次期ツーリング自転車、納車!

カテゴリー : システム思考

せっせと研究し、研究成果を書物として出版し、そして得た印税を原資として(汗)、700cツーリング自転車を赤羽のサイクルショップ玄の吉澤玄三さんにオーダー。

自由に書いては走る、自由に走っては書くという生活にあって、自転車は「自由」を得るための手段でもある。たしかに自転車は、単なる旅の道具にしかすぎない。

でも、そこには抽象的な「自由」を実際に具現化する道具というプラクティカルな意味がある。プラクティカルな道具として使いこなすためには、目的を明確に持つことが案外大事だ。

道具の目的:

①北海道などの山谷をタフに走破する。ただし舗装路が中心。<走行性能>

②キャンピングでテント、シュラフ、自炊道具、食糧など90リッター、30km以上の装備をストレスなく自転車本体に装着できる。<アウトドア生活性能>

③飛行機を含む他の交通手段を利用して機動的に移動できる。<輪行性能>

 

北海道などへの輪行が多いのでフォーク抜きができるように、ブレーキワイヤーは上出し。過去、ブレーキレバーとシフターが一体化されたメカも使ってきたが、今回は、コンパクトに輪行するためには、フォーク抜きを選択。

設計思想:

以上の目的から<走行性能>、<アウトドア生活性能>、<輪行性能>といった要件が明確になる。

これらの要件を達成するためには合理的な設計思想が必要だ。自転車づくりには厳然とした目的合理性が求められる。これをはずすと、やれビンテージだの、時代考証だとか、ある種の魔界に迷い込むこととなる。

異界、魔界はツーリングや旅そのもので求めるべし。道具にはそのようなものは求めない。

さて、上記目的①走行性能、②アウトドア生活性能、③他の交通手段を用いた移動つまり輪行との整合性を合理的に具現化する。

デザイン思想:

ファンクショナリティを追求するため、ツーリング自転車パーツのイノベーションの成果を最大限取り込みながらも、ランドナーのテーストも随所に盛り込む。

機能性と趣味性といった異質なエレメントを結びつけることにランドナーの難しさがあり、でも面白さが隠れている。

アルプスのクライマー赤、700cランドナー黄色、そして今回は青なので三原色が揃った。いや、サムライブルー。(2018ワールドカップ日本ベスト16記念でもある)

スプロケット(フリーホイール) 12-26 8s
リム パピオン 32H
Fハブ グランボア ラージ 32H
Rハブ グランボア ラージ 130 32H シマノ
スポーク DT チャンピオン 1.8 @65×64本 
タイヤ グランボア シプレ 700c
チューブ ヴィットリア
リムフラップ DEDAパニアラックにオーストリッチ特大パニアバッグを取り付けるため。

後方からは本所の亀甲の泥除けが映える。700cホイールにはのっぺりしたマッドガードを選択する向きが一般的か。

マッドガード H31CN 亀甲。マッドガードステー 本所
ダルマネジ グランボア ステンレスx6+輪行用x2

でも、亀甲模様のクオリアがツーリング自転車のテーストを引き立てる。まあ、走行性能とはあまり関係ない趣味の世界なのであるが。。

シートテールライト KIREI USB LM-016 。北海道のトンネルは長く暗い。後方に対する存在を明確に伝えるために、今回はシートテールライト KIREI USB LM-016を装備することに。さらに、キムラのアルミ削り出し小型のリフレクター をリア泥除けに装着。若干の趣味性もある。

TAシクロツーリスト47-36-26のトリプル。アルプスパスハンターでは、フロントはダブルのみ。前は2枚でも、十分にワイドかつシームレスななギア比の選択ができる。

北海道の主要峠はどんどん舗装化が進んでいる。でも、訓子府からチミケップ湖へ繋がる道道494号線(訓子府津別線)のオロムシ林道、オロムシ越林道などはいまだに未舗装のダート。数年前、これらの林道をキャンピング装備で走ったときはフロント3段が重宝したのだ。

こんな走りをするので、今回もフロントは3段として、フロントの26Tとリアスプロケットの26Tでなんと1:1を隠しギア比として持つことにした。

フロント変速機はマイクロシフト R539。リア変速機 はマイクロシフト R47。

クランク ストロングライト49D 170mm。チェーンリング ミドル イン TA 36×26 5500 、5000。ペダルは1970年代もののカンパレコード鉄プレート。これら脚まわりのパーツは過去ためてきた在庫からチョイス。

浅麓堂の中堀氏は、常々「パーツから自転車が生える」という独特の表現をするが、いつかはクランク ストロングライト49DとTAチェンリングとカンパレコードペダルを荘厳したツーリング自転車に乗りたいと思っていたので49Dから自転車本体が派生したとも言えなくもない。

ボトムブラケット シマノ BB-UN55 。チェーン シマノ HG71。スプロケット(フリーホイール) 12-26 8s。

スポーク DT チャンピオン 1.8 @65×64本。タイヤ グランボア シプレ 。

ブレーキ本体 シュエット 2632 モダン

シートテールライト KIREI USB LM-016

ハンドルステム トーエイ 70mm ベルは右側。

ハンドルバー 日東 #135ランドナー 420mm

近年の東叡社ではステムキャップの刻印は受け付けてくれないそうなのだが、そこは多少の無理を言わせてもらって、ネーム打刻印。べつに機能性は関係がない部分で、趣味に属する部分。

書物に著者の名を明示するように、自転車にもサイクリストの名を刻む。チンカンベルよりも、とっさのときは、大声で叫ぶのが利く。

シートチューブの裏側のスペースを有効活用し、ぎりぎりの空間<隙>を活用。ななめ左にずらしながらも、このわずかなスペースにポンプを収納する。おそらくは日本に数台もない処理のしかただと思われる。

脚に絡むことなく、BBから上、シートチューブの左後ろの隙にちゃんと収まる。

「隙」を上手に使うのが「数寄」だろう。数寄者は数寄モノを好む?

チューブ ヴィットリア @800×2。細かなところで、リムフラップは DEDAをチョイス。

玄さんシールが可愛らしい。

 

 

サドル BROOKS チームプロ。皮サドルは乗り込むと同時になじんでオンリーワンサドルに時の経過とともに変身してゆく。

自動代替テキストはありません。

ブルックスのカンビウムC17もぼちぼち試してみたい。

玄さん、いろいろなわがままを聞いてもらって、ありがとうございました。一生懸命走って、このかけがえのないツーリング自転車に磨きを掛けます(笑)!

ホスピタリティXヘルスケアXデザイン思考融合の新たな地平線

カテゴリー : アメリカ

 
久しぶりにアメリカの東海岸に旅してきた。母校のコーネル大学で開かれたSymposium Hospitality, Healthcare, Design 2016に参加するためだ。
 
ああ、コーネルはいいなあ。return to my alma mater。豊饒な知に対するリスペクトと知的世界への探求心がキャンパス中に横溢している。尊厳、威厳、自由、探求、エンゲイジメント・・・そういったものが混然一体と、しかも統一さをもって顕現している。
 
Cornell Hospitality Health and Design Symposium 2016
 
この分野の研究成果:

”Systems’ Boundary and Fusion between Hospitality and Healthcare”

を一本発表して、あとはひたすら今書きつつある本の取材や社交。

共通の知人や旧知の友人との出会などのオンパレード。しかも、皆がこのシンポのテーマではいろいろな成果や社会的なアウトプットがある人たちばかりなので、めっぽうオモシロイのだ。

研究成果の発表もさることながら、今回の国際会議は今書きつつある本のネタ仕込みや取材といった点からも非常に重要なのだ。メモしてみる。
                                       
               ***
 
キュアからケアへシフトしてくると、サービスのありかたも、ホスピタリティが全面に出てくるようになる。
 
キュア文化というのは、治療すれば直ることが前提。キュアの価値とは、治って元通りに動ける、食べることができる、生活できる、働けるということだ。だから投薬、注射、手術などの介入行為が正当化される。
 
また、治療して治ることが前提ゆえに、苦痛、不快感、いごごちの悪さ、不便、不都合は、がまんすべきものである。
 
高齢者の慢性疾患や合併症に対する介入はもはやキュアだけでは有効ではない。なぜなら、多くの高齢者の慢性疾患や合併症は完治させること、直すことはできない。
 
むしろ、人生の最終局面を支えることが目的になる。キュアではとかく後方に「がまんすべきもの」として押しやられてきた、 苦痛、不快感、不満、不安、いごごちの悪さ、不便、といったものをケアすることが重要になってくるのである。
 
ここにおいて格差が影を落とす。富裕層は、 苦痛、不快感、不満、不安、いごごちの悪さ、不便を解消するためにあらゆる手段、そして財力を投入することになる。
 
そのため、 苦痛、不快感、不満、不安、いごごちの悪さ、不便を解消するための営利動機に根差したイノベーションが盛んに巻き起こることとなる。
 
しかし、富裕層もいれば貧困層もいる。貧困層は富裕層に比べて苦痛、不快感、不満、不安、いごごちの悪さ、不便を解消する機会にはさほど恵まれない。超高齢化と財源枯渇によって、このような把握しづらい価値に対する公共サービスは後手後手になる。公共サービスによって実現されない空白を埋めるNPO、NGO、社会起業家による、非営利的な動機による、ホスピタリティ・サービスイノベーションに対する期待が大きくなる分野である。
 
以上を要するに、高齢者化現象とともにケアシフトが進むにつれ、 苦痛、不快感、不満、不安、いごごちの悪さ、不便を解消するためのサービス分野のイノベーションが亢進してゆく。
 
富裕層に対しては、利潤動機に基づいた ホスピタリティ・イノベーションが影響力を持ち、中間層、貧困層に対しては、 非営利的な動機による、ホスピタリティ・サービスイノベーションが影響を及ぼすことになろう。
 

看護サービスX情報学Xシステム思考

カテゴリー : イノベーション

Nursing Informatics at Kwantlen Polytechnic University

このところ、医療機関の現場や各地の看護協会での講演活動を通して看護と情報学(インフォーマティクス)、システム思考がますます接近していることを実感している。とくに倉敷中央病院で2日間カンヅメになって看護を含む多職種のチーム医療トレーニングをさらせていただいた時に強く感じた。

