は食うために副業をやってましたよ。本来の日本人にとって副業はやってあたりまえ。原点に回帰しよう。

           ***

大変知的刺激に満ちたトークだった。

 

「エロティック・キャピタル」と「女子のチカラ」

カテゴリー : No book, no life.

 

職業がら女性とよくお会いする。いや、むしろ会わなければ仕事が進まないので、好むと好まざるを問わず会わなければいけないのだ。

授業、講演、セミナー、ワークショップ、各種プロジェクト・・・・。

10代の看護学生さんから、20~30代の主任さんや大学院生さん、40代の師長さん、50代以上の看護部長や病院の副院長さん。看護学系の大学教授ともなると、60歳以上の女性が圧倒的に多い。

このように日常的に50歳くらいの年齢レンジを回遊するように交流しながら、そこはなとなくも、つくづくと気がついていることがある。

それは、年齢というファクターを越えて、あるいは底通して、デキル女性は、強いし、その強さの源泉、そして強さのエクスプレッションつまり表現として「キレイ」なのだ。そして、近年、その傾向に拍車がかかっているように思えてならないのだ。

べつに化粧がうまいとか、持って生まれた造形が綺麗だのという表層的、断片的なことではない。そうではなく、多くのデキル女性においては、キレイがその人の奥底の動機、能力資質、そして目に見える行動といったレイヤーにまで一気通貫して強く息づいているのだ。

簡単にいえば、彼女たちは、キレイをチカラとして持っているし、キレイでいるチカラを持っているのだ。

では、キレイなチカラとはいったいなにか?

その問いに対して真正面からこたえた面白い説がある。

キャサリン・ハキムCatherine Hakim)という英国の社会学研究者によると、キレイなチカラとは、抽象化して言えばエロティック・キャピタル(erotic capital)となる。

彼女は、経済学者ゲリー・ベッカーが概念化したヒューマン・キャピタル(human capital)やジョン・デューイ、ロバートパットナムといった社会学者たちが彫琢してきたソーシャル・キャピタル(social capital)といった概念のむこうを張って、「美しさ、セックスアピール、着こなしのセンス、人を惹きつける魅力」などからなる「資本」をエロティック・キャピタル(erotic capital)と名づけている。

このエロティック・キャピタルなるものが、さまざまな社会や職場でのコミュニケーションを通してチカラを大きく左右するというのである。この本の副題には、ぎょうぎょうしくもエロティック・キャピタルが「ボードルーム(役員室)とベッドルームでの魅力の源泉」とまで書いてある。

ははあ。

ハキム女子もとい、女史は、①美しさ、②性的魅力、③社会的地位や役割の魅力、④活発さと元気・エネルギー、⑤表象的プレゼンテーション、⑥セクシュアリティの6つを挙げているのだが・・・。

 

エロティック・キャピタルにまで昇華されうるキレイとはいったいなんなのか?キレイを取り巻く日本のシーンはもうちょっとネジレているのではないか?そしてそればもっと複雑なのではないか?

この「女子のチカラ」という本は、そんな疑問の一端に答えてくれる。

とくに2章までが以上のような文脈に照らし合わせるとけっこう面白い。(ただし、そのような文脈をもたなければ単なる軽薄浅薄なサブカル系女子評論書物なのかも?)

・若くて美しい女優やモデルが美人としてもてはやされ、女性たちを美のお手本としてするのではなく、むしろ、そこから逸脱する要素を持っている人物が若い女性を含めたお手本となっている。(p89)

・美の魔女たちは、まさに美によって、眩惑し、闘い、変容する。我々は、自己努力によるトランスフォーメーションによって欠如を埋めようとする魔法に惹きつけられる。(p90)

ここで岡崎京子の「ヘルタースケルター」の主人公りりこのセリフが効いてくる。

・「そうよ わたしはわたしがつくったのよ あたしが選んで あたしがあたしになったのよ」(p92)