そもそも医療チームの中の看護業務は、患者の臨床情報のみならず、家族、社会における役割、死生観など非常に広範な情報(定量・定性ともに)を取り込むことによって成立している。「成立」というのは、以下のような一連のフローがアウトカムに集束して初めて成り立つということだ。とくに、近年アウトカム志向の看護サービスが強調されているが、情報の活用とは、成果にむすびついてナンボの世界だ。

さて、ここで注意したいのが、①データ→(意味づけ)→②情報→(編集・構造化)→③知識→(判断・行動)→④問題解決→(具体的な介入)④成果(臨床的効果、患者満足効果などのアウトカム)、という流れだ。(詳しくは拙著「看護経営学」などに詳しい)

ダントツに仕事ができる人たちは、どのような仕事でもこの流れを個人的に確立している。また、組織としても、この流れが組織学習として確立されることになれば、一段と高いレベルの組織の知恵にもなる。

ところが、看護の現場はさながらデータの洪水だ。バイタルサイン、各種検査データ、医師からの指示データ、患者の容態の時系列変化、じょくそうリスクアセスメント・・・数え上げたら切りがない。さらには、専門看護師や認定看護師になってくると、それぞれの専門分野ごとで扱う情報がガラッと変わってくる。同じ医師や看護師であっても専門領域が異なってくると話が通じない、なんてこともよくあることだ。

笑うに笑えない。データや情報に振り回されてしまい、知識、問題解決、成果といったより価値の高いフェーズにまでつながらないのだ。

そして、現代看護ではエビデンスとしての「記録」や問題解決志向(Problem Oriented)の記録といった情報の編集・構造化も強く問われている。行ったこと、考えたことをツラツラ書き記すだけの牧歌的な所感程度の記録はもはや過去の遺物だ。もっとも近年は、看護行為そして看護行為を記述する言語体系を標準化してゆくという動きも顕著である。

日本でも北米看護協会が提唱したNursing Interventions Classificationの日本語バージョンを導入・唱導する動きもあるくらいだ。すべての介入行為は標準的な言語で表現できるのか、という問いについては批判の俎上にあがることもある。たとえば患者の内面・実存的な苦しみ、そしてそれに対する介入の標準化は到底ムリで、だからこそ、物語り=ナラティブに注目すべし、との批判には一理も二理もあるだろう。

いずれにせよ、生成された知識をいかに判断と行動の、手段として活用できるのか、が問われているのである。つまり、具体的な問題が解決され、システムを介して何がしかのアウトカムが成果としてもたらされる必要があるのだ。

それゆえに、看護と情報学とシステム思考は親和性が極めて強く、また近未来の看護は情報学やシステム思考なしではまったく成り立たなくなるだろう。

医療の世界では、ウェラブルな生体情報センシングデバイスや臨床ビックデータの活用などというイノベーションが巻き起こりつつある。これらのイノベーションには大いに期待したいのだが、そのようなイノベーションによってもたらされる情報は、また新たな洪水を巻き起こすことになるだろう。

このような動向に対応するためには、それなりに新しい武器あるいはスキルセットが必要だ。それをひとことで言うと、「看護サービスX情報学Xシステム思考」である。

日本ではほとんど知られていないようだが、アメリカではこの方向での看護教育・研究のイノベーションが著しい。その。データ→情報のイノベーションにより効果的に対応して、知識→問題解決→成果という後半の流れの主人公である人間サイドのスキルセットを高めて行くというものだ。

たとえば、

デューク大学看護学部ナーシングインフォーマティクス

バンダービルド大学看護学部ナーシングインフォーマティクス

 ペンシルベニア州立大学看護学部ナーシングインフォーマティスク

 いずれも、「看護サービスX情報学Xシステム思考」を前面に打ち出したカリキュラムで勝負している。

自然資本と有機農業

カテゴリー : アグリ・農的あれこれ

 Portland Farmers Market Bounty

 

「土と健康」という雑誌と東洋学園大学の古谷力先生のfacebookのエントリーを眺めていて、パッと面白いアイディアが浮かんできた。「自然資本」(natural capitalism)という考え方で有機農業を捉えてみるというアイディアだ(笑)。

さて、世界自然資本フォーラム(World Forum on Natural Capital)では「自然資本」を:

Natural Capital can be defined as the world’s stocks of natural assets which include geology, soil, air, water and all living things.

と定義している。

通常、会計学や新古典派経済学でいうcapitalには自然資本は含まれない。近代資本主義は、産業資本主義であり、MBAやMOTの枠組みでも資本(純資産)は下のようにとらえるのがまずは一般的だ。資本の限りない自己増殖の過程そのものが近代資本主義だ。

 

資本剰余金・利益剰余金

近代資本主義あるいは産業資本主義には未開の機会=フロンティアが必要だ。だから、資本増殖のプロセスで人間はいろいろと介入(略奪、搾取、破壊・・・)してきた。

土壌から石炭、石油、核燃料の原材料を採掘してエネルギーにする。製造業ではいろいろなマテリアルとして加工し付加価値をつける。製品を輸送する際のジェット機や車両のエンジンからは廃棄ガスが環境に放出される。牛やブタ、鶏などのエサには抗生物質が入れられそれが食物連鎖を通して人にも蓄積される。3.11以降、放射性物質が環境に大量にばら撒かれ、生態系はおろか人間活動システムにも甚大な影響を与えている。

しかし、世界的な低金利でもうあまり儲かりそうなフロンティアが目減りしている。実態経済ではなくサイバー化された金融空間に金融緩和で過剰につくられたマネーが集まり、そこでバブリーな投機が繰り返されている一方で、「格差」は拡がる一方だ。トリクルダウンなんて嘘八百。

さすがに、これじゃマズイということで、資本主義のあり方がずいぶん反省されたり批判されたりしてきている。大はトマ・ピケティの「21世紀の資本論」とか、小は「近代資本主義の次」など。

自然資本の考え方は、従来の経済学のアプローチやマルクスの資本論、新古典派経済学の枠組みをいったんヨコにおいて、根っこのことろから揺さぶりをかけるようなものだ。

自然資本でとらえる資本とは、水、土壌、大気、そして動物、植物が含まれる。

「自然資本」は、多様な生物(植物相、動物相)と、それらをはぐくむ水、土壌、大気など、地球の自然財産を要素だ。私たち人間の生活や活動システムは、自然資本に起因する生態系サービスの4類型(調整サービス、文化的サービス、基盤サービス、供給サービス)によって成り立ち、そこから計り知れないほどの豊かな恩恵を受けている。

ただし、その恩恵に世界が気づき始めたのは、けっこう新しいことで、世界銀行が主導して「WAVES(生態系サービスの経済的価値評価)プロジェクト」を、名古屋で開かれたCOP10を契機にローンチしたのが2010年だった。

 

従来型のMBAやMOTというアプローチでは産業資本主義によって立つので、環境略奪、搾取、破壊の側面は「負の外部性」ということになる。「負の外部性」ではなく、「内部」にキチンととりこんでマネジメントしてゆくためには、根っ子のところで、産業資本主義の考え方ではなく、自然資本主義の考え方への転換(translational change)が必要だ。

「より遠くへ、速く、効率的に、貪欲に己の利潤を求め、成長する」ということを近代資本主義の行動様式と見立てるなら、近代資本主義の次は「よりローカルに、ゆっくりと急がずに、意味を紡ぎ、他者の利益を満たしながら、自然に寄り添って、身の丈にあったスタイルで持続してゆく」というものになるのかもしれない。その基盤には自然資本のような構えが必要になってくるだろう。

 

さて、有機農業をエコシステムのサービスという視点でざっと見てみよう。

 

①有機農業の供給サービス

「提携」という形で消費者は生産者を支え、生産者は安心安全な有機野菜などを届けることによって消費者を支える。創ることと消費することが、一方通行ではなく、相互補完的に作用しあう。いってみればお互い様の関係性だ。昨今、アメリカや欧州の一部ではCommunity Assisted Agricultureが盛んになってきているというが、これは日本の「提携」という行き方に近いものだ。

土壌や栽培する野菜には化学肥料や農薬は使わない。有機堆肥を中心にしてやると、土壌内の微生物相が豊かになる。有機農園の生物多様性の度合いは慣行農法に比べ20~30パーセント高いという研究結果もあるくらいだ。

②有機農業の調整サービス

慣行農業から有機農業へ転換した場合、毒性のつよい農薬のネガティブなインパクトから土壌を改善することとなる。土壌の無毒化はもっと評価されるべきだろう。

③有機農業の文化的サービス

都市の住人・消費者が、有機農園を訪れ、いっしょに堆肥をつくったり、栽培したり、収穫する。美味しい有機野菜料理に舌鼓を打ちながら、文化を共有する。

体験農園というオペレーションにすれば、さらに文化的サービスとして農をトランスレート(変換)することができる。昨今はやりつつあるエコツーリズムなど、農に文化的サービスを求めるニーズは大きい。

④有機農業の基盤サービス

ほっておいても植物は光合成を行い、酸素を環境に提供してくれる。炭素循環農法を採用する有機農家ならば、炭素を上手に循環させる。ただし、ほっておくが「耕作放棄地」になってしまうと、土壌はどんどん酸化して、ブタクサやススキだけの荒地になってしまう。

有機農業が基盤サービスとして持続可能なものとするためには、人の手足による手入れ、介入が継続的に必要だ。

⑤有機農業の保全サービス

硝酸隊窒素の排出量が少ない有機農家は硝酸隊窒素の循環や沼などへの蓄積を減らすことに貢献している。また、有機農園を保持することじたいが、①~④のサービスの持続に繋がる。

Payments for Ecosystem Servicesという考え方で有機農業のエコノミーをとらえてみるのも面白いだろう。有機農家にとって、提携家庭への野菜セット提供が最も利益率が高いというのは、この世界ではよく知られている事実。提携家庭が Ecosystem Servicesのコストを一緒に負担して支払っている(co-payment)と考えれば納得できる。

おまけ:

アメリカのポートランドで学会に参加したとき、ポートランド州立大学のキャンパスでポートランドファーマーズマーケットが盛大に開かれすごく多くの人が集まっているのを見てビックリ仰天したことがある。日本のオーガニックファーマーズマーケットも今後急発展するかも。。

 

 

システミック・デザイン思考(Systemic Design Thinking)のススメ

カテゴリー : システム思考

Design ThinkingはSystems Thinking の派生ととらえてみると、シックリくる。システム思考のルネッサンス、あるいは新しい潮流がデザインの領域に起きているのである。そのビジブルな動きのひとつがStanford d. schooldだろう。

そのあたりの状況を言い現す表現として”Systemic Design Thinking”というのはどうだろうか。

これならば、いわゆる工業製品も、ヘルスサービス、ソフトウェア、政策、経営、技術、環境、プロジェクト、エネルギー供給体制、経験、感動、芸術、公共圏のイシューなど、対称はタンジブル、インタンジブルを問わず、射程に納めることができるだろう。

複雑な社会システムをデザインするためのアプローチとして、Systemic Design Principles for Complex Social Systemsという評価の高い論文もある。

システマティックとは、一般的にシステム的(体系的、部分と全体の調和・・・)といった含意で用いられるが、システミック(Systemic)とは「システマティックなこと」に加え、①制御とコミュニケーション、②動態的、③時間や時代とともに進化する、という3点の含意を持つ用語だ。

実際に、Systemic DesignEmerging contexts for systems perspectives in design~という国際会議(URLはこちら)が開かれるご時勢である。そこには次のような「問い」が並んでいる。

うーーーん、どれも本質的かつ深いのだ。

  • Promote a transition towards flourishing enterprises and sustainable prosperity?
  • Engage value conflicts between economic, social, and environmental paradigms?
  • Address systemic causes of escalating costs and complexity in the health, legal, taxation, financial, security, and other sectors?
  • Empower citizens to mobilize local responses to global problematics and democratically engage within their cities, municipalities, provinces, and states?
  • Shift government approaches to citizen engagement, policy design, and policy assurance?
  • Catalyze systemic changes and innovations in the relationships between architecture, the built environment, and the social and natural systems they interact with?
  • Reframe approaches to education and professional practice to exploit complexity?
  • Increase the resilience of social systems to cumulative effects and systemic risk by rethinking and redesigning them?
  • Accelerate learning and adaptation at organizational and societal scales?
  • Provoke transformation and innovation in today’s legacy social systems?
  • Advance a deeper and more critical theoretical foundation for designing at scale? 

複雑系適応システムズ(complex adaptive systems)

カテゴリー : No book, no life.

複雑系適応システムズ・・・

複雑性はそれを見る人の目のなかにある・・・と言われるように、システミックなモノゴトを見る時には「構え」が本質的に大事になってくる。

2011.3.11の3日前のことだ。東工大の木嶋先生に呼ばれて、THE FOURTH ANNUAL WORKSHOP AND OPEN SYMPOSIUM ON SERVICE SYSTEMS SCIENCEに参加させていただいた時に、Mary C. Edsonさんと知り合った。

聞けば、学部はCornell hotel admin.ご出身とのこと。彼女が、COMPLEX ADAPTIVE SYSTEMS についてピリッとした秀逸なペーパーを書いている。しばらくして想い出し、一読。う~ん!こういうまとめ方、あったんだ。

SUMMARY OF THE FOURTH ANNUAL WORKSHOP AND OPEN SYMPOSIUM
ON SERVICE SYSTEMS SCIENCE AT TOKYO INSTITUTE OF TECHNOLOGY
Kyoichi Kijima, Ph.D. and Mary C. Edson, Ph.D. Tokyo Institute of Technology, Department of Value and Decision Science, Tokyo, Japan

Mary C. Edson:GROUP DEVELOPMENT: A COMPLEX ADAPTIVE SYSTEMS PERSPECTIVE

Mary C. Edson:A COMPLEX ADAPTIVE SYSTEMS VIEW OF RESILIENCE IN A PROJECT TEAM

 

院内起業家だらけのワクワク府中病院

カテゴリー : アントレプレナーシップ

(2012/02/03 医療サービスマネジメント調査でインタビュー)

病院っていうのは、ワクワクするような所ではない。医療崩壊が喧伝される昨今、そこで働く医療スタッフも疲れ気味だ。でも、生長会府中病院のスタッフはとてもイキイキしている。それが一歩この病院に足を踏み入れた時の第一印象。

それもそのはず、5000万円もの大金をかけて、スタッフがツアーを組んでフロリダのDisney Landまで行って、カスタマーサービス、サービスシステム、サービスの進化のさせ方、コミュニケーションなどを実地に学んだそうだ。(いいなあ)

現場がエンパワーし、ワクワクしている。そのカギは、TQM(Total Quality Management活動)のシステムのかませ方だ。TQMが院内起業家(In hospital entrepreneur)の孵化器のようなハタラキをしている。そして、ワクワク人材が、ヤラサレ感覚なく成果を着実に出している。

<出所:府中病院資料>

この病院には、「サービスクリエーションプロジェクト」(Service Creation Project)なるものが動いており、人材→ソフト→職員部門、建物→ハード→環境部門、業務→プロセス→業務部門、顧客→アウトカム→顧客部門というように大きく分けて、教育チーム、表彰チーム、美化チーム、QC推進チームが活動している。2001年から開始し、2010年には112ものQCサークルが活発に蠢いている。

①抗ガン剤に関わる業務統一化、②産科外来のシステム変更(助産師のスキルアップ→医師と助産師の交互診察システム→助産師外来2診体制)③Drug information業務の標準化など、ボトムアップ、ミドルアップ、トップダウンの上下循環運動、せめぎ合い運動で成果を生んでいる。成果を出すために動いてみる→試行錯誤する→改善する→成果が出る→成果を計測しフィードバック→新たなテーマアップ、というサイクル。

<出所:府中病院資料>

カサカサに形骸化した目標カンリではなく、むしろ、サービス・アクション・リサーチサイクル(service action research cycle)が、5S、TQM、目標管理というツール系のプラットフォームの上で躍動している。

大半の医療機関では、5S、TQM、目標管理などに取り組みながらも、いわゆる「上からのお仕着せ」感覚、「ヤラサレ感覚」で動いているので、アクションリサーチのサイクルが回っていない。

もっとも、医療機関はサービス組織なので、バリューチェンはものつくり製造業のように長くはなく短い。なので、異なった職種間や部門間のダイナミックなネットワーク(dynamic networks of interactions)ができれば、カイゼンはそんなに難しくない。難しいのは、融通無碍なごちゃまぜネットワークを組成させることだ。

組成させるって書いてしまったが、実は、組成させるんじゃなく、自然に組成させる・・・つまり、自己組織性原理をいかにイキイキ発動させるのかがキーポイントだ。このようにして、府中病院は、既存のマネジメントツールをみんなで使いこんで、複雑対応的組織として進化している。

病院というサービス組織を複雑対応的組織に進化させてゆくためのヒントに充満している。

 

 

アメーバになった病院

カテゴリー : ケア

(2012/2/03医療サービスマネジメント調査のためインタビュー)

まさか、病院という建物がアメーバのように半透明になったわけではない。

松下記念病院は、京セラ式の「アメーバ経営」を独自に医療機関向けにカスタマイズした手法をフル活用することで、おおいに成果を上げている。山根哲郎病院長の柔軟なリーダーシップに負うところが多いと思う。

さて、失礼を承知で言えば、病院には多くの「伏魔殿」があるが、その一つが「看護部」という組織だ。「看護部」は、通常、直接サービスを発生させる部署ではなく、入院、外来、オペ室などが行っている直接的な看護サービスに対して、人事、総務、教育、システム支援、調整、目標管理、イノベーションへの対応支援などのサービス・オン・サービス(service on service)を行っているサービス管理のための部門だ。

その業務の本質は、病院経営全体へのサービスを行う管理部門(昔は事務部ということが多かった)と同型である。

山根病院長は、その本質に気づき、「看護部」を事務部門へ統合した。ただし、本質に気がついただけでは、ここまでの変革はできないだろう。大方の「看護部門」は、「事務部門に統合~~」と聞いた瞬間に拒否・拒絶反応を示すのは目に見えている。

スタッフの時間あたりの生産性の見える化がカギだ。

収入、経費、時間の3要素で時間当たりの付加価値を計測して、見える化すると、そのプロセスで、各スタッフや部門が、自律的に時間当たりの付加価値を高めるように、整理・整頓・清掃・清潔・躾などの改善活動に積極的に取り組むようになったという。

その結果、直接的に収益を生み出さない「看護部」の性格と問題が明らかになった。そして、多くの議論の末、「看護部門」は「事務部門」に統合された。

こう書いてしまうと簡単なようだが、その変革を可能にしたのは、精神論、使命感、ヤル気といった抽象的なものではない。ツールつまりメソドロジー(方法論)である。

マネジメント、経営には適切なツール(メソドロジー)が必要で、それによって得られたデータを共有することによって、やりとりのダイナミックなネットワーク(dynamic networks of interactions)、ひいては自律的な医療チームが自己組織的に生まれ、組織変革に結びついてゆくのである。松下記念病院の場合は、そのためのツール(メソドロジー)が京セラ式の「アメーバ経営」だ。

組織の基本=5Sという組織と仕事の基本となるカイゼン志向のワザ(メソドロジー)と、マネジメントを刷新していくイノベーション志向のワザ(メソドロジー)=京セラ式の「アメーバ経営」を融合させたという点で、大変参考になると思う。

換言すれば、ワザありとワザありの掛け算で、一本だ。日本のような複雑な医療環境を持つ先進国で、複雑適応的システム(complex adaptive system)へと変革してゆくためには、合わせ技が必要だ。

複雑適応的なメンタルモデルを持つリーダーが、自己組織性を着火させるようなモノゴトを、そっと組織のなかに仕込み入れ、いろんなエージェントを巻きこんで、組織変革をやらせてしまうという組織デザイン思考(organizational design thinking)が必要だ。

日本の医療機関で複雑適応的システム(complex adaptive system)を体現している組織を調べることは興味深い。

札幌から知床岬まで全行程人力移動の旅(4)~知床岬海岸線縦走2日目~禁断の岬

カテゴリー : システム思考

4:30、泥のように一晩寝て見ざめると、ほどなくして朝日がオホーツクの海に浮かび上がる。

8月の末とはいえ、さすがに朝夕の知床の海岸線は冷気が満ちている。

昨夜の満月といいい、今朝の朝日といい、好天に恵まれる至福に感謝だ。

食事を済ませ、朝一の作業にとりかかるため浜に上がってきた漁師の方々に挨拶を済ませ、朝の静かな海岸線を3人パーティーで歩いてしばらくすると、パーティーから5m位の至近距離からヒグマが突如、現れる。このような至近距離でヒグマと鉢合わせになることは希有なことだ。