・素敵すぎる奥さんやきれいすぎるお母さんは、良妻賢母規範を軽やかに飛び越えて向こうの世界へ行ってしまう。(p98)

さて、エロティック・キャピタルは資本である以上、不断の投資によって活性化される。ところが積極的にケアしなければ加齢とともに減磨耗するという性格を持つ。

「キレイ」とは①減磨耗に抵抗するアーティフイシャルなインベストメント(人工的な投資)なものであると同時に、②美しさの常識や同調圧力が予定している規範や文脈から逸脱、越境、転換することによって強化される感覚なのだ。

たとえば、

・オネエ美人

・大人女子

・実年齢から想起される印象とハッとするような隔絶があるいわゆる「美魔女」

・トランスセクシュアリティ系の人々。。。

既存のキレイ文脈から逸脱、越境、転換したズレのノリシロが美しさ、キレイを生むのだ。キレイという価値は文脈依存的だ。その文脈を異質なものと結びつける、その境地においてキレイなことこそが、新しいキレイを生むのだ。

この新しいキレイをトランスレーショナル・エロティシズム(超文脈的、逸脱、越境のエロさ)と命名して(笑)、このようなキレイを体現している人々を探し、出会ったりすることは密やか愉しみでもある。。

たしかに、仕事ができる女性は、標準的なパフォーマンスに甘んじるアベレージ・パフォーマのレベルを超越している。彼女たちは、その超越したズレの部分を巧みに「キレイ」として表象するし、周囲はそのように諒解もする、と理解すれば合点がゆく。

女性観察は愉しくもあり、また奥深いものだ。

 

地域のケアリング・ハブを目指す愛媛大学医学部付属病院

カテゴリー : ケア

<副病院長・看護部長の田淵さんらとともに>

このところ年に数回脚を運んで、講演、コンサルティング、コンピテンシー、職務満足調査などの共同研究プロジェクトなどのソリューションを分かち合っている愛媛大学医学部付属病院

写真は前回お邪魔した時のもの。いわゆる院内レストランだが、そのメニューの充実ぶり、質の高さに感動した。本格的な釜めしを供するまでに進化している。食材としてのメニューの質の高さもさることながら、レストランのホスピタリティ、「おもてなし」度合いも、さすがに高い。

医薬、医療機器、診断方法、治療方法など、医学・医療に関わる多様なテクノロジーが複雑に集積する大学病院は、まぎれもなく地方診療圏の拠点病院だ。その意味で、大学病院のマネジメントは医療技術マネジメントとほぼ同義。ただし、技術を活用、利用、応用するのは人なので、ヒト階層のマネジメントがきわめて大事になってくる。

医療・保健・看護・福祉サービスの後方システム、サービス・サポートシステム、サービス・マネジメント・システムづくり、サービス改善など、いわゆる「ことつくり」系のお手伝いをしている。

 

<田渕さん発案のうちわ>

医療界では、臨床の医療チームと患者が直接価値を共創する医療サービスそのもの核心部分=core layer、それらをとりまく各種マネジメントサービスの第2次階層(secondary layer)、そしてさらには患者・家族・関係者のためのホスピタリティサービス=第3次階層(tertiary layer)に分ける医療サービス・モデルがよく用いられる。

この区分けに従えば、たしかに院内レストランやちょっとした「うちわ」などはtertiary layerの第3次的サービスではある。第3次的サービスの質の高さは、1~2次サービスにある程度比例するのではないか?!

気持ちの余裕、品格、そこはなとない気遣い、いたわりの気持ち、おもてなしのセンス、・・・・。

そういったものが組織風土やケアリング文化などを醸成してゆくのだから、第3次的サービスとひとくくりにするのは、ずいぶん近視眼的すぎるのかもしれない。

 

入門から応用へ 行動科学の展開―人的資源の活用

カテゴリー : No book, no life.

以前アマゾンに書いておいた書評をコピペ。

<以下貼り付け>

この本のスタンスは人的資源の管理ではなく活用。日本では”One Minute Manager”などで有名だが、この本ははるかに学術的でかつ網羅的。

ブランチャード先生はコーネル大学で熱弁をふるっていた。留学しているときは、リーディング・アサインメントとして英語バージョンをわずか1週間で読まされ悶絶したことも懐かしい思い出だ。こうして日本語で読めるのは幸せだと思う。

人的資源は行動を通して成果が生み出されるわけなので、表題のように「人的資源の活用」となっている。

最新の日本語版は、さらに充実。マズロー、マグレガー、アージリス、マクレランド、シャインなど、基本セオリーやモデルをキチンと説明。全体を通読することによって、行動科学の資源からHuman Resources Managementを俯瞰できるようになっている。

最後の方のSituational Leadership(SL理論)の増補版にはさすがに力が入っている。本書の核心部分であり、SL理論が拡張されて他の理論との融合が図られているのは、今だに、この理論が実務の世界で根強い支持を得ている証だと思われる。

ここまでを筆者らに求めるのは酷かもしれないが、行動科学に隣接する認知科学や脳科学の側面からHRMに対する洞察があれば、なお増補版としての価値が増しただろう。その意味で★がひとつ欠ける。ただし、人的資源管理論の入門書、副読本としては完成度が高いのには変わりはない。

<以上貼り付け>

 

日刊工業新聞の連載コラム、「異見卓見」第4話

カテゴリー : アントレプレナーシップ

日刊工業新聞の連載コラム、「異見卓見」第4話を寄稿しました。

『出る杭に起業パワー: 創造的奇人変人のすすめ』です。

第18講:日本的経営あるいはジェームズ・アベグレン博士との対話

カテゴリー : アメリカ

 日本的経営が揺らいでいる。半世紀にもわたり日本的経営について観察、助言、論評してきたジェームズ・アベグレン氏との邂逅(かいこう)を下敷きにして、日本的経営にかかわる問題を考えてみたい。日本的経営を支えてきた人事制度とその運用に焦点を絞り込む。

 

 異邦人の観察眼は、しばしば当地で生まれ育った人間では気がつかないような本質を射抜くことがある。特に社会的現象については、社会に暗黙裡に飲み込ま れずに、相対化して分析することができるからだ。その意味で日本の経営事象を「日本的経営」としていち早く分析・記述して、世界へ伝達したジェームズ・ア ベグレン博士の功績は大きい。

 ウィキペディアによると、『ジェームズ・アベグレン(James C. Abegglen、1926年 – 2007年5月2日)は、アメリカの経営学者、経済学者。日本企業の経営手法を「日本的経営」として分析し、戦後の日本の企業の発展の源泉が、「終身雇 用」「年功序列」「企業内組合」にあることをつきとめた。また、「終身雇用」という言葉の生みの親として知られる』と紹介されている。

 だが実は、アベグレンは自ら進んで「終身雇用」(Life-time employment)という用語を用いていたわけではなく、「終身の関係」(Life-time commitment)という用語を使っていたことはあまり知られていない。終身において雇用が誰にでも適用される(つまり誰も失業しない)という「終身 雇用」の制度は存在し得ないが、通俗説として一人歩きしてしまったのだ。

 アベグレンの「終身の関係」(Life-time commitment)というとらえ方は、複雑な社会的現象を説明するための概念であり、社会科学で用いられる理念型(イディアルタイプ)のようなものだ。

 また上記では「アメリカの経営学者」としているが、博士は1997年に日本国籍を取得しているので、正確には「アメリカ生まれでその後日本人となった経営学者」とでも書くべきだろう。なぜ、細部にこだわるのかといえば、生前の博士と筆者は交流があったからだ。

 アベグレンの日本企業研究は、日本的経営の究極的特徴を労使関係、あるいは人的資源管理にあると見立てた経営学者の占部都美(うらべ くによし)によっても注目され、その後の日本人による日本人のための「日本的経営」研究とその実践に先鞭をつけることになった。アベグレンなかりせば、世 界的文脈での「日本的経営」は無きにも等しかったのである。