<通称、赤毛のアン>

顔から上半身にかけて赤い毛に覆われている「赤毛のアン」

こうして静止画像でみるかぎり、なかなか愛らしい姿だが、現実に海岸を動き回り、こちらの様子を鋭い眼光で伺う時など、あたりに緊張感が張り詰める。

安全な距離を確保するまで、ゆっくり後退する。

そのような安全確保の所作の後、撮影したものが下のyoutube動画(桜井さん撮影)だ。

 

<赤毛のアン>

ヒグマに至近距離で遭遇した場合、最後の手段が、ヒグマ撃退用スプレーである。その安全ストッパーをいつでも解除できる体制を保ちつつ、ここはヒグマが、我々と狭い海岸で交錯し、後方へ移動するのを待つしかない。

そうこうするうちに、朝飯で腹いっぱいになったのか、「赤毛のアン」は岩陰で昼寝ならぬ朝寝を始めてしまったのだ。

ヒグマの行動にあわせて、やりすごすしかない我々もしばしの大休止を取る。

 さて、今回大変勉強になったことは嗅覚の活用だ。クマには、できたら、遭遇しないほうがよい。でも遭遇しそうな状況をいち早く察知する方法として嗅覚の活用があるのだ。

クマが近くにいる時、独特の濃度の濃い臭気を感じる。一言で言えば、むっとしたケモノ臭さ、生臭さを感じれば、クマが至近距離にいる、または、移動した「印」なのだ。まさに、クマは自分の縄張りに自分の匂い=印をマーキングする習性がある。その匂いをいち早く感じて状況に対処することは、知床サバイバルにおいて、重要なリスクマネジメントの技法なのである。

              ***

「多様性のみが多様性に打ち勝つことができる」(Ashby 1956)

これはsystems thinkingの一つの教えで、最小多様度の法則と呼ばれる。アウトドアに身を晒す人間は、さまざまな環境の中で、diversity(多様性)を体得して内部モデルしてゆく。それが、蓄積された経験、あるいは行動様式(ethos)というやつだ。

でもしょせん、人口的な環境からは程遠いgreat natureのなかでは、一人の人間、あるいはパーティが保有する適応能力の多様性は、自然の多様性に比べたら、ほんの芥子粒のように小さなものでしかない。

芥子粒のように瑣末なものであっても、はやり、経験を積んだ自然探索者ほど、その多様な経験から抽出した行動パターンの選択肢が豊富なのだ。それによって、危険を察知し、状況のなかでリスクを最小にする、あるいは、リスクを顕在化させないような行動をとりつつ、目的を達成するという行動が可能となる。

その選択肢の基礎に横たわるもののひとつが、実は感覚なんじゃないのか?

感覚とは、人間と自然とのインターフェイスを取り持つクリティカル極まりないはたらきなのだと思う。嗅覚~人口的な環境の中ではともすれば、さほど活用されない~はその基礎のひとつだ。

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 <女滝>

豊かなミネラル、栄養素を含んだ水が滝となって海岸線へ落ちる。

ペキンノ鼻、念仏岩など比較的難易度が高い場所は、やはり夏山の上級技術は欲しいところだ。

このあたりはわずかに奇人変人トレッカーの踏み跡はあるものの、いたるところにヒグマの糞が落ちている。つまり、ヒグマも人間も同じようなルートを使って山と海の間の僅かな空間を移動しているということになる。

これ、人間から見れば「けもの道」なんだが、実は、ヒグマから見れば、自分たちの領分にドカドカと侵入してくる人間という得体のしれない存在がつくった「ヒト道」なのかもしれない。

いずれにせよ、知床の奥まった土地に分け入る人間として、ヒグマに接近したり、遭遇したりすることは避けたいものだ。・・・しかし、やはりそこは知床。一頭のヒグマにも遭遇しなかったパーティーの落胆もよくわかるのだ。。

<念仏岩の高巻き>

「念仏を唱えながら越えるほどに、危険極まりない」と伝えられる念仏岩への高巻き。あたり一面、フキなどの植物に覆われていて踏み跡はほとんどない。

 <念仏岩を下降するYくん>

念仏岩にはザイルが残置されている。もちろん、残置ザイルは劣化が進んでいることが多く、safetyを保証するものではとうていあり得ない。

Yくんの背中の鹿の角はシャレコウベつきだ。4.5kgもの重量をザックにとりつけ、その後自転車にもとりつけ、東京の自宅にまで運んだ。ご苦労さまです。

(でも一生の宝物だよね)

 

<念仏岩を下降するYくん 動画>

しかしながら、残置ザイルの状況を入念に確認した結果、ここは、持参した9.5mmX30mのザイルを用いることなく、残置ザイルを用いて下降。

 <最後の難所、カブト岩上部からの風景>

12:00過ぎには、カブト岩にとりつき、ヤブ漕ぎをしながら、ピークをゲット。

平坦な知床岬が、もう、すぐそこに、見える!

感動もひとしおだ。

・・・・という表現があまりにも月並みすぎるのなら、今一度、ここまで辿ってきた道程を改めて記すことにしたい。

札幌→ないえ温泉→赤平→芦別→富良野→狩勝峠→上士幌→足寄→オンネトー→足寄峠→阿寒湖→阿寒横断道路→屈斜路湖→美幌峠→女満別→網走湖→斜里→ウトロ→知床峠→羅臼→相泊→知床岬!

これらの道々で流してきた汗、人力移動してきた距離、接してきた風景、道々であったいろいろな人々とかわしてきた会話、そうしたモノゴトのtotal sumが到達するであろう極点が知床岬なのだ。

知床岬は別名、禁断の岬とも呼ばれる。

シレコトは、シリエトクに由来する。シリエトクは、アイヌ語で大地が果てる場所、という意味があり、それがシレトコの語源となったそうだ。

徒歩でテン泊しながら、いくつもの難所を越え、時に波に洗われながら、ヒグマの密集地帯をリスクをマネジメントして突破しない限り、人を寄せつけないシリエトクは禁断の岬なのだ。たしかに、その呼び名は実態に即している。

その大地が果てる場所、禁断の岬が、もうすぐそこに見えるのだ!

 

<カブト岩から南をのぞむ>

延々と歩いてきた方向を振り返れば、海岸線が実に美しい線を描いている。脚を痛めて歩いてきたルートだが、疲れも吹き飛ぶような情景だ。

さて、カブト岩の下降は、大学院OBのDogishiさんという年季の入った先鋭なアルピニストからお借りしたものを使うことになった。彼は北海道にいるときに、極冬期の知床連山を縦走し、海岸線沿いに相泊まで帰還するという貴重な経験を有する人物。

そんな彼から、奥多摩キャンプ、飲み会など、ことあることにつけ、今回のShiretoko Expenditionの相談に乗ってもらったのだ。あらためて感謝したい。

持参したハーネスに8カンをとりつけ、Dogishiさんからかりた9.5mmX30mのザイルで崖の途中まで懸垂下降を行うのである。

 <カブト岩の下降準備、Yくんとともに>

それにしても、トホホな靴だ。自転車ツーリング用の軽量ニッカーにハイソックスまではいいが、はやり、この靴では心もとない。でも、これで行くしかないのだ。

 13:00には100mの崖の上下を持参した笛でコミュニケーションをとりつつ下降を完了。

 

 <知床岬への最後の登り>

海岸線を歩いていると、夏の番屋に棲むおばあちゃんが飼っているワンコのシロとクロが寄ってきた。

<シロの出迎え>

ひとなっつこい犬たちだ。聞くところによると、このおばあちゃんは羅臼の街に住むセガレから番屋を守ることをやめて早く町に帰ってこいと言われ続けているらしい。

彼女は、知床に棲み、われわれは、知床を通り過ぎる。この違いはいったいなんなのだろう?そんなことを考えながら歩いていると、いつのまにか、シロが見当たらなくなった。たぶん、おばあちゃんのところへ帰ったのだろう。

<知床岬先端部から無人灯台をのぞむ>

wildernessの中に忽然と屹立する人口物の灯台。

<Yくんの雄姿>

見よ、あれが灯台だ。

とうとう知床岬に、やってきたのだ。

あたりは広大な草原を成している。繁殖した鹿が大量に草原の植物の新芽を食べているらしく、ここ数年で草原の植物の背丈はずいぶんと短くなったそうだ。

<岬から眺める国後島>

茶色になった植物(名称は不明)は、秋の到来を思わせる。

海峡を隔ててすぐのところに、国後島が。

ここからは、国後島が、近く見えるのだ。

<岬の灯台にて>

延々、かついできた鹿の角。

(結局、この後、2人とも自転車に括りつけ、鹿の角と行動をともにすることになったのだが・・・)

 

<灯台から岬をのぞむ>

とうとうやってきた、知床岬!はるばる札幌から、自転車を漕ぎ、シーカヤックを漕ぎ、そして知床半島の海岸線をひたすらヘツり、よじり、下降して、たどりついた知床岬。

平原からはコンクリートの階段が灯台にまで敷き詰められている。そこを登って、3人パーティーは握手。

そこで桜井さんはおもむろにコンロを取り出して、「知床スペシャルミルクティー」をふるまってくれた。

ああ、美味しい!!!

15:00とうとうゴールに到達したのである。

        ***

その後、パーティはウトロ側に大きく回り込み、啓吉湾の洞窟にキャンプサイトを求めた。

この啓吉湾という湾は、知床岬至近の隠れスポットである。

左右に大きく拡がる湾の最深奥部に洞窟があり、そこから全湾が見渡せるのだ。

食事を済ませ、若干の酒を飲み、ひたすら泥のように眠った。

ここは知床である。

つづき>>>

 

 

世界のソトとウチ

カテゴリー : No book, no life.