 

日本的経営は欧米の経営に収斂するのか

 日本的経営論には2つの大きく異なった立場がある。収斂(しゅうれん)説と非収斂説である。収斂説に立てば、工業化と都市化が進むことによって日本社会 も欧米的な社会のパターンに収斂していき、日本的経営はその特殊性を次第に失って欧米的な経営管理制度に変化していくとする。その一方で非収斂説は、工業 化によって同じ近代的な生産技術が導入されても、それは必ずしもその国の伝統的な社会や文化を変革するものではなく、その国の社会や文化に適合した独自の 経営管理制度を生み出すものであり、それらが有効に働くとする立場である(占部 1978)。

 アベグレンは非収斂説の立場で一貫している。「いかなる社会においても、経営組織が効果的であるためには、(その社会の根底にある価値基準や人間関係の パターンと)整合しなければならないということは自明の理である」として、以来、2004年に出版した「新・日本の経営」の中でもこの立場は一貫してブレ がない。

 「社会の根底にある価値基準や人間関係のパターン」については、この連載でも歴史や宗教について書き連ねてきたように、明らかに欧米と日本の間には相違がある。その違いを腹に落とさなければ、日本的経営の奥底を諜知することはできないだろう。

 第15講:どうした?勤勉の倫理と日本的資本主義の精神までの連載でも描写したように、日本社会の根底にある価値基準は、神と人間が循環する多神、多層、多元的なメンタリティーとして、雑多な宗教が折り重なるように習合してできた、特殊な心象基盤の上に作られていった。

 そこでは、「みんな一緒にがんばる」「みんなで分けあう」「世間さまに恥ずかしくないようにする」といった人間関係のパターンとともに、「お天道様が見 ている」「働くことは当たり前」「ご先祖さまのおかげ」「神様、仏様を畏れ敬う」「足るを知る」といった価値基準が暗黙的に共有されてきた。人格的一神教 の影響が微弱だった日本では、人間の上に神はいないし、人間の下に奴隷もいない。ましてや神と人間との契約もない。どこまでも人間が中心にいる人間関係の パターンなのだ。

 日本的経営のあり方は、このような日本社会の根底にある価値基準や人間関係のパターンに多くを負っている。と同時に、それらの価値基準や人間関係のパターンを維持する社会的な装置が日本的経営をいただく日本企業でもある。

 アベグレンの言説を借りれば、日本企業と従業員の関係は、このような価値基準や人間関係パターンを包含する「社会契約」を基礎として出来上がっている。 そして、これが日本的経営の骨格をも作り上げた。ゆえに日本企業は、特定の成果を生み出すことを至上目的とする機能体ではない。自らの存続を目的とし、組 織構成員の価値基準や人間関係パターンを維持するための共同体、という性格が色濃い。

 アベグレンも指摘するように、欧米、特にアングロサクソン系の研究者や経営実務家は世界各国の制度が「収斂」すると論じることが多い。日本では「収斂」というと各国の制度が中間領域のどこかに近づくようなイメージで語られることが多いが、これはナイーブな認識だ。

 そうではなく「収斂」というのは、正しく適切とされる「英米型の制度に近づくこと」を意味する。よって「各国の違いは解消されなければならず、日本の雇 用制度と経営手法が英米型に変化する、あるいは変化させられて近づくことによって解消されてゆくはずだ、そうあるべきだ」というのが「収斂論」である。い わゆる「グローバライゼーション」も「収斂論」の系譜に立った見方である。経営収斂説が欧米において支配的なことの背景には、絶対的な唯一神の教義を頂く 世俗世界の経営という現象さえも収斂させていこうという、ある種の脅迫的な観念を見過ごすわけにはいかないだろう。

 余談だが、現実の世界には頑迷強固な価値判断としての「収斂論」も存在する。新会社法、改正独禁法、郵政民営化法などの「改革」を「要望」した『年次改革要望書』も、その根底には操作主義的な「収斂論」が息づいていることを知るべきである。

 

共同体としての「カイシャ」

 さて価値基準や人間関係のパターンは、人事制度とその運用によって顕著に現われる。すなわち、とかく抽象論に終始しやすい日本的経営論を現場目線で議論をするためには、人事制度の変化を見る必要がある。

 「終身の関係」を労使で共有する人事制度は、あくまで正規従業員が中心である。正規雇用者数は、1997年をピークに減少している。そのため、雇用者全 体に占める非正規雇用者(パート、アルバイト、契約社員、派遣社員など、期間を定めた短期契約で雇われる職員)の比率は1995年以降高まり、非正規化の 急激な進展という結果をもたらした。非正規雇用者数は1995年に1000万人を超え、2006年には1707万人となり、「役員を除く雇用者」の中で 33%を占めている。

 私見によると、戦後の日本企業の人事制度は下の図のようにおおむね20年サイクルで大きな変化を遂げてきている。筆者はこれを「人事制度20年周期変化説」と呼んでいる。

人事制度20年周期変化説
図●人事制度20年周期変化説

 

 日本的経営を支えてきた日本的人事制度は過去に、年功主義、職能主義、成果主義(meritocracy)と変遷してきている。この変化を追跡することによって日本的経営の変化をとらえることができる。

 ちなみに2010年代には4つの「?」マークを入れてある。「?」はいったいどうなるのか、という疑問を留めながら続きを読んでいただきたい。

 

生活保障:1950年代からの20年

 この時代、米国のモノづくり技術を積極的に導入して、第二次世界大戦の敗戦の焦土から日本は復興しつつあった。新産業が勃興して企業は組織的な拡大にま い進した。機能体の衣をまといつつ国民の生活を保障する共同体として企業が登場したのだ。この時代の人事理念は「生活保障」に尽きた。

 役職が最も目に見えるステータスだった。拡大基調にある組織では、係長、課長、部長、役員というようにタテ方向に上がっていける機会は多く、単純な職階制度がとられた。「社員は仲間。善き仲間に厳密な評価は不要」と考えられ、暗黙的な人柄、人格、年功評価が中心だった。

 賃金も年功給がベースとなり、その上に役職給が乗るという構造が中心だった。ベースアップは、賃金表の書き換えと定期昇給によるものだった。イケイケドンドンの時代、人事制度は単純なものだった。

 「一社懸命」に働けば、役職も得ることができる。そして会社は社員という仲間の輪を拡大し、囲い込んでいった。独身寮、世帯寮にはじまり、厚生年金、失業保険など企業が負担する福利厚生や社会保障の提供が普及した。

 一方、農村共同体が崩壊し、企業に雇用される都市住民が急増していった。こうして企業は、機能体でありながらも代替的な共同体(Gemeinde)とし て発展していったのである。そこでは、善き仲間の一員でいること、その仲間から仲間とみなされることが、なにより重要なことだった。いわゆる同調圧力がう まく機能したのだ。

 この時代の人事制度の分析・記述は、日本の組織を相対化して観察することができる外国人の視点が中心だった。その代表格がアベグレンである。こうして 「終身の関係」(Life-time commitment)、年功賃金(Seniority-based wages)、定期雇用(Periodic hiring)、企業内訓練(In-company training)、企業内組合(Enterprise union)などの理念型が立てられた。

 

年功能力主義:1970年代からの20年

 1970年代からの20年間は、オイルショックなどを契機として拡大基調に陰りもあったが、この時代を通してモノづくり企業は躍進した。1980年以降 は、雇用者に占める非正規雇用者の比率が上昇を続けている。このような時代に正規雇用向けに登場してきたのが、「職能資格制度」である。