上のマップで言うと、伝統的な経営学やマネジメント論は、左側のアプローチが中心。一般性、因果律、効率、根拠、論理といったものが重視される。サイエンスの体裁をとろうとするほど、経営学やマネジメント論は、むろん、このアプローチが中心になってくる。

でも、ちょっと食い足りない。

そこで、外界(outer world)から内界(inner world)へと拡張してみる。

どうやら、世界の潮流を眺めていると、人と組織の行動に関係するリーダーシップ論やケアサービス論は、内界(inner world)へ向かっているようだ。そこでは、左側ではほとんど語られなかった、精神、特殊性、共時性、意味、物語、情念が織りなす特殊な世界が本質的に重要になってくる。

いろいろな分野のリーダーは、それぞれ個別の意味世界に棲息しているので、右側の特殊な世界とは切り離せない。緩和ケアをはじめとする看護サービスなどのhuman serviceでも、ヒトの内面、内界にたいする精神的ケア、支援、エンパワーメントが含まれる。

なので、ネタを明かすと、人的資源管理論、組織行動論、アントレプレナーシップ論、ヒューマンサービス論などでは、越境を促すために下の2冊をグループワークや副読本として使っている。

            ***

シンクロニシティは意味のある偶然とでもいってよいだろう。通常の因果律では因果関係が見いだせない事象における関係性を説明する考え方なので、シンクロニシティは「共時性」ともユング派の研究者によって訳されている。この分野の著作では、デイヴィッド・ピート『シンクロニシティ』が秀逸だ。

複数の出来事が原因→結果というようなシーケンシャルな因果関係を飛び越えて、意味的関連を惹起して同時に起きることである。だからシンクロニシティを「共起性」といってもあながち誤訳ではないだろう。しかし、こと学問の作法でシンクロニシティを実証的、客観的に説明することは難しい。

なぜなら、出来事、偶然、非・超因果、意味、同時、共起、主観を内包するシンクロニシティには、必然的にランダムネス(雑然性)やタービュランス(乱流性)やストレンジネス(奇妙性)やコンプレクシティ(複雑性)がつきもので、このようなことがらは実はサイエンスの枠組みでまだきちんと説明がなされていないからだ。

果たして運は能力なのか、能力が及ぶ範囲の外にあるまったくの別物なのか?

運は能力の一部門であるという考え方がある。そのひとつの発現としてセレンディピティ(serendipity)という言葉は「偶然幸運に出会う能力」を意味する。

シンクロニシティ(synchronicity)も共時、共起、偶然に積極的にかかわる自覚的能力を予兆するものである。

偶然幸運に出会う能力は、能動的に環境にはたらきかける操作の範疇ではなく、環境から自分への働きかけ、メッセージ、予感を感じ取る受動的な領域に属する。

とすると、セレンディピティはシンクロニシティを用意周到に活用する自覚的readinessとでもいうような意識の力を含意する。

この本は、シンクロニシティをリーダーシップの重要な要素として、自伝的な文脈で前向きに議論している。リーダーシップという視点からシンクロニシティを真っ正面から議論した論者はなく、そこにこの本の新鮮味がある。

伝統的=本流的な理論、モデルを説明した「行動科学の展開」に対するアンチテーゼのような本。シンクロニシティは、実は現在サイエンスの鬼門のような位相にある。因果関係でなかなか説明できない現象だからだ。

根本問題(root problem)とメンタルモデル(mental model)

カテゴリー : システム思考

 (ウルグアイのムヒカ大統領のスピーチ)
 
人間社会と地球社会が抱えているのモンダイはフクザツだ。いや、複雑すぎる!
 
だから複雑な問題を解決する手法も、いきおい複雑になってくる。
 
問題ってなんだ?
 
そして、さらに奥底の問題はなに?
 
さらにその根っ子のところに横たわっている問題って、いったいなに?
 
そんなこと、わかりませんよ!
 
でも、ちょっと発想を変えてみる。
 
考えること、つまり思考には階層性があるんですね。問題を解決していこうっていう思考にも階層性があります。
 
絵にすると、こうなります。
 
=====================================
 
                
            デキゴト=問題
 
        ~~~~~~~~~~~~ (←海面の波)
         
              様  式
             
           システミックな構造
 
       メンタル(インターナル)モデル
 
=====================================
                   
 
身の周りのデキゴトは問題だらけだ。竹島・尖閣の領土問題、総選挙、オスプレー、国債の利率、為替の振れ幅、地球温暖化、環境破壊、欧州金融危機、イスラエルとイランの紛争・・・・。デキゴトに埋め込まれたモンダイは、バラバラで断片的。
 
 
ああ、毎日、毎日、厄介で分かりにくいニュースばかりで、頭痛がしますよ・・・。残暑といか酷暑もキビシイし。
 
だからコラムニストや評論書いているアタシは、それらに解説を加えて「様式」化するんです。
 
デキゴトの底に脈打っている脈動や、普段は見えずらい仕組みなんかを洗い出してゆく作業です。うまく様式化すると、それを読んだ読者は、「ナルホド!」と叫んで(?)デキゴトをより深く見抜く洞察力が得ることができます。
 
もっと言えば、デキゴトと様式が、フクザツな要因としてどのように絡み合って影響し合っているのか、については、ニュースやちょっとした解説ではあまり言及されません。
 
さて、古典とよばれるような大作は、システミックな、つまり、全体論的で、体系的で、歴史とともに変化したり進化したりする性質、コミュニケーションやコントロールといった点を盛り込んで、とことん問題を描写します。
 
 
経済学では、カールマルクスの「資本論」、ケインズの「雇用・利子および貨幣の一般理論」、シュンペンターの「資本主義・社会主義・民主主義」、などなど。特定の学問領域で50年以上読み継がれている本ってのは、システミック構造をエレガントに描き出していますね。
 
で、さらに、それよりも深いところによこたわっているものが、メンタル(インターナル)モデル。結論から言うと、これ、「議論できないままである」(Chris Argyris)なんです。
 
「人は見たいものを見てしまう」(カエサル)、その根っ子の問題、根本問題(root problem)と言ってもいいかもしれません。
 
              ***
 
 さて、以上のようなsystems thinkingの一端を下敷きにして、リオデジャネイロで開かれた国際会議「リオ+20」でのウルグアイのムヒカ大統領のスピーチに耳を傾けると、味わい深い示唆を得ることができるのではないでしょうか。
 
世界のroot problemを鋭く、でも、エレガントにえぐり出しているのではないでしょうか。
 
 
<以下、貼り付け>
 
**** ムヒカ大統領のリオ会議スピーチの翻訳> *** 

会場にお越しの政府や代表のみなさま、ありがとうございます。

ここに招待いただいたブラジルとディルマ・ルセフ大統領に感謝いたします。私の前に、ここに立って演説した快きプレゼンテーターのみなさまにも感謝いたします。国を代表する者同士、人類が必要であろう国同士の決議を議決しなければならない素直な志をここで表現しているのだと思います。

しかし、頭の中にある厳しい疑問を声に出させてください。午後からずっと話され…ていたことは持続可能な発展と世界の貧困をなくすことでした。私たちの本音は何なのでしょうか?現在の裕福な国々の発展と消費モデルを真似することでしょうか?

質問をさせてください:ドイツ人が一世帯で持つ車と同じ数の車をインド人が持てばこの惑星はどうなるのでしょうか。

息するための酸素がどれくらい残るのでしょうか。同じ質問を別の言い方ですると、西洋の富裕社会が持つ同じ傲慢な消費を世界の70億~80億人の人ができるほどの原料がこの地球にあるのでしょうか?可能ですか?それとも別の議論をしなければならないのでしょうか?

なぜ私たちはこのような社会を作ってしまったのですか?

マーケットエコノミーの子供、資本主義の子供たち、即ち私たちが間違いなくこの無限の消費と発展を求める社会を作って来たのです。マーケット経済がマーケット社会を造り、このグローバリゼーションが世界のあちこちまで原料を探し求める社会にしたのではないでしょうか。

私たちがグローバリゼーションをコントロールしていますか?あるいはグローバリゼーションが私たちをコントロールしているのではないでしょうか?

このような残酷な競争で成り立つ消費主義社会で「みんなの世界を良くしていこう」というような共存共栄な議論はできるのでしょうか?どこまでが仲間でどこからがライバルなのですか?

このようなことを言うのはこのイベントの重要性を批判するためのものではありません。その逆です。我々の前に立つ巨大な危機問題は環境危機ではありません、政治的な危機問題なのです。

現代に至っては、人類が作ったこの大きな勢力をコントロールしきれていません。逆に、人類がこの消費社会にコントロールされているのです。私たちは発展するために生まれてきているわけではありません。幸せになるために
地球にやってきたのです。人生は短いし、すぐ目の前を過ぎてしまいます。命よりも高価なものは存在しません。

ハイパー消費が世界を壊しているのにも関わらず、高価な商品やライフスタイルのために人生を放り出しているのです。消費が社会のモーターの世界では私たちは消費をひたすら早く多くしなくてはなりません。消費が止まれば経済が麻痺し、経済が麻痺すれば不況のお化けがみんなの前に現れるのです。

このハイパー消費を続けるためには商品の寿命を縮め、できるだけ多く売らなければなりません。ということは、10万時間持つ電球を作れるのに、1000時間しか持たない電球しか売っては行けない社会にいるのです!そんな長く持つ電球はマーケットに良くないので作ってはいけないのです。人がもっと働くため、もっと売るために「使い捨ての社会」を続けなければならないのです。悪循環の中にいるのにお気づきでしょうか。これはまぎれも無く政治問題ですし、この問題を別の解決の道に私たち首脳は世界を導かなければなりません。

石器時代に戻れとは言っていません。マーケットをまたコントロールしなければならないと言っているのです。私の謙虚な考え方では、これは政治問題です。

昔の賢明な方々、エピクレオ、セネカやアイマラ民族までこんなことを言っています。

「貧乏なひととは、少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」

これはこの議論にとって文化的なキーポイントだと思います。

国の代表者としてリオ会議の決議や会合をそういう気持ちで参加しています。私のスピーチの中には耳が痛くなるような言葉がけっこうあると思いますが、みなさんには水源危機と環境危機が問題源でないことを分かってほしいのです。

根本的な問題は私たちが実行した社会モデルなのです。そして、改めて見直さなければならないのは私たちの生活スタイルだということ。

私は環境資源に恵まれている小さな国の代表です。私の国には300万人ほどの国民しかいません。でも、1300万頭の世界でもっとも美味しい牛が私の国にはあります。ヤギも800万から1000万頭ほどいます。私の国は食べ物の輸出国です。こんな小さい国なのに領土の90%が資源豊富なのです。

働き者の我が国民は一生懸命8時間働きます。今日は6時間働く人が増えています。しかし6時間労働の人は、その後もう一つの仕事をします。なぜか?バイク、車、などのリポ払いやローンを支払わないといけないのです。毎月2
倍働き、ローンを払って行ったら、いつの間にか私のような老人になっているのです。私と同じく、幸福な人生が目の前を一瞬で過ぎてしまいます。