 職能資格制度は日本ならではのユニークな制度だ。職能資格制度とは、従業員の職務遂行能力(略して「職能」)の程度に応じて会社や会社グループの閉じた空間にのみ有効な「資格」を付与する制度である。

 1970年代を中心にして企業社会に流行し、一部上場企業のうち9割くらいが、この制度を運用しているといわれる。「年功的な人事を見直し、能力基準の 人材登用を可能にする」「役職にとらわれることなく、人の能力を基準にして処遇する」「人を重視する人本主義の具体的な制度への反映」などという言説が流 行ったものだ。

 一言でいえば、過去の主流すなわち職階・年功主義に対するアンチテーゼとして登場し、普及してきたのが職能資格制度だ。しかし運用を経て、年功運用的色彩が織り込まれ、年功資格制度になってしまった。その背景をまとめると、次のようになる。

 

  • 社内職能資格には標準滞留年数がある。能力が急進すれば職能資格も急上昇するはずだが、社内職能資格は急上昇しない。逆に能力が劣化しても、職能資格が落ちることはまずない。
  • 人事評価は、職務遂行能力に対して公正になされることが期待されたが、職場では明確な優劣をつけることがはばかられる。評価における中心化傾向(評価結果が評価スケールの中間付近に集中してしまう傾向)が顕著となった。
  • 職能資格の付与は年功的になる。そして職能資格にリンクしている職能給は、結果として年功給になっていった。

 こうして役職によるモチベーションはかなわなくとも、職能資格の付与とモチベーション維持策が行われるようになったのだ。長期安定雇用を前提にした共同体の仲間感覚の維持は、まだまだこの時代の大きなテーマだった。

 この時代には職能資格制度の理論家として楠田丘や弥富拓海、弥富賢之などの活躍をみる。また経営学の領域で日本的人事が研究対象とされるようになった。 以上の第1期(1950年代~)、第2期(1970年代~)を通して、日本的に特殊な制度が普及したこともあり、日本的経営の「非収斂説」が幅を利かせ た。

 

成果主義:1990年代からの20年

 1990年代からのグローバライゼーションが昂進した時代、それまでの共同体としての企業組織に「成果主義」すなわち機能体の原理が持ち込まれるようになった。その背後にあるのは新古典派経済学であり、それらによって理論武装した市場主義だった。

 企業を成り立たせるシステムとして人事制度は反応性が鈍く、変化するのは遅い。しかしながら、この時代は収斂圧力が強く顕れ、多くの企業が人事制度の改 革に着手している。外需依存型のグローバル企業はおおむね海外人事を成果主義に対応させ、その流れを日本に持ち込み、本丸の人事制度を「成果主義」的に変 更するような手法をとった。

 この時代には、バブル期(1986~1991年)に抱え込んだ「設備、債務、雇用」という3つの過剰を解消するリストラが一般的になった。先に述べたよ うに、正規雇用者数は1997年をピークに減少している。雇用者全体に占める非正規雇用者の比率は1995年以降さらに高まり、非正規化の急激な進展とい う結果をもたらした。

 非正規雇用者数は1995年に1000万人を超え、2006年には1707万人となり、「役員を除く雇用者」の中で33%を占めている。ちなみに女性の 場合は53%である。これらの非正規雇用者は多くの場合、外縁から日本的経営を支えながらも、日本的経営がもたらす直接的なメリットからは疎外されるとい うアンビバレントな位置にいる。

 グローバル経済とのインタフェースが大きな企業ほど、必然的に成果主義の要素を人事制度にも取り込むことになっていった。第1期、第2期は共同体の原理 が中心だったが、この時代の中心概念は機能体の原理だったためである。こうして、日本的経営は異質な非日本的要素と初めて向き合い、対峙することになった のだ。

 そもそも成果を計量的に測定するためには、「職務(Job)」の内容が確定している必要がある。だが、共同体でありつづけた日本の組織に、職務という概 念はなかった。はじめに人ありきで、仕事は人のまわりに融通無碍に形成される。職務は、非属人的・先験的に日本の組織には存在し得ない。

 だから、仲間を思いやりながら人間中心に仕事を進める人々にとって、欧米企業のように「職務記述書(Job Description)」を書くということは、実は異文化経験だったのだ。余談だが、こんな話がある。

 「日本人もアメリカ人も、失業以外のことで仕事の不安を感じることがある。日本人は職務記述書を書くときに、アメリカ人は職務記述書がないときに」。

 

機能体への体質転換剤としての成果主義

 米国では、機能組織としての企業経営、人事制度運営の蓄積がある。よって1980年代以降、米国発のHuman Resources Management(HRM)系のコンサルティング会社が日本でもクライアントを持ち始める。職務分析(Job Analysis)、職務評価(Job Evaluation)、目標管理(Management by Objectives)、成果主義賃金(Pay for Performance)といった手法が本格的に和風にアレンジされ、日本の大企業を中心として移植された。当初は在日欧米企業を中心として、そして前述 したような経緯で日経連(日本経済団体連合会)の所属企業までもが顧客リストに載り始めたのである。

 日本企業が軽視してきた「職務」という機能体の価値観を組織に移植し、もって、職務等級、成果評価、成果立脚型賃金をシステムとして日本企業に埋め込む作業は、要するに、共同体に機能体原理を持ち込む試みである。

 アベグレンはさほど厳しく糾弾しなかったが、共同体には良い面と共に弊害をもたらす面があることも事実だ。共同体の内と外に別々の規範を当てはめる二重 規範(ダブルスタンダード)は、度重なる不祥事やそれらのもみ消し事件の温床となった。なまぬるい仲間主義が馴れ合いを呼び、ホワイトカラーの生産性が低 い一因とも指弾された。また、共同体体質では過去の慣習や因習を否定する自己改革ができないとの批判も根強かった。

 よって、「大胆な戦略実行力が共同体的企業組織にはないのではないか」とトップが判断する企業は、こぞって成果主義という異質を注入したのだ。

 

成果主義の蹉跌

 日経ビジネス(2009年5月11日号)の特集「成果主義の逆襲」には、成果主義に関する次のようなアンケート結果が掲載されていた。

 

  • 「勤務先が成果主義型の制度を取っている」と答えた944人を対象に、勤務先の成果主義の成否を聞いたところ、「失敗だった」とする回答は68.5%に達し、「成功だった」という回答(31.0%)を大きく上回った。
  • 「成果主義に基づく自身の評価に満足しているかどうか」については、「不満である」が43.3%、「満足している」が16.2%。
  • 「職場に何らかの弊害が発生したかどうか」については、「発生した」が65.7%に達した。
  • 「失敗の要因は制度と運用のどちらにあると思いますか」という問いには、「制度そのものより運用上の問題が大きい」とする回答が66.0%、「制度そのものの問題が大きい」は32.5%だった。

 このようなネガティブな反応の本質は、共同体原理が発する「機能体原理への拒絶反応」から生まれている。異質に対する共同体の免疫反応がことさら強かったのは自明の理である。

 成果主義は、株主利益を合理的に追求する圧力を経営者にかけつつ、企業価値を上げることには貢献したのかもしれない。だが会社共同体の内部に向かって は、価値基準や人間関係のパターンの希釈化、希薄化を招き、外部に向かっては、人件費の変動費化の名のもとに非正規雇用者を大量に生みだしたのだ。

 

人本主義という普遍的非収斂説

 しかしながら1990年代の日本的経営論では、大胆な言説の展開がみられた。バブル崩壊までの短期間ながらも経済的に空前の繁栄をみた背景には、日本が相対的に非階層化され、民主化された企業社会を創り出したとする「人本主義」という言説である(伊丹 1993)。