そして自分にこんな質問を投げかけます:これが人類の運命なのか?私の言っていることはとてもシンプルなもので
すよ:発展は幸福の対抗にあっては行けないのです。発展というものは人類の本当の幸福を目指さなければならないのです。愛、人間関係、子供へのケア、友達を持つこと、必要最低限のものを持つこと。

幸福が私たちのもっとも大切な「もの」だからなのです。環境のために戦うのであれば、幸福が人類の一番大事な原料だということを忘れてはいけません。

<以上、貼り付け>

 

ボルタ君、「ものこと」つくり、町おこし

カテゴリー : ものつくり

ボルトならぬボルタ君というそうだ。室蘭へ行った友人からのお土産。ボルトを加工していろいろな造形を試みる。たとえば上の写真は「自転車に乗るボルタ」。

サイクリストの僕にとっては、大変うれしいプレゼントなり。

このボルタくん、実は、室蘭市民、道民、いや全国からも熱いまなざしが注がれ、大注目を浴びてきている。2005年12月 に試験販売を開始、2006年4月に20種類500個限定で第1弾の本格販売開始、 それ以降、ほぼ毎月1日に5種類のボルタを発売してきているという。最近のボルタのバリュエーションはこちら

2007年9月には100種類のボルタくんが完成したそうだ。

さて、ボルタくんを考案したのは、室蘭工業大学に通っていた二十代男性だそうだ。当初、その男性は、遊び心半分くらいで「アイアンフェスタの体験溶接」で製作したことにはじまり、そのサイズを3分の1ほどに小さくしたのが今のボルタシリーズ。

ボルタプロジェクトの面白いところは、ボランタリーなバリューチェン。「ものつくり」にこだわり過ぎて失敗することが多いなかで、ボルトの取り組みはいささか趣が異なる。

学生や商店主、市内公務員、製鉄所職員、ウェブデザイナーといった様々な立場の市民が、企画担当、開発担当(大学)、製作担当、マーケティング担当、PR担当、販売担当というふうに加わっている。「モノ」だけではなく、いろいろな「コト」が人を引き寄せ、バリューチェンを創っているところが面白い。

今ではNPO法人テツプロ(つのまちぷろじぇくとボルタ工房)がバリューチェンのマネジメントを行っていて、ボランタリーかつオープンな価値連鎖を目指しているようだ。プロダクトは単純素朴ながら、オープンイノベーションの一つの姿を見る思いがしなくもない。

思いは、室蘭を元気にする、いろいろな人に親しんでもらえる町おこしだそうだ。それやこれやで、2006年7月にはボルタ工房を設置。また、製作が追いつかずにパート・アルバイトも募集したという。

武骨で無異質でお堅いイメージのあるスチールプロダクトが、ちょっとした工夫で、みんなの参画を得て、なんともいえない愛らしいものに生まれ変わるという意外さとあいまってボルタ人気は急上昇。

医療サービス:新しい5S-KAIZEN-TQMの展望

カテゴリー : イノベーション

5S(整理・整頓・清掃・清潔・躾)というと、ブリヂストン(当時はブリヂストンタイヤという社名でした)の新入社員研修で工場にカンズメになって教えられた思い出があります。そこでは、現場の精神だ、改善だ、などと教えられ、あまりいい思い出はありません。実際、勤務時間が終わったあとで「5S-改善運動」が行われていたので、人一倍批判精神旺盛な私は、テイのいい労働強化、生産性向上への誘導策、集団的洗脳だな、と勘繰って、この運動を見ていました。

もともと終身雇用や年功序列は好きではなく(念のため個人的嗜好の問題です、労働経済学的にはその効用を認めています)製造業のなんたるかを経験してみたいという不純な(?)動機で、この企業に勤務しはじめたので、早々にそこでの仕事を切り上げ、数年後にコーネル大学大学院へ留学しました。

それは86年のことでした。GEMBA KAIZENで著名な今井正明氏がコーネル大学ビジネススクールに特別講義のために訪れ、その講義の後の立食パーティで5S-改善についてじっくり意見交換したことがありました。(資料1:最近の今井氏のインタビュー、資料2:出版物リスト

Masaaki Imai is the founder of our company Kaizen Institute and author of two classics on lean management, Kaizen: The Key to Japan’s Competitive Success and Gemba Kaizen: A Commonsense, Low-cost Approach to Management he is working on his third book which addresses the leader’s role in making operational excellence sustainable. He travels the world doing gemba walks and speaking about kaizen.

当時は、日本企業が日の出の勢いで米国市場を席巻しており、日本脅威論までまことしやかに議論されていました。また米国政府のなかに、日本企業研究のためのタスクフォースが創られ、日本企業の分析が本格的にはじまっていました。

一介の大学院生という身分でしたが、「日本の製造業の批判的勤務経験がある」という珍奇な理由で、コーネル大学ビジネススクールで「日本的経営」についてのレクチャーを1コマやらせてもたっらことがあります。その中で、私が強調したことは:

・たしかにKAIZENは、継続的な品質向上には有効な手法だ!

・しかし、それは年功序列や終身雇用とパッケージになった手法なので、雇用状況が異なる米国には適用できない!

・KAIZENは品質進化の方向を固定するという反作用があるので、抜本的なinnovationとは異なるものだ。むしろ、現場改善にさほど熱心でなく、新規事業創出やアントレプレナーシップの基盤がある米国企業のほうが、innovation志向ではないのか?

・GEMBA KAIZENはoperation-wiseには有効だが、戦略(Corporate strategy)には統合されがたい!

・むしろ、日本企業は、KAIZEN-TQMをパッケージ化した現場よりの「戦略」のため、固定的技術軌道に陥る可能性がある!

という話をしてずいぶんと物議をかもしだしたものです。

さて、時はめぐって2010年代。日本の医療サービスの現場はおろか、アフリカ、アジアなどでも5S-KAIZENが燎原の火のように普及しつつあります。私自身も、なぜか医療機関に対して、5S-KAIZENを指導する立場になってしましました。あんな毛嫌い(?)していた5S-KAIZENなのに、人生不思議なものです・・・。

そんななかで、少々、若気の至りを自己反省をしながら、最近マジメに考えたことをまとめてみます。

                     ***

日本産業を下支えしてきた5S(整理・整頓・清掃・清潔・躾)、改善、TQM(総合的品質管理)が、日本の医療サービスのみならず、アジア、アフリカにまでも浸透しつある。筆者は、日本、スリランカ、コンゴ民主共和国の医療現場を訪れて、5S-KAIZEN-TQM活動に関する調査を行った。本稿では、そうして得られたこの運動が持つ普遍的な有効性に関する知見を共有したい。

 ①真の参加(participation)

この運動には受動から能動へ、心のベクトルを変える作用がある。特に、整理・整頓・清掃はだれにでも出来て、成果を体感することができる。従来のアフリカの健康・医療サービスの現場では、言われてもやらない、現場の物品を盗むことなどが多発していた。また日本でも、「やらされ感」が蔓延して能動的に現場を改善できない職場が多いが、この運動は、どのような状況でも、関係者の「参加」を引き出すことができる。

 ②内発的報酬系の刺激(intrinsic reward)

旧植民地そして今でもアフリカ諸国で幅を利かせるマネジメント手法は欧米系のものである。また日本においても、脱年功序列の掛け声のもと「成果主義賃金」が導入されて久しい。そこでは個人や組織の実現すべき成果を事前に予定し、実現された際には個人や組織に対してインセンティブを与えようとする。外発的報酬が過度に操作的に運用されると、充実感、達成感、やりがいなど内側から湧き上がる内発的報酬が枯渇する。この運動は、関係者の内発的報酬系を刺激する。

 ③アクション・リサーチのループ(action research loop)

問題だらけの個人、職場、地域にはたらきかけ、その結果を五感で受けとめ、さらに改善を加えてゆくというポジティブなサイクルの中に心身を置くと、心身は気持ちよくなり楽しくなる。システム科学の知見でも、このようなアプローチは、ソフトシステム思考のアクション・リサーチ手法として注目を浴びつつある。

 ④動学的メンタル・モデル(dynamic mental model)

経営は、人、モノ、金、情報、空間、時間の編集作業だが、この運動は、経営諸資源の相互関係に埋め込まれている「意味」を紡ぎだし、気づかせる働きがある。その気づきが、小集団、業務改善グループ、インフォーマルグループなどの小組織から、公式的な大組織へと展開される自己組織的運動のなかで、行動様式(ethos)としてメンタル・モデル化される。他者、自己の成功体験が物語として累積的、動学的にメンタルモデルを強化することになる。

 ⑤自己組織化(self organization)を支援

医療サービスには以下の特性がある。すなわち、各種ステークホルダが経験を共有してサービスを創る(共創性)。モノとして後に残らない(瞬時性)。医療チーム、患者がともにかかわってサービスは高度化する(共進性)。あらゆる場でサービスは創発され伝搬する(偏満性)。健康医療サービスを扱う組織は、自己組織的であり、5S-KAIZEN-TQM運動は、この方向性をサポートするものである。

 我が国医療マネジメント、とくに、医療機関マネジメントの今後の展開を模索するにあたり、以上の示唆は新しい方向性を提供するものであると考えられる。

日刊工業新聞の連載コラム、「異見卓見」第4話

カテゴリー : アントレプレナーシップ

日刊工業新聞の連載コラム、「異見卓見」第4話を寄稿しました。

『出る杭に起業パワー: 創造的奇人変人のすすめ』です。

第18講:日本的経営あるいはジェームズ・アベグレン博士との対話

カテゴリー : アメリカ

 日本的経営が揺らいでいる。半世紀にもわたり日本的経営について観察、助言、論評してきたジェームズ・アベグレン氏との邂逅(かいこう)を下敷きにして、日本的経営にかかわる問題を考えてみたい。日本的経営を支えてきた人事制度とその運用に焦点を絞り込む。

 

 異邦人の観察眼は、しばしば当地で生まれ育った人間では気がつかないような本質を射抜くことがある。特に社会的現象については、社会に暗黙裡に飲み込ま れずに、相対化して分析することができるからだ。その意味で日本の経営事象を「日本的経営」としていち早く分析・記述して、世界へ伝達したジェームズ・ア ベグレン博士の功績は大きい。