 アベグレンの著書の熱心な読者であった経営学者の伊丹敬之は、資本主義に対照させて「人本主義」という独自の用語を用いて、日本企業の平均的な特徴を三 つのキーワードで説明する。それは、企業の概念で言えば「従業員主権」、組織内分配の概念という点では「分散シェアリング(分配)」、市場取引の概念では 「組織的市場」だ(伊丹 2009)。

 日本経済がバブルの崩壊で低迷してきたこの時代は、アメリカ経済が逆に好調だった。アメリカ型のカネの論理を中心とするヨコモジ経営手法が圧倒的な脚光を浴びていた時代に、伊丹は大胆不敵にも資本主義と対置するかたちで「人本主義」を主張したのだ。

 伊丹は、資本主義は「カネを経済活動のもっとも重要な資源と考え、その資源(カネ)の提供者のネットワークをどのように作るかを中心原理として企業シス テムが作られるもの」とする。それに対置される「人本主義」は、「ヒトが経済活動のもっとも重要な資源であることを強調し、その資源の提供者たちのネット ワーク、つまり人材を提供し、取引をしている人々のネットワークを安定的につくり、それを維持・発展させることこそ大切、と考える原理」であるという(伊 丹 2009)。

 明らかに非収斂説に立っているが、「日本の特殊性を示す言葉」では語らずに、「人本主義」の経済合理性には普遍性があるとした。すなわち、人本主義=普遍的非収斂説の登場である。

 

日本的経営の次は、共同体原理の発展的復活

 企業と従業員によるギブ&テイクの「場」としての職務(Job)を確定し、目標管理でさらに精緻化し、目標の達成度に見合った職務給を支給する、という 成果主義の方向性は、共同体原理と鋭く対立し、被雇用者側に不満をもたらした。第1期、第2期の郷愁と決別できていない正規社員、管理職、役員にとって、 この不満は深く、暗く、そして大きなものだ。

 アベグレンは、筆者との対話でも非収斂説を明快に展開し、アメリカ的な機能体原理を過剰に移植することや、グローバリズムという名のアメリカ中心収斂説 に警鐘を鳴らし続けた。「日本社会の根底にある価値基準や人間関係のパターンを大事にしないと、コミュニティとしての日本企業は崩壊するぞ」と。

 さらに、アベグレンはこう言うのだ。真に業績のいい日本企業は、一見前時代的で、古く、日本的な価値観を組織の奥底に温め、共有し、次世代に継承してきているのだと。

 資本主義のあり方が大きく問われている昨今だ。その中でも日本資本主義の行き方が問われている。日本的経営なくして日本企業はない。また、日本企業なく して日本資本主義もない。日本的資本主義の明日を占うためには、日本企業、なかんずく日本の企業社会の根底にある価値基準や人間関係のパターンを映し出 す、人事制度とその運用を注視しなければなるまい。

 日本的経営にとって、2010年代の4つの「?」は大きく重い。技術立国・日本の方向模索期と重なる時代に、日本的経営に次なる発展があるとすれば、グ ローバル化に即妙に対応しながらも、絆、縁、信頼、触れ合い、分かち合い、といった共同体原理の発展的復活にある。機能体・共同体の異種原理混合によるハ イブリッド化の時代を通過しなければ、日本的経営の新たな地平線は見えないだろう。

 

    【参考文献など】

  • ジェームス・アベグレン、占部都美監訳「日本の経営」、ダイヤモンド社、1958
  • ジェームス・アベグレン、山岡洋一訳「新・日本の経営」、日本経済新聞社、2004
  • 占部都美、「日本的経営論批判」、国民経済雑誌138巻4号
  • 平成20年版「労働経済の分析」(労働経済白書)
  • 伊丹 敬之、「人本主義企業―変わる経営変わらぬ原理」、筑摩書房、1993
  • 伊丹 敬之、「日本企業の人本主義システム」、平成21年宮中講書始の儀におけるご進講

 

引用:諜報謀略講座 ~経営に活かすインテリジェンス~ –第18講:日本的経営あるいはジェームズ・アベグレン博士との対話 :ITpro