 ウィキペディアによると、『ジェームズ・アベグレン(James C. Abegglen、1926年 – 2007年5月2日)は、アメリカの経営学者、経済学者。日本企業の経営手法を「日本的経営」として分析し、戦後の日本の企業の発展の源泉が、「終身雇 用」「年功序列」「企業内組合」にあることをつきとめた。また、「終身雇用」という言葉の生みの親として知られる』と紹介されている。

 だが実は、アベグレンは自ら進んで「終身雇用」(Life-time employment)という用語を用いていたわけではなく、「終身の関係」(Life-time commitment)という用語を使っていたことはあまり知られていない。終身において雇用が誰にでも適用される(つまり誰も失業しない)という「終身 雇用」の制度は存在し得ないが、通俗説として一人歩きしてしまったのだ。

 アベグレンの「終身の関係」(Life-time commitment)というとらえ方は、複雑な社会的現象を説明するための概念であり、社会科学で用いられる理念型(イディアルタイプ)のようなものだ。

 また上記では「アメリカの経営学者」としているが、博士は1997年に日本国籍を取得しているので、正確には「アメリカ生まれでその後日本人となった経営学者」とでも書くべきだろう。なぜ、細部にこだわるのかといえば、生前の博士と筆者は交流があったからだ。

 アベグレンの日本企業研究は、日本的経営の究極的特徴を労使関係、あるいは人的資源管理にあると見立てた経営学者の占部都美(うらべ くによし)によっても注目され、その後の日本人による日本人のための「日本的経営」研究とその実践に先鞭をつけることになった。アベグレンなかりせば、世 界的文脈での「日本的経営」は無きにも等しかったのである。

 

日本的経営は欧米の経営に収斂するのか

 日本的経営論には2つの大きく異なった立場がある。収斂(しゅうれん)説と非収斂説である。収斂説に立てば、工業化と都市化が進むことによって日本社会 も欧米的な社会のパターンに収斂していき、日本的経営はその特殊性を次第に失って欧米的な経営管理制度に変化していくとする。その一方で非収斂説は、工業 化によって同じ近代的な生産技術が導入されても、それは必ずしもその国の伝統的な社会や文化を変革するものではなく、その国の社会や文化に適合した独自の 経営管理制度を生み出すものであり、それらが有効に働くとする立場である(占部 1978)。

 アベグレンは非収斂説の立場で一貫している。「いかなる社会においても、経営組織が効果的であるためには、(その社会の根底にある価値基準や人間関係の パターンと)整合しなければならないということは自明の理である」として、以来、2004年に出版した「新・日本の経営」の中でもこの立場は一貫してブレ がない。

 「社会の根底にある価値基準や人間関係のパターン」については、この連載でも歴史や宗教について書き連ねてきたように、明らかに欧米と日本の間には相違がある。その違いを腹に落とさなければ、日本的経営の奥底を諜知することはできないだろう。

 第15講:どうした?勤勉の倫理と日本的資本主義の精神までの連載でも描写したように、日本社会の根底にある価値基準は、神と人間が循環する多神、多層、多元的なメンタリティーとして、雑多な宗教が折り重なるように習合してできた、特殊な心象基盤の上に作られていった。

 そこでは、「みんな一緒にがんばる」「みんなで分けあう」「世間さまに恥ずかしくないようにする」といった人間関係のパターンとともに、「お天道様が見 ている」「働くことは当たり前」「ご先祖さまのおかげ」「神様、仏様を畏れ敬う」「足るを知る」といった価値基準が暗黙的に共有されてきた。人格的一神教 の影響が微弱だった日本では、人間の上に神はいないし、人間の下に奴隷もいない。ましてや神と人間との契約もない。どこまでも人間が中心にいる人間関係の パターンなのだ。

 日本的経営のあり方は、このような日本社会の根底にある価値基準や人間関係のパターンに多くを負っている。と同時に、それらの価値基準や人間関係のパターンを維持する社会的な装置が日本的経営をいただく日本企業でもある。

 アベグレンの言説を借りれば、日本企業と従業員の関係は、このような価値基準や人間関係パターンを包含する「社会契約」を基礎として出来上がっている。 そして、これが日本的経営の骨格をも作り上げた。ゆえに日本企業は、特定の成果を生み出すことを至上目的とする機能体ではない。自らの存続を目的とし、組 織構成員の価値基準や人間関係パターンを維持するための共同体、という性格が色濃い。

 アベグレンも指摘するように、欧米、特にアングロサクソン系の研究者や経営実務家は世界各国の制度が「収斂」すると論じることが多い。日本では「収斂」というと各国の制度が中間領域のどこかに近づくようなイメージで語られることが多いが、これはナイーブな認識だ。

 そうではなく「収斂」というのは、正しく適切とされる「英米型の制度に近づくこと」を意味する。よって「各国の違いは解消されなければならず、日本の雇 用制度と経営手法が英米型に変化する、あるいは変化させられて近づくことによって解消されてゆくはずだ、そうあるべきだ」というのが「収斂論」である。い わゆる「グローバライゼーション」も「収斂論」の系譜に立った見方である。経営収斂説が欧米において支配的なことの背景には、絶対的な唯一神の教義を頂く 世俗世界の経営という現象さえも収斂させていこうという、ある種の脅迫的な観念を見過ごすわけにはいかないだろう。

 余談だが、現実の世界には頑迷強固な価値判断としての「収斂論」も存在する。新会社法、改正独禁法、郵政民営化法などの「改革」を「要望」した『年次改革要望書』も、その根底には操作主義的な「収斂論」が息づいていることを知るべきである。

 

共同体としての「カイシャ」

 さて価値基準や人間関係のパターンは、人事制度とその運用によって顕著に現われる。すなわち、とかく抽象論に終始しやすい日本的経営論を現場目線で議論をするためには、人事制度の変化を見る必要がある。

 「終身の関係」を労使で共有する人事制度は、あくまで正規従業員が中心である。正規雇用者数は、1997年をピークに減少している。そのため、雇用者全 体に占める非正規雇用者(パート、アルバイト、契約社員、派遣社員など、期間を定めた短期契約で雇われる職員)の比率は1995年以降高まり、非正規化の 急激な進展という結果をもたらした。非正規雇用者数は1995年に1000万人を超え、2006年には1707万人となり、「役員を除く雇用者」の中で 33%を占めている。

 私見によると、戦後の日本企業の人事制度は下の図のようにおおむね20年サイクルで大きな変化を遂げてきている。筆者はこれを「人事制度20年周期変化説」と呼んでいる。

人事制度20年周期変化説
図●人事制度20年周期変化説

 

 日本的経営を支えてきた日本的人事制度は過去に、年功主義、職能主義、成果主義(meritocracy)と変遷してきている。この変化を追跡することによって日本的経営の変化をとらえることができる。

 ちなみに2010年代には4つの「?」マークを入れてある。「?」はいったいどうなるのか、という疑問を留めながら続きを読んでいただきたい。

 

生活保障:1950年代からの20年

 この時代、米国のモノづくり技術を積極的に導入して、第二次世界大戦の敗戦の焦土から日本は復興しつつあった。新産業が勃興して企業は組織的な拡大にま い進した。機能体の衣をまといつつ国民の生活を保障する共同体として企業が登場したのだ。この時代の人事理念は「生活保障」に尽きた。

 役職が最も目に見えるステータスだった。拡大基調にある組織では、係長、課長、部長、役員というようにタテ方向に上がっていける機会は多く、単純な職階制度がとられた。「社員は仲間。善き仲間に厳密な評価は不要」と考えられ、暗黙的な人柄、人格、年功評価が中心だった。

 賃金も年功給がベースとなり、その上に役職給が乗るという構造が中心だった。ベースアップは、賃金表の書き換えと定期昇給によるものだった。イケイケドンドンの時代、人事制度は単純なものだった。

 「一社懸命」に働けば、役職も得ることができる。そして会社は社員という仲間の輪を拡大し、囲い込んでいった。独身寮、世帯寮にはじまり、厚生年金、失業保険など企業が負担する福利厚生や社会保障の提供が普及した。

 一方、農村共同体が崩壊し、企業に雇用される都市住民が急増していった。こうして企業は、機能体でありながらも代替的な共同体(Gemeinde)とし て発展していったのである。そこでは、善き仲間の一員でいること、その仲間から仲間とみなされることが、なにより重要なことだった。いわゆる同調圧力がう まく機能したのだ。

 この時代の人事制度の分析・記述は、日本の組織を相対化して観察することができる外国人の視点が中心だった。その代表格がアベグレンである。こうして 「終身の関係」(Life-time commitment)、年功賃金(Seniority-based wages)、定期雇用(Periodic hiring)、企業内訓練(In-company training)、企業内組合(Enterprise union)などの理念型が立てられた。

 

年功能力主義:1970年代からの20年

 1970年代からの20年間は、オイルショックなどを契機として拡大基調に陰りもあったが、この時代を通してモノづくり企業は躍進した。1980年以降 は、雇用者に占める非正規雇用者の比率が上昇を続けている。このような時代に正規雇用向けに登場してきたのが、「職能資格制度」である。

 職能資格制度は日本ならではのユニークな制度だ。職能資格制度とは、従業員の職務遂行能力(略して「職能」)の程度に応じて会社や会社グループの閉じた空間にのみ有効な「資格」を付与する制度である。

 1970年代を中心にして企業社会に流行し、一部上場企業のうち9割くらいが、この制度を運用しているといわれる。「年功的な人事を見直し、能力基準の 人材登用を可能にする」「役職にとらわれることなく、人の能力を基準にして処遇する」「人を重視する人本主義の具体的な制度への反映」などという言説が流 行ったものだ。

 一言でいえば、過去の主流すなわち職階・年功主義に対するアンチテーゼとして登場し、普及してきたのが職能資格制度だ。しかし運用を経て、年功運用的色彩が織り込まれ、年功資格制度になってしまった。その背景をまとめると、次のようになる。

 

  • 社内職能資格には標準滞留年数がある。能力が急進すれば職能資格も急上昇するはずだが、社内職能資格は急上昇しない。逆に能力が劣化しても、職能資格が落ちることはまずない。
  • 人事評価は、職務遂行能力に対して公正になされることが期待されたが、職場では明確な優劣をつけることがはばかられる。評価における中心化傾向(評価結果が評価スケールの中間付近に集中してしまう傾向)が顕著となった。
  • 職能資格の付与は年功的になる。そして職能資格にリンクしている職能給は、結果として年功給になっていった。

 こうして役職によるモチベーションはかなわなくとも、職能資格の付与とモチベーション維持策が行われるようになったのだ。長期安定雇用を前提にした共同体の仲間感覚の維持は、まだまだこの時代の大きなテーマだった。

 この時代には職能資格制度の理論家として楠田丘や弥富拓海、弥富賢之などの活躍をみる。また経営学の領域で日本的人事が研究対象とされるようになった。 以上の第1期(1950年代~)、第2期(1970年代~)を通して、日本的に特殊な制度が普及したこともあり、日本的経営の「非収斂説」が幅を利かせ た。

 

成果主義:1990年代からの20年

 1990年代からのグローバライゼーションが昂進した時代、それまでの共同体としての企業組織に「成果主義」すなわち機能体の原理が持ち込まれるようになった。その背後にあるのは新古典派経済学であり、それらによって理論武装した市場主義だった。

 企業を成り立たせるシステムとして人事制度は反応性が鈍く、変化するのは遅い。しかしながら、この時代は収斂圧力が強く顕れ、多くの企業が人事制度の改 革に着手している。外需依存型のグローバル企業はおおむね海外人事を成果主義に対応させ、その流れを日本に持ち込み、本丸の人事制度を「成果主義」的に変 更するような手法をとった。

 この時代には、バブル期(1986~1991年)に抱え込んだ「設備、債務、雇用」という3つの過剰を解消するリストラが一般的になった。先に述べたよ うに、正規雇用者数は1997年をピークに減少している。雇用者全体に占める非正規雇用者の比率は1995年以降さらに高まり、非正規化の急激な進展とい う結果をもたらした。

 非正規雇用者数は1995年に1000万人を超え、2006年には1707万人となり、「役員を除く雇用者」の中で33%を占めている。ちなみに女性の 場合は53%である。これらの非正規雇用者は多くの場合、外縁から日本的経営を支えながらも、日本的経営がもたらす直接的なメリットからは疎外されるとい うアンビバレントな位置にいる。

 グローバル経済とのインタフェースが大きな企業ほど、必然的に成果主義の要素を人事制度にも取り込むことになっていった。第1期、第2期は共同体の原理 が中心だったが、この時代の中心概念は機能体の原理だったためである。こうして、日本的経営は異質な非日本的要素と初めて向き合い、対峙することになった のだ。

 そもそも成果を計量的に測定するためには、「職務(Job)」の内容が確定している必要がある。だが、共同体でありつづけた日本の組織に、職務という概 念はなかった。はじめに人ありきで、仕事は人のまわりに融通無碍に形成される。職務は、非属人的・先験的に日本の組織には存在し得ない。

 だから、仲間を思いやりながら人間中心に仕事を進める人々にとって、欧米企業のように「職務記述書(Job Description)」を書くということは、実は異文化経験だったのだ。余談だが、こんな話がある。

 「日本人もアメリカ人も、失業以外のことで仕事の不安を感じることがある。日本人は職務記述書を書くときに、アメリカ人は職務記述書がないときに」。

 

機能体への体質転換剤としての成果主義

 米国では、機能組織としての企業経営、人事制度運営の蓄積がある。よって1980年代以降、米国発のHuman Resources Management(HRM)系のコンサルティング会社が日本でもクライアントを持ち始める。職務分析(Job Analysis)、職務評価(Job Evaluation)、目標管理(Management by Objectives)、成果主義賃金(Pay for Performance)といった手法が本格的に和風にアレンジされ、日本の大企業を中心として移植された。当初は在日欧米企業を中心として、そして前述 したような経緯で日経連(日本経済団体連合会)の所属企業までもが顧客リストに載り始めたのである。

 日本企業が軽視してきた「職務」という機能体の価値観を組織に移植し、もって、職務等級、成果評価、成果立脚型賃金をシステムとして日本企業に埋め込む作業は、要するに、共同体に機能体原理を持ち込む試みである。

 アベグレンはさほど厳しく糾弾しなかったが、共同体には良い面と共に弊害をもたらす面があることも事実だ。共同体の内と外に別々の規範を当てはめる二重 規範(ダブルスタンダード)は、度重なる不祥事やそれらのもみ消し事件の温床となった。なまぬるい仲間主義が馴れ合いを呼び、ホワイトカラーの生産性が低 い一因とも指弾された。また、共同体体質では過去の慣習や因習を否定する自己改革ができないとの批判も根強かった。

 よって、「大胆な戦略実行力が共同体的企業組織にはないのではないか」とトップが判断する企業は、こぞって成果主義という異質を注入したのだ。

 

成果主義の蹉跌

 日経ビジネス(2009年5月11日号)の特集「成果主義の逆襲」には、成果主義に関する次のようなアンケート結果が掲載されていた。

 

  • 「勤務先が成果主義型の制度を取っている」と答えた944人を対象に、勤務先の成果主義の成否を聞いたところ、「失敗だった」とする回答は68.5%に達し、「成功だった」という回答(31.0%)を大きく上回った。
  • 「成果主義に基づく自身の評価に満足しているかどうか」については、「不満である」が43.3%、「満足している」が16.2%。
  • 「職場に何らかの弊害が発生したかどうか」については、「発生した」が65.7%に達した。
  • 「失敗の要因は制度と運用のどちらにあると思いますか」という問いには、「制度そのものより運用上の問題が大きい」とする回答が66.0%、「制度そのものの問題が大きい」は32.5%だった。

 このようなネガティブな反応の本質は、共同体原理が発する「機能体原理への拒絶反応」から生まれている。異質に対する共同体の免疫反応がことさら強かったのは自明の理である。

 成果主義は、株主利益を合理的に追求する圧力を経営者にかけつつ、企業価値を上げることには貢献したのかもしれない。だが会社共同体の内部に向かって は、価値基準や人間関係のパターンの希釈化、希薄化を招き、外部に向かっては、人件費の変動費化の名のもとに非正規雇用者を大量に生みだしたのだ。

 

人本主義という普遍的非収斂説

 しかしながら1990年代の日本的経営論では、大胆な言説の展開がみられた。バブル崩壊までの短期間ながらも経済的に空前の繁栄をみた背景には、日本が相対的に非階層化され、民主化された企業社会を創り出したとする「人本主義」という言説である(伊丹 1993)。

 アベグレンの著書の熱心な読者であった経営学者の伊丹敬之は、資本主義に対照させて「人本主義」という独自の用語を用いて、日本企業の平均的な特徴を三 つのキーワードで説明する。それは、企業の概念で言えば「従業員主権」、組織内分配の概念という点では「分散シェアリング(分配)」、市場取引の概念では 「組織的市場」だ(伊丹 2009)。

 日本経済がバブルの崩壊で低迷してきたこの時代は、アメリカ経済が逆に好調だった。アメリカ型のカネの論理を中心とするヨコモジ経営手法が圧倒的な脚光を浴びていた時代に、伊丹は大胆不敵にも資本主義と対置するかたちで「人本主義」を主張したのだ。

 伊丹は、資本主義は「カネを経済活動のもっとも重要な資源と考え、その資源(カネ)の提供者のネットワークをどのように作るかを中心原理として企業シス テムが作られるもの」とする。それに対置される「人本主義」は、「ヒトが経済活動のもっとも重要な資源であることを強調し、その資源の提供者たちのネット ワーク、つまり人材を提供し、取引をしている人々のネットワークを安定的につくり、それを維持・発展させることこそ大切、と考える原理」であるという(伊 丹 2009)。

 明らかに非収斂説に立っているが、「日本の特殊性を示す言葉」では語らずに、「人本主義」の経済合理性には普遍性があるとした。すなわち、人本主義=普遍的非収斂説の登場である。

 

日本的経営の次は、共同体原理の発展的復活

 企業と従業員によるギブ&テイクの「場」としての職務(Job)を確定し、目標管理でさらに精緻化し、目標の達成度に見合った職務給を支給する、という 成果主義の方向性は、共同体原理と鋭く対立し、被雇用者側に不満をもたらした。第1期、第2期の郷愁と決別できていない正規社員、管理職、役員にとって、 この不満は深く、暗く、そして大きなものだ。

 アベグレンは、筆者との対話でも非収斂説を明快に展開し、アメリカ的な機能体原理を過剰に移植することや、グローバリズムという名のアメリカ中心収斂説 に警鐘を鳴らし続けた。「日本社会の根底にある価値基準や人間関係のパターンを大事にしないと、コミュニティとしての日本企業は崩壊するぞ」と。

 さらに、アベグレンはこう言うのだ。真に業績のいい日本企業は、一見前時代的で、古く、日本的な価値観を組織の奥底に温め、共有し、次世代に継承してきているのだと。

 資本主義のあり方が大きく問われている昨今だ。その中でも日本資本主義の行き方が問われている。日本的経営なくして日本企業はない。また、日本企業なく して日本資本主義もない。日本的資本主義の明日を占うためには、日本企業、なかんずく日本の企業社会の根底にある価値基準や人間関係のパターンを映し出 す、人事制度とその運用を注視しなければなるまい。

 日本的経営にとって、2010年代の4つの「?」は大きく重い。技術立国・日本の方向模索期と重なる時代に、日本的経営に次なる発展があるとすれば、グ ローバル化に即妙に対応しながらも、絆、縁、信頼、触れ合い、分かち合い、といった共同体原理の発展的復活にある。機能体・共同体の異種原理混合によるハ イブリッド化の時代を通過しなければ、日本的経営の新たな地平線は見えないだろう。

 

    【参考文献など】

  • ジェームス・アベグレン、占部都美監訳「日本の経営」、ダイヤモンド社、1958
  • ジェームス・アベグレン、山岡洋一訳「新・日本の経営」、日本経済新聞社、2004
  • 占部都美、「日本的経営論批判」、国民経済雑誌138巻4号
  • 平成20年版「労働経済の分析」(労働経済白書)
  • 伊丹 敬之、「人本主義企業―変わる経営変わらぬ原理」、筑摩書房、1993
  • 伊丹 敬之、「日本企業の人本主義システム」、平成21年宮中講書始の儀におけるご進講

 

引用:諜報謀略講座 ~経営に活かすインテリジェンス~ –第18講:日本的経営あるいはジェームズ・アベグレン博士との対話 :ITpro